幾千の術式文字が宙に浮かび上がり、光の楔が青白い幾何学模様を描きながら、地下遺構の冷えた空間を埋め尽くす。
聖杖の証が放つ神話時代の魔力は、死皇帝の体を四方から縛り上げ、その動きを徐々に圧殺していった。床を満たす濁った酒の海が、術式の放つ熱と輝きに照らされて波打つ。
「グ、オォォッ……!」
死皇帝の喉から、軋むような咆哮が漏れた。
黒鉄の剣に濃密な魔力を纏わせ、怪物は自らを拘束する光の檻へと幾度も刃を叩きつける。甲高い金属音が空間を震わせ、術式の表面に激しい火花が散る。不死の肉体に宿る千年の膂力は、大魔法使いの術式すら強引に押し広げようとしていた。
「フリーレン様、結界に負荷がかかっています!」
「わかってる。……シュタルク、押し返せる?」
「任せろっ!」
シュタルクが渾身の力で斧を振り抜き、光の檻の外側から魔物の剣撃を抑え込む。フリーレンとフェルンが放つ防御術式の補強が幾重にも重なり、力と力の凄まじい鬩ぎ合いが遺構の柱を軋ませた。
「……おとなしく眠りなさい、リーデル」
ミリアルデは冷徹な面持ちのまま、両手にさらなる魔力を込めた。短く切り揃えられた金髪が、逆巻く魔力の奔流に激しく煽られる。
「何千年でも、世界の終わりまで。……今度こそ、絶対に逃がさない」
術式が一段と輝きを増し、怪物の全身を完全に呑み込もうとした――その刹那だった。
死皇帝が狂乱のままに振るった最後の一撃が、術式の結節点に真正面から衝突した。凄まじい衝撃波が円形の間を吹き荒れ、魔力の閃光が爆ぜる。
パキン、と硬質な音が響いた。
怪物の頭部を覆っていた黒鉄の兜が、衝撃に耐えかねて真っ二つに割れ、床の泥水へと音を立てて落ちた。
「――――っ」
露わになったその顔を捉えた瞬間、ミリアルデの息が止まった。
千年の時を経て土気色にやつれ、感情の消え失せた紅い眼光が宿ってはいる。だが、その頑丈な顎の輪郭、意志の強そうな眉の形、かつて数え切れないほどの言葉を交わした唇の面影は、紛れもなく彼女の記憶にある男のものだった。
脳裏に、陽光に満ちた帝都の宮殿が鮮やかによみがえる。
――「おいミリアルデ、またそんな小難しい顔をしてるのか。ほら、美味そうなツマミが手に入ったぞ。いつもの酒で飲まないか?」
いつもそうだ。
彼は帝国を背負う賢王でありながら、捉えどころのない風のような男だった。ミリアルデがどれほど小言を並べ立てても、悪戯っぽく笑って彼女の指先をひらりとすり抜け、民の暮らす下町へ、あるいは血煙の上がる戦場へと駆けていってしまう。
決して自分の手の中には収まらない、眩しくて、酷く残酷な人間。
(……ああ、そうだったわね)
ミリアルデの緑玉の瞳が、小さく揺らいだ。
(あなたはいつだって自由で、私は、あなたを繋ぎ止めることなんて……一度だってできやしなかった)
魔法はイメージの世界だ。
絶対にそうなると確信することで、明確な結果が形作られる。
だが、かつて愛した男の素顔を前にした瞬間、ミリアルデの胸の内に巣食っていた千年の後悔と無力感が、封印のイメージを根底から食い破った。
――彼を縛り、永遠にここに留めておく。
そんなイメージに、決定的な亀裂が走る。
「……あ」
ミリアルデの唇から、掠れた声が漏れた。
次の瞬間、張り巡らされていた幾千の光の楔が、ガラス細工のように一斉に砕け散った。
「ミリアルデ!?」
フリーレンの鋭い叫び声が響く。術式の瓦解に伴う強烈な魔力の反動がミリアルデの体を吹き飛ばし、彼女は背後の石柱に激突して床へと崩れ落ちた。
拘束から解き放たれた死皇帝は、砕けた術式の光の粉塵を薙ぎ払い、床を蹴った。
その動きには、もはや戦う意志すらない。ただ自らを縛ろうとした場から逃れる獣のように、崩落しかけた天井の裂け目めがけて跳躍する。
「待てっ!」
シュタルクが手を伸ばし、フェルンが即座に『ゾルトラーク』を放ったが、怪物の影は崩れた石組みの隙間をすり抜け、地上へ続く闇の中へと一瞬で消え去っていった。
冷たい土煙が静かに舞い降りる。
戦闘の轟音は去り、遺構にはただ、滴り落ちる酒の鈍い音だけが響いていた。
「……っ、逃げられた……!」
シュタルクが悔しそうに拳を握りしめ、フェルンは息を整えながら周囲の警戒を続ける。
フリーレンは静かに歩み寄り、床にへたり込んだまま動かない旧友を見下ろした。
ミリアルデは立ち上がろうともせず、濡れた石畳の上に転がる兜の破片を、ただ呆然と見つめていた。その手から滑り落ちた無骨な酒瓶が、からからと乾いた音を立てて床を転がっていく。
緑玉の瞳から感情のすべてが抜け落ちたように、彼女は冷え切った地下の闇の中で、ただ静止していた。
* * *
細かな砂利がパラパラと音を立てて床の泥水へと落ちていく。
崩落しかけた地下遺構の天井。そこに開いた穴からは、青白い昼光が冷たく差し込み、漂う土煙の粒子を照らし出していた。激戦の余韻が空気を震わせ、周囲には荒い呼気だけが響いている。
「はぁッ……はぁッ……! くそっ、あんな化け物、本当にどうすりゃいいんだよ……」
シュタルクは大斧の柄に体重を預け、膝に手をついて荒く息を吐いた。黒鉄の剣を受け止めた両腕は微かに震え、筋肉が悲鳴を上げている。
「……シュタルク様、傷口を。魔力の余波で皮膚が焼けています。応急処置をしますので」
フェルンもまた肩を上下させながら、杖を握る手を緩めずに駆け寄った。素早く治癒魔法の光を灯しながらも、その紫色の瞳は、広間に残された異質な魔力の残滓と、床に崩れ落ちたままのエルフへと向けられている。
冷え切った石畳の上で、ミリアルデは指一本動かさずに座り込んでいた。
足元には真っ二つに割れた黒鉄の兜の破片が転がり、手から滑り落ちた酒瓶からは、今もなお濁った琥珀色の液体がトクトクと湧き出しては床の溝を濡らしている。いつも飄々と浮かべていた皮肉めいた笑みは完全に抜け落ち、緑玉の瞳は光を失ったガラス玉のように、ただ虚空を見つめていた。
杖の先をコツリと鳴らし、フリーレンが静かに歩み寄った。
白いケープが地下の風に揺れる。翡翠の瞳を伏せ、立ち上がろうとしない旧友を見下ろした。
「……ねえ、ミリアルデ。そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
静寂の満ちる円形の間で、フリーレンの声はどこまでも平坦に、だが澄んで響いた。
「なんであいつを追っているの? あいつの不老不死は、あなたの仕業?」
問いかけは地下の冷気に吸い込まれ、しばらくの間、湿った水の滴る音だけが返ってきた。
ミリアルデはゆっくりと視線を上げ、フリーレンの幼い顔立ちをじっと見つめた。その瞳の奥に、千年の歳月が堆積させた暗く冷たい澱が揺らめく。
「……ねえフリーレン。人生をかけて探したものが、何の価値もないゴミだったときのことを想像できる?」
掠れた声で紡がれたその言葉に、フリーレンは小さく瞬きをした。
「その質問、二度目だね」
「あら、覚えてたんだ」
ミリアルデは自嘲気味に口元を歪めた。だが、その笑みはすぐに消え、乾いた唇が静かに開かれる。
「じゃあ、質問を変えるわ。……恋をしたことはある? フリーレン。その人のためなら死んでもいいと思えるような、そんな相手との恋を」
唐突に投げかけられた問いに、フェルンとシュタルクが息を呑み、思わず視線を交わし合う。
フリーレンは何も言わず、ただ静かに佇んでいた。
脳裏をよぎったのは、青い髪を揺らし、悪戯っぽく笑っていた勇者の横顔だった。
自分のために膝をつき、鏡蓮華が刻まれた指輪を左手の薬指にはめてくれた、あの静かな光景。くだらなくて温かい、たった十年の旅路の記憶。
けれど、胸の奥に灯るその温もりを、人間が言う「恋」という言葉で呼んでいいものなのか、フリーレンには分からなかった。当時の自分は彼の心に気づきもせず、知ろうともしていなかったのだから。
「……分からない」
静かに零されたフリーレンの答えに、ミリアルデは小さく息を吐き出し、どこか寂しげに目を細めた。
「そう。……若いわね、フリーレン」
地下遺構の天井の裂け目から落ちてくる昼の光が、静かに舞い散る土煙を青白く照らしていた。
足元に広がる濁った酒の池に波紋が広がり、やがて平穏を取り戻していく。破壊された石柱の影で、ミリアルデは割れた兜の破片から視線を離さないまま、自嘲するように小さく喉を鳴らした。
「……賢王リーデル。歴史書にもその名を刻む、偉大なる皇帝」
掠れた声だった。しかし、地下の冷え切った静寂の中では、酷く明瞭に響き渡る。
「あの人はね、本当に国と民を愛していたの。誰よりも真っ直ぐで、聡明で……そして、私の恋人だったわ」
シュタルクが息を呑み、フェルンは杖を握る指先にわずかに力を込めた。エルフが人間に寄せる想い――それがどれほど気の遠くなるような時間の断絶を孕んでいるか、ふたりには想像することもできなかった。
「エルフである私と、人間であるあの人。流れる時間の速さがまるで違うことくらい、最初から分かっていたはずだった。……けれど、あの人は言ったのよ。『愛する帝都と民を永遠に守りたい。そして、お前と同じ時間を永遠に歩みたい』ってね。あの人は、即位のときに配られたあの酷く不味い安酒――ポースハフトにこそ、不老不死の秘められた力があると本気で信じ込んでいた」
ミリアルデはゆっくりと手を伸ばし、転がっていた酒瓶を引き寄せた。底から湧き出る濁った液体が、指先を冷たく濡らす。
「私はね、人間を不老不死にする魔法の研究を始めたわ。『あの人の願いを叶えるため』と自分に言い訳をしながら。……でも本当は、ただ自分が彼を失いたくなかっただけ。彼が歳を取り、私を置いて逝ってしまう未来が怖くてたまらなかったのよ」
静かに語られる告白に、フリーレンは翡翠の瞳を細め、静かに言葉を挟んだ。
「……ありえないことだ、ミリアルデ。魔法はイメージの世界だ。有限を生きる人間が永遠をイメージできない以上、不老不死なんて実現できるはずがない」
淡々とした、しかし魔法の絶対原則に基づいたフリーレンの指摘。
それを受け、ミリアルデは薄く唇の端を持ち上げた。その緑玉の瞳の奥に、狂気と悔恨の混ざり合った昏い光が宿る。
「その通りよフリーレン。魔法はイメージの世界。……でも、人間はね、みんながあなたみたいに正気ってわけじゃないの。ありえないことを、絶対にそうなんだって信じ込んでしまう人もいる。そんなバカげた『狂気』や『妄想』を、魔力で焼き付けたらどうなると思う?」
「……それが、あなたの作った不老不死の正体?」
「ええ。嘘を真実に変える、世界で一番くだらない魔法よ」
ミリアルデは吐き捨てるように言った。
「ポースハフトを媒介にして、私は術式を編み上げた。リーデルの『この酒は不老不死の薬だ』という強固な思い込みを魔力と結びつけ、彼の肉体に永遠を錯覚させたの。……彼はたしかに、不老不死になったわ。傷口はすぐに塞がり、手指が吹き飛んでも瞬く間に生え変わり、いつまでも若く歳を取らず、帝国は栄華を極めた。……成功したと、私は思った」
そこで言葉を切り、ミリアルデは深く息を吐き出した。冷えた地下の空気に、白い呼気がかすかに揺れて消える。
「でも、彼は少しずつ歪んでいったわ。……世界の理から外れた存在を、女神様は許さなかったのでしょうね。人間の魂は、永い年月の重みに耐えられるようにはできていなかったのよ」
ミリアルデの指が、兜の鋭利な断面をなぞる。
「肉体が老いなくても、精神は確実に摩耗していった。いつしか彼は、賢王ではなくなっていたわ。二百年経った頃には、何を守りたかったのかを忘れた暗君となり……三百年も経つ頃には、私の名前すら消えていた」
「名前、すら……」
フェルンが思わず呻くように呟いた。
「帝都は内から乱れ、荒れていった。帝都と民を愛した男は、ただ酒の味と無限の命に飢えた怪物へと成り果てたの。……不老不死なんて、なんの価値もないゴミだったのよ」
ミリアルデは立ち上がろうともせず、濡れた石畳を見つめ続けた。
「だから私は、かつて自分の手であの人を地下深くへと封印した。……けれど、千年の時を経て結界が綻び、怪物はまた目を覚ましてしまった。私が始めた物語の幕を、私自身の手で下ろさなきゃいけないのに……」
言葉は途切れ、冷たい風が頭上の裂け目から吹き抜けて、彼女の短い金髪を揺らした。
遺構の中に、重苦しい静寂が満ちていく。
フェルンもシュタルクも言葉を失い、ただ目の前に座り込む大魔法使いの、千年の悔恨の重さに圧倒されていた。
フリーレンは静かに杖を握り直し、光の差し込む天井の穴を見上げた。その横顔には、どこか旧友の痛みを静かに受け止めるような、深い哀愁が漂っていた。