ビノとシトギ ──異世界異食冒険譚── 作:プリン定食
目が覚めたら、暗かった。
──え……?
薄暗いだとかそんな段階ではない、完全な闇。一瞬、どきりとした。
深夜に目覚めてしまったのだろうか。寝つきは良い方だと思っていたが。
(今何時だ……?)
スマートフォン。現代人らしくとっさに伸ばした手は虚しく空を切った。
(ていうか、ライトあったはず……充電切れたのか……?)
暗所恐怖症というほどでもないが、目覚めた時に真っ暗闇だと少し心臓に悪い。だから、小型のルームライトを枕元に置くようにしていた。触るだけで明度を調整できるタイプのものだ。
次に、それを探して枕元に手を伸ばした。
スマートフォンは握ったまま眠ってしまうこともあり、寝相のせいで、朝目覚めた時に手元に無いなんてことは時たまあったが。コンセントで繋がれたルームライトは必ず同じ場所にあるはずだ。
しかし、それも手の届く範囲に見当たらない。背筋が冷たくなる感覚がした。
(落ち着け……昨日の俺は何してた?)
ルーティン化された日常の顛末を、すぐさま仔細に思い返すことは難しい。
けれど、少なくとも仕事を終えてアパートに帰ってきたことは思い出せた。家の鍵がなかなか見つからず、無くしたかも、と扉の前で焦った記憶が取っ掛かりになった。
(夕飯の内容なんかはあんまり思い出せないけど……まあ、どうせいつも通り、スーパーの値引き弁当だろ……)
(つまり、昨日の俺の行動に、特に変なところはなかったと、……)
ならば、この状況は何なのだろう。疑問は、そこに立ち返ってきた。
パッと頭に浮かんだのは、
(……まさか……犯罪に巻き込まれた?)
眠っている間に何者かに拉致されて、知らない場所で目が覚めた。そんな可能性だ。
(い、いやいや……アラサーの貧乏サラリーマン攫って何のメリットがあるんだよ……実家にも大して金ないし……)
(金目当てじゃなかったとしても、こんな萎びたジャガイモみたいな男を選ぶ理由ないだろ……)
そこまで考えて、「でも、この場所が自宅ではない可能性が高いのは事実だ」と思い直す。
どうしたものか。
いきなり行き詰まってしまった。しかし、辺りを包んでいる暗闇はあまりに濃いせいか、目が慣れてくる気もしない。この状況で立ったり歩いたりするのは危険すぎる。そう感じていた。
少し考えて、
(とりあえず、何か叫んでみるか……?)
叫びを聞いて、無関係の通行人が通報してくれれば万々歳だ。けれど、万が一下手人に聞き咎められたとしても、現状の把握に少しでも繋がればそれで構わない。
覚悟のための時間はそれほど必要なかった。深く息を吸い込んで、
──誰か居ませんかぁ!?
確かに叫んだ“つもり”だった。
声を出した感覚はあった。けれど、唇から漏れ出したのは細い息だけだった。
それを、空気の反響の無さですぐに悟った。とっさに喉を押さえる。
(声が出ない!?)
喋ったつもりが声が出せないなんて、学生時代にひどい喉風邪を引いた時以来だった。何度繰り返してみても、やはり声は出ない。
(何かの病気なのか……? さっきからずっと辺りが暗すぎるし……こんなに目が慣れないなんてことある……?)
喉に触れていた手を目元に伸ばして。ふと、違和感に気づく。
(……ん? 俺、目瞑ってる……?)
いくらなぞっても、粘膜や眼球に触れている感覚がない。薄い瞼と、睫毛の感触だけがある。
目覚めたら自然と瞼は開くものだと思っていたが、閉じていたならいつまでも暗いことに納得はいく。何となく、指先で瞼を持ち上げようとして。
(えっ、瞼、開かない……?)
上瞼と下瞼が糊で接着されてしまったかのようだった。痛みを覚えるまで引っ張ってもびくともしない。下瞼が引き攣れるだけだ。
(……というか、これ、……もしかしてだけど、目、死んでないか?)
鼻先を触った時と、瞼越しに瞳を触った時では、弾力に違いはなくとも感じ方が違う。鼻を強く押しても痛みや違和感は少ないが、目は押せば痛いし、違和感が残る。眼球は繊細な感覚器官だが、鼻に入っているのはただの軟骨だからだ。
しかし、今はどちらも似たような触り心地、似たような感覚だ。瞼の下に収まっているはずの眼球が、その役割を果たせる状態に無い。そう思わざるを得なかった。
自分の身体は一体、どうなってしまったのか。恐怖と困惑の中、
「……ッ!」
何かが肩に当たって、意識が強制的に引き戻された。痛みは感じなかった。冷ややかな流体──高いところから落ちてきた水滴だ、と反射的に思った。
(雨漏り……? 違う、)
起き上がって、鼻を鳴らす。先ほどまでは意識していなかったが、湿った土の匂いがした。
──ここ、外……?
ぴちゃん、とまたどこかで滴が跳ねる音が聞こえた。
(今気づいたけど、床が完全に地面、というか、岩肌だ……)
手のひらの下でざらつく地面をなでて、考える。全く違和感を抱いていなかった。
普段は柔らかい布団の中で眠っているはずで、こんな硬いところで眠っていたら身体が痛むというか、少なくともすぐに気づくはずだ。
なぜ今まで普通に受け入れていたのだろう。不思議なのは、濡れた岩盤の上に居ると気づいてなお、さほど不快感が湧き上がってこないことだった。
起き上がった状態で手を伸ばすと、壁に触れた。ただ、壁と言っても感触はやはり自然物のそれで、岩壁と呼んだ方が正しいか。
(岩に囲まれている……? 静かすぎて、周りの状態が全くわからない)
「……!?」
身体を岩壁に寄せた瞬間、手の甲が、濡れた柔らかいものに触れた。予想だにしなかった感触に、一気に鳥肌が立つ。
(っ何!? 俺の毛!?)
例えて言うなら、水分をたっぷり染み込ませた筆のような触れ心地だった。
頭髪というには、やたら外側に迫り出している。恐る恐る側頭部に手を伸ばす。
あの濡れた柔らかい感触とともに、もしゃ、と音が鳴った。
(何コレ!?)
覚えのない“何か”が両側頭部にあった。
概ね耳の辺りから上に向かって生えているそれは、根元から三叉に分かれた構造という、人間の耳としてはあり得ない造形をしていた。
それ自体は皮膚に包まれた軟骨らしき触り心地で、奇妙な感触の発生源は、その三叉の裏側を覆っている長い繊毛のようなもの。
(いやマジでな、ッ──)
ばちん。頭の奥で、スイッチを入れたような、何かが爆ぜたような感覚がした。
──わ!?!?
瞬間、黒一色だった視界に変化が起こった。
白く発光する一筋の波紋。いきなり眼下に現れたそれが、辺り一面に広がっていった。
どうやらその波紋は、今まで見えていなかった地形の表面をなぞるように進んでいるらしい。あちこちに凸凹や歪みを生みながら遠ざかっていく。そして、その波紋が通った後は、地面や岩の形状は白い輪郭となって残る。
最終的に、線画を抽出した風景写真を思わせる光景が、目の前に残った。
否、それだけではない。
(触ってない……色もわからないのに……)
(見えているものが、何なのかがわかる……!)
手の届かない位置にある岩壁が触れている壁と同じように濡れていること、目の前にある巨大な湖沼が少し微温いことまで。それこそ手に取るようにわかるのだった。
(何なんだこの能力……? 瞼が開かないことと、頭のこの謎の器官と関係あるのか……?)
そこまで考えて。
(もしかして俺、攫われたとかどうとかの以前に、もう俺じゃない? というか、普通の人間じゃない……?)
夢ならそれで構わないのだが、別に明晰夢を見る性質でもなかった。なんとなく自分の頬をつねってみた。痺れる痛みだけが残った。
異世界転生だか転移だか、そんなサブカルチャーに汚染された単語が頭をよぎる。
まさか、冴えない自身の身にそれが振りかかることを期待して生きてきた訳でもなかったが。人間の頭で想像できるようなことは、現実でも実際に起こり得る、というのが持論だった。
明らかに人間ではないモノになって、おそらく現代日本ではないだろう場所にいる。
そこまでは飲み込めた。
──……で、俺はどうすりゃいいの?
成り上がるにも追放されるにもスローライフするにも、現状は全くそれ以前の環境だ。
思わず漏れたぼやきに、応えてくれる者はまだ誰もいなかった。
どうやら、ここは洞窟の内部らしい。
風の流れを感じない、暗く湿った空間。植物らしきものは見当たらず、辺りにはただ濡れた岩肌があるばかりだ。
──ならばさしづめ、目の前のこれは地底湖というやつなのだろうか?
湖の中で、凪いだ水面を見下ろしてぼんやり考える。この地底湖の水は、やはり少し微温かった。
不思議な力で“視る”までは、こんな大きな湖がすぐそばにあることにさえ気づいていなかった。
下手に動いて水に落ちなくて良かった、と薄っぺらく思う。
(ま、この身体なら何とかなるけどな……)
視界と、もうひとつの変化。
どうもこの肉体は、水中で活動するのに適したつくりをしているらしい。
渇きを感じて、半ば誘われるように湖に沈めた身体は、文字通り水を得た魚のように自由に動いた。地面を歩くのが億劫だとは思わないが、水中の方がしなやかに動ける。そんな感覚だった。
人間の時からは考えられないほど長く潜水できるし、沈むも上がるも思うがままだ。
泳ぐのなんて学生時代以来で、当時も楽しいと思った記憶などなかったが、ここまで自在に動けると爽快感があった。
(その上、このまま泳いで違う岸に着ければ、言うことなかったんだけど)
そう──洞窟内部とは言ったものの。
視た限り、この地底湖はメインの横孔から完全に孤立している──あるいは、その行き止まりらしい。
楕円形に近い空間の底に水が溜まっていて、それより少し高い位置に、目覚めた岸辺がある。そして、岸のちょうど反対側に、おそらく洞窟本体と繋がっているのであろう穴がひとつだけ空いているのだ。それも、とても手の届きそうにない高さに。
恵まれた肺活量を活かして地底湖の底もさらってみたが、人間サイズが通れそうな隙間は見当たらなかった。
(岩壁をよじ登る? ……現実的じゃない)
それに、この身体が“出来る”のであれば、悩むより先に、実際に出来ているはずなのだ。泳ぐことがそうであったように。
「…………」
とぷん、と水中に身体を沈める。
目の前を、見慣れない小魚の群れが駆け抜けていった。周囲の水場から孤立しているように見えるこの地底湖にも、どこから紛れ込んだのか、魚が住み着いているらしい。
水の流れを感じる。
肌で、“視覚”で。小さな魚たちがどんな速さで、どこへ泳いでいくのかがわかる。
手を伸ばす。魚の群れの1匹が、容易に手のひらの中に収まった。机の上に置かれたペットボトルを掴むことより簡単だった。
身悶える魚を掴んだまま、立ち上がった。髪や肌から滴る水滴が、水面に波紋を作る。
(……これも)
水中にいる魚なんて、やろうとしても捕まえられたことはない。いつだって彼らの方が上手で、流体のように簡単に指の隙間から抜け出していく。
そのはずなのに、今の自分はいとも簡単にそれを成し遂げている。不思議な気分だった。
それと同時に、
「……ごく」
喉が鳴る。
下処理も何もしていない生魚だ。美味い訳がない。腹を壊すかも。頭ではわかっていても、身体はそれを欲していた。
抗わず、頭から口に放り込む。じたばたと最期の足掻きを繰り返す小魚を飲み込んで、腹に収める。ふう、と安堵の息を吐いた。
水はともかく、食料も何もない洞窟に閉じ込められて、何故あまり慌てていないのか。
その理由が、“これ”だった。
腹が減ったら、地底湖にいる魚を捕まえて食べればいいのだ。どうやらこの身体の腑は人間より頑丈なようで、そこら辺の魚を丸呑みしても腹を下したりはしなかった。
そこまで考えて、
(順調に人間辞めてるな俺……)
自動販売機でミネラルウォーターを買って、コンビニエンスストアで包装された菓子パンを買っていた頃からは考えられない生活をしている。
実時間で考えてもさほど日数が経っていないはずなのに、遠い昔のことのように感じた。
人間だった時の記憶。
(別に、やり残したことがあった訳でもないけど、…………)
──それなりに有名な大学の、誰も知らない辺鄙なキャンパスで学を修めて、専攻とは全く関係のない企業に勤めて、うだつの上がらない平社員として日々を怠惰に過ごして。
死ぬまでこんな生活が続くんだろうと、根拠もなくぼんやり思っていた。
なのに。
(あまり詳しくないけど、こういうのって大体、現代で死んだ後に発生するイベントなんじゃないか?)
(死んだ記憶も無いのにこんなことになってるなんて……いや、俺が気づいてないだけで実は寝てる間に死んでたのか?)
(一人暮らしなのに突然死……真夏だぞ、エアコンはつけてたはずだが、死体が見つかるまでどれくらい掛かるのやら。もしそれで部屋が汚れたら、一人息子が死んだ上に賠償金払わされる親が可哀想だ)
(……やめよ)
強制的に思考を打ち切る。
考えても仕様がないことを考えるのは嫌いだ。頭が痛くなる。
もしこれが夢ならば目覚めた後のことを心配する必要はないし、夢ではないならば取り戻せない過去に縋るのは無意味だ。
実家の母親がそういう、突拍子もない不安ごとに心を砕いて怯えるタイプだったなあ、と苦い気持ちになった。来年の自分が生きているか死んでいるかなんて、来年にならなければわかりようがないのに。
(来年になったら異世界で人間じゃない生き物になることだってある)
地底湖から上がって、岸で濡れた膝を抱えた。
──さて……これからどうしたものか。
生きることはできている。
とりあえず、生きている。
でも、それだけだ。
(ここにずっと1人で居たら日本語忘れそう……)
ボケ防止で壁とおしゃべりしようにも、肝心の声が出ないのでそれも出来そうにもない。
(退屈さ加減は人間だった時とあんまり変わらんな……)
────そんな退屈をぶち壊す“運命”が舞い降りるまで、あと少し。