ビノとシトギ ──異世界異食冒険譚── 作:プリン定食
ぱしゃん、と眼下で水が飛び散る。
手の中で魚が身悶えた拍子に、濡れた尾鰭が辺りに水滴を撒き散らしたせいだった。
ただ、何ら意味のない抵抗だ。そのまま口に運んで、飲み下す。
(目覚めてからどれくらい経ったのか……)
(魚を獲るのもだいぶ慣れてきた、)
内心で呟いてみる。
そうでもしないと、日本語どころか、自分が元は文明社会で生きてきた人間であったことさえ失念してしまいそうだった。
(だって、見た目が全体的にかけ離れすぎてるし……)
今さらだが、目覚めた時から、この身体は何も身につけていなかった。
肌に時折触れていた感触は、記憶より数十倍は伸びた自身の真っ直ぐな髪だった。なんたって、背中を覆えるほどの長さがある。それに気づいた時は、人目もないのに随分と慌てたものだ。
全裸で屋外をうろつくなんて。
25年以上積み重ねてきた現代人としての全ては、そういった行動を激しく否定していたが。拒んだところで、こんな洞窟ではどうにもならない。
仕方なく、生まれた姿のままで過ごしている。
(それに、身体の構造だってヘンテコだし)
落ち着いた頃、単純な好奇心で検分してみたが、疑問が増えただけだった。
何というべきか、おおよそ人間のそれとはかけ離れた構造をしているのだ。
つるりとした体表には山も谷も、突起も窪みもない。まるで安っぽい着せ替え人形の中身のような造形だ、と思った。手足はきちんと人間と同じようなものがある辺り、余計にそれらしい。
薄い尻の下、足の間にぽつんと切れ込みがあったが、その内側に穴らしきものはひとつしかなかった。鳥類の雌に性器はなく、全て総排泄孔という器官で済ませてしまうらしい。
(…………や、俺が雌と決まった訳ではないけど。ないけど!)
慣れ親しんできた息子が知らぬ間に独り立ちしていると知った時は、自分が人間ではないと気づいた時よりショックだった。アイデンティティを剥奪された、そんな衝撃だった。
(異種族になるにしても胸を張って男だと思えるような容姿が良かった……)
誰かに見せる予定がある訳でもないが、とさらに言い訳を塗り重ねる。全ては単なる暇つぶし、壁に日付を掘るような虚無の積み重ねだった。
寝て、起きて、魚を捕まえて、また寝る。そんな、平坦な時間の流れの中。
“それ”は、まったく唐突に訪れた。
──……ん?
何の前触れもなく、耳慣れない物音が聞こえた。そこが始まりだった。
(なんだろう……何もなさそうだが)
ずいぶん明瞭な響きだったような気がしたが、地底湖周りは平和そのものだ。魚と自身以外、何の気配もしない。
盲目らしく、聴覚が鋭敏なのだろうか。遠くの音をキャッチしているのかもしれない。
耳を傾けてみる。何か暴れている──というか、繰り返し壁にぶつかっているような響き。明らかに自然由来のものではない。
(おいおい、この洞窟って他に生物いたのかよ……しかもなんかデカそう)
周囲から孤立した地底湖の側で目覚めたことを、手のひら返しで感謝した。魚を捕まえることはできても、それ以上の大きさの何かと戦う術など持っていない。
……と、胸を撫で下ろしたのもつかの間、
(なんか……近づいてきてないか?)
収まる気配のない音と振動が、みるみるこちらに迫ってくる。こうしてはいられない。慌てて地底湖の中に避難した、その瞬間。
ふっと、音が止んで。
──バシャアアァッ!!
「……!?」
誰かにいきなり殴られたのかと思った。それくらいの強い水圧が、突然全身を襲った。
何かが湖に落ちてきた。
それも、かなり大きいもの。
そう気付いたのは、激しい水の流れがようやく落ち着いた頃だった。
(なんだ……!?)
落ちてきた。この空洞の天井などから、ではない。そうであれば、落ちる前から存在に気づいていたはずだ。
(あの穴か……?)
唯一、別の空間と繋がる場所。音も振動も、そちらの方角から聞こえてきていた。あの穴の奥からやってきた何かが、足を滑らしたか何かでこの地底湖に落下したのだ。
厄介な生き物だったらどうしよう。
恐る恐る知覚を広げて。──それまでとは違う理由で、驚愕することになった。
丸い頭部、マントの下から伸びる腕と、5本指が揃った手。ブーツに包まれた長い足。
──なに!? ヒト!?
その形状には嫌というほど見覚えがあったが、この世界で見るのは初めてだった。
それが、今まさに無抵抗で水底に沈もうとしている。被ったフードから覗く半開きの口から、泡だけがこぽこぽと溢れ出ていた。
人間の形をしたものが、水中に落ちてきて、そこから動く気配がない。
──……もしかして溺れてる!?
よく考えれば、その通りだ。
あんな高所で背中から水に落ちて、普通に体勢を立て直せる人間がどれだけいるのだろう。
水中での暮らしが日常になりかけていて、感覚が麻痺していた。
(とりあえず……引っ張り上げる!?)
水中でも長時間耐えられるこの身体と違って、普通の人間は息が保たないはずだ。
水を蹴って、沈みゆく人影に手を伸ばす。マントの胸の辺りを掴んで、強く引き寄せた。
浮力のせいか、岸の近くまで引っ張っていくことは比較的容易だったが、そこからが大変だった。
(おおお重い〜〜〜!!)
明らかに大柄で、おそろしく逞しいその肉体は、見た目通り相当な重さがあった。
溺れている人間を無闇に助けようとすると、しがみつかれて自分も溺れるから気をつけろ。そんな豆知識が今さら頭をよぎる。
全く関係のない状況なのに、さもありなん、と思わざるを得なかった。普通の人間のままだったら溺れかけている状態だろうし、なんなら救助自体を諦めていたことだろう。
こんな真似、“まあ命の危機なく出来そうな身”だからやっているだけだ。我ながら薄汚いノブレス・オブリージュだ、と一瞬自嘲したが、人間なんてそんなものだ、とすぐ手のひらを返しておいた。
──ぜえ、はあ……
悪戦苦闘の末、最終的に、水中から必死に押し上げる形で何とか陸上に運び出せた。
未だかつてない息の乱れと疲労感を覚えながら、なんとか隣に這い上がる。ずぶ濡れの巨体は、押し上げた体勢のまま力なく地面にうつ伏せていた。
──おい、
分厚い身体の天地をひっくり返して(これにもなかなか苦労した)、ふと異変に気づく。
──こいつ息してなくね!?
落ちたはずみで大量に水を飲んでしまったか、それ以前の問題か。ともかく、死んだように横たわっている。
(どうしよ、人工呼吸!? 心臓マッサージ!? やったこと無え!)
会社で受けた救命講座をもっと真面目に記憶していれば良かった、と今さら思った。
とにかくこの人物──体格からしておそらく男──を何とか蘇生しなければ。
あたふたしている間に、
「──ごふッ、」「!」
目の前で、男がびちゃりと水を吐き出した。乱れたマントの袷目から覗く胸が大きく弾む。
(良かった! 息がある!)
仰向けなのが苦しそうだったので、せめて顔を傾けてやろうと手を伸ばしかけて。
ぴちゃり。
──……あ、
地面についていた膝頭に、水とは違うものが触れる感覚。急激に脳が冷えた。湿った土の匂いに混ざる鉄錆の香り。
男の服は、脇腹あたりが大きく裂けて、皮膚と、本来それに包まれているはずのものが露出していた。
「……ッ!」
そこから絶え間なく流れ続けるそれから、逃れるように水中に飛び込む。
(……素人の俺でもわかる……あれはかなりの深傷だ)
──助からない。反射的に思った。
医療設備が整った現代の街中ならまだしも、こんな洞窟で腹にあんな傷を負って、生き遂せられる訳がない。背中に冷たいものが走る感覚を、頭を振って打ち消す。
(……死ぬのか? でも俺には今度こそ何もできない、)
人が死ぬところを見るのは初めてだ。
突如目の前に降って湧いた非日常に、興味や高揚は全く湧かなかった。背中に巨大な重石を背負わされたような、息苦しい感覚だけがあった。
「…………」
のろのろと湖から上がる。
重い足を引きずって、横たわる男に近づいた。血溜まりを避けて、近くに腰を下ろす。
分厚い胸板が小刻みに上下している。まだ息はあるらしい。
前世でも感じたことのない閉塞感を覚えていた。濡れたフードで男の顔のほとんどが隠れていることだけが救いだった。
(ていうか、こいつは普通に服着てるんだな……現代っぽいデザインじゃないけど)
あからさまな現実逃避だったが、そんなことが頭に浮かんだ。
フードのついたマントは肩の辺りに金属の留め具が見えた。革製のロングブーツを、ゆったりしたボトムの裾を入れ込んで履いている。
(例えて言うなら……何だろう、中世の狩人みたいな?)
着衣の文化がある、というのはよく考えれば別に珍しくもなかったが、少し意外な部分もあった。
(“俺”は何も着てなかったのにな、)
──ごほっ。
男が濁った咳をして、現実に引き戻された。
(……まだ呼吸をしてる……)
こちらがくだらないことを考えている間に安らかに逝けたらとも思ったが、そう上手くはいかないようだった。
致命傷を負っても、すぐさま苦痛から解放されるとは限らないのだ。それを目の当たりにして、またひどく息苦しい気持ちになる。
「……はあ」
早く死んでほしい、と心から思った。
平時ならばあり得ない願いだが、それ以外にお互いに平穏をもたらすものは思いつかなかった。
こちらが銃でも持っていれば、男の上顎に撃ち込んで今すぐ楽にしてやる選択肢もあったかもしれないが。自分の手しか使えるものがないこの状況では、男を無駄に苦しめる未来しか見えなかった。
(ていうかそんな度胸、俺には無いし……)
ため息をついて、男に背を向ける。
(もう見ていられない……死ぬとわかってるのに、つらすぎる)
心が痛んだ。こんな痛み、男が感じているそれに比べたら、蟻に噛まれたようなものだ。そんな自嘲さえ自身の慰撫でしかないことに気づいて、男から顔を逸らした。
眠ってしまおう。
水から上がって、石筍の陰で濡れた身体を丸める。その間に、この男も永久の安らぎを得られることだろう。
──……おやすみ、
意識を失う直前、心の中だけでそう囁いた。自己満足だった。