ビノとシトギ ──異世界異食冒険譚── 作:プリン定食
あれから。
洞窟を出て、ビノとともに道なき道を延々と歩かされている。
いや。語弊があった。
現在進行形ではない。正確な現況としては、『道なき道を延々と歩くビノに背負ってもらっている』だった。
洞窟を出た時に照っていた太陽は未だ沈んでいないので、おそらくそれほど時間は経っていないと思われるが、こちらは完全にグロッキーだった。
温度も湿度も一定な洞窟内で水遊びだけしていたツケを、今まさに払わされそうになっていた。
(暑い……疲れた……喉乾いた)
「大丈夫ですかー?」
重そうな鞄を左腕に引っ掛け、凸凹の激しい獣道を平地のように進んでいくビノが、涼しい顔で尋ねてくる。
引きこもりと探検家で体力の差が顕著に出ている。そんなことを思った。
(俺もビノみたいにその辺の虫で栄養補給するべき……?)
洞窟内で謎の昆虫を仕留めて食べる彼のバイタリティは、ここに来ても遺憾無く発揮されていた。草木についた幼虫をむんずと鷲掴んで食べ、巨大なユスリカのような羽虫がいれば喜んで追いかけ、邪智暴虐の限りを尽くしていた。
光景のグロテスクさはともかく、ビノが洞窟を出てからずっと元気いっぱいなのは、間違いなくこの定期的な捕食のおかげと思われた。
(いや……にしても、俺の力じゃまず捕まえられないわ……)
暑さと渇きと情報量の多さでみるみるうちに目減りした体力をそんなことに使ったら、今度こそ昏倒しかねない。つまり、今こうしてビノの背中で揺られているのは最適解なのだ。そう自分を納得させて、広い背中に顔を埋めた。
「もうすぐですからね」
──そもそもきみは今どこに向かっているのかね……?
洞窟を出てすぐ、何の迷いもなく歩き出したので、とりあえず着いていくことにしたが。いつまで経っても似たような景色ばかりで、確実性が怪しくなってきた。
しかし、そんな不安を吹き飛ばすように。
「見えましたよ!」
正面を指差したビノが、大きな声でそう叫んだ。
つられて顔を上げたが、知覚できる範囲には変わり映えしない樹木と草しかない。その向こうの空は深い闇で覆われている。
能力の都合上、今の自分はかなり近視気味なんだな、とよくわからない発見を得た。
何が、の意図を持って、わずかに身を乗り出した。その動きで伝わったかは定かではないが、ビノが誇らしげな声で種明かしをした。
「交易都市“コンコウ”です!」
ビノが都市、と言った通りに、少し進むと、森が急激に開けた。
足音も、下草を踏む湿った響きから、ならされた砂利を噛み潰す濁ったものへと変化する。それもやがて、硬い石をブーツの裏側が叩く音に変わった。
(地面が石畳で舗装されてるのか……)
背中で荷物と化している身としては、平らな道の方が圧倒的に揺れが少なく助かった。
単なる平地から、明らかな人工物がごみごみとしたエリアに進んでいく。道の脇に屋台のようなものが立ち並び、大勢が忙しなく行き来しているのがわかったが、興味を持って観察している余裕はなかった。
目深にかぶったフードの下からでは、人間の足のようなものがぱたぱたと動き回っていることしか見えなかったが、何の感情も浮かばなかった。周囲から聞こえる声も、水の膜に包まれたような感覚があってはっきり聞き取れない。
そこからさらに揺られて。やがて、どこかで立ち止まったビノが、こちらの身体を地面に降ろそうとするのでようやく少し我に返った。
ここは日陰になっている場所で、冷たい石畳が尻の下にあるのを感じる。頭上で水音がした。
「はい」
ビノの声とともに、濡れたマグカップが目の前にずいと突き出される。丁寧とは呼べない動きにカップの中で高波が立って、中身が滴った。どうやら冷えた水が入っているらしかった。
金属製のそれを受け取って、乾いた唇に流し込む。満腹感とはまた違う充足感に、大きく息を吐き出した。
空になったカップをビノに手渡すと、彼は間髪入れずに新しい水を汲んできた。とりあえずもらっておくかと伸ばした手は空を切って、ビノはカップをこちらの頭上に持っていく。左手でフードを取り払い、中の水を直接、頭部に掛け流してきた。
ひりつく肌や髪が水を吸い込んで満たされていく感覚は、人間だった頃には味わったことのないものだった。ようやく乾いたマントがまた湿ってしまったが、その感触は気にならなかった。
(……ビノは俺より俺の身体に詳しそうだな……)
喉と身体が潤って、ようやく周囲のものを冷静に見られるようになってきた。フードの無い頭を上げる。
──井戸がある、
石造りの井桁と、瓦屋根の井戸屋形がセットになったよくある釣瓶式だ。ビノはこれで水を汲んでくれたらしい。
前世で見覚えのある構造が目の前にあるのは奇妙な感覚だったが、皆思いつくことは一緒なだけかと思い直した。
そこで、鞄にマグカップを仕舞っていたらしいビノが短く声を上げた。顔を向けた先、こちらを振り向いて苦笑するビノと目が合う。
「入れっぱなしでした……鞄見つかって良かったです」
その右手に握られていたのは、
(巾着袋……? 何が入ってるんだろう)
袋は僅かに膨らんでいて、動かすとじゃら、と音を立てる。あまり硬質な響きではなかった。
興味が湧いたが、ビノはその中身には言及しないまま、鞄の口金を留めて立ち上がった。
「せっかくだし、少し腹拵えしていきましょう。ここには食べ物を出すお店が結構あります」
──え?
「洞窟では助けてもらいましたからね……自分が取ってきますよ!」
──え゛
これは「道中であんなに虫食っててまだ食うのかよ」の「え?」であり、「虫を平然と食う人間が選ぶ食事って」の「え゛」だった。
しかし、当のビノはこちらが何かアクションを起こすより早く背を向けて、どこかへ走り去っていってしまった。確かに食べ物らしきものを出していた露店もあったような気がするが、疲労で細部まではよく見ていなかった。
(……不安だ……そこはかとなく……)
その一言に尽きたが、もしビノが冷やし芋虫(串に大量に刺さっている)などを持ってきて受け入れ難い場合は、彼自身に処理してもらうしかない。
(あいつの胃袋と食欲は無限に近いし、何とかなるだろ……)
そんな不安のみを一身に背負って、ビノは案外早く戻ってきた。
「どうぞ」
戦々恐々とする中、平常運転の彼から手渡されたのは。半固体状のもので満たされた木製の椀と、油紙に包まれた──
(何だこれ、チュロス……?)
質感などから、ぱっと浮かんだ最も近しい食品はそれだった。次点で、棒麩。
細長く、生地がしっかりしていて、表面が油で揚げたようになっている。ただ、その上に何かまぶしてある訳ではないらしかった。
(器に入っている方は……お粥かな……? ちょっと熱そうだ……)
木の匙で掬うと、もったりしていて、穀物の粒の形がだいぶ残っているのがわかった。ときどき明らかに大きい塊が混じっていることから、いくつかの具材が入れられているようだった。
(粥に具材……? というか、これで1セットなのか? 主食に主食みたいなやつがくっついてきてるけど)
慣れない食文化に頭を捻っている間にも、隣のビノは自分用に持ってきたらしい骨付き肉を齧り始めていた。何の肉なのか、ちょっとした棍棒くらいのサイズがあった。
粥が冷めるのを待っている間に、先に謎の揚げ物に取り掛かろうとして。
──硬ッ
予想外の硬度に、心が折れそうになった。とてもじゃないけど噛みちぎれない。触った感じではそこまでの硬さでも無さそうだったのに、と思ったところで、
(もしかして俺の顎が弱い……?)
何せ、推定食性が素手で捕まえた小魚を丸呑みだ。硬いものを齧ったり咀嚼したり、というのがそもそも想定されていない身体構造なのかもしれない。
そこまでビノが察した上でのセレクトだったのかは不明だが、もう1品が柔らかい粥で良かった、と心から思った。
(粥に浸しておくか……で、この粥の味は?)
匙で掬って、息を吹きかけてよく冷ましてから口に含む。
──ん、
(ちゃんと“うまみ”がある……)
若干薄味だが、しっかり複雑な調味がなされているのがわかった。
(鶏っぽい肉が入ってるけど……これのガラか何かで出汁を取ってるのか? あと謎の木の実みたいなのが混ざってる。この揚げたやつは……これ自体には特に味付けされてないのかな?)
総合して、普通の料理にかなり近いもののように思えた。ビノがそのあたりの虫を捕まえて直に食べたりしているからと言って、それが一般的な食文化という訳でもないらしい。感性だけは現代日本人のこちらにとっては朗報だった。
隣から響くぼきごりがり、と聞くに堪えない音をBGMに、粥を啜る。ビノが骨付き肉の骨をスナック菓子のように噛砕する音だった。
(巨大昆虫の装甲をキャラメリゼみたいに噛み砕く男が骨程度で日和る訳なし、か…………)
何となく顔を向けたら、ビノもこちらを見ていることに気づいた。目が合って、にっこり微笑まれる。
「街で出る食事は、色んな味と種類があって面白いですよね!」
──そういう感覚なのか……
清濁併せ呑むとはこういうことか、となんだか感嘆してしまった。
食事を終えた後、ビノは「急いで行かなければならないところがある」と言い出した。
暢気に水を飲んで食事を摂っている場合ではなかったのでは、と思ったが、前を行くビノの横顔に焦りは見えない。
結局、彼が足を止めたのは、そこから程近い場所にある建物の前だった。
塗装された木材でできていて、全体的に細長い。瓦葺きの軒下に大きな看板が掲げられていたが、何と書いてあるのかはわからなかった。
(何なんだこの建物……?)
考えたが答えは出てこず、ビノがここに用がある理由もピンと来なかった。
そうこうしている間に、複雑な彫刻が施された木製の扉を、ビノが躊躇なく押し開ける。
──ふわり、と。
嗅ぎ慣れない香の匂いが広がった。
「──ビノ」
奥から聞こえてきた男の声に、小さく肩が跳ねた。意識をそちらに向ける。
その声の主は、頭上と言って等しい高さからこちらを見下ろしていた。
室内は、前後で高さが異なる構造になっていた。銭湯の番台のような受付台が奥側の中央に配置されていて、その両脇に階段が伸びる形になっている。“彼”はその受付台の奥にいたためだった。
ふう、と。声の主が息を吐き出す。おそらくそれは白く煙っているのだろう、と思った。彼の手には煙管らしきものが握られていたからだ。
「たかが洞窟の探索に、どんだけ時間掛けてんだ」
彼は不機嫌を隠しもせずそう告げて、実際にそれを示してみせるように、垂らした横髪を掻き上げた。それよりも長い後ろ髪は、後頭部で丸く束ねているらしかった。
「ごめんなさい、ボス」
「謝って済むと思ってんのか? いいから収穫出せ」
きちんと手入れされてはいたが、涼しげというよりは、神経質という印象を受ける風貌だった。
ただ、そんな一般的な感想は、脳のひだの上を滑って落ちていくだけで、全く頭には入ってこなかった。
「はい!」
「は? 何だこのちんちくりん。ナメてんのか?」
「洞窟で会いました!」
「拾った場所は聞いてねえんだよ」
それ以上に、釘付けにならざるを得なかったもの。
煙管を持つ手。髪をいじる手。胡座をかいた膝の上で頬杖をつく手。冊子のようなものを開いている手。そして、その上でペンを滑らせる手──
──う、
そう。
──腕が6本ある、!?!?
左右3対、合計6本の腕を背負う男が目の前にいた。
その瞬間。
ビノと会話していたその6本腕が、ぎろっと鋭い眼差しをこちらに向けて、
──うるせぇ!!!
──!?
頭蓋の内側で、自分のものではない怒号が大反響した。まったく、初めての経験だった。
とっさに耳元を押さえる。
「……!? っ、!?」
何が起きたのかわからず、無い目を白黒させるこちらの前で。苦々しく顔を歪めた男が、わかりやすく舌打ちした。
──ポンコツ、“
再び、頭の中で声が響く。冷淡なその声音は、まさしく先ほどまでビノとやり取りしていた男の声だった。
仕組みはさっぱりわからないが、どうやら彼は聴覚をすっ飛ばして、直接こちらの思考に語りかけてきているらしい。
──“思話”……? 何ですかそれ……
──はあ? 音や形で示さないやり取りの仕方に決まってんだろ……
まるで、瞬きってどうやるんですか、と聞かれた人間みたいなトーンで、男がそう呟く。
──……声が出ないだけだと思ってました……
内心のぼやきと思っていたものは内心に留まっておらず、“思話”として外に漏れ出していたらしい。自省の呟きだったが、男はそこから別の解を見出したようで、
──お前“
彼らは見るからに種族が違うあたり、そのあたりが影響しているのだろうか。ビノに思話が通じないのは肌感覚で理解していたが、また知らない単語が出てきてしまった。
──言話……?
──……何でもいいけど、とにかく話しかけたい時以外で思話すんじゃねえよ。こっちにゃ全部聞こえてんだ。そこの使い分けくらいは流石に出来んだろ
呆れているのがひしひしと伝わる声音だった。初めて配属された部署の教育係がこういう物言いをする人だったな、と数年ぶりにトラウマが刺激された。
何の説明もないまま不親切だと思う気持ちはもちろんあったが、また同じ調子で怒鳴りつけられては堪ったものではない。努めて発声をイメージせず、文章を思い浮かべてみる。
(……聞こえてますか?)
恐る恐る頭上の男を窺ったが、
「どうしました?」
「どうもこうもねえよ……ったく、面倒臭いの連れてきやがって」
彼の顰めっ面は真っ直ぐビノに向けられていた。こういう時に忖度するタイプとも思えなかったので、使い分けは無事できているようだ。
安堵したのも束の間、
「……で、こいつの肉をバラして売り捌けってか?」
「……!?」
恐ろしい話題の矛先に、今度こそ竦み上がることしかできなかった。思話とやらを使いこなせてほっとしている場合ではない。
「違います!」
「は? 何が違うんだよ」
(やべえ屠殺される……)
ビノは否定してくれているが、頭の切れそうなこの男に対してあまりにもロジカルさが欠如している。そんな失礼な感想を抱いた。
捕食される魚や虫に対して今まで何の感情も持っていなかったが、自分自身も解体すればただの肉という自戒が足りなかったのかもしれない。
言葉が通じる相手だというのに反駁も思いつかず、震えることしかできない肩を。隣のビノが、力強く掴んだ。
「この商会に入れて、自分と一緒に仕事ができるようにしてください!」
──は。
決して広くはない室内に一瞬、明確な沈黙が流れて。
「は、」
それを破ったのは、
「はあ〜〜〜〜〜??」
男の怒号に近い叫びだった。明らかな怒りが噴出したそれに、ビノはどうするのかと思えば。
「お願いします!」
「お願いって……おい!」
「お願いします!」
平謝りならぬ、平祈り。キャパオーバーした脳に千と千尋の冒頭のやり取りが思い浮かんだ。
最終的に、怒鳴っても梨の礫だと悟ってしまったらしい男は、イライラが滲み出た顔で、
「要するに、お前は、俺に、この思話と言話の違いもわからんポンコツを雇え、と言ってる訳だ?」
「そうです!」
「そうですじゃねえよはっ倒すぞ」
(全く話の細部が見えてこない……!)
どうもビノはこの異種族の男に雇われていて、洞窟にやってきたのもその絡みで、ビノはなぜか同じ職にこちらを引き入れようとしているらしいが。
意図がよくわからない。そもそも、仕事の詳細自体もわからない。それに尽きた。
「大体このちんちくりんに何が出来るってんだ、ええ?」
男が行儀悪く煙管でこちらを指して言い放った言葉に、とっさに同意しそうになった。
──今までの人生で、自分に何か特別な力があるなんて思えたことはない。それほど努力もしていないと言われればそれまでだが、誰かに認められるような才能なんて、自分自身には。
「このひとは、自分にはできないことができますから」
はっ、と。我に返った。
水から上がったような心持ちで、ビノの落ち着いた声を聞く。肩に置かれたままの手の重みを、今さら感じていた。
「きっと役に立ちます」
思わず、頭上のビノの顔を見上げていた。目が合って、微笑まれた。力強い笑みだった。それを、街の夜景を見るようにぼうっと眺めていた。
「……お前にゃ無理だと思って回す気がなかった仕事が1コある」
抑えた呟きで、現実に引き戻された。仏頂面の男が、据わった目でこちらを睨んでいた。
「何ですか?」
「調査と討伐だ」
理詰めでも怒鳴っても効果がない。このままでは埒があかない、と悟ったらしい男は、不承不承でもこちらの土台に乗って条件を提示する気になったようだった。それだけはわかったし、何となく嫌な予感がした。
「街を出て、ずっと西に行くと沼地に出る。普段なら魚やらなんやらが獲れるんだが、最近見慣れない“
──?? 何て?
「おそらくそこの沼地に棲んでた奴じゃなく、
──どこの何??
理解不能な専門用語の数々に、こちらが頭上に不穏なクエスチョンマークを振り撒いている間にも。
「そいつを捕まえてこい。生死は問わん。以上」
機嫌が悪いことだけは確からしい男が、さっさと会話を打ち切ってしまう。
「……わかりました!」
(俺は何ひとつわかってないが大丈夫か?)
ビノの底なしの明るさは、今となっては不安要素でしかなかった。
会話が通じないのに、ビノだけに認識を任せておく訳にはいかない。土壇場で彼が「よくわかりません!」などと言い出しても、今の自分では対処のしようがない。
──ちょ、ちょっと待ってください……スイシンチュウ? って何ですか? ポンコツと言われようが俺、本当に何も知らなくて……
恥を忍んで男にそう呼びかけたが、盛大な舌打ちとともに、
──
(て、適当……!)
ゲームのお助けNPCの発言だったらクレームが来そうな内容しか返ってこなかった。
こちらが呆気に取られている間にも、
「さっさと行け!」
「はい!」
──いやっ、ちょっと待ってビノ……!
犬のように元気よく飛び出していってしまったビノを慌てて追いかける。今はとにかく、それしかできなかった。
──不安だ〜〜……!!
こうして、異世界に来て初めての“仕事”が、不安という暗雲が色濃く立ち込めたまま、幕を開けたのだった。