ビノとシトギ ──異世界異食冒険譚── 作:プリン定食
「よっ、と」
登り始めた時と変わらぬ調子の掛け声が、心臓に悪いクライミング体験の終了を告げてくる。
──最終的に、穴の高さまで縦に登って、そこから横に水平移動という恐ろしいやり方で、ビノは内壁を登りきった。
横移動し始めた辺りで、「こんな体力があるなら一旦穴の下まで泳いで、そこから登れば良かったのでは?」という遅すぎる天啓を得たが、残念ながら伝える術が存在しなかった。
息も絶え絶えなこちらを地面に下ろして、なぜか心拍ひとつ乱れていないビノが問いかけてくる。
「大丈夫ですか?」
(半世紀くらい寿命縮んだ気がした……)
現代日本では味わえない強烈な刺激だった。求めているかはまた別とする。
そのまましばらくへたり込んで呼吸を整えていたが、ここまで意を汲んで運搬してくれた彼に、礼のひとつも言っていないことに気づく。言語で伝えるのは不可能だが、気持ちくらいは示しておくべきだ、と思った。
──……ありがとう
傍らの男をじっと見上げて、その5文字を頭に浮かべる。それを見つめ返してきたビノは、こちらの内心を知ってか知らずか、にっこりと微笑んだ。
「さて。行きますか」
こちらが立ち上がったタイミングで、横穴の先を見遣ったビノが、自身ありげにそう呟いた。
流石に一度来た道だけあって、ルートは頭に入っているらしい。
(ついていけば外には出られる……ってことだよな、たぶん)
出た先の未来からは一旦目を逸らして、迷いなく歩き出した後ろ姿を追いかけた。
(……長いなここ……)
「あ」
「……!」
しばらく、何もない空洞を進んで。ほとんど同時に、足を止めた。察知の仕方は違えど、理由はおそらく同じことだっただろう。
──何かが、行手を阻んでいる。
(阻んでるっていうか……マジで物理的に詰まってるっていうか、)
決して狭くはない横穴に、巨大な何かがぎちぎちに詰まっている。そんな感覚だった。
すん。奇妙な音で我に返る。隣からだった。ビノが、無表情で鼻を鳴らしていた。
「この匂い……“あれ”と同じです」
“あれ”じゃわからない。
緊迫した状況にそぐわない語調に、内心で悪態をこぼしたのとほぼ同時に。
「自分を襲って、水に落としたやつ」
「……!!」
あまりにも聞きたくなかった答え合わせが降ってきて、頭を抱えたくなった。
岩壁を平然とよじ登り、巨大な剣を難なく持ち運ぶ屈強なビノに、致命傷を与えた“何か”。その肩書きだけでこちらは逃げ出したくなる思いだったが。
「ちょうど良かった、」
隣のビノが、すらりと腰から剣を抜く。その横顔には、見慣れたアルカイックスマイルだけが張り付いていた。
「腹減ってたんです」
それだけ口にして、走り出してしまう。ぎょっとしたが、こんなところで案内人をロスト(ダブルミーニング)する訳にはいかない。その一心だけで、慌てて追いかける。
その足が──“何か”の全貌を捉えた瞬間、急ブレーキが掛かって動かなくなった。
──な、
──何コレ!? なにこれ!?
“何か”は、一言で表すなら、『虫』に見えた。
平べったい頭部から、サソリの触肢によく似ているが、異様に長い脚が一対伸びている。その後ろに、蛇腹模様の丸い胴体があり、細長い足が複数本生えていた。はっきり何の種類か断定するほどの知識はなかったが、以上の特徴から、いわゆる『虫』のいずれかではないかと思われた。
ただし、それは。
明らかかつ、異常に巨大だった。
巨漢のビノが頭をぶつけず通れる余裕のある横穴を、ぎっちり埋め尽くす質量があった。
──な、なんかもっと……ゴブリンとかなんじゃないの!? なんでデッカい虫!?
亜人系のモンスターを討伐してみたかったとかいう危ない願望があった訳でもないが、巨大な節足動物は流石に話が違う。
半ばパニックを起こしかけているこちらとは対照的に、ビノは淡々と戦闘に入ろうとしていた。長剣を構えるその姿に殺気を感じ取ったのか、『虫』がハサミのついた長い脚を振り翳す。
こちらはそれだけで身が竦む思いだったが、相対する男はどこまでも冷静だった。
「ふっ」
リーチが長い故に大振りなそれを難なく避けて、その動きのまま、自身の得物を振るう。
刀身が外殻を砕く生々しい音がして、切り離された触肢の1本が地に沈んだ。『虫』が尖った口から泡を吹きながら、聞くに堪えない鳴き声を上げた。グロテスクな光景に怯んでいる間にも、
「……こいつ、ここから動けないんだ」
──え?
「自分を水に落としたあと、後退したら詰まったんですね。きっと」
横穴に詰まっている、という印象を受けたが、それは間違いではなかったらしい。この『虫』はビノたちを待ち構えていたのではなく、単に二進も三進も行かなくなったせいで、ここに留まらざるを得なかったのだ。
「ラッキーです」
平坦に呟いたビノが、再び長剣を振るって。残ったもう1本も、為す術なく削ぎ落とされる。
最終的に、ギィギィと耳障りな鳴き声を上げる頭部に剣先が突き立てられて、それでようやく静かになった。
身動きが取れないまま脚を捥がれ、命を奪われたと書くと凄惨だが、まったく同情する気にはなれなかった。節足動物差別、と自嘲しつつ、尖兵たるビノの動向を見守る。
「よいしょ」
剣を収めたビノは、そんな掛け声とともにいきなり地面へ座り込んで。
転がっていた触肢を拾い上げたかと思えば。
大きく口を開けた。異様に尖った歯並びが、妙に印象に残った。そうして、その歯が──触肢の表面に、突き立てられた。
──え、
つまり、齧り付いていた。
──……え?
めき、ごき、と外殻が砕ける音が聞こえる。蟹の甲羅程度の硬度はありそうなそれが、煎餅のように噛み砕かれ。逞しい喉が上下する。吐き出されることもなく、嚥下されている。
──な……え?
想定外の寄せ鍋のような光景に、思考回路は無事オーバーフローし。最終的に前頭葉に残ったのは、洗ってないのに不衛生、という一番とんちんかんな感想だけだった。
いや、そうじゃなくて。頭を振って、リセットする。もっと根本的な話だ。
──ぅえ……えっと、
「うん?」
──く、……食って大丈夫なの? 殻ごと……ていうか、この虫は何……なの?
服の裾を掴んで揺さぶりながら、背後の死骸を指差す。ごくん、と殻と身の混ぜ物を飲み下したビノが、泰然と振り返った。
「コレですか?」
触肢を両手に持っていたので、顎をしゃくって指し示してくる。そう、と頷いておいた。
──い、いや、俺が知らないだけで、ビノはこの世界で食べ慣れてるのかもしれない……なんか……蟹に見えなくもないし。虫じゃなくて、蟹なのかもしれないし。
死骸を眺めるビノの横顔に、一縷の望みを託す。やがて、彼はゆっくりとこちらに向き直った。
しばし、無言で見つめあった後。ビノはふ、と柔らかい笑みを浮かべて。
「何でしょうね……」
──なんだかわかんねえモン食ってんの??
全体的に正気の沙汰とは思えない光景だったが、一周回ってだんだん心が落ち着いてきた。どうしようもない状況だと、冷静にならざるを得ないものだ。
それに、彼にはこちらを怖がらせようとかそういった意図はないことは理解できていた。
感情の行き場を無くしてただ見守るしかできないこちらの前で、ビノはスナック菓子でも食べるような気軽さで触肢2本を平らげた。
それで終わりかと思えば、立ち上がって、素手で胴体をかち割り(剣いらなかっただろ、と心の底から思わされた)。甲羅の欠片をトルティーヤ・チップスのようにして、中身の味噌を掬って食べ始めた。無論、その甲羅もチップスの如くばりぼりと噛み砕いて、腹に収めていた。
(……こういうのってふつう身だけほじくり出して食うもんなんじゃないの……)
ディスカバリーチャンネルもびっくりの猟奇的な捕食光景だったが、ある種の清々しさのようなものさえ感じられた。
何せ、筋1本すらその場に残らないのだ。信じられない汚部屋が業者の手によって真っ新にされていく動画を眺めているのと似たような感覚だった。爽快感は得られるが、前提として見るに堪えない部分がある、という点もよく似ていた。
「フー……」
最終的に、甲羅の細かい破片がいくつか散らばるだけになった空間で、ビノが満足げに口元を拭った。
「行きましょう!」
振り返って、元気よく呼びかけてくる。
彼の振る舞いから疲れを感じたことはないが、腹が減っていつもより元気がなかったのは事実らしかった。今までより明らかに活力が漲っている。
それはいいのだが、そのエネルギー補充の手段を考えると、こちらの頬は若干引き攣らざるを得なかった。うきうきと歩き出した背中を、ぎこちなく追いかける。
──真の敵は近くにあり、か…………
いきなり襲ってくる巨大昆虫より、そいつを仕留めて殻ごと生で食い始める存在の方が、より不可解な存在であることだけは確かだった。
しばらく横穴を進むうち、道が途絶えて、開けた空間が現れた。
と言っても地続きになっている訳ではなく、明確な高低差がある。地底湖があった空間ほどの高さではなかったが、壁を伝うかして降りなければ先には行けないようだった。
(ビノはここをよじ登ってこの穴に辿り着いたのか……まあ、これまでのことを考えれば、伝って降りるのに大した高さじゃな、)
「行きますよ」
──へ?
脇の下と膝の下、それぞれにビノの腕が入って、急激な浮遊感。なに、と彼の表情を窺う間もなかった。次の瞬間には、ビノの身体ごと宙に浮いていた。そして、落ちていた。
「〜〜〜〜!?」
ビノが自分を抱えて飛び降りたのだ、と気づいたのは、彼が危なげなく地面に着地してからだった。腕の中から、抗議と驚愕の視線を彼の涼しい顔に投げつける。
──な、!? な!!
「壁は登るより降りるときの方が危ないですから」
──だからって直接飛び降りることある!?
内臓が口から飛び出したかと思った。『虫』と相対した時より命の危機を感じた。
「あ!」
顔を上げたビノが、唐突に弾んだ声を出した。
未だ生きた心地のしない身体をおざなりに地面へ降ろして、どこかへ一直線に駆けていく。その背中は、明らかに自然物ではない物体の目の前で止まった。
「鞄ありました! 良かったぁ」
喜色満面で持ち上げたのは、1対のショルダーストラップがついた、いわゆるバックパック。探検にしては軽装すぎると思っていたが、きちんと持ち込んではいたらしい。
(でも、なんでこんなところに……?)
剥き出しで雑に落ちていたあたり、意図してそこに置いた訳でもなさそうだった。
「足を滑らせて水に落ちて……その時にうっかり落としたんです」
ビノが所在なさげに種明かしする。鞄を背負いながら指差した先は、ここから少し下の位置にある、水溜まりというには深い水場だった。
どうも、洞窟内だけあってあちこちに地下水が溜まっている箇所があるらしい。
「その時にあの蟲に襲われて……運が悪かったですね」
(それで、死にものぐるいで逃げ込んだのがあの空間だった訳だ……そこでもまた水に落ちるなんて、命運尽きたって感じだが……)
それを自分が助けたことは棚に上げて、男のツキの無さを哀れむ。そこでふと、疑問を持った。
(落ち着けば素手でじゅうぶん戦える程度の力量差があったのに、慌ててた程度であんな深い傷を負うものかね?)
その疑問も、おしゃべりなビノによってすぐに答えが与えられた。
「やっぱり、1匹じゃなくていっぱい集まってきたのが良くなかったですね!」
「!?!?」
何度目か、心臓が止まりそうになった。
──いっぱい!? “あんなの”が!?
──……っていうか、倒したのは1匹だけで、残りはまだこの辺に潜んでるってこと!?
あの『虫』と初めて相対した瞬間を思い出して、ぞおっと背筋が粟立つ感覚がした。知覚できる範囲にまだその気配は感じなかったが、いつどこから出てくるかわかったものではない。
──早くここから離れないと!!
「え? 急にどうしたんですか?」
──どうしたもこうしたもあるかぁ! いや何こいつ、体幹が山?
服の裾を掴んで、ぐいぐいと引っ張る。こちらがどれだけ力を入れても微動だにしなかったビノだったが、不思議そうな顔をされつつもなんとか歩みを再開させることができた。
そこから、ときどき登ったり降りたりしつつ、どれだけ歩いたのか。
「ああ」
ビノが、今までとは毛色の違う声を上げた。
例えて言うなら、しみじみとしている。そんな、妙に奥深い声音だった。
理由は、すぐに身を以てわかった。
──う、
黙々と歩みを進めていた身体を突然襲った、熱波のような刺激。一瞬、瞼が炎で焼かれたのかとさえ思った。
思わず手で顔を覆ったが、想像していたような熱さや痛みは感じなかった。──何のことはない、洞窟の出口まで辿り着いたのだ。ようやく。
そこから差し込む太陽の光に照らされて、慣れない身体が過剰に反応しただけだった。
(もう痛くはない……太陽光アレルギーとか、そういうことではないのか)
その可能性も頭をよぎったが、どうもそこまで過敏になっている感覚はなかった。
(それにしても、人間だった頃は太陽のない生活なんて考えられなかったのに)
自身が今までどんな場所で過ごしていたのかを、今さらながらに意識した。永久に陽の差すことのない、洞窟の奥底。明らかにその環境に適応しているこの肉体はともかくとして。
隣の男に顔を向ける。
(今さらだけど、こいつ真っ暗闇の中でも普通に動けてたのか……)
普通の人間とは基礎スペックが違いすぎる……それはつまり、この世界が要求してくるサバイバル能力がそのレベルだ、ということの証左のような気もした。
自分自身についても、謎の生物になってしまったことはショックだったが。これまでのことを考えると、ただ転移しただけでは早晩くたばっていた気がしてならなかった。
(何にせよ、とうとう洞窟の出口に着いた。自由に、なった)
そう。
──自由……
足早に出口に向かおうとするビノの背中を、どこか他人事じみて眺めていた。
──ここを出たとして、それからどこに行く? 何をしたらいい?
魚の減った地底湖を眺めて吐き出した問いが、今また目の前に立ち塞がっている。そんな錯覚だった。
したいことなんて無い。行きたい場所だって無い。だって、自分は。
「…………、」
手を引っ張られる感覚で、我に返った。ビノの少し驚いたような顔が、すぐ近くにあった。彼のマントの裾を自分が掴んでいたせいだと、そこでようやく気づいた。
ビノはしばらく黙ってこちらを見下ろしていたが、やがて、ゆっくりとその場に膝を折って。
「行きましょう、」
柔らかい笑みを浮かべて、そう口にした。
──……うん
一瞬、脳内ですら紡ぐ言葉に詰まったが。男の瞳を見つめながら、頷き返した。
目を細めたビノは、そこから何故か、着ていたマントを脱ぎ去って。
「……!」
こちらの身体に掛けてきた。肩の留め具まできちんと合わせてくる。ビノが着るとせいぜい腹の辺りまでの丈だが、こちらが被ると全身がほとんど覆えてしまうサイズ感だった。
(そういや俺、全裸だったわ……)
目の前の男から、こいつ裸だな、とずっと思われていたらしいことに頬が熱くなる。
知恵の実を食べたイブは、自身が裸であることにようやく気づいた。そんな聖書の一説がなぜか頭をよぎった。
こちらに歩調を合わせるようにゆっくり歩き出したビノに並んで、洞窟の外を目指す。今度こそ。
(……、洞窟があるような場所ってあんまりイメージつかないな……でも普通に森のな、か──)
その全貌が、明らかになって。
着実に進んでいた足が、半ば自動的に停止した。
足の裏には、濡れた岩盤とは違う、湿った草と土の感触。そこまでは良かった。
けれど、眼前に広がっていたのは。
どう見ても現実に存在するものより遥かに巨大かつ、広葉樹でも針葉樹でもなさそうな見慣れない樹木たち。鬱蒼、と形容するに相応しい空気感の中、それらが所狭しと生い茂っている。
そして極めつけは、その合間を悠々と行き来する、どう見ても現実に存在するものより遥かに巨大な節足動物たち。
──お、
ずっと、頭の片隅にあった。
今度こそ、叫ばざるを得なかった。
──思ってたんと違う──!!
かくして。
剣はあるけど魔術はない、スライムもドラゴンもゴブリンもいない奇妙な異世界珍道中が。
ようわからん虫を生で食う屈強な異種族を相棒に、幕を開けたのだった。