酒クズエルフと不味い酒の話   作:龍改二

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第5話 動き出した時間

 

薄暗い部屋の隅に、やわらかな午後の陽光が斜めに差し込んでいた。

 

木製の簡素な窓枠が山風に揺れ、遠くからルコル村の復旧作業を進める金槌の鈍い音が規則正しく響いてくる。

 

ミリアルデが重い瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れない素朴な漆喰の天井だった。深く息を吸い込もうとして、下腹部に走る鈍い痛みに思わず小さく眉をひそめる。

 

腹部には幾重もの清潔な包帯が硬く巻かれていた。

 

「……気がついたみたいだね」

 

低く、抑揚のない声が耳元に届いた。

視線を巡らせると、部屋の木椅子に浅く腰掛けたフリーレンが、赤い杖を壁に立てかけ、翡翠の瞳を静かにこちらに向けていた。その隣には、安堵の息を漏らすフェルンと、腕を組んで心配そうに眉を寄せるシュタルクの姿がある。

 

「……ここは?」

 

掠れた声で問いかけながら、ミリアルデは包帯の上から自らの腹に触れた。

肉を断ち、内臓を抉ったはずの致命傷。失血と激痛の果てに、リーデルとともに自分の命も潰えるはずだった。心中したはずの肉体に、いま確かに温かい血が巡っている。

 

「……フリーレン、なぜ私が生きているの?」

 

ミリアルデの緑玉の瞳に、困惑とかすかな咎めの色が宿る。

 

「私の傷は、即死に等しいものだったはずよ。あれほどの損傷を塞ぐには、高位の女神様の魔法――、一流の僧侶による治癒の奇跡が必要だわ。あなたたち魔法使いに、応急処置以上の真似ができるはずがない」

 

魔法使いが使える初歩的な治癒魔法では、失われた血液や裂かれた臓器を再生させることなど叶わない。それは魔法の絶対的な理だった。

 

その問いに答えたのは、静かに歩み出たフェルンだった。

 

「……ハイター様から昔、古い歴史のことを教わったことがあります」

 

フェルンは胸元で手を揃え、静謐な面持ちで語り始めた。

 

「千年以上前、統一帝国が栄華を極めていた頃、賢王リーデルは名君であると同時に、毎朝欠かさず女神様に祈りを捧げる、極めて信心深い聖職者の一面も持っていたそうです。……彼が遺した記録の中には、数々の奇跡の術式が含まれていたと」

 

ミリアルデの呼吸が、わずかに止まる。

 

「あなたの内臓は、私たちが駆け寄ったときには、すでに内側から青白い光で縫い合わされていました。……死皇帝が消滅するその刹那、彼は自らの最後の魔力と命を使って、女神様の奇跡を行使したのだと思います。あなたを、生かすために」

 

「…………」

 

ミリアルデは何も言わず、ただ天井の木目をじっと見つめた。

愛する男の狂気を終わらせ、自らも死ぬつもりだった。だが、正気を取り戻した男が最後に遺したのは、自らの後を追わせないための、残酷なまでに優しい命の贈り物だったのだ。

 

千年の悔恨が、静かにほどけていくような長い沈黙が部屋を満たした。

 

やがてミリアルデは、軋む体を起こしてベッドの上に浅く腰掛けた。腹に巻かれた包帯に、少しだけ血が滲む。

シーツを払いのけ、サイドテーブルの上に置かれていた素焼きの花瓶へと手を伸ばす。そこに生けられていた野の花を無造作に引き抜いてシーツの端に置くと、底に残っていた濁った水を窓の外へと放り捨てた。

 

「ミリアルデ?」

 

フリーレンが見守る中、ミリアルデは空になった花瓶を両手で包み込んだ。

緑玉の瞳に淡い魔力の燐光が宿る。

 

「――『空き瓶を不味い酒で満たす魔法』」

 

トクトクと、澄んだ音を立てて花瓶の底から濁った琥珀色の液体が湧き上がり、瞬く間にその縁を満たしていった。部屋の中に、あの泥と錆びた鉄の混ざり合った独特の異臭が立ち込める。

 

「ちょっ……! あなた、そんな大怪我で何を……!」

 

フェルンが血相を変えて前に出た。紫色の瞳を見開き、花瓶を取り上げようと手を伸ばす。

 

「おいおいおい! 腹に穴が空いてるやつが酒なんか飲んだら、マジで傷口が開いて死ぬぞ! やめろって!」

 

シュタルクも慌てて制止しようと身を乗り出す。

 

だが、そのふたりの前に、フリーレンがすっと腕を横に差し出して遮った。

 

「フェルン、シュタルク。いいんだよ」

 

「ですがフリーレン様!」

 

「いいから」

 

フリーレンは静かに首を振り、ベッドサイドへと歩み寄った。

ミリアルデはふたりを気にする風もなく、花瓶を両手で持ち上げ、泥のような酒を喉へと流し込んだ。一度、二度と喉が鳴り、息を吐き出す。酔うことのない瞳は、どこまでも澄み切っていた。

 

ミリアルデは花瓶をフリーレンへと差し出した。

 

「……飲む?」

 

フリーレンはためらうことなく花瓶を受け取ると、縁に口をつけ、ほんの少しだけその琥珀色の液体を口に含んだ。

 

ゴクリと喉を鳴らし、花瓶をサイドテーブルへと戻す。

 

「……やっぱり、酷く不味いね」

 

フリーレンが眉ひとつ動かさずに、淡々と言った。

 

そのいつものフラットな表情を見て、ミリアルデはふっと口元を緩め、千年間で初めて、心の底から肩の荷を下ろしたような笑みを浮かべた。

 

「ええ。本当に……不味い酒だわ」

 

窓の外では、ビーア地方の青く澄み渡った空がどこまでも広がっていた。

冷涼な山風が部屋を吹き抜け、残された酒の臭気を、遠い空の彼方へと静かに押し流していった。

 

* * *

 

死皇帝との戦いから数日が過ぎ、ルコル村には再び穏やかな日常が戻りつつあった。

 

破壊された酒場の修復作業はファスらドワーフたちの手によって驚くべき早さで進み、朝の清冽な空気の中には新しい木材の芳香と、槌音の小気味よい響きが溶け込んでいる。澄み渡る秋の青空の下、フリーレン一行は旅支度を整え、村の出口へと続く緩やかな坂道に立っていた。

 

「フリーレン様、忘れ物はありませんね。……よし、保存食の確認も済みました」

 

大きな荷物を背負い直したフェルンが、いつもの生真面目な声で確認を取る。その横では、シュタルクが肩を回しながら大斧の位置を確かめていた。

 

「ん?……あの人、ミリアルデじゃないか? 動いて大丈夫なのかよ」

 

シュタルクの視線の先――村外れの石段から、包帯を巻いた腹部を庇いながら、おぼつかない足取りで歩いてくる人影があった。

 

淡い金髪のショートボブを風になびかせ、片手には相変わらず無骨な酒瓶を握りしめたミリアルデだった。致命傷から数日しか経っていないというのに、その表情にはもはや以前のような昏い影はなく、どこか憑き物が落ちたように穏やかだった。

 

「待ちなさい三人とも。……何、その目は。まだ少し痛むけれど、エルフの治癒力ならあとひと月もすれば元通りよ」

 

ミリアルデは小さく息を吐きながら一行の前で立ち止まると、懐から古びた一枚の羊皮紙を取り出し、フリーレンへと差し出した。

 

「約束の報酬よ。『空き瓶を不味い酒で満たす魔法』の術式メモ。……本当に、こんなくだらない魔法で良かったの?」

 

フリーレンは受け取った羊皮紙を広げ、几帳面に書き込まれた古エルフ語の術式を満足げに眺めた。翡翠の瞳が嬉しそうに細められる。

 

「うん。素晴らしい魔法だよ。これでいつでもポースハフトが飲める」

 

「俺は飲まねえよ?」

 

「フリーレン様、絶対に私の前でその魔法を使わないでくださいね。あの悪臭をもう一度部屋に漂わせたら、本気で怒ります」

 

シュタルクとフェルンの容赦のない冷ややかな視線が突き刺さるが、フリーレンは気にした風もなくメモを丁寧に折りたたみ、大事そうに鞄の奥へとしまい込んだ。

 

ミリアルデはそのやり取りを眺め、手にした酒瓶を揺らしながら小さく喉を鳴らして笑った。

 

「ふふ……本当に賑やかで、楽しそうね。……フリーレン、あなた、いい仲間を見つけたじゃない」

 

「……うん。そうかもね」

 

フリーレンは静かに頷き、旧友の顔を見上げた。

 

「ミリアルデは、これからどうするの?」

 

「そうねぇ」

 

ミリアルデは視線を上げ、遠く連なるビーア地方の山並みと、果てしなく広がる青空を見つめた。

 

「千年間、あの人に縛られていた私の時間も、ようやく動き出したところよ。……とりあえずは、この傷が完全に治るまでこの村でゆっくり過ごすわ。それから先は、あてもなく、世界中のくだらない酒でも探して歩いてみようかしらね。……ふふ、酔えもしないのに」

 

自嘲気味に呟きながらも、その緑玉の瞳には、フリーレンも初めて見るような、澄み切った光が戻っていた。

 

「そっか。じゃあ、またね。ミリアルデ」

 

「ええ、フリーレン。またどこかの酒場でね」

 

エルフにとってはほんの僅かな別れの挨拶を交わし、フリーレンはくるりと背を向けた。白いケープを揺らし、杖の先で地面を突きながら歩き出す。

 

「さてと。街道沿いにある次の街を目指そっか。……そういえばファスが言ってたんだけどね、途中にある古い集落には、『安酒を高級酒のように熟成させる魔法』の魔導書が伝わっているらしいんだ」

 

歩きながら放たれたその一言に、後ろを歩いていたフェルンの眉がピクリと跳ね上がった。

 

「……フリーレン様。私たちは魔法の収集のために旅をしているのではありません。オレオールを目指しているのです」

 

「知ってるよ。でも、通り道にあるなら寄り道してもいいじゃない。安酒が高級酒になるんだよ? そんなに時間はかけないって」

 

「嘘を言わないでください。また変な魔法に現を抜かして、何ヶ月も足止めを食らうのが目に見えています。絶対に寄り道は許可しません」

 

「えー、私が嘘ついたこと、ある……?」

 

「あります。シュタルク様も何か言ってやってください」

 

「えっ、俺!? いや、でも高級酒ならちょっと飲んでみたいかも……って、フェルン、そんな怖い顔で見ないでくれよ!」

 

いつもの騒がしくも温かい掛け合いが、冷涼な風に乗って朝の街道へと広がっていく。

 

ミリアルデは酒瓶を傾け、不味い酒を一口だけ喉に流し込むと、遠ざかっていく三人の背中を静かに見送った。胸元の『聖杖の証』が、柔らかな朝の光を浴びて淡く煌めいている。

 

「……本当に、くだらない魔法ばかり集めて」

 

小さく零したその声は、かつてないほど優しく響き、どこまでも続く青空の中へと溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 




これにて、「酒クズエルフと不味い酒の話」は完結です。
本作にお気に入り登録等をいただきまして、本当にありがとうございます。
読んでもらえているなあという実感が活動のモチベになっております。

原作8巻のビーア地方の話をベースに、妄想を膨らませてみたお話でした。
ミリアルデさんは原作にほんの少ししか登場しないのですが、かなりのポテンシャルを秘めていますよね。
聖杖法院のメンバーのシルエットにもそっくりですし。
酒をごくごく飲んで、冷めた目でケロッとしていてほしい。

改めまして皆様、読了、本当にありがとうございました。
最後にページ下部より評価や感想を付けていただけると、とてもとても嬉しいです。次回作への励みになります!
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