ビノとシトギ ──異世界異食冒険譚── 作:プリン定食
いつの間にか、また眠っていた。ぼんやりと意識が浮上する。
どれくらいの時間寝ていて、今が一体いつなのかは知る術がない。光の無い洞窟内では、今が朝なのか夜なのかもよくわからない。
気怠い身体を起こす。腹が減っていた。
何となく振り返った視線の先、あの男の丸まった背中が見えた。まだ寝入っているらしい。今度は陰鬱な気持ちにはならなかった。
(やたら話しかけられるよりは気が楽だな)
ともかく、腹拵えをしなくてはならない。岩陰から抜け出して、再び水に身体を沈めた。
水中を揺蕩う魚の群れは、こちらを見ると逃げようとはするもの、捕まえること自体はやはり容易い。人間だった時のことを考えると、少し拍子抜けするくらいだった。
そんなことを考えながら、びちびちと手の中で跳ねる白魚を頭から飲み込んでいく。数匹食べて、やっと腹が満たされた。
一息ついて、それと同時に思うこと。
──地底湖内の魚が減ってきている……
初めて目覚めた時の環境と比較すると、まさに一目瞭然だった。
──1度の食事で5匹以上は食べているのだから、当然と言えば当然か……
地底湖内には水の流れを感じるが、微かなものだ。おそらく岩の隙間などから微弱な吸い込み・吐き出しが発生しているのだろうが、魚などの生物が積極的に出入りできるような規模ではないのは既に確認済みだ。
ここにいる魚たちは、かつて地形の変化などでこの地底湖に取り残されたものが、細々と生き続けてきた結果なのではないか。洞窟内にそんな大掛かりな変化が起こり得るかはさておいて。
とにかく現状、食料は減っていく一方だ。都合良く補給される見込みもない。
──……ここには長く居られない
事実としてそれを受け止める。
──でも、だとしてこれからどうする?
仮初の安寧が、実体化していく不安に塗りつぶされていく。
食べるものが無くなったら……飢えて死ぬ。
その前に、体力がまだあるうちにクライミングに挑んでみるべきなのではないか。遺伝子に刻まれていないだけで、本気でやればできるかも。
でも、この空間から抜け出したところで、どこに行く? 何をすればいい?
自由、の2文字が、翼ではなく重石となって背中にのしかかっていた。
人生はゲームじゃないし、現実に目的地を示すマーカーは存在しない。そんな簡単なことを自覚するだけで、暗闇に足を取られていくのを感じる。気分が重く沈んでいく。
(俺って、退屈な人間だ……)
お前の人生が退屈なのは、お前自身が退屈な人間だからだ。そんなインターネットの金言が、今さら翻って無い耳に突き刺さる。
──あ、
そこでようやく、寝ていたはずの男がいつのまにか、こちらを観察していたことに気づく。地面に両手までついて身を乗り出して、まさにかぶりつきといった様子だった。
(……なんなの? 腹減ってるのか?)
そんなに熱心に見つめられたところで、残り少ない食糧を分けてやる余裕はない。無視して、男がいる場所から少し離れた岸に向かって泳ぐ。
しかし男は、
(……おい、なんで寄ってくる)
それを見て、わざわざ上陸地点に移動してきた。しかも四つん這いのまま。
ここでまた進路を変えてもいたちごっこだ、というのが目に見えていたので、諦めてそのまま足を進めた。
それにしても、男は露骨に真正面を陣取っているので、このままでは陸に上がれそうにない。潜水に耐性がある身だからあまり気にならないが、そうでなければ何の嫌がらせかと目を剥いているところだ。
湖岸ぎりぎりで動きを止めたこちらを、男が至近距離で見下ろしてくる。
「魚がいて、狩りをしてるんですね」
(こいつ、最初から見てたのか……)
男の瞳は、あからさまな好奇心で輝いていた。腹が減っているというよりは、こちらの行動に興味を持って面白がっているふうだった。
なんとも言えない居心地の悪さを感じて、顔を逸らす。
「目が見えてなさそうなのに、歩いてどこかにぶつかったりはしないし、水中の魚も捕まえられる……」
俯いていたせいか。その横顔に男の手が伸びてきたことに、気づけなかった。
「“これ”のおかげ、」
「……!!」
無骨な指先が、側頭部の奇妙な器官を無遠慮に掴んで、
「あ」
バシャァアン!
瞬間、辺りに激しく水が飛び散った。
全身に纏わりつく水の流れを感じる。男の手を振り解いて水中に逃げたのだ、とワンテンポ遅れて他人事のように思った。
──耳元を触られた、
かなり嫌な感覚だった。
思い出しただけで身震いする。手つきが厭らしかったとか、そんな次元の問題ではない。いきなり触れられること自体は無論気持ちの良いものではないが、それだけなら既に経験している。
触られた場所が問題だった。
そういう認識だった。
例えて言うなら、喉元を急に強い力で掴まれた、そういった類のものだった。要するに、急所へ不用意に触られた、と感じたのだ。
拒絶は、反射的なものだった。
生命を脅かされたと思ったから。
「…………」
「見えていないのに問題なく動けている」、先ほどの男の発言を、水中で改めて反芻する。
──眼球が使えないのに周囲の様子を把握できているのは、やはりこの妙な器官のおかげなのか……?
ならばやはり、この身体にとっては生命線ということだ。人間で言えば、眼球に直接触られるようなもの。だから、この反応も仕方ない。
誰にともなく言い訳しながら、ゆっくりと水面に顔を出した。半分だけ。男の蛮行に憤りがない訳ではなかったが、突然激しい拒否反応を示してしまったことに対する気まずさのようなものが蟠っていた。
離れた場所から、男の様子を伺ってみる。当の男は、四つん這いの奇妙な姿勢のまま、その場で固まっていた。その表情は呆気に取られているようにも、ぼうっとしているようにも見えた。
顎や毛先から、盛大にぶっかけてしまったらしい雫がぽたぽたと滴っている──かと思えば。ぶるぶるっと、激しく頭を左右に振った。水飛沫が飛び散る。
(犬……?)
前世でも覚えのある光景だった。
強引な手段で水気を切った男は、パッとこちらを見て。開口一番、
「ごめんなさい!」
「……!」
大声で謝罪を口にした。真っ直ぐな声音だった。拍子抜けするくらいに。
「もうしません!」
(調子狂うな……)
ぶくぶくと、尖らせた唇から溢した空気が泡になって、水面で弾ける。行き場のない気持ちを吐き出している感覚だった。
急所を触られて不快だったのは事実だが、こうも素直に平謝りされると気が抜ける。
何となく気まずいまま観察を続けていたら、四つん這いだった男が、急に地面へ大の字になり。何を言うのかと思えば、
「自分のことも触っていいですよ!」
──普通に嫌だ……
女体ならともかく、何が悲しくて屈強な男の身体をまさぐらなければならないのだろうか。
横たわった男を横目に、陸上へと這い上がる。嫌な緊張感は抱かなかった。
(根っからの危険人物ではない……か)
男は、驚くほど気ままだが、少なくとも自分の持っている力には自覚があるようだった。屈強なこの肉体に、興味本位で弱者を嬲り殺すような嗜好が備わっていないらしいことは、明確に安堵をもたらした。
それでも、また不用意に男に近づく気にはなれなかった。少し離れたところに座り込んで、彼の動向を観察することにした。
(こいつ、これからどうするつもりなんだろうな……)
よく考えなくとも、イレギュラーに巻き込まれて、先行き不透明なのはこの男も同じことだろう。
しかし、男の振る舞いにはどこまでも邪気がなく、鷹揚だった。無知が故に暢気にしているという感じでもない。なんとなく、不思議な気分になった。
今もまた、何事もなさげに立ち上がった男は、マイペースに伸びなどしている。
(こいつだって、あんな重装備であんな高い壁登れるわけ、な、…………)
思考が途中で途切れたのは、前言撤回せざるを得ない光景が広がっていたからだった。
剣を腰に下げた男が、ぴょんと手近な岩壁に飛びついて。そのまま、自前の手と足だけで壁をよじ登り始めたからだった。
躊躇いも覚束なさもない、鮮やかなクライミングだった。
「よっ、と」
呆気に取られる目の前で、男が身軽に壁を蹴って、数メートル下の地面に再び着地する。
軽く手を叩く。罷り間違っても手足に限界が来た訳ではなく、単に「予想通りにいくかを試しただけ」と言わんばかりの危なげない動作だった。
(……こいつ……)
いくら鍛え上げられた肉体を持つとして、ただの岩壁をスムーズによじ登るのは至難の業だろう。しかも、あの重量の長剣を背でもなく腰にぶら下げた上で、だ。
そこでようやく、あの異様な回復力と、この並外れた身体能力が、線で繋がったような気がした。
この男は普通の人間じゃない。
とびきり頑丈で、とびきり屈強なのだ。
(……! ぼうっとしてる場合じゃない、この機会を逃したら俺がここから出る方法は無い!)
はっと我に帰る。男は登るのに邪魔と判断したのか、濡れた手袋を外してベルトに挟んでいるところだった。慌ててその近くに駆け寄る。
「ん?」
こちらへ無邪気に顔を向けてくる男に安堵したのも束の間、
(いや言葉通じないんだよなぁあ……!)
すぐさま最大の問題点に行き当たる。ここに住んでいる訳ではないということは知っているはずだが、だからといって即座にこの生物も連れ出そう、という発想になるとは思えなかった。
(ていうかこいつマジでデカいな……)
並ぶと男の鳩尾辺りに頭が来るほどの身長差があったことに、ここに来て初めて気づいた。
しかし、幸いにというべきか、男はこちらの行動全てに関心が有り余っているようだった。その場にしゃがみ込んで、見上げてくる。
「ここにまだ居た方がいいですか?」
──違ぇーよ。
「え?」
げんなりと頭を横に振る。男は不思議そうに首を傾げただけだった。
──どうすれば伝わるのか……お、
身振り手振りはある程度伝わる──そんな記憶が頭をよぎった。一か八かで、唯一の出口を指差し、続いて自分自身を指す。男は30°の角度のままじっとその動きを眺めていたようだったが。
「……あなたもここから出たいんですか?」
──そう!
ようやく伝わった。必死に頷く。
「…………」
しかし、男はそこでなぜか沈黙した。見上げてくる表情からは何の感情も窺えない。
まさか、耳元を触られた程度で大騒ぎするような生き物を連れ出す義理はない、とでも考えているんじゃあるまいな。背中に嫌な冷たさが走った。
が、そんな予想を良い意味で裏切って、
「わっかりました!」
明朗な返事が飛んでくる。直後、穴に落とされたのかという勢いでしゃがみ込んだ男が、マントを脱いだ背中を向けてくる。
「どうぞ」
乗れ、ということらしい。男はこちらを背負って壁をよじ登るつもりのようだ。
その意図自体は理解できたが、絶えて久しい他人との身体接触の機会に、一瞬たじろいでしまった。
(……いや、普通に考えればそういう運び方になるんだろうけど……)
誰かの背に乗せられるなんて、それこそ小学校低学年の時以来ではないか。成人男性が定期的に背負われて運ばれている方がおかしいだろう、という正論は脇に置いておく。
嫌悪感はなかったが、あまりにも久しぶりの体験すぎて、緊張していた。恐る恐る男の背にしがみつく。広い背中は湿っていて、熱かった。
「手が使えないから、落ちないよう縛りますね」
男が後ろ手に縄を回して、腹の辺りに巻きつけてくる。崖登りに使っていなかったので持っていないものと思い込んでいたが、使う気が無かっただけらしい。その上からマントを羽織って、肩の辺りで留めていた。
「よーし、じゃ、行きますよ」
ぱしぱしと軽妙に手を打ち合わせる。小柄とはいえヒト型のものを背負っているとは思えない身軽さで、再び岩壁に飛びついた。
そのまま、澱みない動きで上へ登っていく。スムーズすぎて、ゲームのプレイ動画を見ているような感覚になったが。動きが完全な直線でないあたり、手足を置く場所は考えながらやっているらしかった。
明らかに人間技ではない、と感嘆したその瞬間、
「……あ、」「!?」
危険な浮遊感。
男が、無いに等しい足場を踏み崩したせいだった。分厚い身体がぐらりと傾く。心臓が跳ね上がり、明確な『死』が頭をよぎったが、思っていたような衝撃は来なかった。
男の首筋に強く押しつけた頭を恐る恐る持ち上げる。右腕だけで岩壁にぶら下がっている姿が見えて、再び心臓が止まりそうになった。
右腕の腕橈骨筋が大きく盛り上がり、男が腕一本の力でゆっくりと巨体を持ち上げる。左腕が壁に伸びる。ものの数秒で、足を滑らせる前の体勢に復帰した。
それで、あわや滑落の危機だった男は何を言うのかと思えば。
「いやー、うっかりでした」
気が遠くなりかけた。
──いや頼む、落とさないでくれよ!?
「怖がらなくても大丈夫ですよー」
──振り返らなくていい!
信じられない。心臓がいくつあっても保たない。正気を疑う。そんな凡人の驚愕と、恩知らずな罵倒とが吹き荒れる脳内を、
「ビノです」
新しい囁きが吹き抜けていった。
ここまでの何とも符合しない響きに、一瞬全ての思考が停止したが。答え合わせは、すぐ男本人から与えられた。
「自分の名前」
──ビノ。
頭の中だけで反芻する。何と反応したらいいか迷って──そもそも答える言語が失われていることを思い出して、とりあえず顎を引いた。
それでともかく、男改め“ビノ”には意図が通じたようだった。満足げに頷いた。その動きが伝わった。
危ないから無駄な動きはやめろ、とはもう思わなかった。
言葉さえ通じない、明らかに別の生き物と、今は確かに気持ちが繋がっている。
そんな不思議な充足感を、どこか夢見るような心地で味わっていた。