雨しか降らない地下世界   作:向島

7 / 8
【発光信号】

 点滴の管を見て、アマネがまず思ったのは、透明だ、ということだった。

(こんなに透明な管、見たことないなあ……)

 地下でも管は作る。硝子も引く。だが、こうまで薄く、柔らかく、しかも一度使って捨てるものとしては作れない。

 看護師が、その管を袋から出して、袋のほうをくずかごに落とした。アマネは、その袋の行方を目で追った。

「どうしました?」

 若い看護師が気づいて、屈み込んだ。

「痛かったですか」

「いえ」

 アマネは、慌てて答えた。

「……その、袋は、捨てられるのですか」

 看護師は、一瞬きょとんとした。それから、袋を拾い上げて見せた。

「これは、開けたら捨てちゃうんです。清潔じゃなくなっちゃうので」

「さようでございますか」

「……あの、変なこと聞きますけど、そっちだと、どうしてたんですか」

 アマネは、少し考えてから答えた。

「煮ます」

「煮る」

「はい。管も、針も、布も、煮て、乾かして、また使います。針は研ぎ直します。研ぎ手が、村に三人おります」

 看護師は、しばらく黙っていた。それから、「そっか」と言って、袋をくずかごに落とした。そして、点滴の速度を確かめながら、小さな声で言った。

「……こっち、無駄ばっかりですよね」

「いえ」

 アマネは、首を振った。

「豊かでいらっしゃいます」

(──ほんとうに、豊かなんだ)

(この人、いま、たぶん謙遜したんじゃない。ほんとうに恥じてる。恥じられるくらい余っているんだ)

    *

 彼女は、丁重に扱われていた。これは、報告すべきことだと思った。

 搬送されたのは、都内の指定医療機関だった。個室で、壁が白く、空気が乾いている。廊下には常に人がいる。制服の警察官が二人と、私服の男が四人。監視だが、彼らは決してアマネを見下ろす位置に立たなかった。話しかけるときは、必ず膝を折って目線を合わせた。

 厚生労働省から来たという中年の女性は、初日にこう言った。

「アマネさん。まず治療です。話はぜんぶ、そのあとにします」

 そして本当に、三日間、何も訊かなかった。

 医師は、点滴の薬の名を紙に書いて、副作用と、腎臓の数値の話を、噛んで含めるように説明した。アマネがその紙を「頂戴してもよろしゅうございますか」と訊くと、医師は驚いた顔をして、コピーを取ってくれた。

「これ、何に使うの?」

「持ち帰ります。医局に」

「……ああ」

 医師は、老眼鏡を外した。

「そうか。そりゃ、要るよな」

 翌日、彼は分厚い本を三冊持ってきて、ベッドの脇に積んだ。

「読める? 難しかったら、簡単なのに替えるけど」

 アマネは、その本の背表紙を見て、両手をついて頭を下げた。深く、床に額がつくほど下げた。医師は、ひどく困った顔をした。

(困らせちゃったかあ……)

(でも、これは、下げないわけにいかないんだ)

(この三冊で、うちの医局の十年が飛ぶ。三十年かも)

    *

 着ていたものは、初日に脱がされて、透明な袋に入れられた。証拠品なのか、洗濯なのか、彼女にはわからない。

 その袋を運んでいく途中で、若い職員が二人、廊下で何か言い合っていた。声を落としていたつもりらしいが、個室の扉は薄かった。

「これ、作業着? スーツ?」

「わかんない。……ポケット多くない?」

 どちらかが、小さく吹き出した。

 アマネは、天井を見たまま、しばらく動かなかった。

(あれ、笑うところなのかな)

 あれは、神子の礼装である。表は神殿に上がれるだけの仕立て、裏は現場に降りられるだけの拵(こしら)え。糸は三代がかりで紡いだもので、肩の輪は、初代アマネの代からずっと同じ位置についている。十七代ぶんの寸法直しの跡が、内側に縫い込んである。

(そっか)

(笑われるんだ、これ)

 腹は立たなかった。ただ、頬のあたりが、じん、と熱くなった。それが恥ずかしさなのか、悔しさなのか、彼女はうまく名づけられなかった。

(覚えておこう)

 彼女は、その一件を日誌に書かなかった。書けば、兄が読む。

    *

 熱は、四日目に下がった。咳は残ったが、胸を締めつけていた重さが消えた。息が、底まで入るようになった。

 その日の午後、彼女は初めて、身を起こして窓を見た。

 腰の高さから上に、横長の窓がひとつ。すりガラスではなく、透明だった。四角く切り取られた向こうが、青かった。

 絵では知っていた。祖の寄越した本にも、写真があった。だが、色のついたそれを、彼女は生まれて初めて見た。しばらく眺めて、それから、長く見ていると涙が出そうだったので、目を伏せた。

 夜、灯りが落ちると、天井が近く見えた。

 天井そのものは、珍しくもない。地下にも家はあるし、神殿にも梁(はり)はある。落ち着かないのは、天井があることではなかった。昼のあいだ窓にあった青が、いま一枚の板で塞がれている、ということだった。

 それに、雨の音がしない。生まれてから一度も途切れたことのない音が、無い。堅牢なコンクリートの建物は、外の音をほとんど通さなかった。静かすぎて、耳の奥がかすかに鳴る。

 地下は広い。少なくとも、いま測れる限りでは、無限と言ってよい。それでも、あの窓ひとつのほうが、外に「そら」があるということを、はっきり教えてくれた。この建物の外側には、天井の要らない場所が、確かに広がっている。

 始まりの人々の日記に、こういう一行がある。

 ──我らの無限は、無限という名の閉塞である。

 三千二百年、誰も反論できなかった一行だった。

(そのとおりだったんだ)

 アマネは、白い天井を見上げたまま、そう思った。

    *

 五日目、彼女は連れ出された。正確には、移送だった。より設備の整った施設へ移るという。担架ではなく、車椅子で、上着を着せられ、毛布を掛けられた。

 その途中で、彼女は、来た道を逆に見た。車は、山を上がった。トンネルの前に、白い天幕がいくつも並んでいた。装甲車が二台。自衛隊の隊員が、彼女の車椅子が通るとき、道を空けて、視線を落とした。

 そして、御隧道(みずいどう)の奥に、あの監視所があった。アマネは、そこを通るとき、意識して周囲を見た。

    *

 観測所は、狭かった。机が三つ。壁に古い当直表。給湯ポットが一つ。カレンダー。誰かの湯呑み。パイプ椅子。壁際に、金属の書架があり、そこに黒い表紙の帳面が、びっしりと並んでいた。

 百年ぶんの日誌だった。地上の側の。

 アマネの目は、その背表紙に吸い寄せられた。背には年号が入っている。二〇一二、二〇一三、二〇一四……。ひとつ抜けもなく、今年の分まで並んでいた。

 彼女は、押していた職員に頼んだ。

「あの、一冊、見せていただけませぬか」

 職員は困った顔をしたが、上の者に確認して、一冊を持ってきてくれた。手袋をした手で、頁をめくって見せてくれた。

  六月十二日 晴 風なし

  〇八〇〇 施錠確認 異常なし

  一二〇〇 観測孔目視 異常なし

  一六〇〇 観測孔目視 異常なし

  二〇〇〇 施錠確認 異常なし

  六月十三日 曇

  〇八〇〇 施錠確認 異常なし

  一二〇〇 観測孔目視 異常なし

 異常なし。異常なし。異常なし。

 アマネは、その頁を、じっと見ていた。

(異常なし、異常なし……なぜ異常なしとばかり……)

(この御隧道に向けて、こちらは光を出していたはずなのに)

(櫓(やぐら)を組んで、油の火を並べて、覆いをかけて、長く三つ、短く三つ)

(毎日、日の入りから一刻。三十年)

(それを、異常なし、って)

 喉の奥が、詰まった。

「……あの」

「はい?」

 自分の声が、思ったより高く出た。彼女は一度、息を吸い直した。

「これは、この場所から見て、地下に見える世界の明かりを、記録したものでしょうか……?」

「そうですね。目視で、変化がないかを確認して」

「変化」

「ええ。灯りが増えたとか、減ったとか」

 アマネは、次の頁をめくってもらった。

  異常なし

「あの」

 彼女の声が、少しだけ変わった。

「灯りが、決まった間で明滅していたことは、記録にございませんか」

 職員が、目を瞬いた。

「明滅?」

「はい。長く三つ、短く三つ、長く三つ。次に、間を置いて、また同じもの」

「……いえ、ちょっと、私にはわかりかねますが」

「三十年でございます」

 アマネは、静かに言った。

「我らは、三十年、毎日、日の入りから一刻のあいだ、大瀑布のそばの丘で、灯りを振っておりました。組んだ櫓の上に、油の火を並べ、順に覆いをかけて、長短で組みました。祖父の代で始めて、その子が引き継ぎ、その子が引き継ぎました」

 職員が、口を開けた。

「我らには電波が届きませぬ。ゆえに、我らの通信は光と線でございます。窓があって、向こうに人がいれば、まず光を振る。それが我らの作法にございます」

 彼女は、帳面の頁を見た。

  異常なし

「一度も、返らなかったのでございます」

 彼女は、顔を上げなかった。

「返せなかったのではございませぬ。灯りを一つ、覆って、外して、覆えばよいのです。子どもにもできます。……返す気が、なかったのでございましょう」

 職員は、何も言えなかった。その職員は、今年配属されたばかりの二十代だった。彼のせいではない。それはアマネにもわかっていた。わかっていて、それでも、彼女は言葉を止められなかった。

「ここには、机が三つございます。人がおり、湯があり、灯りがあり、紙があり、書架がございます。……これだけの物と人を百年置いておいて、光を一度も振らなかったのは、なぜでございますか」

「……」

「テレビジョンというものも、伺いました。画を映す板でございましょう。あの穴の縁に一台置いて、こちらへ向けておくだけで、我らは百年、地上を見ておりました」

 彼女は、車椅子の肘掛けを、そっと握った。

「地上は、我らを見捨てたのではございませぬ」

 自分の兄が書いた声明を、彼女はそのまま繰り返した。

「無かったことに、なさりたかったのでございましょう」

    *

 理由を、彼女は知っている。我らの世界に、その残骸があるからだ。

 分断のとき、地下には十七名の探検者がいた。だが、地下にあったのは人間だけではなかった。掘削の試験坑。仮設の発電設備。ボーリング機材。分析用の小屋。そして、封をされた鋼の容器が、いくつも。

 その容器の表面には、地上の会社の名と、番号と、「試験品」という文字が刻まれていた。中身は、燃料だった。正確には、燃料になる前の物だった。

 地下歴の初期の記録には、それが「触れてはならぬ櫃(ひつ)」として何度も出てくる。近づいた者が数十日で死んだ記録が残っている。何が入っているのかを我らが理解したのは、ずっとあとだった。

 なぜ、そんなものが、まだ許可も下りていない空洞にあったのか。日誌の初期の巻には、その答えを知る人物の口述が残っている。桑名という名の、地上の役人だった。

 彼は分断のとき、たまたま地下にいた。そして、死ぬまでの二十年、我らの祖に対して、包み隠さず語った。

「あそこは、誰の許可もなく置ける場所だった」

 会社は、試験の実績が欲しかった。役所の一部は、その会社に場所を斡旋した実績が欲しかった。許可は、いずれ下りる。下りる前に置いておけば、下りたその日から動かせる。海の向こうから来た開発の会社は、自国では置けない物を、置ける場所を探していた。だから、書類の上には何もない場所に、物だけが先に運ばれた。

「あそこは、日本のどこにもない場所だったんだ」と、桑名はよく言ったという。

「だから、なんでも置けた」

 裂け目が生じたとき、その「なんでもない場所」に、十七人の人間と、名前のない鋼の櫃が、一緒に閉じ込められた。

 地上が記録を残さなかったのは、その櫃の書類が、初めから存在しなかったからだ。存在しない書類は、消す必要すらない。

    *

 桑名は、まともな人間だったと、日誌は評している。彼は自分の関わったことを恥じ、我らの祖に技術を教え、換気の理屈を説き、櫃には印をつけて近づくなと言い残して死んだ。彼の墓は、いまも第一水車区にある。

 問題は、彼の腰巾着だった。郡司という名の男が、桑名の随行として同じ日に地下にいた。

 この男には、恥じる心がなかった。代わりに、地上で持てなかったものが、ここでなら持てるということに、いち早く気づいた。彼は「地上に代わって統べる者」を名乗った。物の分配を握り、暦を握り、字の読める者を囲い、桑名の教えを自分の口から出すことにした。彼の王国は、彼が志半ばで死んだあとも、子と、その子へと受け継がれた。

 我らの世界の長い戦は、そこから始まった。郡司の裔(すえ)と、水車の民。暦にして幾百年。谷ごとに言葉が割れ、四千二百十一名が窒息し、それでも戦は終わらなかった。

 終わらせたのは、剣ではなかった。森戸の家から降りてきた、旋盤と、規格表と、教科書と、銅線だった。祖の物を配れる者が、正しい者となった。緩衝地帯へ入れる血が、神子と呼ばれるようになった。我らの一族が勝ったのは、強かったからではない。祖に繋がっていたからだ。

 そして──勝ったあとに、我らは気づいた。我らもまた、物を握って人を従える側になっていた。郡司の裔と、どこが違うのか。その問いに、我らは今も答えられていない。

 だから、たぶん、地上の政府が憎いのだ。同じことをしている者の顔は、鏡のように腹が立つ。

    *

 大暦。我らが地下で数えてきた年の総和を、そう呼ぶ。

 地下歴は、神殿が立ったときに一度、零に戻した。ゆえに一二〇六年でしかない。だが、その前がある。郡司の王国の年があり、水車の民の年があり、最初の十七名の年がある。すべてを足すと、三千二百余年になる。

 三千二百年。地上では、百年である。

 同じ時を、我らは三千二百年ぶん生きた。喧嘩し、殺し合い、和解し、また割れ、言葉を作り直し、作法を作り直し、そのたびに死者の名簿を作った。三千二百年ぶんの死者の名を、我らは全部、書き写して残している。

 これは自慢である。そして、この自慢が通じる相手が、地上にたった一つだけあった。

    *

 その記事を、アマネは十四のときに読んだ。祖が寄越した本の梱包に使われていた古新聞の一枚である。皺だらけで、端が欠けていた。

 慰霊祭の記事だった。御隧道の前で毎年行われる、地下に取り残された十七名のための祭。参列者の中に、皇室の名があった。そして、そのときのお言葉が、短く引用されていた。

  この国の地に、いまだ解けぬ不思議があり、

  物語の中にしかないと思われていたことが、

  現に人の身の上に起こったのだということを、

  私たちは忘れてはならないと思います。

  いつの日か、この痛ましい犠牲が解かれ、

  かの地に入った人々を迎えに行けるようにと願います。

  人はこれまで、人の住まぬ地や、遠い海を切り開いてまいりました。

  その歩みには、いつも犠牲がありました。

  けれども、技の進みに犠牲が要るのではありません。

  犠牲を生むような無謀に陥らぬために、技を進めるのだと、

  私はそう信じております。

 アマネは、この文章を丸ごと暗記している。十四のときに三日かけて覚え、十七代神子に選ばれた日に、神殿の前で暗誦した。

 なぜこの一節だけが、我らの胸に刺さったのか。

 我らの死者は三千二百年ぶんいる。そのほとんどが、無謀の結果として死んだ。換気を軽んじて死に、櫃に近づいて死に、線を張らずに言葉を割って死んだ。我らは、その名前を全部書き残してきた。この方々もまた、名前を数える側の人であった。

 数え続けるということの意味を知っている家は、地上にそう多くない。百年やそこらではなく、我らと同じように、途方もない年数を数え続けてきた家である。

 ──ゆえに、そこにだけは、我らは対等の礼を尽くす。上でも下でもない。長く数えてきた者どうしの、同じ高さの礼を。

 これは、兄の考えでもある。兄は政府には何ひとつ譲る気がないが、あの家についてだけは、「あそこには膝を折る」と言っている。理由を訊いたとき、兄はこう答えた。

「向こうも、俺たちの名簿を、たぶん、笑わぬ」

    *

 移送先の病室には、窓がなかった。廊下の突き当たりにひとつあるきりで、そこまでは行かせてもらえない。青は、四日で取り上げられた。

 だが、机があり、椅子があり、紙と鉛筆が置いてあった。

 アマネは、点滴の管を腕に挿したまま、机に向かい、日誌を書きはじめた。

  地上歴二一〇七年 十一月

  地上国、丁重なり。

  薬、効く。熱、四日にて下がる。

  管も布も一度きりにて捨つ。豊かなり。

  人、皆、目線を下げて話す。作法あり。廃れてはおらぬ。

 そこまで書いて、彼女は一度、鉛筆を置いた。

  なれど、百年、光を振り返す者は無かりき。

  豊かさとは、返事をせずに済むことなり。

 書いてから、彼女は少し考えて、その一行を線で消した。消して、こう書き直した。

  豊かさとは、返事をせずに済むことなり。

  ──されど、返事をした者が、一人だけあり。

    *

 引き出しに、線香花火の箱がしまってある。濡らすなと言われたので、上着の内側に入れて運んできた。担架に乗せられるときも、着替えさせられるときも、彼女はそれだけは手放さなかった。

 アマネは、箱を出して、蓋を開けた。細い紙縒(こよ)りが、二十本。火薬の匂いが、かすかにした。彼女は、そのうちの一本を指でつまみ、しばらく見つめた。

(これ、どうやって持つんだろう)

(下に垂らすのかな。それとも、こう、上に?)

(……聞けばいいか。聞けば、教えてくれるんだから)

 窓のない部屋で、天井の蛍光灯の下で、二十五の神子は、八十五歳の町工場のおやじの顔を思い出して、少し笑った。

「祖よ」

 小さく、口の中で言った。

「わたくしは、まだ、死んでおりませぬ」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。