地下遺構の冷えた大気の中に、泥のように濁った酒の臭気と湿った土煙が重く沈殿していた。
崩れた天井の裂け目から差し込む青白い昼光が、石畳に散乱する無数の破片を照らし出している。
ミリアルデは力なく膝をついたまま、微動だにしない。緑玉の瞳に宿っていたはずの飄々とした光は完全に消え去り、かつて愛した男を自らの手で怪物に変えてしまったという千年の業が、その華奢な肩に重く圧し掛かっていた。
フリーレンは静かに歩みを進め、旧友の傍らで立ち止まった。手にした赤い杖の石突きが、冷たい石畳を小さく叩く。
「……役割を交代しよう、ミリアルデ」
平坦な、だが酷く澄んだ声が円形の間を満たす静寂を裂いた。
ミリアルデがゆっくりと顔を上げる。その金髪の隙間から覗く横顔には、困惑と自嘲が混ざり合っていた。
「……交代って、何をよ」
「封印だよ」
フリーレンは感情を交えずに、事実だけを淡々と紡いだ。
「魔法はイメージの世界だ。今のあなたには、彼を縛り付けるイメージができない。千年前の未練と後悔が邪魔をして、術式を編み切る前に心が折れてしまう。……なら、彼に対して何の執着もない私が封印術式を組む。私はあの人を縛ることに、何の迷いも抱かないからね」
魔法使いとしての冷徹な正論だった。情を挟めば術は破れる。どれほど強大な魔力を持っていようと、「繋ぎ止められない」と心が確信してしまえば、世界はその通りに形作られてしまうのだ。
「フリーレン様のおっしゃる通りです」
フェルンが静かに頷き、乱れた呼吸を整えながら杖を構え直した。
「ですが、問題はどうやってあの怪物を引き戻すかです。森の奥へ逃げ去った死皇帝を、この広大なビーア地方の山林から探し出すのは容易ではありません」
「ああ。あいつ、とんでもねえ速さで跳んでいきやがったからな……。下手に探そうとしたら、それこそ何日かかるか分からねえぞ」
シュタルクが肩を回し、大斧を握り直しながら天井の穴を見上げる。焦燥が混じる青年の声に、フリーレンは小さく首を横に振った。
「探す必要はないよ。向こうから来てもらえばいい」
「……来てもらうって、どうやって?」
シュタルクの問いに答えず、フリーレンは円形の間を見渡した。
足元には、死皇帝が貪り食い、叩き割った数え切れないほどのガラス瓶の破片が、足の踏み場もないほどに散乱している。かつてミリアルデがこの場所に秘匿した、何百本ものポースハフトの残骸だった。
フリーレンは赤い杖の先端を床へと向け、静かに魔力を練り上げた。
「――『割れたガラスを繋ぎ合わせる魔法』」
淡い燐光が杖の先から放たれ、床一面を波紋のように撫でていく。
次の瞬間、散乱していた無数のガラスの破片が一斉に浮遊し始めた。鋭利な断面が互いを求め合うように宙で引き合い、カチカチと澄んだ音を立てながら組み合わさっていく。まるで逆再生される時間のように、破片と破片が幾何学的な軌跡を描いて結合し、たちまちのうちに巨大な輪郭を形作っていった。
組み上がったのは、大人が五人はすっぽりと入れるほどに巨大な、継ぎ目だらけのガラスの大瓶だった。
「な、なんだこれ……!?」
シュタルクが目を丸くして後ずさり、フェルンは額に手を当てて小さく息を吐き出した。
「……またそのような、くだらない魔法を収集していたのですか」
「くだらなくないよフェルン。コップを割っても大丈夫だし、それにほら、ちゃんと役に立ったでしょ」
フリーレンは満足げに頷くと、座り込んだままのミリアルデに向き直った。その翡翠の瞳が、静かに旧友を射抜く。
「ミリアルデ。あなたの『空き瓶を不味い酒で満たす魔法』で、この巨大な瓶を満たして」
ミリアルデは呆然と巨大なガラス瓶を見上げ、それから自嘲するように小さく喉を鳴らした。
「……なるほどね。この巨大な瓶いっぱいに、あの不味い酒を注ぎ込めと」
「うん。死皇帝は酒の味に飢えて、ポースハフトの匂いを追って彷徨っている。この地下遺構から、これだけの量のポースハフトの強烈な異臭を撒き散らせば……あいつは必ず、貪るためにここへ戻ってくるよ」
フリーレンの策は極めて合理的だった。
あの怪物を動かしている唯一の衝動――無限の生への妄執と、それを象徴する不味い酒への飢餓感。それを逆手に取るのだ。
ミリアルデはゆっくりと立ち上がった。埃を払うこともせず、白い両手を巨大なガラス瓶の縁へと添える。その緑玉の瞳には、まだ深い痛みが淀んでいたが、旧友が差し伸べた無骨な救いを受け入れるように、彼女の魔力が静かに立ち昇り始めた。
「……本当に、あなたって子は昔から変わらないわね」
ミリアルデが呟くと同時に、巨大な瓶の底から、ゴボゴボと音を立てて濁った琥珀色の液体が湧き上がり始めた。鼻を突く強烈な泥と錆の臭気が、地下の冷気を一気に塗り替えていく。
「シュタルク、フェルン。戦闘の準備をして」
フリーレンが杖を構え、天井の裂け目を見据えた。
「怪物が戻ってきたら、私が完全に封印する。それまで、もう一度だけ持ちこたえて」
* * *
地下遺構の冷え切った大気の中に、ゴボゴボと底から湧き上がる濁流の鈍い音だけが反響していた。
『割れたガラスを繋ぎ合わせる魔法』によって組み上げられた巨大なガラス瓶は、継ぎ目からかすかな燐光を放ちながら、瞬く間に琥珀色の液体で満たされていく。泥と錆びた鉄、そしてすり潰した薬草が混ざり合ったような、鼻腔を麻痺させる強烈な異臭。それが崩落した天井の裂け目を通じて、冷たい風とともに地上へと吸い上げられていった。
ミリアルデは巨大な瓶の縁に両手を添えたまま、呼吸を殺していた。
その緑玉の瞳は、自らの手で生み出し続ける悪夢の液体をじっと見つめている。
「……これで、あいつは戻ってくるはずだ」
フリーレンは赤い杖を胸の前に構え、床に落ちた兜の破片を足元に引き寄せながら、強固な封印術式を頭の中で編み上げていた。
少し離れた位置で、シュタルクが大斧の柄を両手で固く握りしめ、天井の穴から差し込む昼光の柱を見上げて身構えた。フェルンもまた、息を潜めて杖を掲げ、地下遺構の外へ向けて広域の魔力探知を張り巡らせる。
誰もが、怪物は遠くの山林を彷徨い、風に乗った酒の匂いを嗅ぎつけて外から駆け戻ってくるものと疑っていなかった。
だが、その沈黙を切り裂いたのは、外からの飛来音ではなかった。
――スッ、と大気が擦れるような、あまりにも密やかで鋭利な切断音。
次の瞬間、何百人分もの濁った酒を湛えた巨大なガラス瓶を縦に裂くように、一本の細く完璧な黒い直線が走った。
「――っ!?」
フェルンが息を呑んだのと、巨大な酒瓶が花弁を開くように左右へと両断され倒壊したのは、完全な同時だった。
堰を切った濁流が、まるで屠られた巨獣の血潮のように床一面へと爆発的に広がった。黒く淀んだ琥珀色の波が足元を洗い、遺構の石柱を揺るがすほどの水飛沫が立ち込める。
そして、割れ開いたガラスの向こう側――飛び散る飛沫の帳の奥に、その影はすでに立っていた。
黒鉄の鎧に身を包み、土気色の素顔を露わにした、死皇帝リーデル。
逃走などしていなかったのだ。
天井を突き破って外へ跳躍した刹那、彼は地上へなど向かわず、遺構の崩落した梁の暗がり、探知の死角となる直上に潜み続けていた。
千年前、わずかな手勢で敵の大軍を翻弄し、知略の限りを尽くして帝都を難攻不落の繁栄へと導いた稀代の賢王。その精神がどれほど摩耗し、記憶と言語を失い、ただの亡者と成り果てようとも、骨の髄に刻み込まれた戦術の冴えと冷徹な闘争本能だけは、怪物となった肉体に完璧に残されていた。
敵が最も安堵し、罠を仕掛け終えたと油断する一瞬を待つ。
全員が、完全に裏をかかれていた。
「フリーレン様――ッ!!」
フェルンの悲鳴のような叫びが木霊する。だが、どれほど神速の魔力解放であっても、零距離の死角から放たれた一撃には間に合わない。シュタルクが地を蹴り、大斧を振るおうとする動作すら、あまりの初速の違いに静止画のように遅滞していた。
死皇帝の濁った紅い眼光が、酒飛沫のカーテンを貫く。
泥水を踏み砕く足音すら残さず、一足で間合いを詰めた長剣の切っ先が、封印術式の構築に意識を割いていたフリーレンの胸元――その華奢な喉笛めがけて、吸い込まれるように突き出された。
一閃の刃が、地下遺構の冷気を両断する。
だが、その死の軌道を遮る影があった。
巨大なガラス瓶の縁に手を添え、フリーレンのすぐ隣に立っていたミリアルデだった。
彼女は一切の躊躇もなく自らの体を割り込ませると、無防備な腹部でその凶刃を真正面から受け止めた。
鈍く重い肉の裂ける音が、地下の静寂に響き渡る。
黒鉄の刀身が容赦なく背中まで貫通し、鮮烈な赤が飛び散った。砕け散ったガラス瓶から溢れ出る泥色の酒の濁流の上に、ドロリとした本物の温かい血が落ち、見る間に混ざり合っていく。
「ミリアルデ――ッ!」
フリーレンの翡翠の瞳が見開かれる。
絶対数の少ないエルフの同胞が傷つき、血を流していく。それは彼女の長い人生の中においても、決して見慣れない光景だった。
だがミリアルデは痛みに顔を歪めながらも、自らの腹を貫く刀身を両手で強く握りしめ、怪物を逃がさないように引き寄せた。
細い指が自らの血で真っ赤に染まっていく。エルフの強大な生命力をもってしても、内臓を断ち切られた傷は致命的だった。肌から急速に生気が失われ、唇は紫に凍りついていく。
「見なさい……! 私を見るのよ、リーデル!!」
ミリアルデは血を吐きながら、至近距離にある怪物の土気色の顔を睨みつけた。
「千年間、あなたと同じポースハフトを飲み続けて……そして今、死にゆく私を!!」
怪物の濁った紅い眼光が、激しく揺らいだ。
不死の理が、音を立てて軋みを上げる。
目の前で血を流し、確実に死へと傾いているのは、千年前、自らに「不死の酒」を与えた魔女だった。ポースハフトを無限に生み出し、それを千年間浴びるように飲み干してきたはずのエルフが、ただの鉄の刃に穿たれ、いま命を散らそうとしている。
怪物の喉から、獣の唸りではない、人間のかすれた喘ぎが漏れ出た。
「ミ、リ……アル……デ……?」
千年の歳月の底に沈んでいた輪郭が、急速に浮上してくる。
混濁した怪物の脳裏に、かつての帝都の執務室、柔らかな午後の木漏れ日と、悪戯っぽく笑う金髪のエルフの姿が鮮烈にフラッシュバックした。
――『私が魔法で造ったこの酒、ポースハフトは、不老不死の薬よ。信じてリーデル。私が嘘をついたことがある?』
あの時、彼女は確かにそう言って、酷く不味い杯を自分に差し出したのだ。
「ミリ、アルデ……。ポースハフトは……不老不死の、薬だ、お前が……作った。……我々は、死なぬ……!」
怪物の顔が、かつて人間であった頃の苦悶に歪む。
己の不老不死の絶対性を証明するために、目の前の女の死を必死に否定しようとする。しかし、手元に伝わる女の身体は刻一刻と冷たくなり、溢れ出る血潮は止まることを知らない。
「リーデル、あの酒はただの不味い安酒よ。……私の魔法は、嘘だったのよ」
ミリアルデは血濡れの唇を弱々しく歪め、泣き笑いのような表情で囁いた。
「だが……だが、私は、不老不死に……なったではないか……。私は、死なぬ。ゆえに……お前も、死ぬはずが、ない……!」
「それはあなたが、そう信じたから。……私はね、あなたを騙したの」
その告白が落ちた瞬間、世界を縛っていた「思い込み」の楔が、音を立てて粉々に砕け散った。
ポースハフトに不死の力などない。
この女は不老不死の薬など作れなかった。
自分は奇跡によって永遠を得たのではなく、ただ愚かにも嘘を真実だと思い込み、狂気を魔力で焼き付けられただけの――哀れな化け物だったのだと。
確信が瓦解した刹那、死皇帝の全身を覆っていた黒い靄が霧散した。
貫かれたミリアルデの傷口から血が止まらぬように、リーデル自身の肉体からも、あらゆる再生の兆候が完全に消滅する。世界の絶対の理が、千年の時を経てふたりを「死にゆく者」の領域へと引き戻した。
「……あ、あ……」
すべてを思い出し、己が犯した千年の狂気に打ちのめされた賢王リーデルは、ただの老いた人間の男のように震えていた。
ミリアルデは最後の手を伸ばし、彼の首元を優しく引き寄せた。
そして、千年前のあの日と同じように、冷え切った彼の唇に、そっと自らの血の味のする唇を重ねた。
「……愛してるわ、リーデル」
口づけを交わしたまま、ミリアルデは残された全魔力を右手に集約させた。
光り輝く純白の魔力の槍が、リーデルの胸当てを紙のように貫き、その奥にある心臓を、ふたりの命を焼き尽くすように貫徹した。
激しい衝突音も、爆発の余波もない。ただ、絶対的な魔力の奔流が、千年にわたって男の肉体を縛り続けていた狂気と妄執の術式を、その根底から静かに消滅させていく。
怪物の全身を覆っていた黒い靄が無くなり、土気色だった皮膚に、かつての人間らしい温かみが一瞬だけ戻った。
濁りきっていた双眸から紅い狂気の光が失われ、そこにはかつて帝国を治め、誰よりも民を愛し、そして目の前のエルフを愛した「賢王リーデル」の穏やかな瞳が宿っていた。
自らの胸を貫く光の槍に視線を落とし、それから、自らの剣で腹を貫かれたまま寄り添うミリアルデの顔を見つめる。
男の唇が、千年の時を越えて、懐かしい形の笑みを刻んだ。
「……ミリアルデ。あの酒は、酷く不味かったな」
掠れた、けれど優しく澄んだその声に、ミリアルデの緑玉の瞳からひとすじの涙が零れ落ち、血に汚れた頬を伝った。
彼女は痛みに震える唇をほころばせ、悪戯が成功したときのように小さく笑ってみせた。
「ええ、本当に。……今まで飲んだどんな酒よりも、一番不味い酒だったわ」
リーデルは満足そうに目を細めた。
次の瞬間、千年の呪縛から解き放たれた男の肉体は、傷口から柔らかな光の粒子となって解け始めた。黒鉄の鎧が、古びたローブが、かつて帝都を築いた逞しい腕が、そして腹を貫く鉄の剣が、夜風のような光の塵となって天井の裂け目へと昇っていく。
手の中にあった確かな重みが消え、ミリアルデの指先が虚空をすり抜けた。
「さよなら、リーデル。永遠に」
光の粒子が完全に空へと吸い込まれ、遺構の中心に残されたのは、深い傷を負った金髪のエルフただひとりだった。
支えを失ったミリアルデの身体が、重力に引かれるまま、床を満たす泥色の酒と自らの血の海の中へと、音を立てて崩れ落ちた。
「ミリアルデ――ッ!」
フリーレンが杖を握りしめ、泥水を撥ね上げて駆け寄る。
フェルンが即座に膝をつき、震える両手から緑色の治癒魔法の光を展開し、シュタルクは息を呑んでその凄惨な光景を見つめていた。
床に横たわるミリアルデの呼吸は浅く、腹部からはおびただしい量の血が溢れ続けている。
だが、その表情は千年間で一度も見せたことがないほどに穏やかで、ただ静かに、天井の裂け目から差し込む青白い陽光を見上げていた。