ビノとシトギ ──異世界異食冒険譚── 作:プリン定食
結局、入ったばかりの街を観光もせずすぐに出ることになってしまった。
ただ、謎の依頼の不安が大きく、その時はそんなことを意識している余裕はなかったが。
また道なき道をビノの先導で進む旅路が再開して、どれくらい経ったのか。
「ごめんなさい」
前を行くビノの呟きで、ふと我に返った。
顔を上げたが、ビノは前を向いたままだ。
謝られている。それはわかったが、あまりぴんと来なかった。
「怒りましたか?」
そう淡々と続いて、ようやくこの依頼云々についてか、と理解できた。
こちらはビノから何の説明も確認もなく、こんな状況に放り込まれている訳だが。どうも彼なりに、強引な真似をしたという自覚はあるらしかった。
しかし、その声音は恐ろしいくらいに平坦だった。響きだけでは何の感情も読み取れないと言って差し支えない。
目の間で、大きな背中が前触れなく急停止する。ぶつかりそうになって慌てて立ち止まった頭上で、ビノがゆらりと振り返った。
「こうするのがいいと思ったんです」
無表情が、影を背負ってこちらを見下ろしていた。逃げも媚びも感じられない、義務的な口調で続けてくる。“すべきと思ったことをただこなしている”という雰囲気だった。
「…………、」
怒りは感じなかったが、少し気圧されはした。今までの彼のイメージとはあまり結びつかない振る舞いだった。
(ビノって意外とコミュニケーション下手……?)
思ったより自我が強固というか、それ以外の視点をナチュラルに持ち合わせていないように見える。ただ、わざわざ謝ってきたあたり、その我の強さが他者との間に何を生むのか、ということについては理解していそうだった。
恩人という弱みもあってか、そのジレンマはある種のいじらしさとして映った。こちらを見つめたままのビノを見上げて、首を横に振る。
──怒ってないよ。ちょっと……急で驚いたけどな
妙に聡いところがあるビノは、それでこちらが本当に怒っていないことがわかったのか。無言で前に向き直った。再び歩き始める。
そこからはしばらく沈黙が続いたが、まだ何か思うところがあったのか、再び口を開いた。
「……何もしないままで食べるものは手に入りません。食べるものが手に入らなかったら、死ぬことしかできません」
だから、こうするのがいいと思ったんです。
そう言った。
「あの商会は……自分みたいな狩猟者とか、交易者が何人か居て、ボスがまとめ役なんです。自分は大きい蟲を捕まえるとか、危険な場所を調べるとか、そういう仕事をよく回されてます。食べていくには困らないところです」
総合すると、ビノは彼なりにこちらの今後を慮って、この仕事を紹介してくれたらしかった。確かにビノの現状だけ見れば、案件のついでに好きなだけ腹を満たせて、これ以上ない好条件だ。
仕事内容自体も、身体能力に恵まれて怖いものなしの彼にとっては間違いなく向いているものと言えるだろう。
(まあ、ビノにとっては良い仕事かもな……)
自分自身にとってはどうなのか。それが今日決まるのだと考えると、身が引き締まる思いがした。
──……水の音がする
そんな気配を悟って顔を上げたのと、ビノが再び足を止めたのはほぼ同時だった。
「ここです、」
ビノがやや緊張した面持ちで、大胆に開けた目の前の空間を指差す。
──うおお……これ全部が例の沼地か……? だいぶ広い気がする……
知覚する限り、水しかない。壁に開いた横穴さえ感知できたあの地底湖の空間は相当狭かったのだな、と改めて思う。
──まあ、とりあえずその
こんな広い水場でそんな真似が可能なのか、という不安が頭をちらついたが。ビノの身体能力を以てすれば、全くの不可能でもない気がした。
早く行こう、という意思を込めて、隣のビノを見上げる。
「…………」
いつもは返ってくる視線が、今回は真っ直ぐに水平線に向けられていた。唇も固く引き結ばれている。何となく、違和感を覚えた。
「…………」
「…………?」
──どうした?
あまりにも無反応が続くので、服の裾を軽く引いてみる。そこでようやく、弾かれたようにこちらに向き直った。
ただ、その表情は変わらず強張っている。
困惑するこちらの前で、ビノはぎゅっと、両の拳をきつく握り締め。
「──泳げないんです!!」
悲壮な声で、そう言い放った。
──は。
泳げない?
泳げない、
「────、」
その瞬間、洞窟から交易都市までの間に薄っすらと感じていた不可解さの全てに、天啓のように答えが降り注いで。そのアハ体験の先に残ったのは、
──……怒っていいか?
「ごめんなさい!」
びゅっと手頃な樹木の後ろに逃げ込んだビノが、顔だけ出して謝ってくる。その態度で、一朝一夕でどうにかなる問題でないことだけは理解できてしまった。
種族的な問題か、彼自身の体質かはさておき、「本当に出来ない」のだろう。命綱なしのクライミングを二人羽織で敢行する胆力のある男が言うと、嬉しくない説得力があった。
(地底湖で溺れたのも、遠回りになっても壁伝いにあの空間を出たのも全部、泳げないから……)
嫌な答え合わせだった。
雇い主とのやり取りに関しても、この前提を踏まえれば全て納得がいってしまう。
──お前にゃ無理だと思って回す気が無かった案件がある。彼はそう言った。
雇い主は、ビノがまったくのカナヅチであることを知っていて、それで、ビノではなくこちらを試したのだ。
このちんちくりんが、"本当に使い物になるのかどうか”を。
(少し考えればすぐわかることだったのに、迂闊だった……)
ビノは雇い主に対し、「自分には出来ないことが出来る」と自分を紹介していて、それが答えそのものだったのだ。
(ビノは俺がこの狩りをこなすことを期待している……というか、頼らざるを得ない状況だ)
彼は、洞窟にいた時、こちらが地底湖の魚を捕まえて食べているのを目撃している。おそらく、水中の狩りに知見があると思われている。
その判断は理解できる。できるのだが、
(無理…………)
頭を抱えたくなった。いや、実際に地面へしゃがみ込んで、抱えていた。
あの行為は生きるためにはやむを得ないと割り切っていただけで、別にやりたくてやっていた訳でもない。ほとんど何も考えていなかったし、技術が身になっている気もしなかった。
なにしろ、こちらの中身は平和ボケした現代日本人なのだ。家に出るゴキブリにすら怯えていた身で、何ができるというのか。
(この世界の虫って大体デカいし凶暴じゃん……そんなのを俺1人で……? 正気じゃない……)
洞窟から出たのは、ビノがいたからだ。ビノがいればなんとかなると思っていたのに。どこにも吐き出せない弱音が澱のように渦巻いている。
(大体、それで死んだらどうすんだ……)
──死、
何となく思い浮かべたワードが、魚の小骨のように思考に引っかかった。
何もしないまま食べるものを得ることはできない。食べるものがなければ生きていくことはできない。
先ほど耳にしたばかりのビノの言葉がリフレインする。
その通りだ、とその時は思った。
その通りだ。今も、そう思えた。
魚の減った水面を見つめていた時の気持ちを、光差す洞窟の出口を眺めていた時の気持ちを、思い出していた。
(そうか……俺はまた、あの時みたいに立ち止まって、自由とかいう泥沼に足を取られて沈んでいくのか?)
自分は特別な生き物ではない。自分にしかできないことなんてない。そう思っていた。
それは違う、と言ってくれた存在がいた。
──きっと役に立ちます。
頭の内側で、その誰かがそう囁いた。
(……そうだ。ここで立ち止まっていても意味がないんだ)
ゆっくりと立ち上がる。頭の中にかかっていた靄が、ようやく晴れたような気分だった。
(正解はひとつしかないのがわかっていて、それを選ぶ覚悟がないまま息をしていても、死んでいるのと同じだ)
ならば、やるべきことはひとつだった。
──死んだ気になってやれッ!!
顔を上げる。
──ビノ!
未だ木の陰からこちらを覗いていたビノのもとに、駆け寄った。その眼前に手を突き出す。
──ロープ持ってただろ。貸してくれ!
「え? なんですか?」
──ロープ! ああもう、
ビノの背中にぴょんと飛びついて、背負った鞄の口金を開ける。しがみついたまま、その中身を漁った。
並外れた体幹を持つビノは、そんな荒っぽい真似をされてもふらつきさえしなかった。黙ってされるがままになっている。
──……あった!
ビノが壁を登る時に使っていた縄の塊を、鞄の底から引っ張り出した。何に使うつもりなのか、相当な長さがありそうだったのを覚えていた。
ビノは二重にして巻いていたそれを解いて、自身の腹辺りにきつく巻きつける。結び方はビノの手つきを真似した。少し苦しかったが、解けたら元も子もない。
ロープの端は、無言でこちらを観察していたビノに握らせた。
「?」
──俺がこうして引っ張ったら……引っ張り上げてほしいんだよ。わかるか?
腹に近いところのロープを掴んでこちら側に引き寄せると、力が入っていないらしいビノの右腕がついてきた。今度はその手首を掴んで、ビノ側に引っ張ってみせる。
真顔で首を傾げたビノが、
「引っ張られたら、引っ張り上げればいいんですか?」
──そう!
こういう時の物分かりが良くて助かった、と心の底から思った。
(これは保険だ、)
お互いにとっての。
ロープの結び目に触れて、思う。
(いざとなったらビノに引き上げてもらう)
(こいつの力で思いっきり引っ張られたら内臓破裂しそうな気もするが……水底で死んだまま、とかいう最悪の事態を放置しておくよりはまだましだろう)
こちらがいつまでも上がってこなかった時、ビノがどういった行動を取るのかは想像できなかったが。“万が一”が起こった時は、早めにわかるようにしてやるのが最後に唯一通せる筋だろう、という気がしていた。
ビノに背を向ける。波打ち際まで歩いていって、一旦足を止めた。
深く息を吸って、吐き出す。
──……じゃ! 行ってくるから……
「待ってください!」
──ぐえ
いきなりロープを引っ張られた。そこまで強い力ではなかったが、突然のことすぎてひっくり返りそうになった。
覚悟に水を差された気持ちにもなって、何だよ、と苛立ち混じりに振り返った先。
「これを」
ビノが、自身のベルトから抜き取ったナイフをこちらに差し出していた。今まで使う素振りはなかったが、あのロングソード以外にも小回りが利く刃物を持ち合わせていたらしい。
生唾を飲み込んで、それを受け取る。どうも金属製ではなさそうだったが、じゅうぶん鋭そうだ。
(無いよりはよっぽど良いよな……)
しっかり握って、今度こそ沼の中に身体を沈めた。
──沼の水は、地底湖のそれに比べると温度が低く、視界が悪かった。
とにかく、不純物が多いのだ。木の葉だの枝だのがあちこちに揺蕩っている。
(秋に見かけた学校のプールみたいだ……嫌な連想しちゃったな)
何となく、着たままのマントの袷目を正す。
泳ぐのに邪魔になるかとも思ったが、裸一貫だと防御力が低すぎる、と考えた結果の苦肉の策だった。
(……しかし、一番の問題は水針蟲がどいつなのか、なんだよな……)
こちらは水針蟲の見た目を知らない。あの雇い主は「見ればわかる」と言っていたが、彼が熟慮の上でその発言をしたとは思い難かった。
(でも多分、虫っぽい、というか、節足動物なんだろうな……)
げんなりしながらそう考える。
ビノは地底湖の小魚を「魚」と呼んでいた。少なくとも魚類に相当する見た目なら、この世界でも魚扱いされていると考える方が自然だ。
しかし、洞窟にいた虫の外観などを踏まえると、この世界ではカニやエビの類も引っくるめて「虫」扱いされていてもおかしくはない。
(だって、詳しくないのはそうなんだが、水中にいる虫って言われてもあんまピンと来ないし……今だって魚はいるけど)
危険を感じる闖入者から逃れようとしているのが、水流の変化で伝わってくる。
(もっと下を探したほうがいいのかな……ん?)
何かが、水底を這っていた。
通常の昆虫というにはあまりに巨大で、甲殻類と呼ぶにも手に余るようなサイズだったが。そのフォルムには、若干見覚えがあった。
──……カブトガニ?
つぶらな双眼が天辺に埋め込まれた半月型の前体部に、先細り気味の後体部。確実にそうだとは言えないが、巨大なカブトガニに似た生物が数匹、眼下に蠢いている。
そして、その形状の中で一番こちらの目を惹いたのは。
──尾が尖ってる……
鋭く尖った尾節。針、と呼んで差し支えなさそうなその鋭利さに、唾液を飲み込む。
水、針、蟲。水中に居て、針のような部位を持った蟲。
(こいつなんじゃないの……?)
期待を込めて、近づいていく。水針蟲(仮)はこちらの気配に気づいて逃げようとしたが、その動きはかなり緩慢だった。
(生死は問わないって言ってたし、いいんだろ、殺して。……うえぇ、南無三……)
差別的と言われようが、巨大な節足動物を殺めて痛む心は持ち合わせていない。命を奪う段階まで来ても、生理的な嫌悪感だけがあった。
(これはカニ……これはカニ……誰が何と言おうがカニの一種……)
半月型の甲羅は硬くて刃が通らなさそうだった。蹴り飛ばす勢いでなんとかひっくり返し、出来るだけ頭部に近い部分にヤケクソでナイフを打ち込む。
(いや裏側キモ……虫すぎる……)
あまりの気色悪さに、感知を切らざるを得なかった。水針蟲はしばらくじたばたともがいていたようだったが、やがて動かなくなった。
──……ふう……とりあえず、これでいいのかな? 恨まないでくれよ……
尾節を掴んで、ロープを引く。
地上のビノに合図が伝わったらしく、すぐに引っ張られる感覚がした。思っていたより優しい力加減だった。
「おかえりなさい!」
──うお、
岸に乗り上げようとしたタイミングで、喜色満面のビノの手が脇に入って、なぜか抱き上げられた。浮力でなんとか支えていた虫の重みが左腕にもろに掛かって、取り落としそうになる。
──虫重い! こっち持って!
「あ、すみません」
じたばたしたことで意図が伝わったらしく、こちらの身体を降ろしたビノが、左手の水針蟲を軽々と掻っ攫っていく。
その死骸は最終的に、びちゃ、と情緒のない音を立てて、地面に打ち捨てられるに至った。
──何とか倒してきたぞ……この気色悪いのがその水針蟲なら、さっさとこいつ持って帰ろうぜ……
期待を込めて、隣のビノに顔を向ける。彼はこちらと違って「スイシンチュウって何ですか?」などと宣わなかったあたり、最低限の知識は持っていると思いたかった。
しかし、ビノは真顔で眼下の死骸を眺めている。何か考えているふうでもあった。
──何だよ、
「……これは確かに水針蟲だと思いますが、この1匹だけでしたか?」
──え?
「まだ他にもいましたか?」
ビノからの問いに、意図がわからないながらもとりあえず頷いておく。確かに、この蟲は複数匹いたからだ。
すると、ビノは珍しく若干眉根を寄せて、
「これは……この辺りに元から住んでいる水針蟲なんじゃないですか? 複数匹いるようだし、あまり危険にも見えませんから」
──え゛
「それに、
──いや怖いこと言わないでくれる?
この水針蟲だって、尾節の先端まで含めれば、こちらの身丈に近しいサイズだ。
これよりも大きい個体──洞窟の横穴に詰まっていたあの虫を思い出して、身震いする。そんなものと戦わなくてはいけないのか。
「ごめんなさい、水の中の生き物にはそんなに詳しくないんです。泳げないから」
「…………」
ビノの弱気に便乗して彼の仮説を否定したい気持ちは、もちろんあったが。己の理性は、その仮説が正しいと叫んでいた。
まず、最初の依頼の内容からして、流れついた凶暴な外来種をどうにかしてくれというものだった。それなら確かに複数匹いるのはおかしいし、こんな簡単に仕留められるのもおかしい。
要するに、本命はまだ残っているのだ。
「〜〜〜〜、」
「大丈夫ですか?」
──っ、いいし……こいつは水針蟲の確認のために持ってきただけだし……
間違いなく収穫はあった。最大の不安は取り除かれた。あとは、これと似た虫を見つけて、倒せばいいだけだ。
そうだろう。自分自身に言い聞かせる。
──やればいいんだろ、やれば……!!
手の中のナイフを睨んで、握り直した。
選択肢はひとつしかない。やるべきことはひとつしかない。それはまったく変わっていない。
──ここで退いたら結局飢え死にだ! やってやんよ!!
言葉は伝わらずとも、込めた気迫は流石に伝わったらしかった。対面のビノが、厳かに顎を引いた。