雨しか降らない地下世界 作:向島
ハガネが戻ってきたのは、約束の四日目の夜だった。
台所の床下収納の蓋が、内側から持ち上がる音で、光一は目を覚ました。炬燵(こたつ)で寝ていた。テレビはつけっぱなしで、深夜のニュースがアマネの話をしていた。
蓋から、大きな手が出てきた。
「あ、あの、いま、開けます」
光一が駆け寄ると、ハガネはすでに自力で上がってきていた。そして、そのまま台所の床に、どすんと座り込んだ。
「……水を」
顔が白かった。唇に色がない。光一は麦茶をコップに注いで渡した。ハガネは三杯飲み、四杯目でようやく息をついた。
「大丈夫ですか」
「妹を担いだ分です」
彼は、自分の手のひらを見ていた。指先が細かく震えている。
「私一人で裂け目を抜けるのは、造作もない。息が少し上がる程度です。……人を連れて抜けると、こうなる」
「連れて抜けると」
「妹を担いで、二度抜けました。塔の頂と、監視所の裂け目と。その前に、部下を七人、手を引いて渡らせております」
ハガネは、コップを置いた。
「七人ぶんと、妹一人ぶんです。妹一人のほうが、重かった」
*
「あの、それって」
光一は、正座したまま訊いた。
「重い、というのは、体重の話じゃないですよね」
「違います」
「じゃあ、何が」
「わかりませぬ」
ハガネは、はっきり言った。
「妹も知らぬ。医局も知らぬ。神殿の巻物にも書いておらぬ。ただ、代々そうだった、としか」
彼は、指を三本立てた。
「わかっているのは、これだけです。ひとつ、私のような者は、一人でなら抜けられる。ふたつ、私のような者に手を引かれれば、抜けられぬ者も渡れる。みっつ、渡らせるほうが、必ず削れる」
「アマネさんは」
「妹は、一人では抜けられませぬ」
光一は、瞬きをした。
「え。でも、あの人、いつも一人で、あの部屋に」
「送り手がおります」
ハガネは言った。
「神殿の者が六人、妹の腕と背に手をかけて、境まで押す。押す者は、渡れませぬ。押すだけです。それでも妹は渡れる。……六人がかりで、一人を向こう側へ押し出すのです。あれは儀式ではない。実務です」
光一は、口を開けた。想像した。あの円いドームの向こう側で、六人の大人が若い娘の背に手を当てて、押している。押されて、彼女が「こちら側」へ出てくる。何百年も、代々の神子が、そうやって押し出されてきた。
「……知りませんでした」
「訊かれませんでしたので」
ハガネは短く言った。
「あの日、あなたは妹の手を引いて、地上へ上げようとなさいましたな」
「はい」
「あれは、無理です。あなたはご自分が渡れぬ。渡れぬ者の手は、引く力になりませぬ。……六人の送り手も、あなたと同じです。あれは向こう側から押しているだけで、境そのものは、妹自身が越えている」
「じゃあ、上に行くには」
「私が担ぐしかありませぬ」
ハガネは、疲れた目を上げた。
「ですから、担ぎました」
*
「もうひとつ、妙なことがございます」
麦茶をもう一杯飲んでから、ハガネは言った。
「妹を渡したあと、私は監視所を見張れる位置に三日おりました。地上の暦で三日です。日の出と日の入りを数えました。腹の減る間隔も数えました」
「はい」
「地下へ戻って、記録と突き合わせました。私が留守にした三日のあいだ、地下でも、およそ三日しか進んでおりませんでした」
光一は、ポットを持ったまま止まった。
「……三日?」
「三日です」
「いつもは」
「決まっておりませぬ。ひと月のこともあれば、十年のこともある。父の代には、三日で四十年進んだ記録がございます。それが──ここ半月ばかり、揃っている」
台所の時計が、かちり、と鳴った。
「なんで、ですか」
「わかりませぬ」
ハガネは言った。
「妹に訊きました。知らぬと申します。医局に測らせております。まだ何も出ておりませぬ。……あなたは、心当たりがおありか」
光一は、しばらく考えて、首を横に振った。
「僕、その、父も僕も、歳を取るのが遅いんです。理由は知りません。緩衝地帯に出入りしてるせいだって父は言ってましたけど、それも当てずっぽうです。……すみません、答えになってないですね」
「よいのです」
ハガネは、少し笑った。
「三千二百年やって、我らも同じところにおります。空間の裂け目も、時の食い違いも、まだ誰も説明できておらぬ。説明できぬから、我らはあれを神と呼ぶことにしたのです」
彼は、天井を見上げた。
「呼び名をつけると、わからぬものが、わかった気になる。便利な仕組みです」
*
──だが、と、ハガネは内心で思っていた。言葉にはしなかった。
私は、いつ揃いはじめたかを知っている。
塔が監視所の裂け目に届いた日ではない。あの日は、確かに橋がかかった。石と鉄の橋であり、同時に、地上と地下を一つの話の中に置く橋でもあった。だが、暦の乱れはあの日には収まらなかった。
揃いはじめたのは、妹があの丸い部屋で、この男に会ってからだ。正確には、妹があの男に頭を下げ、あの男が土間に座り込んで「すみません」と言った、あのあたりからだ。
私は妹の記録を読んでいる。日付も、時刻も、押し出された回数も。医局が測った暦の乱れの表も見ている。二つの表を重ねると、線が寄っている。
理屈は、まるでわからぬ。
ただ、地下で長く暮らした一族には、血の遠い者どうしが引き合う感覚がある。谷が違い、言葉が割れても、同じ乏しさを三千年かけて分け合った者は、顔を見た瞬間にわかる。同族の匂いというやつだ。妹とこの男のあいだにあるのは、それではない。それより、もっと強い。
私の目には、二人は、すでに何かで繋がっている。十歳の落書きが四百年を渡ったことも、その一枚のために塔が建ったことも、そこにあるのは同族の情ではない。
……できれば、と、ハガネは思う。
できれば、あの二人には結ばれてほしい。政略ではない。血の計算でもない。もしそれが暦を揃えているのなら、などという理屈は、後付けでよい。
ただ、私の妹が、三千二百年ぶんの死者の名簿を背負ったまま、線香花火の箱を抱いて笑ったのを、私は見てしまった。あれを、もう一度見たい。それだけだ。
*
ハガネは、その夜、光一の家に泊まった。風呂に入れると、湯船で二十分ほど動かなかった。上がってきて、光一が出した父の古い浴衣を着て、炬燵に足を入れた。大男が炬燵に入ると、部屋が急に狭くなった。
「……これは、良いものですな」
「炬燵ですか」
「暖かい」
「あの、地下って、寒いんですか」
「寒くはありませぬ。年中同じです。それが良くない」
ハガネは、湯呑みを持った。
「同じすぎるのです。何もかも」
*
「あなたは、地下を、どうお思いか」
「え」
「日誌を読んでおられよう。無限の広さがあり、鉱脈が尽きぬ。定盤の平面は二十ナノメートル。塔は一キロを超える。……羨ましいか」
光一は、正直に頷いた。
「あの、はい。すごいと思ってます」
ハガネは、鼻から息を吐いた。
「不便です」
「え」
「あそこは、途方もなく不便です」
彼は、湯呑みを置いた。
「野菜の工場はあります。三十六区に、大きなものが四つ。棚を二十段に組み、光を当て、水を回して、葉物と豆と芋を作っている。乳もある。牛がおります。……初祖が、凍らせた種を寄越したのです。何十年もかけて増やしました」
「父が」
「あなたの家の下から、牛が来た。我らの世界の牛は、全部、あの部屋を通っております」
光一は、その光景を想像して、少し眩暈(めまい)がした。
「だが、足りませぬ」
ハガネは続けた。
「水は、いくらでもある。雨が降り続けている。落として、濾(こ)せば、いくらでも使える。……足りぬのは、光と、養分です」
「光は、電気で」
「電気はあります。大瀑布と、それから──」
彼は、そこで一度、光一を見た。
「小さな炉を作りました。三年前です。地上でいう、小型の原子炉というものでしょう」
光一は、麦茶を吹きそうになった。
「つ、作ったんですか」
「材はいくらでもありました。桑名の残した櫃(ひつ)と、我らの鉱脈と、あなたの家から降りてきた本と。……止めておくべきだったかもしれませぬが、止められなかった。動いております」
「……」
「それでも、足りぬのです」
ハガネは、指を三本立てた。
「ひとつ。光の量が足りぬ。棚に当てる光を、地上の日ざしと同じだけ出そうとすれば、区ひとつで町ひとつ分の電気が要る。だから我らは、光を削り、育ちの遅い作物を選ぶ。葉が薄い。味が薄い。三千年やって、まだ薄い」
「ふたつ」
彼は指を折った。
「養分が足りぬ。窒素は雷が要る。地下に雷は無い。石から採る道はあるが、量が出ぬ。糞尿を回してはおりますが、回すたびに減る。海が無いのです。流れ込んでくるものが、何も無い」
「……ああ」
光一は、思わず声を漏らした。地上の土は、山が崩れ、川が運び、海から鳥が運び、風が塵を運んで、勝手に養分が足されていく。あれは、地上が「開いている」からだ。地下は、閉じている。無限に広いのに、閉じている。
「みっつ」
ハガネは、三本目の指を折った。
「広すぎる」
*
「これが、いちばん厄介です」
彼は、炬燵の天板に指で線を引いた。
「区と区のあいだは、遠い。歩けば十日、二十日かかる。だから軌道を敷きました。だが、我らの車は、軽い」
「電池ですか」
「電気です。線を引いて、車に流す。燃やす車は使えませぬ」
「ああ……ガスが」
「そうです。天井が見えぬから、いくらでも煙は上がると思われるでしょう。上がりませぬ。溜まるのです。どこに溜まるかがわからぬ。風が読めぬ。三千年住んで、まだ気流の図が描けておりませぬ」
ハガネは、天板の上に大きな円を描いた。
「それが、我らの一切を縛る。……たとえば、汚れです。炉の灰、工場の排水、鉱山の泥。地上では、どこそこの川から何里下流までを見張れ、と決められるのでしょう」
「……はい」
「我らは、決められませぬ」
彼は円の中に、小さな点を打った。
「水がどこへ流れるか、わからぬ。地下水の脈が、どこまで繋がっているか、測りきれておらぬ。無限に広いということは、下流が無限にあるということです」
光一は、はっとした。
「だから」
「取れるだけ取ります。安全のための間を、馬鹿みたいに広く取る。ひとつの工場のために、その百倍の広さを空けておく。使わぬ土地を、ただ空けておくのです」
ハガネは、円をぐしゃりと手で撫でた。
「だから、なにもかもが遠くなる。遠いから、線が要る。線が要るから、銅が要る。銅は掘れますが、引くのは人の手です。人は足りている──四千万おります。だが、遠い。ただ、遠いのです」
彼は、湯呑みの底を見た。
「無限の広さというのはな、森戸どの。豊かさではない。不便です」
*
その夜、ハガネは寝る前に、上着の内ポケットから小さな帳面を出した。
「これをお見せしたかった」
開かれた頁には、鉛筆の細かい絵が並んでいた。草だった。葉の形が一つ一つ丁寧に写生してあり、脇に寸法と、生えていた場所と、日付が書き込まれていた。
「これは」
「監視所から、この家まで歩きました。夜だけ動いて、四日かかった。……その途中で、道の脇の溝を見ました」
ハガネの声が、少し変わっていた。
「一歩ぶんの幅の中に、二十二種ありました」
光一は、その頁を見つめた。
「二十二種です」
ハガネは、もう一度言った。
「誰も植えておらぬ。誰も水をやっておらぬ。誰の役にも立っておらぬ。踏まれて、刈られて、捨てられている草が、一歩ぶんに二十二種」
彼は、帳面を閉じた。
「我らの世界には、草木は六十三種しかおりませぬ。使えるものは四十一種です。三千年かけて、それだけです」
炬燵の中で、彼の膝が動いた。
「軽トラというのですか。あの車が、道を走っておりました。夜中に一台、私の横を通った。あれは燃やして走るのでしょう。煙を出して、平気で走る。空へ捨てられるからです」
「……はい」
「羨ましいと思いました」
ハガネは、天井を見た。
「羨ましいと思って、それから、腹が立ちました。腹が立って、それから、また羨ましくなりました」
*
翌朝、ハガネは味噌汁を三杯飲んだ。
「これは、何です」
「味噌汁です。豆と、麹(こうじ)と、塩です」
「麹」
「菌です」
ハガネの箸が止まった。そして、彼は少し笑った。
「なるほど。あなたがたも、菌を飼っておられるのか」
「……はい」
「妹は、菌にやられました」
「……はい」
短い沈黙があった。
「森戸どの。話がある、と申しました。地下の話です」
そして彼は、一時間かけて、桑名という役人のこと、名前のない鋼の櫃のこと、書類が初めから存在しなかったこと、郡司という腰巾着の王国のこと、それを潰すのに森戸家の旋盤と規格表と教科書が使われたことを、順に話した。
光一は、最後まで黙って聞いていた。聞き終わって、彼は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく動けなかった。
「……あの。じゃあ、うちが渡した物で、戦争が」
「終わりました」
「始まったんじゃなくて」
「終わったのです」
ハガネは、はっきり言った。
「ですが、勝った側が我らです。勝ったあと、我らは物を握った。物を握って人を従える形は、郡司の王国と、そう変わりませぬ。……だから、我らは地上の政府が嫌いなのです。同じ顔をしているからです」
光一は、みぞおちを押さえた。痛かった。百年、床下に物を置いてきただけの男が、四千万人の政治史の当事者だったと知らされた痛みだった。
*
「あの」
光一は、話が途切れたところで、ずっと気になっていたことを訊いた。
「どうやって、ここまで歩いてこられたんですか」
「歩きました」
「いや、あの、トンネルの前、自衛隊がいるんですよね。装甲車とか、たぶん、暗視装置とか」
「おりました」
「見つからなかったんですか」
「三度、見つかりました」
光一は、湯呑みを取り落としそうになった。
「三度とも、私のほうが速かった」
ハガネは、なんでもないことのように言った。
「……速い、というのは」
「こうです」
彼は、炬燵の上に置いてあった爪楊枝の筒を、指ではじいた。筒が倒れ、爪楊枝が散った。光一が「あ」と声を出す前に、散った爪楊枝は全部、ハガネの掌の上にあった。光一は、口を開けたまま、その掌を見た。
「速いのではありませぬ」
ハガネは、爪楊枝を筒に戻しながら言った。
「遅いのです。私の内側で、外が遅くなる。あなたの『あ』という声は、私には、鐘の音のように長く聞こえました」
「……なんですか、それ」
「時に対する耐性、とでも申しましょうか」
彼は、少し目を伏せた。
「言うほど大したものではありませぬ。……ただ、こわかっただけです」
*
「地下には、あの丸い部屋の跡が、七つあります」
ハガネは言った。
「あなたの家の下と同じものです。北の贈り主、西の贈り主、南の贈り主。……百年前に閉じたきり、空っぽの丸い穴として残っております。子どもの遊び場になっておる」
「七つも」
「七つです。もう、どれも死んでおります」
彼は、湯呑みを回した。
「それとは別に、ひとつだけ、生きた穴がある」
「生きた」
「時の流れが違う洞窟です。我らは龍穴(りゅうけつ)と呼んでおります。地下のどこにも、あんな場所は他に無い」
「どう違うんですか」
「速いのです」
ハガネは言った。
「外の一日が、中では十日になる。中で十日ぶん腹が減り、十日ぶん髭が伸び、十日ぶん喉が渇く。外では一日しか経っておらぬ」
光一は、その計算をして、寒気を覚えた。
「……それ、閉じ込められたら」
「死にます」
彼は短く言った。
「餓えて死にます。三日も塞げば、中では一月です」
「……」
「私は、十四のときに、そこへ放り込まれました」
*
光一は、湯呑みを置いた。
「郡司の裔(すえ)の残党です。父を討ったあと、私を探しに来た。……子どもを刃で殺すのは、あいつらでも寝覚めが悪かったのでしょう。縄で縛って、龍穴に投げ込んで、口を岩で塞いだ」
ハガネの声は、平坦だった。
「三日置けば骸(むくろ)になる。手も汚れぬ。血も出ぬ。誰が殺したかもわからぬ。……よく出来た殺し方です」
「……」
「入って、しばらくは、何ともありませなんだ。暗くもなく、明るくもない。風もない。ただ、静かでした」
彼は、自分の腕をさすった。
「異変は、じわじわ来ました」
「じわじわ」
「染みてくるのです」
ハガネは、言葉を探すように、湯呑みの縁を指でなぞった。
「押し寄せてくるのではない。ぶつかってくるのでもない。……布の端を水に浸けておくと、水が上がってくるでしょう。あれです。爪の先から、髪の先から、龍穴の速さが、私の中に染み上がってきた」
「……」
「腹が、急に減った。喉が乾いた。心の臓が、走りはじめた。爪が伸びる感じがした。私は、自分が『中の時間』に染め替えられていくのがわかりました」
彼は、そこで初めて、少し息を吸った。
「あれが、こわかった」
「……はい」
「痛みではありませぬ。苦しみでもない。ただ、自分が自分でなくなっていく。私の中身が、外の色に染まっていく。じきに全部染まって、私は十日ぶん、二十日ぶんと減っていって、干からびて死ぬ。それが、はっきりわかりました」
ハガネは、湯呑みを両手で包んだ。
「──それが、たまらなくこわくて」
「……」
「縛られたまま、私は、こわがっておりました。それだけです。押し返そうとしたのでもない。抗おうとしたのでもない。ただ、こわくてこわくて、身体の中を、じっと見ておりました」
彼は、少しだけ苦笑した。
「情けない話です。十四の子どもが、暗い穴で、震えていただけです」
「……それで、どうなったんですか」
「染みてこなくなりました」
ハガネは言った。
「ある一点で、止まった。皮のあたりで止まって、それより内へ入ってこなくなった。……理屈は、いまだにわかりませぬ。こわがっていたら止まった、としか言えぬ」
*
「腹は減りました。喉も乾いた。だが、それは一日ぶんの減り方でした。中で寝て、起きて、また寝た。四度寝ました」
「四日」
「外でも、四日でした」
ハガネは頷いた。
「五日目に、味方が岩をどけました。私は歩いて出ました。げっそりしておりましたが、四日ぶんの痩せ方です」
「……相手は」
「腰を抜かしておりました」
彼は、初めて、少しだけ笑った。
「あいつらの見立てでは、そこには四十日ぶんの骸があるはずでした。私は生きて出た。……その日から、あいつらは私を『時が効かぬ』と呼ぶようになった。ありがたい話です。戦の前に、名前だけで半分勝てる」
「……それから、その、速くなったり遅くなったりが」
「できるようになりました」
ハガネは、爪楊枝の筒を指で弾いて、また掌に集めた。
「自分の内側の時を、少しだけ動かせる。速める。遅らせる。長くは保ちませぬ。使えば、あとで倍疲れる。……ですが、刃や弾が飛んでくるあいだくらいなら、じゅうぶんに長い」
彼は、筒を炬燵の上に戻した。
「あのときの、こわがり方を思い出すだけです。私は、こわがるのが上手いらしい」
光一は、その言葉に、なんと返していいかわからなかった。しばらくして、彼はぽつりと言った。
「……僕も、こわがるのは、得意です」
ハガネは、光一の顔を見た。そして、ふ、と息を漏らした。
「そうでしょうな」
*
「あの、じゃあ」
光一は、恐る恐る訊いた。
「あなた、負けないんですか」
「戦車で囲まれれば負けます」
ハガネは即答した。
「広い範囲を一度に吹き飛ばされても負ける。動く先が全部潰れていれば、速さは意味を持たぬ。……逆に申せば、それ以外では、私は負けませぬ」
「……銃は」
「これです」
彼は、土間の隅に畳んである灰色の外套を指した。
「我らの織りです。地上の防弾のものより、たぶん、だいぶ強い。糸を紡ぐのに二十年かかる。染めぬ。切らぬ。継がぬ。一着を三代で着ます」
「対戦車ライフルとか」
「弾は止まるでしょう」
ハガネは言った。
「止まりますが、私は死にます。中身が潰れる。……布は人を守りますが、衝撃は守りませぬ」
彼は、そこで初めて、少しだけ苦い顔をした。
「我らの技は、精(くわ)しい。だが、精(くわ)しいだけでは、人は死にます」
*
玄関で靴を履きながら──ハガネは父の古いゴム長を履いていた──彼は、思い出したように言った。
「そうだ。頼みがございます」
「はい」
「無人機の技術がほしい」
光一の背中が、しゃんと伸びた。
「む、無人、機」
「ドローンというのでしょう。地上の役所と会社の人間を追います」
「追う?」
「妹を渡した以上、地上が妹をどう扱うかを見張らねばなりませぬ。役人の言うことは信じられぬ。動きを見る。誰が誰と会っているかを見る」
ハガネは、指を折りはじめた。
「制御の理屈。通信の理屈。電池。それから、群れで動かす仕組み。地下では線の無いところは飛ばせぬゆえ、線無しで飛ばす方法を、どうにか」
「あ、あの、電波は地下だと」
「地上でやります」
「ちょっと待って、ちょっと……。地上では犯罪になるし、ドローンなんて、逆に防犯カメラで撮影されますよ、レーダーとかもありますし」
「たしかに、その危惧はある。だが、それを確かめねばなりませぬ」
ハガネは、ゴム長の紐を締めながら、なんでもないことのように続けた。
「一応……あの御隧道(みずいどう)からここまでの間に、警察犬とやらも赤外線とやらも反応していないようですからな。無人機にも応用できるなら……」
光一は、嫌な予感というよりもはや確信に近いものを感じていた。
「見つからないような技術、あるん、です、ね?」
ハガネが笑みを浮かべ、光一の腹は冷えたような気がした。
*
光一は、玄関の三和土(たたき)に立ったまま、両手を握りしめた。そして、深く息を吸った。
「……渡します」
ハガネの眉が上がった。
「ただし、条件があります」
「言ってください」
「人を落とすのに使わないでください。写真を撮るだけです。撮ったもので、誰かを脅すのもなしです。それと、日誌に、ちゃんと書いてください。『祖は、人を害する用に使うことを禁じた』って」
「承知しました」
「それと」
光一は、顔を上げた。
「これを渡す以上は──あなた方が、身を守るために使ってください」
ハガネの動きが、止まった。
「あの、僕、たぶん、まともな道具を渡せる最後の人間なんです。だから、見張るとか、逃げるとか、危ないのが来るのを早く知るとか、そういうのに、ちゃんと使ってください。使い方を出し惜しみして、そのせいであなた方が死んだら、僕は……嫌です」
三和土の上に、しばらく沈黙が落ちた。やがて、ハガネがゆっくりと振り返った。その目は、さっきまでとは別の目だった。
「森戸どの」
「はい」
「あなたは、わかって仰っておられるのか」
「……何をですか」
「時代は変わります」
ハガネは、静かに言った。
「暦の流れも変わる。三日で四十年進むこともある。四十年もあれば、我らの一族が主流でなくなることは、じゅうぶんにあり得る。妹が死に、私が死に、私の名を憎む者が神殿を握ることもある」
彼は、一歩、光一に近づいた。
「そのとき、我らを守るために渡された道具は、我らの子孫の敵の手にある。それは、あなたの家の床下を探しに来る。あなたに、危害が及ぶかもしれませぬ」
光一の顔を、覗き込むようにした。
「それを、わかっておられるのか」
*
光一は、答えるまでに、三秒もかからなかった。
「はい」
「即答なさるな」
「いえ、あの、考えてます。……考えたうえで、はい、です」
彼は、玄関の柱に手をついた。
「僕が死ぬなら、しょうがないです」
「しょうがない、で済む話ではありませぬ」
「済まないんですけど」
光一は、少し困ったように笑った。
「僕、子どもがいないんですけど。もし、目の前で、自分の子どもと、よその子が溺れてて、片方しか助けられないなら──たぶん、僕、自分の子を助けると思うんです。あとで、よその親御さんに恨まれても」
彼は、自分の胸のあたりに手を当てた。
「そういう人間なんですよ。ずるいんです。全部を助ける気なんて、最初からないんです」
「……」
「アマネさんと、あなたと、あの日誌を書いてる人たちは、僕の側です。百年、うちがやってきたことなので。だから、あの人たちを守る道具を出し惜しみして、あとで自分が安全でしたっていうのは、僕には、無理です」
言い終わって、光一は「あ」と小さく言った。
「すみません、偉そうでしたね」
ハガネは、答えなかった。
光一は、自分の腹に手を当てて、少し不思議そうな顔をした。痛くなかった。さっき歴史の話を聞いたときには、あんなに絞られたのに、今は何ともなかった。
彼は、その理由を、なんとなく知っていた。
小さいころから、彼は萎縮する子どもだった。父は厳しく、村は狭く、学校では上履きを隠された。だから、自分のことになると、彼はいつまでも決められない。役所に行けない。断れない。三回飲み込んで、四回目に語尾を濁す。
だが、守るものがはっきりしたときだけは、話が早い。十歳の夏に、父の留守を狙って床下に降りたときも、そうだった。
*
ハガネは、長いこと黙っていた。それから、ゴム長のまま三和土に膝をつき、額が地につくほど深く頭を下げた。
「やめてください、ほんとに」
「森戸どの」
「はい」
「妹が治ったら、その、地上で遊ばせてやってくだされ」
顔を上げたハガネは、妙に言いにくそうにしていた。
「線香花火とやらを、ずっと箱ごと抱えておるのです。担いで運ぶあいだ、私の背中で、あれだけは絶対に手放さなかった」
「……はい」
「頼みます」
そう言って、ハガネは立ち上がり、床下収納の蓋を開け、梯子に足をかけた。蓋が閉まる直前、彼は一度だけ振り返った。
──やはり、この男でよい、と思った。
暦が揃いはじめた理由は、まだ誰にもわからぬ。医局も、神殿も、この男自身も、何ひとつ答えを持っておらぬ。だが、もし、二つの世界が近づいているのだとしたら。その糸を張っているのは、塔でも、裂け目でも、四千万の民でもない。床下に降りるこの男と、押し出されて上がってくるあの娘の、二人だ。
血の遠い同族が引き合う感覚など、比べものにならぬ。
蓋が、静かに閉じた。
*
台所に一人残された光一は、しばらく蓋を見ていた。それから、はっと顔を上げた。
(ドローンの、制御……あれは、たぶん、飛行制御の教科書がいる)
(電池は、リチウムは向こうで作れるのか。作れないな。電池ごと運ぶのか。何個だ)
(群制御って、なんだっけ)
(あと、法律。航空法。改正されてたな、確か……人口集中地区は許可が要る)
(違う。まず、あの人たちに、撮っちゃいけない場所を教えなきゃ)
(というか、あの人たち、絶対、人の家の上を平気で飛ばすぞ)
(あ、だめだ、その前に、免許。無人航空機の技能証明。……取れるわけないだろ、あの人)
(僕が取るのか?)
(八十五で?)
胃が、ぎゅうう、と鳴った。
光一は台所にしゃがみ込み、胃薬の瓶を取り、二錠出し、少し考えて、三錠にした。水で流し込んで、天井を見上げた。
天井があるということは、なんてありがたいことだろうと、彼は初めて思った。上に何かがある。それだけで、どれだけ安心か。
そして彼は立ち上がり、軍手をはめて、鉄工所へ向かった。考えなければならないことが、多すぎた。