雨しか降らない地下世界 作:向島
三日目から、アマネは咳をするたびに口元を押さえるようになった。押さえた手のひらを、光一に見せない。見せないということは、そういうことだ。
光一にできることは、少なかった。保冷剤をタオルで巻いて持っていった。経口補水液を箱で買ってきた。ドームの土間に、ホームセンターで買ったキャンプ用の折りたたみベッドを組み立てた。組み立てながら、彼はずっと自分に腹を立てていた。こんなものを組み立てている場合ではない。
「祖よ。過分でございます」
「あの、寝てください。ほんとに、寝ててください」
「作法が」
「作法は、いいですから」
言ってから、光一は自分の声が尖ったことに驚いた。アマネも驚いた顔をした。それから、素直にベッドに横になった。その素直さが、何よりこたえた。
*
夜、光一は炬燵(こたつ)で調べ物をした。キーワードは、四日でずいぶん増えた。「戸籍がない 医療」「無戸籍 保険」「身元不明 入院 費用」。
そのうち、ひとつの言葉に行き当たった。
生活保護法 第二十五条
保護の実施機関は、要保護者が急迫した状況にあるときは、
すみやかに、職権をもつて保護の種類、程度及び方法を決定し、
保護を開始しなければならない。
職権保護。申請がなくても、役所の側から保護を始められる。医療扶助だけを単独で出すこともできる。戸籍がなくても、現にそこに人がいて、命が危ないなら、動かせる。
条文を三回読んで、光一は目を閉じた。道は、ある。あるのだが、その道の入口には、福祉事務所の窓口がある。そして、その窓口には、田尻がいる。
*
田尻とは、中学の同級生だった。八十六になった今も、彼は町の福祉事務所に会計年度任用職員として週三日出ている。人手が足りないのだ。この村では、八十代は働き手である。
三年前、光一は確定申告の相談会場で田尻に会った。順番待ちの列の、受付の机に座っていた。老眼鏡の上から光一を見て、田尻は言った。
「森戸くん」
四十年ぶりでも、声はそのままだった。中学のとき、光一の上履きを毎日隠していた男の声。
「……あ、どうも」
「あんた、いくつだっけ」
「あの、八十二です」
田尻は、光一の顔をじろじろ見た。周りの職員にも聞こえる声で言った。
「なんでそんな顔してんの」
光一は、笑おうとして失敗した。
「あの、体質で」
「体質」
田尻は鼻で笑った。
「あんたの親父もそうだったな。気味悪かったよ。うちのおふくろが言ってた。森戸さんとこは何かやってるって。……何やってんの、あんたら」
会場の何人かが、こちらを見た。光一は、書類を持ったまま立っていた。田尻は、書類を受け取ってぱらぱらめくり、「これ、添付が足りない。出直し」と言って、机の端に置いた。実際には足りていた。あとで確認した。
光一はその日、駐車場の軽トラの中に四十分座っていた。それから家に帰り、その夜の三時にe─Taxで申告を済ませた。以来、彼は役場の建物に、住民票を取る以外で入っていない。
*
炬燵の上で、光一は自分の手を見た。震えていた。条文を読んでいるだけなのに、震えていた。
(行けばいい。頭を下げて、事情を話して、職権保護をお願いすればいい。田尻さんだって、仕事だ。ちゃんとやってくれるかもしれない)
そう思うそばから、あの日の会場の空気が喉までせり上がってきた。そして、もっと悪い想像が続く。田尻に「誰なんだ、その子は」と訊かれる。答えられない。答えられないまま、彼は必ずこう言う。森戸さんとこは、何かやってるって、うちのおふくろが言ってた。
光一は、炬燵の天板に額をつけた。
(僕は、なんて役に立たない人間なんだ)
八十五年生きて、何ひとつ立ち向かえたことがない。取引先にも、上司にも、同級生にも。物を運ぶことしかできない。運ぶだけなら猫車にもできる。
床の下で、人が死にかけている。その人は、自分が十歳のときに書いた落書きを、何百年も抱えて上がってきた人だ。
光一は顔を上げ、しばらく壁の一点を見つめた。それから、電話帳を引っぱり出した。
*
龍楽愛染堂(りゅうがくあいぜんどう)は、隣のササカワ町にある。裏山に、昔、龍が音楽を奏でたという洞窟があり、寺の名はそこから来ているらしい。もっとも、そんな長い名で呼ぶ者は地元にいない。みんな「愛染さん」と言う。
祖父の代からの菩提寺で、光一は子どもの頃、夏休みのラジオ体操をあの境内でやっていた。父の葬式もそこで出した。住職はもう三代替わっている。今の滝巳善照(たきみ ぜんしょう)和尚は四十代の後半で、光一より四十近く年下なのだが、光一のほうが多少「若く見られる」ものだから、顔を合わせるたびに面白がられる。いつだったか、「森戸さん、うちの若いのと同級生で通りますよ」と言われて、光一は三日ほど眠れなかった。
なぜ寺に電話しようと思ったのか、光一にもはっきりした理由はなかった。ただ、あの住職は、法事のあとの雑談で、村の変な話を否定しない人だった。裏山の光の話も、井戸の話も、頭から否定せず、かといって面白がりもせず、「それ、いつ頃からです?」と訊いてくる人だった。
受話器を取る前に、光一は台所のメモ用紙に、話す順番を書いた。書きながら、彼は自分でも不思議なほど、頭が冴えていくのを感じた。いつもそうだった。人と喋るときは何も言えないのに、追い詰められて、他人の命がかかっているときだけ、彼の頭は嘘がうまくなる。
三回、声に出して練習してから、電話をかけた。
*
「はい、ササカワ町の愛染堂です」
思ったより若い、はきはきした声だった。
「あ、あの、夜分にすみません、森戸です。森戸鉄工所の」
「ああ、森戸さん。どうしました」
光一は、メモを見た。
「あの、変なことを伺うんですけど。……ちょっと、親戚から相談を受けたんですよ」
「はい」
「虐待を受けていた子の話で。ネグレクトっていうんですか、それで、出生届が出てなくて、戸籍がないって話なんです。でも、具体的にどういう子なのかまでは、教えてくれなくて。親戚も、こう、口が重くて。でも、気になっちゃって。それで、その、そういう子が病気になった場合って、どんなふうに対応したらいいんでしょうか」
光一は、そこで一度、息を吸った。
「お寺さんに聞くのは、変な話かもしれませんけど。わけあって、行政には、相談しにくくて」
受話器の向こうが、静かになった。
「あーなるほど、わかりました。まだ通報するかどうかはわからないけど、とりあえず現状で何ができるか確認したい、って話でいいですか」
光一は、口を開けたまま固まった。用意していた説明が、三つぶん、まるごと不要になっていた。
「……あの、はい。そう、です」
「じゃあ、その前提で話しますね」
紙をめくる音がした。
「森戸さん、うちに来る相談ってね、半分は坊主の仕事じゃないんですよ。呪われたって言って来る。土地が悪いって言って来る。家系が祟られてると言って来る。……で、座らせて話を聞くと、たいてい、金と、役所と、病院の話なんです」
「……はあ」
「だから私、そっちを勉強しました。加持祈祷より、そっちのほうがよく効くので」
軽い口調だった。だが、笑ってはいなかった。
「で、その子、いま、どのくらい悪いんです」
「……熱が、四十度近くあって、咳が」
言ってしまってから、光一はぎょっとした。親戚から具体的な話は聞いていない、という設定だったのに。住職は、そこを突かなかった。
「わかりました。それ、急ぎます」
そして、淡々と話しはじめた。
*
「まず大原則をひとつ。医者は、身元がわからない人でも、金が払えない人でも、診ます。これは決まってるんです。医師法の応召義務ってやつで、診療を求められたら正当な理由なく断れない。特に救急は、まず診る。名前も保険証も、そのあとの話です」
「そのあとに、なりますか」
「なります。逆に言うと、そのあと必ず問題になる。だから、そのあとの筋をこっちが先に用意しておけばいい」
キーボードを叩く音がした。この人は電話をしながら調べている、と光一は思った。
「行旅病人及行旅死亡人取扱法。読み方は、こうりょびょうにん」
「こうりょ……」
「旅の途中で行き倒れた人、という意味です。明治の法律ですが、現役です。身元のわからない人が、その土地で病気で倒れていた場合、その市町村が救護しなきゃいけない。費用は、まず市町村が出して、あとで都道府県、最終的には国のほうへ回ります」
「……市町村が」
「ええ。窓口に行って頼み込む話じゃないんです。倒れてる人がいたら、行政の側に義務が生じる。ここ、大事なところなので、もう一回言いますね。頼むんじゃない。義務が生じるんです」
光一は、メモに「義務が生じる」と書いた。ペン先が紙に食い込んだ。
「それから、生活保護の職権保護。二十五条。急迫した状況なら、申請がなくても実施機関の側から保護を開始できます。医療扶助だけ単独で出すこともある。無戸籍の人でも、現にそこにいて困窮してるなら、対象になり得ます」
「なり、得る」
「実務だと、ぐずぐずすることもあります。窓口の当たり外れもある。……なので、いちばん早い順路を言いますね」
住職は、はっきりと言った。
「救急車を呼んでください」
光一は、受話器を握り直した。
「呼べば、消防が来る。消防が病院を探す。病院が受ける。身元不明なら、病院から市町村に連絡が行く。行旅病人の扱いになるか、職権保護になるか、そこから先は向こうが決めます」
「僕が、窓口に行かなくても」
「行かなくていいです」
住職は、少し笑ったようだった。
「森戸さん、あなた、役場が苦手でしょう」
光一は、答えられなかった。
「……はい」
「そういう人のために、救急車ってあるんですよ。あれ、こっちが何も説明できないうちに、勝手に事が動きはじめる仕組みなので」
*
最後に、住職はこう言った。
「行旅病人って言い方、私は嫌いじゃないんですよ」
「はあ」
「身元不明人、とは言わないんです。旅の途中の人、と言う。……森戸さん。その子、旅の途中なんでしょう」
光一の喉が、詰まった。
「……はい」
「なら、途中で終わらせちゃいけない」
少し間があった。
「親戚さんに、よろしくお伝えください」
その「親戚さん」の言い方が、あまりに柔らかかったので、光一は電話を切ったあと、しばらく台所の床に座り込んでいた。
*
翌朝、光一は緩衝地帯へ降りた。アマネは目を覚ましていた。頬が赤く、唇が乾いていた。ベッドの脇に、日誌が置いてあった。この期に及んで、彼女は記録を書いていた。
「祖よ、おはようございます」
「あの」
光一は、ベッドの横に膝をついた。
「病院に行きます」
彼女の目が、ゆっくりと動いた。
「……祖よ」
「保険証が要らない方法があるんです。名前も、住所も、あとでいいんです。行旅病人っていう扱いがあって、市町村が救護する義務があって、だから、あの、大丈夫なんです」
「知られては」
「知られます」
光一は言った。言ってから、自分の声が震えていないことに、また驚いた。
「知られたら、たぶん、この家は封じられます。緩衝地帯も接収されます。物資も止まります。神殿も、崩れるかもしれません」
「では」
「でも、あなたが死んだら、それ、全部、意味ないじゃないですか」
アマネは、言葉を失った。光一は、うつむいた。
「……あの、僕、こういう言い方、したことないんです。すみません。でも、今日は、僕の言うことを聞いてください」
彼の膝は、土の上で震えていた。だが、彼は動かなかった。
長い沈黙のあと、アマネは、ゆっくりと目を閉じた。
「……祖の仰せのままに」
*
九時十二分。光一は携帯を握った。一一九。呼び出し音が二回で切り替わった。
「はい、消防です。火事ですか、救急ですか」
「きゅ、救急です」
「住所をお願いします」
光一は住所を言った。二回噛んだ。
「どうされましたか」
「あの、若い女性が、熱と、咳で、意識が、その、しっかりはしてるんですけど、脈が速くて」
「ご家族の方ですか」
用意していた答えを、光一は口に出した。
「……姪です。事情があって、しばらくうちにいます」
嘘は、するりと出た。出たあとで、掌がびっしょり濡れていることに気づいた。
「今から向かいます。玄関のほうで待てますか」
「はい」
電話を切って、光一は猫車も何も持たずに、横穴を走った。
*
「アマネさん、行きましょう」
ベッドの縁に腰かけていた彼女に、光一は手を差し出した。アマネは、その手を取った。そして、立ち上がった。二歩、歩いた。三歩目で、彼女の足が止まった。
石の台のあたりだった。光一の手は、まだ前にある。彼女の手も、繋がったままだ。だが、彼女の身体が、そこから先へ進まなかった。
「……アマネさん?」
「祖よ」
彼女の声は、小さかった。
「わたくしは、ここまでにございます」
光一は、手を引いた。強く引いた。引いても、彼女は動かない。抵抗しているのではない。彼女は前に出ようとしている。足も動いている。それなのに、身体が同じ場所にある。
「なんで」
「この部屋より地上へは、参れませぬ。……以前、申し上げました」
言われて、光一は思い出した。芋を運ぶのを手伝おうとして、途中で止まった彼女。あのとき、彼はただ「そういうものか」と流していた。
「そんな」
「祖」
「そんな、そんなの、だって、こっちには来られるのに」
「越えられるのは、ここまでと決まっております」
光一は、彼女の手を握ったまま、その場に膝をついた。
遠くで、音がした。サイレンだった。峠道を、こちらへ上がってくる音だった。
光一は、顔を上げた。そのとき、背後の横穴から、足音が聞こえた。猫車の轍(わだち)を踏む、重い足音。
光一が振り返ると、素掘りの穴の暗がりから、大きな影が身をかがめて出てきた。ずぶ濡れではなかった。乾いていた。地上を歩いてきた者の乾き方だった。
肩幅が広く、背が高く、そして、ひどく疲れていた。呼吸が浅い。額に汗が浮き、顔色が悪い。壁に片手をついて、その男は身体を起こした。外套の胸に、鉄の紋がひとつ留めてある。塔を模した紋だった。
男は、ベッドの上の妹を見て、それから、床に膝をついている老人を見た。そして、低い声で言った。
「……妹が、世話になりました」