ビノとシトギ ──異世界異食冒険譚── 作:プリン定食
「────、」
泥沼のような眠りから、ゆっくりと意識が浮上した。
まず最初に、目と鼻の先に巨大な岩があるのに気づいて一瞬面食らったが、すぐにこの石筍の陰で眠りについたことを思い出した。眠る前、何をしていたのかも。
──そうだ……俺は水に落ちた男を助けて……
それで、その男は。
「…………」
陰鬱な気持ちになりながら、岩陰から這い出した。どれだけ眠っていたのかはわからないが、あの男の容体は1時間も保ちそうになかった。
流石にもう、息を引き取ってしまったことだろう。そう思って、
(そういえば、ここはほぼ閉鎖空間だけど死体の処理はどうしたらいいんだ……? 魚の餌にするにしても腐敗は避けられないよな……)
悲しみより先にそんなことが頭に浮かんで、現金なことだ、と自嘲した。
文明と程遠い環境では、見知らぬ存在の生死に感傷的になっている余裕はない。赤の他人が死んで泣けるのは、それがフィクションか画面の中の出来事だった時だけだ。
(そのままにしておかず、ばらばらにした方がすぐ“無くなる”だろうけど。……俺には無理)
何にせよ、陰鬱な気持ちで眠る前と変わらぬ姿勢で横たわる男に近づいていって。
すぐさま、ぎょっとした。
事故死の死体を初めて目の当たりにしたからではない。眼下のそれが、斜め上の方向で想像からかけ離れていたからである。
──心臓がまだ動いてる……!?
身体から出るこの奇妙な“波紋”は、対象の形状がなんであるかの他に、見てわかること以上の情報さえ事細かに採取できる。
それは、材質だとか触った時の温度だとかに加えて、その物体がどんな運動をしているのか、ということまでも含まれた。つまり、地面に並んで横たわった生き物が2体いたとして、そのどちらが死んでどちらが生きているのか、触れて脈を取るまでもなく判別できるということだ。
それは今まさに、目の前の男に対して発揮されていて、けれど今だけはその能力を疑いたい気持ちでいっぱいだった。
(だって、あんな重傷だったのに……!? なんならあの時よりちょっと鼓動が強くなってるような気もするし)
立ち尽くしたままそこまで考えて、
──そうだ、傷……!
男が瀕死であったことを示す何よりの証拠を今さら思い出して、慌てて駆け寄った。スライディングする勢いで傍らに膝をついて、身体をかがめて脇腹の傷を覗き込む。
触れずとも理解できる力を得たとして、とっさに出るのが目視での確認行為なのは、人間だった頃の性だろうか。
ともかく、至近距離であの生々しい傷があった辺りを認めて。──二度、愕然とした。
──傷が、塞がっている……
実際のところ、露わになった脇腹には、べっとりと乾いた血がこびりついたままだったが。
その下は既に真新しい皮膚で塞がれていることが、注視するまでもなくわかった。
有り得ない。
傷口を覗き込む、女豹のポーズにも似た奇妙な姿勢で硬直するその目の前で、
「──!?」
がばっと。何の前触れもなく。
当の男が、ばね仕掛けの玩具のように、盛大に上体を跳ね起こした。
その風圧だか驚愕だかで、とにかく、こちらも同じように飛び上がって、後ろからすっ転ぶ羽目になった。後頭部を硬い岩肌にごちんとぶつけて、結構痛かった。
「あ」
痛みに身悶える頭上に、短い声が降ってくる。男が発したものだと理解するのに、少し時間がかかった。
どうも、男は自分の眼下で虫のようにひっくり返っている生き物に対し、自らの過失を多少認めたらしかった。穏やかな動きで手が差し伸べられる。
少し迷って、結局その手を掴んだ。
湿った手袋越しに感じる体温の高さに驚いているうちに、力強く引っ張り上げられた。男はすっかり調子を取り戻しているようだった。
(……元気だ……)
こちらはと言えば、幽霊を見るような心持ちでぼうっと男を見つめることしかできなかった。
間違いなく死ぬと思っていた存在が、今はぴんぴんしている。原理自体は理解できる。あの大きな傷が塞がって、癒えたためだろう。
でも、1日どころか数時間の短い間で、そんなことが可能なのだろうか?
男の、濡れて重たくなったフードの下から、薄い唇だけが覗いている。弧を描いているように見えた。笑っている、ととっさに思った。
その口元が、スローモーションのようにゆっくりと開いて。
「……ありがとうございます、」
「!」
流暢に、そう口にした。
けれど、聞こえた響きは明らかに日本語のそれではなく、耳覚えのないものだった。
簡単な感謝の言葉だ。日本語しかわからないとはいえ、著名な外国語ならばある程度判別がつくだろう。
それに、男の言葉は不自然なほどスムーズに意図がわかった。まるで、ずっと前から知っていた母語みたいに。
(変な感じだ……)
脳に、日本語訳のフィルターを被せられているような感覚だった。聞こえているのは日本語ではないのに、意味が自然な日本語として頭に入ってくる。
喋れたのか、とは思わなかった。
文明的な着衣の人物が礼を言葉にするのは、別段何もおかしなところはないように思えたからだ。少なくとも、洞窟内で魚を食って暮らしている謎の生き物がぺらぺら喋り出すよりはよっぽど納得がいく。
「水に落ちた覚えがあるんですけど、そこから助けてくれたんですよね」
男は流暢にそう紡いだ。対するこちらが無言のままを何と捉えたのか、彼は続けて、自身の顔に打ち掛かったフードに手を掛けた。
それを取り払って現れたのは──かなり若い男の顔だった。精悍な作りの中に、弾けるような溌剌さが滲む顔つきだったが、それ以上に目を引いたのは。
(……耳が尖ってる……)
癖毛気味の髪から迫り出した耳輪の上部が弧を描かず、鋭角的になっている。一般的なホモ・サピエンスならば有り得ない形状だ。
──加えて言えば、男の肌は煤けたようなスチールグレー、虹彩は黄金色に輝いており、艶のある黒髪を除けば明らかにヒト科ヒト属のそれではなかったが。生物の生死すら捉えられる優れた知覚能力は、色彩の正異に関してはてんで役に立っていなかった。
(この男もたぶん普通の人間じゃない……じゃあやっぱりここは異世界……?)
「あなたはここに住んでるんですか?」
「……!」
考えている最中に、唐突に話しかけられて肩が跳ねた。とっさに仰ぎ見た男の顔には、何の他意も浮かんでいないように感じた。
(こんな場所に住んでる人間がいる訳ないだろ……)
内心で悪態をついてから、異世界ならそういうこともあるのか、と思い直す。すぐに「だから何だ」という気持ちになったが。
(というか、いくら話しかけられても俺は返事ができないんだが……)
「…………」
「そうなんですね!」
もどかしい気持ちで首を横に振ると、男が弾んだ声で相槌を打った。どうやら、身振り手振りならばある程度通用するらしい。
「あそこから落ちちゃったんですか?」
「…………」
「自分も落ちたから」
──こいつ俺の反応に構わず喋り続けてないか?
友好的と見るべきか、押し付けがましいと見るべきか。ともかく、自身の数十倍は屈強そうなこの男が、この閉鎖空間で何らかの強硬手段を取ってくる気配がないのは喜ぶべきことなのだろう。
「あ、剣!」
「!」
「無い……落ちた時に手放したかな……」
突然大きな声を出したのでまたもや驚かされたが、今度こそ、荷物を検めていた男の独り言だったらしい。ぱたぱたと身の回りを弄っていた男は、最終的に、恨めしそうに地底湖を見つめてそう呟いた。凛々しい眉が垂れ下がる。
──剣て……中世か
あまりにテンプレートな武器の名称が出てきて、少し愉快な気持ちになったが。逆説的に言えば、この世界は野外を探索する時には武器を持ち歩かねばならないような環境だということだ。
幸い、この地底湖付近に身の危険を感じるような生物はいないが、ここを出ればその限りではないのだろう。寒くもないのに怖気が走って、身震いする。
「はあ……買い直さなきゃ」
対して、当の男は金銭的な不安(あるいは面倒さ)しか浮かんでいないようだった。濡れた地面に大の字になって、天井を仰いでいる。
(……暢気だな)
取りに行くという選択肢はないらしい。
一度溺れかけた場所に行くのは気が進まないのか。あるいは、身体の調子を鑑みてか。男から顔を逸らして、凪いだ水面をじっと見下ろす。
──実際のところ、その地底湖は薄っすら白く濁っており、湖底の状態なんてものはとてもじゃないが窺い知れない様子であったが。
(“沈んだ剣がどこにあるか”なんてすぐわかるのに……)
この特殊な知覚の前では、そんな障壁は無いも同然だった。
──しゃーない、取りに行ってやるか……
筋肉の塊だった男を引き上げるよりは、単なる鉄の塊を引き上げる方が世話がなさそうだ。
そんなことを思いながら、微温い水中に身体を滑り込ませる。優雅に揺蕩っていた小魚たちが慌てて逃げていく。
男の剣と思われる長物は、大きな岩と岩の間に挟まるようにして沈んでいた。とても持って振るうことなどできそうにないサイズだったが、男の体格を考えれば妥当なのかもしれない。
近くに鞘も落ちていた。鞘も刀身も、特に目立った意匠はない、シンプルなロングソードだ。想像通りだったし、想像通りすぎて、何の考察も浮かんでこなかった。
何はともあれ、それなりに苦労しつつも、両者をなんとか岸まで運搬することに成功した。
──異様に息が保つ体で良かった……
男を助けた時も一瞬思ったが、人助けの結果溺れ死ぬなんて洒落にならない。ちゃぷ、と水面に顔を出すと、覗き込むようにして様子を伺っていたらしい男がこちらを見た。
「あ!」
不思議そうな表情が、引き上げられた剣の柄を見た瞬間に瓦解する。
「ありがとうございます……!」
──それはいいんだけど、水中から出るとこの剣、予想以上に重っ……
「……!」
剣を携えて這い上がるのに四苦八苦していた、その腋に男の腕が入って、剣と鞘ごと力強く引き上げられる。気安く触れられたことそのものより、触れた肌の熱さに驚かされた。
突然の接触に硬直している間に、男は両手で抱き上げた身体を軽々と片手抱きに持ち替え、空いた右腕で剣を受け取った。用の済んだ痩躯が、丁寧に地面に降ろされる。
「助けられてばかりですね」
邪気のない笑みが向けられる。それにたじろいでいる間に、男は刀身の水分を袖口で軽く拭って、鞘に収めたかと思えば。
「よいしょ」「……!?」
躊躇なく、地面に再び横たわった。そのまま大きな身体を丸めてしまう。
──寝、寝た……
先ほどよりも心拍数が減り、規則的な呼吸のみが繰り返されている。どう見ても、寝入っていた。
(こいつの肝の座り方どうなってるの?)
こんなやつ本気になれば一捻りだ、という強者ゆえの余裕なのだろうか。
(ともかく、掴みどころがなくて怖い……)
これ以上ちょっかいを掛ける気にはなれなかった。同じ石筍の影に隠れて、膝を抱える。
──死んだと思った男が生きていた。
男の死を嘆いた身として喜ぶべきことなのだろうが。「なんだかよくわからないことになってきた」。今は、そんな気持ちでいっぱいだった。