雨しか降らない地下世界 作:向島
地上は、三日で行き詰まった。
『交渉ノ場ニ「祖」ヲ同席サセヨ』
たった十五文字である。だが政府は、この十五文字の前で完全に停止していた。
森戸光一は、鉄工所の隅の古いテレビで、それを毎日見ていた。
『──政府はこの「祖」という語について、地下側の宗教的な指導者を指す可能性、あるいは象徴的存在を指す可能性の両面から検討を進めているとのことです』
『専門家は、当時トンネルに取り残された十七名の子孫、いわゆる「遺族会」の代表者を指すのではないかとの見方を示しており──』
『一方、与党の一部からは、これは天皇陛下を指すのではないか、という指摘もあり、宮内庁は「そのような打診は受けていない」と』
光一は、油の染みた軍手を片手に持ったまま、じっと画面を見ていた。
「森戸さん、これどう思う?」
耕耘機を取りに来た近所の若い衆が、横から言った。
「天皇陛下は無理でしょ。地下の人って百年前の日本人の子孫でしょ? だったら普通に、当時の総理大臣の子孫とか」
「……あ、はい」
「森戸さん、興味なさそうだね」
光一は、へらへらと笑った。
「あの、僕、そういう、政治の話は、よく、わからなくて」
軍手の中で、指が細かく震えていた。
*
地下側の返答は、四日目の朝に届いた。トンネルの裂け目を通して、一枚の紙が押し出されたという。灰色がかった、粗い紙。菌糸を漉(す)いた紙だ、と光一だけが知っていた。
その全文が、昼のニュースで読み上げられた。
地上ノ返答ヲ受ケタリ。
我ラハ「祖」ト問ウタ。
地上ハ「祖トハ誰カ」ト問イ返セリ。
答ヘヨ。何故ニ問イ返ス必要ガアルノカ。
我ラガ祖ト呼ブ者ハ、百年ノ間、地上ニ在リ、
我ラト物ヲ交シ、我ラト文ヲ交シ、我ラヲ生カシタ者ナリ。
地上ノ側ニ、其ノ記録ガ一片モ無イト云ウノカ。
我ラハ理解セリ。
地上ハ、我ラヲ見捨テタノデハナカッタ。
見捨テタトスラ思ッテ居ラヌ。
忘レタノデモナイ。初メカラ、数エテ居ナカッタノダ。
人ト人トノ繋ガリヲ、記録スル値打モ無イト判断シタ者ト、
何ヲ交渉スルコトガ出来ヨウカ。
塔師団 総長 ハガネ
スタジオが、しんとした。キャスターが、原稿を持つ手を下ろした。
「……あの、これは、その」
沈黙が三秒あった。テレビとしては永遠に近い時間だった。
光一は、作業台に手をついていた。
「森戸さん」
若い衆の声が遠かった。
「……これ、こっちが悪くない?」
*
その夜、光一は猫車を押して、五十メートルの横穴を進んだ。荷台には、いつもの銅線ではなく、乾物と、缶詰と、蜜柑(みかん)が一箱載っていた。
ドームに入ると、アマネが石の台の脇に座っていた。この一週間、彼女はほとんどここに詰めている。
「祖よ」
彼女は片膝をつき、深く頭を下げた。
「あの、それ、いいですから。座っててください、ほんとに」
「なりませぬ」
アマネは頭を下げたまま言った。
「作法は、こちらの都合ではございません。祖の側の値打ちを、こちらが決めてしまうことになりますゆえ」
光一は、その言い回しにいつも詰まる。反論の仕方がわからない。彼は蜜柑を一つ取り出して、彼女の前に置いた。
「……蜜柑です。買ったやつです」
アマネは両手で受け取り、額の高さまで持ち上げてから、膝に置いた。そして、皮を剥く前に、静かに息を吐いた。その息が、少し、湿った音を立てた。
*
「あの」
光一は、しばらく迷ってから訊いた。
「その、喋り方って、どこで覚えたんですか」
アマネは、蜜柑の筋を丁寧に取りながら答えた。
「書物でございます」
「本」
「はい。初祖より賜りし書物のうち、我らがもっとも重んじたのは、機械の書でも化学の書でもございませんでした」
彼女は、指を折った。
「国語の便覧。日本史の教科書。放送の読本。それから──『冠婚葬祭入門』」
光一は、口を開けた。
「……父さん」
思い当たった。父は図書館の除籍本を段ボールごと渡していた。中身を選んでいなかった。実用書と歴史書と、昭和の礼法の本と、たぶん何かのおまけが、全部まとめて向こうへ行った。
「なんで、それを、重んじたんですか」
アマネは、蜜柑をひと房、口に入れた。目が少し丸くなった。それから咳をひとつして、続けた。
「言葉が、割れたからです」
「割れた」
「はい。分断のあと、我らの祖は十七名でございました。皆、地上の言葉を話しました。ですが、代を重ねるうち、東の谷と西の谷で言葉が変わりはじめました。我らの世界には、電波が通りませぬ」
光一は、はっとした。
「……放送が、ない」
「はい。地上では、遠くの言葉が耳に入るのでしょう。我らには、届きませぬ。線を張った先にしか、届きませぬ。線の無い谷は、五十年で言葉が通じなくなります」
彼女は、蜜柑の皮を、丁寧に半分に折り畳んだ。
「三度、戦がございました。すべて、言葉の行き違いから始まりました。四千二百十一名が死んだ町のことも、元をたどれば、換気の警告が別の谷に伝わらなかったからでございます」
光一は、あの七十三頁の名簿を思い出した。
「それで、神殿は決めました。線を張るのと同じだけの重みで、言葉と作法を張り直そう、と。書物にあった言葉を、正しいものと定めました。挨拶の順序を定めました。物の受け渡しの手つきを定めました。目上と目下の並び方を定めました」
「……全部、その本の通りに?」
「その本しか、無かったのです」
アマネは、少しおかしそうに言った。
「ゆえに、我らの婚礼は、いまも仲人が三三九度を口上いたします。神殿の使者は、玄関で三歩下がって名乗ります。誰も、それが百年前の地上の作法だとは思っておりませぬ。我らにとっては、ただ『正しい』のです」
光一は、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……こっちは、なくなりましたよ」
「は」
「その、そういうの。三歩下がるとか、両手で受け取るとか。もう、ほとんど、誰もやりません」
彼はうつむいた。
「電車で、通話する人がいます。順番待ちで割り込む人がいます。店員さんを怒鳴る人がいます。僕は、怒鳴られる側なんですけど、その、言い返せなくて、いつも」
言いながら、情けなくなってきた。アマネは、じっと聞いていた。
「祖よ。それは、豊かだからでございましょう」
「え」
「作法とは、乏しいところで人がぶつからぬための、道具でございます」
彼女は、両手を膝に置いた。
「我らの世界では、鉄も食も薬も、順番を間違えれば人が死にます。誰が先か、誰が譲るか、それを毎回争っていては、争いだけで日が暮れます。ゆえに、あらかじめ決めておくのです。作法とは、規則そのものではなく、規則を毎回作り直さずに済ませる仕掛けでございます」
「……はい」
「地上は、豊かでございます。順番を間違えても、たいてい、誰も死なぬ。ゆえに、決めておく必要が薄れた。作法が廃れたのではなく、要らなくなったのでしょう」
彼女は、光一の顔を見た。
「けれど、我らから見れば、それは──」
そこで、彼女は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「豊かさの上に、胡座(あぐら)をかいておられる、と」
光一は、返す言葉がなかった。まったくその通りだと思ったからだ。そして同時に、地下側が塔を建てて核を三基抱えたのも、乏しさが人を鋭くしたからだと思った。乏しさは人を礼儀正しくもするし、恐ろしくもする。
「あの」
光一は、おそるおそる言った。
「じゃあ、『祖』って言葉も」
「はい」
アマネは頷いた。
「あれは、試しでございます」
*
「兄は、地上が答えられぬことを、初めから見込んでおりました」
彼女は、はっきりと言った。
「『祖』と書けば、地上に我らとの繋がりが生きていれば、必ず一人の名が出るはずでございました。出れば、話は始まります。出なければ──」
「……繋がりが、死んでる」
「はい」
光一は、床にへたり込んだ。
「じゃあ、僕が、名乗り出れば」
「兄の理屈は崩れます」
「……」
「けれど」
アマネは、少しだけ声を落とした。
「祖が名乗り出れば、この家は封じられます。緩衝地帯は接収されます。神子は、二度とここへ参れませぬ。物資は絶えます。……三日前に申し上げた通りでございます」
同じ袋小路だった。三日間、光一は同じ壁の前を行ったり来たりしていた。
*
その夜、光一は炬燵(こたつ)でノートパソコンを開いた。ネットは、祭りだった。「祖」の正体をめぐって、憶測が数万件流れていた。当時の探検隊のリストが掘り起こされ、遺族が特定され、無関係の人間が晒され、謝罪が流れ、また別の誰かが晒された。
その中に、光一が探していた種類の書き込みが、ぽつぽつあった。
うちのばあちゃんが言ってた
実家の地下室に横穴があって、その先に丸い部屋があって
そこに物を置くと消えたって
子どもの頃はほら話だと思ってた
光一は、その書き込みを三十分見つめた。心臓が痛かった。返信は、冷たかった。
で、穴は?
埋めた?
いや、それが、行ったんだけど
地下室はあるけど、横穴が無い
壁
はいはい
こういうの今日だけで五十件見た
似た書き込みは、他にもあった。奈良、岐阜、宮城。どれも同じ結末だった。祖父母は「あった」と言う。行ってみると、無い。埋めた跡もない。ただの壁。
光一は、父の日誌の記録を思い出した。分断のあと、十年ほどのあいだは、緩衝地帯がいくつも生きていた。日誌の初期には、他の贈り主の話が出てくる。「北の贈り主」「西の贈り主」。米を送ってきた家。薬を送ってきた家。そして、十年目あたりから、順に消えた。
北の緩衝、閉ざされたり。物、三度置くも動かず。
西の緩衝、閉ざされたり。
理由は書かれていない。向こうにもわからなかったのだ。残ったのは、御隧道(みずいどう)の裂け目と、森戸の家の下だけだった。
なぜここだけ残ったのか。光一には、ひとつだけ心当たりがある。父は、一度も休まなかった。天候でも、逮捕されたときでも、祖母の葬式の翌日でも、物を置き続けた。他の家は、たぶん、どこかで途切れた。途切れて、しばらく置いて、また来たときには、閉じていた。
──使い続けた道だけが、残った。
それが正しいのかどうか、光一にはわからない。ただ、そう考えると、彼はこの五十メートルを押すのをやめられなくなる。
*
その夜、光一は便箋を出した。宛先は、内閣官房の地下空間対策室。住所はニュースで流れていた。
拝啓
「祖」について、心当たりのある者です。
地下の方々が指しているのは、天皇陛下でも遺族会でもありません。
個人です。
その者は名乗り出ることができません。名乗り出れば地下への通路が
封じられ、地下側の秩序が崩れ、強硬派が主導権を握るからです。
どうか、交渉の場では次のようにお答えください。
「祖にあたる者は在る。ただし今は出られぬ事情がある」と。
そこまで書いて、光一の手が止まった。これを出せば、消印から地域が割れる。筆跡が残る。ワープロで打っても、紙とインクが残る。父の代とは違って、今は防犯カメラが峠道にすら立っている。そして、そもそも──信じてもらえるのか。数万件の憶測の中に、この一通が混ざるだけではないのか。
光一は、便箋を三つ折りにして、封筒に入れた。切手を貼った。そして、燃やさなかった。
父は三度燃やした。光一は燃やさなかった。ただ、上着の内ポケットに入れて、そのまま四日間、持ち歩いた。出しはしなかった。
*
五日目の夜、アマネが倒れた。
光一が猫車を押してドームに入ると、彼女は石の台に上体を預けるようにして、床に座り込んでいた。肩が、細かく上下していた。
「あ、あの、大丈夫ですか」
駆け寄って、彼女の額に手を伸ばしかけて、光一は止まった。触っていいのかわからなかった。
アマネは顔を上げ、いつもの通りに礼をしようとして、途中で崩れた。
「……失礼を」
熱かった。手を触れる前から、熱が伝わってきた。
「病院──じゃない、あの、水、持ってきます」
「祖よ」
彼女は、光一の袖を掴んだ。力が、驚くほど弱かった。
「知られては、なりませぬ」
*
翌日、彼女は油紙の包みを持ってきた。書類だった。今度は計画図ではない。
見開きに、驚くほど精密な図が描かれていた。顕微鏡写真の模写だ。丸い細胞が房のように連なり、そこから細い糸が伸びている。倍率と、染色法と、寸法が几帳面に書き込まれていた。
「医局の診立てでございます」
アマネは淡々と言った。
「胸の内に、菌が根を張っております。血に乗って、方々へ」
光一は、その図を見つめた。真菌。彼らの世界を支えてきたものだった。紙も、食糧の一部も、断熱材も、菌糸から作る。雨だけが降り、光の届かない世界で、菌はほとんど唯一の増える資源だった。その菌が、体の中に入った。
「見つけるのは、造作もございませぬ」
彼女は、少し自嘲するように言った。
「我らの鏡と染めは、地上のそれより細かいと聞いております。医局は、種も、広がりも、日ごとの進みも、正確に測っております。……測れるだけでございます」
「……薬は」
「作れませぬ」
アマネは、次の頁をめくった。そこには、日本語で書かれた薬品名が並び、そのすべてに×がついていた。
「我らが作れる薬は、体の中に元からある形を真似るものに限られます。蛋白の糊を煉(ね)り、鼠と、水の生き物と、白い魚から材を採り、種痘の類はそれで凌いでまいりました。疫病でこの百年、大きく死んだのは二度きりでございます」
彼女の指が、×印の上を滑った。
「ですが、この薬は、違います。菌を殺して人を殺さぬ、その匙加減のために、地上では十いくつもの草木と石油から採った材を組み合わせると書いてございました」
光一は、その頁を凝視した。そこに書かれていたのは、彼にも見覚えのある名前だった。抗真菌薬。点滴で入れるもの。腎臓の値を見ながら量を調整するもの。薬局では、買えない。
「材が、無いのでございます」
アマネは、静かに言った。
「我らの世界には、鉱脈が尽きませぬ。鉄も、銅も、無尽蔵でございます。ですが、生き物の種類が、あまりにも少ない。草が無く、木が無く、花が無い。……祖よ、我らに足りぬのは、力ではございませんでした。多様さでございました」
光一は、口を開けたまま、その言葉を聞いていた。無限の資源と、無限の広さ。三基の核。二十ナノメートルの定盤。その世界が、たった一種類の薬を作れない。
*
「……病院に、行きましょう」
光一は言った。言ってから、自分の声が震えていないことに、少し驚いた。
「連れていきます。市立病院なら車で四十分です。個室でも、僕、たぶん、払えます。茶畑がもう一枚あるので」
アマネは、目を伏せた。
「祖よ」
「なんですか」
「わたくしには、名がございません」
光一の思考が、そこで止まった。
*
その夜、光一はノートパソコンの前に座り、市立病院の初診案内の頁を開いた。
初診の方へ
健康保険証(またはマイナ保険証)を必ずご持参ください
お持ちでない場合は全額自己負担となります
※本人確認書類の提示をお願いしております
光一は、全額自己負担の文字を見て、少しほっとした。金は、なんとかする。畑を売る。工場の機械を売る。家を担保に入れてもいい。だが、その下の一行で、止まった。
※本人確認書類。
彼は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。住所がない。生年月日がない。国籍がない。戸籍がない。パスポートも、免許証も、マイナンバーカードも、出生届も、母子手帳も、何ひとつない。彼女は、この国のどこにも、存在しない。
存在しない人間を病院に連れていけば、病院は必ず訊く。あなたは誰ですか、と。そして、答えれば、終わる。この家が封じられ、緩衝地帯が接収され、神子は二度と来られなくなり、物資が絶え、神殿が崩れ、二割が八割になる。答えなければ、彼女は死ぬ。
光一は、上着の内ポケットから、四日間持ち歩いた封筒を取り出した。宛名は書いてある。切手も貼ってある。彼はそれを、机の上に置いた。置いて、じっと見た。三十分ほど、そのまま動かなかった。
やがて彼は立ち上がり、台所へ行き、薬箱を開けて、胃薬を二錠、水なしで飲んだ。
胃は、痛かった。昨日より、ずっと痛かった。