雨しか降らない地下世界 作:向島
蓋は、内側から押し上げられていた。蝶番の側が、わずかに歪んでいる。上からどけたのなら、こうはならない。誰かが下から、床板ごと持ち上げたのだ。
森戸光一は、台所の入口で十秒ほど動けなかった。それから、震える手で冷蔵庫の脇の壁を探り、包丁を──取ろうとして、やめた。取ったところで、使えるわけがない。二十代の頃、田んぼで蛇を殺すのにも三十分かかった男である。
代わりに、彼は湯を沸かした。理由は自分でもわからない。ただ、何かしていないと膝が笑うので、やかんを火にかけ、急須を出し、湯呑みを二つ並べた。二つ、並べてから、自分でぎょっとした。
(二つ?)
そのとき、床の下から、音がした。とん、とん。壁を、内側から二回叩く音だった。百年間、一度も鳴ったことのない音だ。
光一は、やかんの火を止めた。
「……はい」
小さく返事をして、それから、あわてて言い直した。
「あ、いえ、はい、あの、今、行きます」
*
梯子を降りる足が、途中で二度止まった。大谷石(おおやいし)の石室は、いつも通り暗く、黴(かび)の匂いがした。だが、素掘りの横穴の奥から、光が漏れていた。青白い光だった。光一が置いたどのランタンとも違う、粒の細かい、影の柔らかい光。
腰をかがめて、五十メートル。今日はいつもより速く歩けた。荷物がないからだ。それでも息が上がった。
ドームに出て、光一は立ち止まった。中央の石の台のそばに、人が座っていた。
濡れていた。髪も、外套も、床につく裾も。ぽたぽたと雫が落ちて、土の床に小さな染みを作っていた。緩衝地帯に、水が落ちるのを見たのは初めてだった。雨の匂いは、この人から来ていた。
若い女だった。二十五、六だろうか。黒い髪を後ろで束ねている。顔立ちは、光一が身構えていたものとはまるで違った。丸顔で、頬にわずかに肉があり、目尻の下がった、どこの町内にもいそうな愛嬌のある顔だった。狸のようだ、と思ってから、光一は自分の失礼さに慌てた。ただ、その丸みを打ち消すように、目のふちと眉が濃く、はっきりと引かれている。化粧だった。地下にも化粧があるのか、と光一は場違いなことを考えた。おかげで彼女は、愛らしいというより、涼しく整った、隙のない女に見えた。
着ているものも、妙だった。上は背広に近い仕立てで、襟があり、前を打ち合わせて留めるようになっている。だが袖口には作業着のような絞りがあり、胸と腿に大きな物入れが縫いつけられ、肩には工具の帯を通すらしい輪がついていた。生地は灰色がかっていて、糸が太い。仕立てのよさと、現場の実用が、どちらも譲らないまま一着に同居していた。
光一が入ってきた気配に気づくと、彼女は顔を上げずに、深く、深く頭を下げた。
「祖よ」
日本語だった。訛りは強く、抑揚が独特だったが、間違いなく日本語だった。光一の喉が、ひゅっと鳴った。
「あ、あの」
「十七代神子、アマネと申します」
アマネ。その名前を聞いた瞬間、光一の膝から力が抜けて、彼はその場にへたり込んだ。
女は、はっとして顔を上げた。
「祖よ、御体に障りましたか」
「い、いえ、あの、違います、すみません、すみません、大丈夫です、あの、床、汚くないですか、あの、座布団、持ってきましょうか」
自分でも何を言っているのかわからなかった。アマネと名乗った女は、しばらくきょとんとした顔で光一を見ていた。そして、口元をわずかにゆるめた。
「……祖は、手紙の通りの方でいらっしゃいます」
*
彼女は、状況を淡々と説明した。
三日前、塔が届いた。第五十層の頂部が、地上のトンネル──彼女は御隧道(みずいどう)と呼んだ──の裂け目に接した。先に抜けたのは、塔師団の武官たちだった。地下で生まれた人間には、裂け目を通る力がわずかに宿る。強い者なら、時間をかければ抜けられる。強くない者でも、抜けた者に手を引かれれば、通れることがわかった。その先頭にいたのが、彼女の異母兄──ハガネという男だった。
「兄は、監視所の三名を打ちのめしました」
「……死んで、ないですよね」
「殺してはおりません。兄は、殺すなと下命しております。今はまだ、と」
今はまだ。光一は、その四文字を飲み込むのに、ずいぶん時間がかかった。
「あの、それで、その、報いを返しに来た、というのは」
「文言のとおりです」
アマネは、まっすぐに答えた。
「我らの祖は十七名。地上より来たり、地上に見捨てられました。地上の者は三十年ののち調査を打ち切り、以後、百年、何もしませんでした。我らの側から見れば、それは幾千年です。幾千年、誰も来なかった。灯りは見えていたのに」
反論の言葉が、光一の頭の中に三つ浮かんだ。地上でも災害があったんです。戦争もありました。技術的にどうにもならなかったんです。三つとも、口には出せなかった。出せば、言い訳になる。そして、たぶん、事実として正しくても、彼女の側の百年は取り戻せない。
だから光一は、そのかわりに、こう言った。
「……申し訳ありません」
アマネの眉が、わずかに動いた。
「祖が謝られることではございません。祖は、我らを見捨てなかった唯一の地上人です」
「いえ、あの、それは」
光一は、床に手をついた。
「それも、違うんです」
言いながら、身体が震えた。
「父は──初代の、光博は、国に言えなかったんです。言えば取り上げられると思って。それは、父の事情でした。ちゃんと言っていれば、皆さんは、もっと早く、もっとちゃんと助かってたかもしれない。父は、それを最後まで気にしてました。……僕も、言えませんでした。父と同じで、言えなかっただけなんです。偉い人が来るのが、こわくて」
言葉が、勝手に転がり出た。
「僕、皆さんが思ってるような人間じゃないんです。神様じゃないです。ただの、その、町工場のおやじです。銅線を買って、軽トラで運んで、五十メートル押してるだけの、八十五歳の、たぶん、ずるい人間です」
言い終わって、光一は自分の言ったことの惨めさに、耳まで赤くなった。
沈黙が落ちた。アマネは、じっと光一を見ていた。それから、静かに言った。
「存じております」
「……え」
「祖が神ではないことは、神殿の最奥に記されております。初祖・光博は、悔いを書き残しました。『我は神に非ず。我は臆病者なり』と。その巻物は、代々の神子だけが読みます」
光一は、口を開けたまま、彼女を見た。
「では、なぜ」
「なぜ、拝むのか、と」
アマネは、膝の上の油紙の包みを、そっと撫でた。
「臆病者が、百年ものあいだ、一度も欠かさず物を寄越したからです」
「……」
「兄は言います。地上人は我らを見捨てたと。それは正しい。ですが、地上人の中に一軒だけ、百年、雨の日も雪の日も、床下の梯子を降りた家がありました」
彼女は、光一の落ちくぼんだ目を見た。
「神とは、そういうものだと、我らは決めたのです」
*
湯呑みを取りに、光一は一度上へ戻った。三十分かけて、彼は茶と、蒸かした芋と、煎餅を運んだ。猫車に載せて、五十メートル押した。アマネは手伝おうとして、途中で足が止まった。
「──こちらは、我らの側でもなく、地上でもない、はざまでございますゆえ」
「ああ、はい、そうですよね、すみません、変なこと頼んで」
謝りながら、光一は思った。この人は、僕の家族なんだよな、と。父の子の、子の子の、そのまた先の。何百世代も薄まった血。もはや他人と変わらない。それでも、この土間に座って芋を食べている若い女は、確かに森戸の血を引いている。
アマネは芋を一口食べて、動きを止めた。
「……甘い」
「あ、はい、安納芋です。裏の畑の。今年のは、ちょっと、水っぽいんですけど」
彼女は、うつむいて、しばらく芋を見ていた。それから、もう一口食べた。
*
本題は、茶が二杯目になったときに切り出された。アマネは、油紙の包みを解いた。中から出てきたのは、書類の束だった。
いちばん上は、地図だった。地上の関東の地図。トンネルの位置に赤い印。その周囲に、同心円が三本引かれていた。
光一は、その円の意味を、一秒で理解してしまった。理解してしまう程度には、彼は四十年、精密機械の商社にいた。
「……あの」
「兄の派の、計画図でございます」
二枚目は、断面図だった。円筒形の物体。寸法が細かく入っている。臨界質量の数字が、日本語で書き込まれていた。
「兄は、これを三基、持っております」
光一は、湯呑みを取り落とした。土間に茶が広がり、湯気が立った。
「三、基」
「地上を目指す層は、およそ二割です。残る八割は、塔にも興味がありません。ですが、二割で足ります。我らの世界には、鉱脈が尽きません。天井もありません。地を掘れば、いくらでも出るのです」
彼女は淡々と続けた。
「精錬は、我らの技のほうが上でございます。地上の機械は速いですが、粗い。我らは遅いですが、正しい。……祖から賜った書物の一冊に、そう書いてございました。『純度が全てである』と」
光一は、その本のことを覚えていなかった。覚えているはずがなかった。四十年前、市立図書館の除籍本を、段ボール六箱分もらってきて、そのまま緩衝地帯へ置いた。中身は見ていない。「本 何にても」と書いてあったから。
(僕だ)
胃の底が、焼けるように熱くなった。
(僕が、渡したんだ)
*
「……国に、言います」
やっとのことで、光一はそう言った。言いながら、自分の声が裏返っているのがわかった。
「今度こそ、言います。父は言えなかったけど、僕は、あの、明日、いや、今夜、警察に、いや、警察じゃないな、どこだろう、内閣府かな、あの、電話して」
「兄は、それを待っております」
光一の言葉が止まった。
「……え」
「祖が地上の政府に通報すれば、この家は封じられます。緩衝地帯は接収され、神子はここへ来られなくなる。物資は絶えます。……そのとき、我らの側で何が起きるか、おわかりになりますか」
わかった。わかってしまった。
日誌に、その気配はずっとあった。ここ十年の日誌には、「神は我らを試しておられる」という表現が増えていた。物資が少ない月には、上申欄の字が乱れた。彼らの世界の秩序は、神殿を軸に回っている。神殿の権威は、緩衝地帯から物が来ることで保たれている。物が来なくなれば、神殿は崩れる。崩れたあと、残るのは、塔と、鉱脈と、三基の円筒である。
「兄は、祖が通報することを望んでおります。そうなれば、兄は言えるからです。──やはり地上人は我らを見捨てた、と」
アマネは、静かに湯呑みを置いた。
「そして、二割は八割になります」
光一は、両手で顔を覆った。
言えば、崩れる。言わなければ、共犯になる。百年前、父が封筒を三度燃やしたときの気持ちが、初めて、身体でわかった。あれは臆病だっただけではない。父も、たぶん、この形の袋小路をどこかで見ていたのだ。見えていたから、封筒が持てなくなったのだ。
「……どうしたら、いいんですか」
情けない声だった。八十五歳の男が、二十五の娘に、心底困り果てて訊いていた。
アマネは、少し首をかしげた。そして、油紙の包みの、いちばん下から、もう一枚を取り出した。
*
それは、書類ではなかった。薄い硝子板が二枚。そのあいだに、紙が一枚、挟んであった。紙は黄ばみ、繊維が浮き、四隅が丸くなっていた。それでも、字は読めた。クレヨンだった。
かみこ へ
ぼくは もりと こういち です
じゅっさい です
いつか ちじょうで かみこと あそぼう!
やくそくします
光一の手が、止まった。
「……これ」
「神殿の最奥、初祖の巻物の隣に納められております」
アマネの声が、初めて少し揺れた。
「初代アマネが遺しました。『次の神子が、次の神子が、と繋いでゆけば、いつか誰かが果たせましょう』と。以来、代々の神子は、就任のとき、この一枚を読みます」
彼女は、硝子板をそっと光一のほうへ向けた。
「わたくしは、七つのとき、これを読みました」
土の床に、雫がひとつ落ちた。外套から落ちたのか、そうでないのか、光一にはわからなかった。
「祖よ。兄は報いのために塔を建てました。技術局は資源のために建てました。神殿は権威のために建てました」
アマネは、顔を上げた。
「わたくしは、これのために建てさせました」
光一は、口を開いたまま、動けなかった。十歳の夏。父が寄合で留守にしていた二時間。学校のノートを一枚ちぎって、クレヨンで書いて、教科書のあいだに挟んだ、あの紙。その一枚が、向こうで、何百年も残っていた。何百年ものあいだ、何人もの少女がそれを読んで、大人になって、死んでいった。そして、そのうちの一人が、塔を建てさせた。高さ一キロ以上の塔を。
「僕は」
光一の声が、かすれた。
「僕は、そんな、たいしたことを書いたつもりは」
「存じております」
アマネは、はっきりと言った。
「十歳の子どもの落書きでございます。初祖の巻物には、そう書かれております。『愚息が余計なことをした』と」
「……父さん」
「ですが、わたくしどもの世界に、地上人が地下人へ宛てた文章は、たった一つしかございません。日誌の朱書きは命令です。上申欄への返答は業務です。物は物です。地上から我らへ届いた『誘い』は、後にも先にも、この一枚だけでございます」
彼女は、硝子板を胸に抱いた。
「いつか地上で神子と遊ぼう。……祖よ。わたくしは、それを果たしに参りました」
*
長い沈黙のあと、光一はようやく口を開いた。
「あの」
「はい」
「その、遊ぶ、というのは」
「はい」
「具体的には、何を」
アマネは、真顔で答えた。
「存じません」
「……えっ」
「地上の遊びを、わたくしは何ひとつ知りません。日誌にも記されておりません。ただ、祖が『あそぼう』と書かれたからには、地上には遊びというものがあり、それは二人ですると、よいものなのだと」
光一は、しばらく彼女を見つめた。それから、へなへなと、土間に座り込んだ。笑いが漏れた。自分でも驚くほど、久しぶりの笑いだった。
「……線香花火、しませんか」
「せんこうはなび」
「あの、去年、八百箱送った、あれです。風下で、一回だけ点けたって、日誌に」
アマネの目が、大きくなった。
「あれを、祖と?」
「はい。あの、こっちのほうが、風があるので、よく燃えます。というか、下だと危ないから、こっちのほうがいいです。裏の畑でやりましょう。バケツに水を汲んで」
(──バケツって、なんだろう)
アマネは、顔だけは神子の顔のまま、頭の中でそう考えていた。
(水を汲むものかあ……。桶(おけ)みたいなものかな。いや、聞かないでおこう。聞いたら、いま、たぶん泣く)
三日前、塔の頂で、彼女は御隧道(みずいどう)の裂け目を見上げていた。四百年、誰も返事をしなかった窓を。そこを抜けて、こんな狸みたいな顔の男の人に会って、芋を食べさせてもらって、いま、火の話をしている。
(十七代までかかったんだ)
(初代のあまねさん、わたし、たぶん、そこまで行けます)
そう思った瞬間、彼女の胸の底が、みっともなく熱くなった。だから彼女は、いつもより深く息を吸って、背筋を伸ばして、神子の声を出した。
*
「ですから、祖よ。急いでいただかねば困ります」
「……何をですか」
光一が、はっとした顔をした。彼女は、この人は今ごろ気づいたのだな、と思った。この横穴を、自分は通れない。緩衝地帯は越えられても、地上へは出られない。御隧道の裂け目を通れば地上へは出られるが、そこには今ごろ自衛隊と警察と報道陣が集まっている。そして兄が、三基の円筒を抱えて待っている。
アマネは、光一の顔を見て、その先を読んだ。そして、初めて、笑った。二十五の娘らしい、雑な笑い方だった。
「兄より先に、わたくしを地上へ出す方法を、考えていただきます」
彼女は、書類の束と硝子板を、順番に石の台の上に並べた。計画図。断面図。地図。そして、クレヨンの落書き。四枚が、青白い光の下で並んだ。
「祖の上には、地上の政府がおります。祖の下には、幾千万の民と、兄と、三基がございます」
アマネは、床に片膝をつき、うやうやしく頭を下げた。
「どうか、よしなに」
*
その夜、光一は一睡もしなかった。炬燵(こたつ)に足を入れ、老眼鏡をかけ、紙を並べ、ボールペンを握り、何時間も、一文字も書けずにいた。
書けるはずがなかった。彼はただの町工場のおやじである。押しが弱く、断れず、値切られれば下げてしまう男である。国と交渉した経験も、人を説得した経験も、まして戦争を止めた経験もない。
胃が、痛かった。
夜が明けかけた頃、テレビが速報の音を鳴らした。
『──旧第二トンネル周辺に、政府は自衛隊の派遣を決定。また、地下空間内部より発せられたとみられる、日本語の通信文が──』
画面に、文章が映し出された。
我ラハ地上ノ全権ト話ス用意ガアル
交渉ノ場ニ「祖」ヲ同席サセヨ
光一は、湯呑みを持ったまま、テレビを見つめた。そして、みぞおちを両手で押さえた。
胃が、痛い。
森戸光一、八十五歳。町工場のおやじ、兼業農家。彼の胃痛は、まだ始まったばかりだった。