雨しか降らない地下世界 作:向島
サイレンが、近づいてくる。光一は膝をついたまま、その大男を見上げていた。
「あの」
男は、壁に手をついたまま姿勢を正し、それから、ゆっくりと頭を下げた。
「塔師団総長、ハガネと申します。アマネは私(わたくし)の妹です。お会いできて光栄にございます」
あまりに丁寧だったので、光一は一拍、返事が遅れた。
「……三日前に、監視所の扉を」
「壊しました。三名を打ちのめしました。殺してはおりません」
言い方は変わらなかった。詫びもしないが、隠しもしない。ハガネは壁に手をついたまま、荒い息を整えていた。近くで見ると、疲労が異常だった。顔色が土気色で、指先が細かく震えている。地上を歩いてきただけの疲れ方ではない。
「あなた、大丈夫ですか」
思わず光一が言うと、ハガネの眉がわずかに動いた。
「……あなたは、私を捕まえようとも、逃げようともなさらぬのですな」
「あ、すみません、そうですよね、あの、僕、そういうの、とっさに」
ハガネは、答えなかった。その代わり、じっと光一を見た。見られながら、光一は思い出した。この男は、核を三基持っている男だ。監視所の防護扉を内側からめくった男だ。地上に報いを返しに来た男だ。膝が震えた。
サイレンが、家の前で止まった。
*
「ちょっと、あの、待っててください、すみません、すみません!」
光一は立ち上がり、横穴へ飛び込んだ。腰をかがめて五十メートル、猫車の轍(わだち)を踏んで走った。途中で頭を天井にぶつけた。石室の梯子を上がり、蓋を閉め、電子レンジの空き箱を戻し、その上にマットを蹴って被せた。
玄関を開けると、救急隊員が三人、担架を持って立っていた。
「森戸さんですか。傷病者の方は」
光一は、そこで完全に止まった。用意していた言葉が、全部消えた。
「……あの」
「中ですか?」
「あの、その」
隊員が、光一の顔を見た。
「森戸さん、大丈夫ですか。顔色、悪いですよ」
「あ、はい、あの、すみません、あの……いなくなりました」
「いなくなった?」
「はい、あの、姪が、その、僕が電話してる間に、勝手に、帰ってしまって」
自分でも、なんという下手な嘘だと思った。
そのあとの二十分は、光一の人生でも指折りの二十分だった。隊員は家に上がり、居間を見て、部屋を見て、「本当に大丈夫ですか」と何度も訊いた。光一は「すみません」を数えきれないほど言った。血圧を測られた。上が百七十を超えていた。
「森戸さん、これ、あなたのほうが危ないですよ」
若い隊員が真剣な顔で言った。
「胸、痛くないですか。息苦しくないですか」
「あの、胃が」
「胃?」
「胃が、痛くて」
隊員は少し脱力したように笑って、それから真面目な顔に戻った。
「一人暮らしですか」
「……はい」
「無理しないでください。姪御さんが戻られたら、ちゃんと病院に。それと、これは老婆心ですけど」
彼は、光一の顔をまじまじと見た。
「森戸さん、お若く見えますけど、書類だと八十五なんですよね。……無理、しないでください」
不搬送の書類に署名した。字が、ひどく汚くなった。救急車が去っていくのを、光一は玄関先で見送った。見送りながら、彼は少し泣いた。
*
ドームに戻ると、ハガネがベッドの脇に片膝をついて、妹の額に手を当てていた。
「兄上」
アマネの声はかすれていた。
「戻ってはなりませぬ。総長が地上を離れれば」
「黙っておれ」
ハガネは、妹の頬にかかった髪を、ひどく不器用な手つきで払った。その手つきを見て、光一は少しだけ、この男が怖くなくなった。
ハガネが振り返った。
「ひとつ、伺いたい。あなたは今、地上の役人を呼びましたな」
「……はい」
「呼べば、この道が知られる。この家は封じられる。祖父の代からの秘密は終わる。あなたは我らの世界に物を送れなくなる。神殿は崩れ、私の一派が勢いを得る。……その先に何があるかは、妹から聞いておられよう」
「……はい」
「わかっていて、呼ばれたのか」
光一は、うつむいた。
「……はい」
「なぜ」
「なぜって」
光一は、言葉を探した。うまい言葉は、出てこなかった。
「あの、そこに、人が、いるので」
ハガネが、動きを止めた。
「他に、その、理由が、思いつかなくて。すみません」
長い沈黙があった。
*
──思った通りだ、とハガネは思った。いや、思った以上だ。
この男は、我らが神と呼ぶような人間ではない。声は小さく、腰は低く、謝ってばかりいる。地上へ上がって四日、私はさんざん地上人を見てきたが、この男は、そのへんの地上人と何ひとつ変わらぬ。
変わらぬからこそ、たちが悪い。
私は、二十年前まで、何も持たぬ人間だった。裂け目を抜ける資質もなく、緩衝地帯に近づく血もなく、ただ図体が大きいだけの、導線衆の三男坊だった。十四のあの日、龍穴(りゅうけつ)から出てきた瞬間から、私は「時が効かぬ者」になった。神殿が私を欲しがり、水車の民が私を担ぎ、いつのまにか私は総長と呼ばれ、四千万の行き先を決めさせられている。
あれは、私が望んだことではない。
担がれるというのは、こういうことだ。降りる場所が無くなるのだ。私が疲れたと言えば、誰かが死ぬ。私が迷えば、誰かが待たされる。私は、あの重さを恨んだことが何度もある。
この男は、その重さを、誰にも命じられていないのに、百年、背負い続けた。降りていいのに、降りなかった。
私だったら、どうしただろうか。
二十年考えて、私は答えを持っていない。だから、この男に頭を下げる。神だからではない。私と同じ、ただの人間が、私より長く逃げなかったからだ。
*
やがてハガネは、ゆっくりと立ち上がった。そして、光一の正面に立ち、片膝を土間についた。大きな男が膝をつくと、音がする。どすん、と土が鳴った。
「塔師団総長ハガネ、ここに誓う。以後、地下の民を代表し、あなたのために尽くす」
「や、やめてください」
「地下歴一二〇六年、第三四期。神の資質を確認せり。……日誌に、そう書きます」
「書かないでください!」
光一は本気で叫んだ。叫んでから、自分が今日二度目に大声を出したことに気づいて、うろたえた。
ハガネの口の端が、上がった。笑っていた。
「そう来ると思っておりました」
「なんで笑うんですか」
「いえ」
彼は、ふ、と息を漏らした。
「……そのほうが、こちらとしては都合がよいのです。神が神らしくしていると、担ぐ側が楽をする。あなたが嫌がってくださるうちは、まだ、こちらの目が濁っておらぬということでしょう」
光一は、言われた意味の半分もわからなかった。ただ、胃が、きりきりと絞られていた。
(また神輿にされる)
(父さんと同じだ)
(僕はただ、あの人が死ぬのが嫌だっただけなのに)
*
「して」
顔を上げたハガネは、もう総長の顔に戻っていた。切り替えが異常に速い男だった。
「役人は、なぜ帰ったのです」
「あの、アマネさんが、上に来られなくて」
「そうでしょうな」
ハガネは頷いた。
「神子は、緩衝地帯を越えられる。だが、それだけだ。あの部屋は袋小路です。……この道で妹を地上に運ぶことは、初めから叶いませぬ」
「じゃあ」
「御隧道(みずいどう)から出します」
光一は、目をしばたたいた。
「私が担いで、塔を降り、塔を昇り、裂け目を抜けて、監視所の連中の前に置く。それしかありません」
「で、でも、あなた、その体で」
「二日で戻ります」
言い切ってから、ハガネは少しだけ口の端を歪めた。
「──嘘です。四日はかかる。ですが、四日でも間に合わせます」
*
問題は、そのあとだった。
光一は、住職から聞いたことを、ひととおり説明した。応召義務。行旅病人。市町村の救護義務。職権保護。身元不明のまま、医療にはたどり着けるということ。
ハガネは、腕を組んで最後まで聞いた。そして、首を横に振った。
「駄目です」
「え」
「行き倒れとしては、渡しませぬ」
「でも、それがいちばん早くて」
「早い。ですが、その扱いでは、妹は『身元不明の女』になる。誰でもない者になる。誰でもない者は、どこへ移されても、誰も気づかぬ」
ハガネの声が、少し低くなった。
「使者として渡します」
光一は、その言葉の重さを、一拍遅れて理解した。
「……名乗らせるんですか」
「名乗らせます。十七代神子アマネ。地下世界より、地上国政府への使者。病を得ており、治療を請う。以上」
「そんなの」
「おわかりでしょう」
ハガネは、光一の目を見た。
「そうすれば、妹一人に、両世界の関係が集まる」
背筋が、冷たくなった。
「地上が妹を丁重に扱えば、我らは地上を信じてよいことになる。妹が治れば、地上の医術は我らを救ったことになる。そこから話が始められる」
「もし」
「もし、妹を閉じ込めるなら」
ハガネは、淡々と続けた。
「そのときは、それ相応の報いを返します。妹一人の扱いが、そのまま地上全体への答えになる。……わかりやすいでしょう」
光一は、両手を握りしめた。握った手が、震えた。
「妹さんを、道具にするんですか」
言った。言ってから、自分の心臓の音が聞こえた。
ハガネは、怒らなかった。ただ、静かに訊き返した。
「道具にせぬ方法があるなら、教えていただきたい」
光一は、答えられなかった。
「行旅病人として渡せば、妹は助かるかもしれぬ。ですが、それだけです。二つの世界は、何も変わらぬ。塔はそのまま、三基もそのまま、私の一派もそのままだ。……あなたは、それでよろしいのか」
「……」
「私は、身内を使います。使わねば、四千万が死ぬかもしれぬからです」
四千万。光一は、その数字を初めて聞いた。地下の人口を、彼は一度も正確には知らなかった。日誌には出てこない。訊いたこともなかった。
四千万人。ドームの土間に、光一は座り込んだ。
*
「兄上」
ベッドから、アマネの声がした。
「わたくしは、承知しております」
ハガネが振り返った。
「初めから、承知しておりました。兄上がわたくしを何に使うおつもりか、塔に上がる前から」
「……」
「それでも、わたくしは上がりました」
彼女は、光一のほうを見た。熱に潤んだ目で、しかし、はっきりと。
「祖よ。わたくしが上がったのは、兄上のためでも、神殿のためでもございません」
「……はい」
「約束のためでございます」
光一は、うつむいた。十歳の夏に、クレヨンで書いた七行。
「そういうことでございますので」
アマネは、静かに言った。
「わたくしを、道具として、お使いくださいませ。……ただし、遊ぶまでは、死にませぬ」
*
ハガネが妹を背負ったのは、その日の夕方だった。
光一は、持てるだけの物をベッドの脇に積んだ。解熱剤。経口補水液。塩の飴。使い捨てカイロ。厚手の毛布。そして最後に、迷った末、小さな箱をひとつ載せた。線香花火だった。
「これ、あの、水に濡らさないでください。濡れると、点かないので」
アマネは、兄の背中から、その箱に手を伸ばした。指先が、届かなかった。光一が箱を彼女の手に押しつけると、彼女はそれを両手で受け取り、額の高さまで持ち上げた。熱があっても、作法だけは崩さなかった。
「祖よ」
「はい」
「ひとつ、お願いがございます」
「なんですか」
「わたくしがおらぬあいだも、日誌をお読みくださいませ」
彼女は、少しだけ笑った。
「あれは、我らが百年、あなた様に読んでいただくために書いてまいったものでございます。読み手がおらぬと、書き手が困ります」
光一は、鼻の奥が痛くなった。
「……読みます」
「では」
ハガネが、妹を背負い直した。背負ったまま、光一のほうへ、もう一度深く頭を下げた。
「四日で戻ります。戻りましたら、話がございます」
「話」
「地下の話です」
そして、彼らは緩衝地帯の中央へ歩き、二歩、三歩と進み──不意に、そこにいなくなった。
消えたのではない。壁の向こうへ行ったのでもない。ただ、「この部屋には続きがない」という感覚が、逆向きに働いただけだ。彼らはこの部屋の続きへ行った。光一には、その続きが思い出せないだけだった。
土間には、折りたたみベッドと、飲みかけの経口補水液と、乾いていない小さな染みだけが残った。
*
その夜、光一は炬燵(こたつ)に足を入れ、テレビをつけた。何も報じられていなかった。当たり前だった。四日かかる。
彼は湯呑みを持ったまま、しばらく画面を眺めていた。胃が、痛かった。だが、今日の痛みは、昨日までとは種類が違った。昨日までは、何もできないことの痛みだった。今日の痛みは、何かをしてしまったことの痛みだった。
光一は上着の内ポケットから、あの封筒を取り出した。八日間持ち歩いた封筒。宛先は内閣官房。切手も貼ってある。彼はそれを、炬燵の天板に置いた。
もう、出す必要はない。四日後には、向こうから答えが歩いてくる。
(僕が出さなくても、事は動く。結局、僕は今回も、何も出さなかった)
光一は封筒を裏返し、糊付けした口を、じっと見た。そして、はさみを持ってきて、その封筒を細かく刻んだ。燃やしはしなかった。刻んで、生ゴミと一緒に袋に入れて、可燃ゴミの日に出した。
父より一段だけ進歩したのか、それとも同じところにいるのか、光一にはわからなかった。
*
四日後の朝。テレビが、緊急速報の音を鳴らした。
『──旧第二トンネル観測所より、地下側の人物一名が地上に出て、その場で身柄を保護されたとの情報です。この人物は女性とみられ、政府関係者によりますと』
光一は、湯呑みを置いた。
『──みずからを「地下世界からの使者」と名乗り、また、政府が交渉の条件としていた「祖」について、重要な発言をしているとのことで』
胃が、ぎゅっと縮んだ。
(重要な発言。言った? 僕のこと、言った?)
『──なお、この女性は重い感染症の疑いがあり、現在、指定医療機関に搬送され、治療を受けているとのことです』
光一は、その一文を三回聞き直した。そして、炬燵に突っ伏した。
治療。受けている。
胃は、まだ痛かった。痛かったが、彼はその朝、五日ぶりに、朝食をきちんと食べた。