直死の魔眼保持者・鬼方カヨコ 作:カヨコ大好き
俺はこの結果を……未来永劫自慢するだろう——!!
ん?ああ。貴女でしたか。
お疲れそうって?……そりゃあそうですよ。こんっの忙しい時に、万魔殿が書類を作れ、なんて言ってきましてね。
万魔殿メンバーの丹花イブキが万魔殿に所属してからの犯罪率の低下と風紀委員の活動の甲斐のなさの釈明書……だそうですよ。
まあ、もうなんかいう気力も起きませんし、取り敢えず手伝ってもらえませんか?
は?え!?休む?
ちょ、どこ行くつもりですか!?
万魔殿がどこにいるって?多分、そりゃあいつものとこで……
って、だから!どこに……
って、あれ?ヒナ委員長?
もしもし……あ、また美食研ですか?ああ、いや……委員長の手を煩わせるわけには……
直ぐに対処しますから。
はい。お任せください。
フーー………
いいですか?貴女はそこで待っていてくださいよ。話は後で聞いてあげますから。
*
その場所を見つけたのは、例の電話を受けてから翌日の朝だった。
手掛かりも無く誰かを探すのは難しいが、逆に言えば、一度手掛かりさえ見つけてしまえば探すのは楽勝だった。昨日見つけた猟奇事件の被害者達と同様だ。
兎に角道にいる人や、探している人間と繋がりのある人に片っ端から声を掛けてその人の足取りを掴む。
人間、生きてさえいればどれほど頑張っても痕跡を消すことなど出来はしない。
そこさえ見つけてしまえば芋蔓式に他の痕跡も見つけることが出来、最終的には居場所にも辿り着ける。
これは、私だけができる特技のようなものだ。
どんな時だろうと、失せ物を探す時は自分が一番に見つけられる。
それは、あの時も同様だった。
*
そこはキヴォトスの中心地から離れた場所にあった廃ビル。
詳しいことは分からないが、元々は小さな会社の営業ビルだったらしい。一度はそれなりの大きさにはなったものの、二年前に経営不振により倒産。
以降は買い手も見つからず、かといって取り壊そうとする者も現れることもなくそのまま十年以上放置されているそうだ。
その廃ビルの六階の一室に、私は迷うことなく向かった。現在のこのビルは所有者のいない廃ビルとなっているが、ソイツはそこにいるというのは分かっていた。
廃ビルはサンクトゥムタワーのように一階からエレベーターで室内の様々な階層に向かえるという作りはしておらず、どちらかといえばアパートのように外側にある階段を通り、その後に壁に取り付けられている扉を通して階層に入るという、簡素な作りをしていた。
八月の初頭ということもあってその日は非常に暑かった。
道路のコンクリートは鉄板のように熱くなり、暑さによって私の見ている光景の輪郭はゆらゆらと揺らめいている。
扉の前に立つと私はノックすることなく部屋に入る。
部屋の中には照明がつけられておらず、朝だというのに薄暗い。
側面の部屋を確認しながら木製の廊下を歩いて奥の一室…………恐らくは会議室に入る。
会議室には以前は使われていたのだろうテーブルが、折り重なるように積み重ねられていた。
まるでバリケードのようだと思いながら触ってみるとガタが来ていたのかグラグラと揺れ、何年も掃除していなかったのだろう黄色い埃と共に崩れ落ちてしまった。
「“……………………”」
埃を吸ってしまうのは御免なので、ハンカチを口に押し当てて煙のような埃が晴れるのを待つ。
部屋の中を見渡してみるが、机の他に目につくものは何もない。ガランとした部屋に、夏の朝日だけが眩しかった。
「“奥にいるだろ?入るぞ。”」
奥には私が入ってきた入り口とは別のもう一つの扉があった。中に入るのは私の中では決まったことなので、一々確認はせずに部屋に入る。
中は真っ暗だった。外の人間に中に人間がいないように見せる為か、雨戸が閉じられていたからだ。
朝日が開けたドアから部屋に入り込む。
ゆっくりとスポットライトのように伸びていった光は、やがて奥に置かれていた机とその傍に座っていた男の姿を映し出した。
「……おや?ようやっといらっしゃいましたか。ククク。待ちくたびれましたよ」
その男は、紳士のような態度と口調でそう言った。
男、とは言ったものの、実際に男なのかどうかは判別はつかない。発声や声のトーンから男だろうと推測しただけで、立ち姿は人間のそれとは大きく異なっていた。
人型だとは認識できるが、同時に人ではないと確信できる、そんな禍々しい姿。
私は男を『黒服』と呼んでいた。その名前に偽りはなく黒いスーツを着込んでおり、同時に体は影の様に黒く、そしてマネキンのような無機質さを感じさせる。
男の体表は、凡そ皮膚と呼べる柔らかい質感ではない。
右目と思われる場所は大きく割れていて、そこから漏れ出している黒い炎のようなもやが、顔のような紋様を作り出していた。
本来なら丁寧かつ達観した様なその口調と立ち振る舞いは男に何処か柔らかな印象を持たせるのだろう。だが、神話の怪物のようなその外見では、不気味な雰囲気しか受け取ることはできない。
何なら、私はコイツのことが嫌いだった。
「まあ、貴方の能力を持ってすればこの程度のことは容易いのでしょうが。あのまま会話をしていただければ、私は貴方をこの場所に招待致しましたのに。」
「“………御託はいい。そもそもあの場所にはホシノがいたんだ。だったら、お前に会わせるようなリスクを取る訳ないだろ”」
「成程。アビドスの時と同じ理由ですか。ですが、その為に一人で来るというのは少しばかり無茶と言うものですよ」
この男と初めて出会ったのは、アビドスでの一件でだ。この男がホシノを騙して契約を強いた結果としてホシノを失ったアビドス対策委員会は窮地に立たされた。
この男、若しくはこの男が所属している組織はどういうわけか私を買っているらしいが、子供を食い物にするコイツ等を私が信用するわけがない。
「“…………言った筈だぞ。御託は結構。さっさと本題を言えよ。”」
私はそのまま黒服に言葉を促す。この男の一番厄介なところはその口八丁だ。多少の荒のある要求も、一見紳士的な態度と見かけだけの歩み寄り。その二つを駆使することで飲み込ませてしまう。
コイツとの会話で重要なのは、ペースを向こうに握らせないこと。あくまでもこちらの要求だけに従わせること。それを心がけることだ。
「そうですか、では単刀直入に。先生、我々と手を組みませんか?」
帰る。その喉まで出かかった声を私は咄嗟に吞み込んだ。そもそもこの要求は前回も蹴ったものだ。この男は大人としては最低の部類に入るが、同時に馬鹿ではない。
だから、この男がその要求をして来たのには必ず理由がある。ともすれば、私も知らなければならない重大な理由が。
「“…………一応聞いてみるけど、私がお前と手を組んだとしてそのメリットは?
一応言っておくけど甘い汁を啜れるとか生徒を食い物にできるとか、そんな理由だったら私は帰るよ。私は、生徒の為に生きる。それだけが肝要なんだ。
お前たちが思う幸せと私が信じる幸せ。それは決して同じじゃない。それは、アビドスの時にも伝えたはずだったけど”」
冷静に相手の一挙手一投足に目を向け、懐の大人のカードを手で掴む。もしこの男が私の質問に答える以外の動作をした場合は速攻で取り押さえる。
それは黒服にもご理解いただけたらしく肩を竦めると言葉を発し初めた。
「《《それ》は、あまり使うべきではないとお伝えした筈ですが………ククク。
恐ろしいお方だ。そのカードの危険性を理解しながら、我々の目的、立場。その全てを利用して自らを人質とするとは。
確かに貴方は私の仲間になり得て、マエストロの理解者と夢想され、ゴルコンダ、デカルコマニーと高めあえると期待されている存在。そんな貴方が人質とあっては我々も要求に従わなければなりませんねぇ。」
黒服の薄気味の悪い声色を聞きながら、私はコイツに見られないように後退すると扉のドアノブをゆっくりと回し、扉に寄り掛かった。
そのことに気が付いているのか気が付いていないのか、一切変わらない態度のまま黒服は口を開いた。
「…………殺人事件」
「“────は?”」
その日は、やけに蝉の鳴き声が五月蝿いと思っていた。私はソレが嫌いだ。纏わりつくような奴らの鳴き声は、何処か夏の暑さに似ているから。
先程まで消えていた電灯が、チカチカと張り切れた網が切れたかのように、消灯と点灯を繰り返す。
私は無意識のうちに扉から離れ、黒服の目の前に戻っていた。
「“それ、どういう意味?答えて”」
私の言葉に、黒服は笑みを漏らす。クツクツとした声は私を苛立たせる。
黒服の顔が私の側まで近づく。
私は懐から大人のカードを取り出そうとして、辞めた。何となく、今はそんな気分じゃなくなったから。
「二年前、このキヴォトスでとある殺人事件が起こりました。
被害者は皆、身元も分からない程にまでバラバラにされた狂気的殺人事件。予め伝えておきますが、現在のゲマトリアの人間はこの事態には一切関わっておりませんでしたよ」
点いたり消えたりを繰り返している光が、机に反射して乱反射する。
私は、必死に自身の記憶を遡っていた。二年前どころかここ数年間にどのような事件があったのか、そのことについての記録は読み漁っている。だが、殺人事件だなんてそんなことが起きていたなんて見たことも聞いたこともない。
何処かで見落としたのか?
「心配いただかなくとも、例の事件は箝口令が敷かれていた為に知る人間は殆どおりません。
知っているのは、そうですね……事件の起きた学区の治安維持組織のメンバーの一部。と言ったところでしょうか?」
「“その学区って?”」
私の質問に黒服はゲヘナとトリニティの二校だと伝えた。何とも、私の内側は複雑だ。
二年前は私が介入する余地など一つも無かった。
ソレなのにも関わらず、私の内側には無力感のような感情が巻き起こる。
どうすれば防げたのか。とかどうするべきだったのか。などの幾つものifが脳内を駆け巡っていた。
何とも傲慢だ。
私には過去を変える力は無いし、二年前に私がこのキヴォトスに来ている道理は無い。
先程はifと言ったが、それすらも間違いかもしれない。
私がしているのは、もしもの後悔や内省ですらない。
ただの、妄想だ。
「“質問、良いかな?”」
「どうぞ」
そんなことを考えついた瞬間、私はすぐさま視点を変えた。
即ち、過去ではなく今。
この男がその事件について、私に教えてきた理由。そのことについて考えを巡らせなければならない。
「“質問は二つなんだけど、そもそもどうしてこの話をした?それから、この話は一体、これからの話になんの関係があるの?”」
「質問に対する返答を順にしていきましょう。
一つ目は事態の深刻さを貴方に認識して頂くため。
二つ目はこの殺人事件を追うことこそが、我々が手を組むべき理由だからです」
「“なら、更に質問を重ねよう。どうして殺人事件を追っているんだ。”」
私の質問に、黒服は一瞬黙った。
はぐらかした時点で何となく分かってはいたが、ここは触れて欲しくなかったらしい。
「“……どうした?話せないのか。話したくないのか。なら、私は帰らせてもらうよ”」
「…………いいえ、話しましょう。
先程、
ベアトリーチェという女がいます。
彼女は二年前、自身の息のかかった生徒をゲヘナ、トリニティの治安維持組織に潜入させて事件の調査を裏でコントロールしていました。
お察しの通り、彼女はもともとはゲマトリアに所属していた人間です。ただ、数ヶ月前にゲマトリアのマエストロの作品と理論。そしてゴルコンダの発明品を奪い、逃亡しました
我々もその時点では大した問題ではないと認識していましたが、少々、不味いことになりまして」
「“不味いことって何だ?言ってみろよ”」
私の言葉に、黒服はため息をつくと言葉を重ねる。
「彼女は、私達も知らない。恐らくは外の世界の力と思われる、何かしらの異常な力を把握していたのです。
それが何なのかは分かりませんでしたが、それによって彼女は何人もの、俗にいう超能力者を生み出し、このキヴォトスで暗躍を続けております。
この脅威は我々の手に余り、そして先生としては見過ごせない事実でしょう。なんといっても現在起こっている猟奇事件も、その超能力者によって引き起こされているのですから」
猟奇事件。恐らくは現在起こっている傷害事件の事を指していると思われるその単語を、私はゆっくりと噛み締めていた。アレは確かに普通のキヴォトスでは起こり得ない事件だ。
事件の被害者の関連性はアコが指摘した通りだが、その被害者の負わされた怪我が問題だ。それはキヴォトスに於いては有りふれた、銃撃によるものではなく、まるで獣につけられたかのような細くて連続した鋭いものでつけられたと思われるものだった。
ソレが意図的に引き起こされた混乱なら、確かに私と手を組む理由はあるのかもしれない。
……だが、その事実に隠れて今コイツは再び真実を隠そうとした。
嘘をつくのではなく、真実を語らないという方法によって。
「“それじゃあ、おまえが隠そうとした真実を語って貰おうか”」
「……隠そうとした?何のことでしょうか」
私からの質問に黒服はシラを切った。
だったらこちらからも追及させてもらおう。
「“隠そうとしても無駄だ。
私は、超能力者について調べている生徒を一人知っている。名前は鬼方カヨコ。
彼女はゲヘナの三年の人間で、お前達の言っていた殺人事件も、ゲヘナで起こっていた。なら、ゲヘナの生徒である彼女が事件と関わっていたとしてもおかしくはない。
何なら、彼女と初めて出会ったのはお前と初めて出会ったアビドスの一件でだ。
ここまでの共通項があって、関係無いなんてあり得ないだろ?”」
私の言葉に、黒服はほんの少しだけ笑みを漏らした。
普通に嬉しくないんだが。
「流石です。先生。
彼女は間違いなく事件の関係者。それも深いところで繋がっています。
我々としても事件とベアトリーチェの調査を行う人間は必要だった。
彼女の実力は暁のホルスのような上澄には遠く及びませんでしたが、代わりに頭が良い。」
まるで一見隠しているようで、本当は言いたくて言いたくてたまらなかった子供のように、黒服は臆面もなく言葉を発し続けた。
効率を極めると正義がなくなるのか。それともこの男が悪辣なのかは考える気にはならなかった。
「その問題だった戦闘力も、この数ヶ月は我々の行う訓練によって急速に上昇しました。
青春を捨て、己の目的の為に行動出来る彼女と手を組めたのは、我々としても幸福でしたね。
身体能力の向上と他人を傷つけることへの抵抗感の減少。とても唯の少女が受け入れられることではありません。彼女は今や、このキヴォトスでも一二を争う冷酷な鉄の兵卒となりました。
自らの目的の為とは言え、自らの身体を改造しても良いと言った時には、流石の我々も驚きましたが……」
その時点で、私は煙草を取り出した。そうして一服する。元々は自分の昂りすぎた感情を落ち着かせる時に使用していた習慣だが、キヴォトスに赴いてからは生徒のことを考え吸わなくなったものだ。
ある意味では、自分自身に私は冷静です。と言い聞かせる為のものかもしれない。
「……先生?」
「“お前、少し黙れ”」
*
八月十四日、昼。
鬼方カヨコはトリニティで借りた借家の一室にて、ただぼんやりと空を眺めていた。
夏の空模様は一目すれば飽きてしまうほどに広い。雲一つない蒼天に、ただ燦々と太陽が光り輝いている。
天気予報によるともう直ぐ台風がやってくるらしい。
この、青い絵の具だけで描けるような青空が、少しすれば吹き荒んだ暗雲によって覆い隠されてしまうなんて、とてもではないが信じられない。
主に感謝せよ、主は恵みふかく、 そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
もろもろの神の神に感謝せよ、 そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
もろもろの主の主に感謝せよ、 そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
耳鳴りのような鐘の音の後、少女達の“感謝の祈り”とやらが聞こえる。
借家は教会の隣にある。窓際にいるカヨコからは教会で行われている祈りが、頻繁に耳に入っていた。
カヨコは無言のまま、意識を地面に置かれたスマホの方へと向ける。
先ほどから、ゲマトリアの一人から電話が来ていた。
『聞いているのか?
例の猟奇事件は害獣の仕業として処理され始めているらしい。確かにあの傷は獣によってつけられた以上、間違ってはいないが正しい真実とは言えない。
何故、あの女を見逃した。』
「うるさいな」
取り敢えずカヨコは電話を切った。
自分を頼っているだけのコイツ等に一々自分の行動を指図される筋合いは無い。自分は自分の好きにやらせてもらう。
しばらくすると、再び電話のコールが鳴り響いた。
少し無視していると、電話は留守番電話に切り替わる。
『聴く気がないのなら、こちらから一方的に報告をするぞ。昨日も例の猟奇事件の被害者が出た。
これで十四人目だ。少し前から被害者の数は異常な速度で上昇している。』
そんなことを男は言っているが、カヨコはそちらのことはもうどうでも良かった。
自分の関心は長年追い求めていた殺人事件の尻尾の方ばかり向いており、他の事件なんて心底どうでも良いと思っていた。
なんなら、今回の犯人の目的は自分なのだ。放っておいたとしても、彼女はやがて自分に還ってくる。その時に捕えれば良いだけ。
そう、その瞬間までは思っていた。
『良いか?今回の事件の被害者は
その言葉が聞こえた瞬間、カヨコは勢いよく受話器を取っていた。
「どういうこと?私は万魔殿のポッと出の連中と、
『急に食いついたな……
生憎だが、その理由は私は知らない。だが、ある程度の想定は出来る。
ネメシスの理論は、本来ならロイヤルブラッドという土壌があって初めて成立する物だ。
にも関わらず、今回はそれとは別の人間にその理論を当てはめている。
まず間違いなく身体や精神を弄ったのだろう。薬で正常な判断が出来なくなるようにするなり、その身体にロイヤルブラッドの血を輸血するなり、可能性は十二部にある。
分かりやすく言えば、そうだな。
今の奴には常識は通用しない。正常なように見えるのは、偶々それが正常なチャンネルと同じ側面があっただけに過ぎない。
論理的思考をしていると考えていたら、足元を掬われるぞ。
監視カメラの映像と、貴様のスマホを繋げてやる。それで、完全ではなくとも奴の足取りを追い続けることが出来るだろう。
後は好きにしろ』
その言葉を最後に電話は切れた。
カヨコはその後何をするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「はあ………」
カヨコはため息をつくと、そのままゆっくりと立ち上がる。普段は虚な瞳をしている彼女だが、その時だけはナイフのように鋭い瞳をしていた。
彼女はハンガーに掛けられていた黒い上着を取ると、そのまま強引に羽織った。
教会のお祈りの時間は、既に終わったらしい。こちらの方が静かでいい。
カヨコはゆっくりと、いつも通りの流麗な足取りで部屋を後にした。
*
正午を過ぎたあたりから、空模様は刻一刻と悪くなっていた。
アレだけ青かった空は、今では鉛のような灰色に覆われている。
風も吹いている。
道を行く人々は、口々に台風が来たと囃し立てる。
「………チッ!」
つい、口から舌打ちが溢れてしまった。
私は愚民は嫌いだ。努力する誰かを労るようなことはしないくせに、失敗したら蛆虫のように湧いて出て、なんの役にも立たない罵詈雑言を吐き捨てる。
こんな奴等、生かす価値なんて無い。
今、殺してしまいたい。
そんな思考が頭の中に産まれて、私は恐ろしくなってかぶりを降った。
そんなこと、思ってはいけない。
そんなことを考えてしまっては、私は最低の人間になってしまう。
『お前は天雨の隣にいちゃあいけない人間なんだよ。私と同じで』
違う。違う。違う。こんなの私じゃない。
いや、これが私だ。
おかしい。前までは自分は“私”しか居なかった筈なのに、いつの間にか自分以外の誰かが私を操っているような気がする。
自分が自分自身に違和感を持つなんて、そんなあり得ない事象が起きては一瞬で消えている。
ブツリ
いや、そんなことはどうでも良い。
兎に角、私は彼女達を潰さなければならない。
人の姿が段々と減っているのを見て、私は内心でほくそ笑んだ。
これならやり易い。
懐から“アレ”を取り出し、ペロリと舐める。
口の中で鉄の味が広がる。
私は取り敢えず、雨を防ぐ為に近くにあった廃ビルに入り込む。
風の音はビュウビュウと吹き荒れていて、身体に針が突き刺さっているかのよう。
壁に当たる雨の音は、機関銃のように激しく火花を散らしている。
「────雨」
私は雨は好きだ。
雨はいつも暖かく、私の何もかもを洗い流してしまう。
それに、雨の日はいつでも素晴らしい出会いを連れてきてくれる。
……ああ覚えている。
今日と同じ墨をぶちまけたような色の空。
頭の上にのしかかってくるような低く厚い雲。
そんな中で、私はぼんやりと自分の傘が奪われているのを眺めていた。
詳しいことは知らないが、彼女達は雨が降るのを知らなかったらしく困っていたから偶然そこにいた私から奪うことに決めたらしい。
路地裏に連れ込まれ、銃口を突きつけながらの否定の許されない要求。
傘を貸して欲しいとのこと。
断ったら銃で撃たれた。
何発も何発も何発も。
やがて、満足したのか彼女達は笑いながら楽しげに去っていったが、私は痛くて身体が動かなかった。
路地裏で一人で倒れ、池が氾濫したかのような水溜りだらけの道路に倒れ込んでいた。
何故、こんなことをしたのかと問われたのなら、なんとなくとしか答えられない。
私は弱かったから、キヴォトスでは弱い存在に価値なんて無いと思っていたから。
だから強い自分になる為の最初の一歩にしようとしていたんだと思う。
アニメや漫画のような、強くなる主人公になりたかったんだと思う。
……でも、私は主人公じゃなかった。
無意味な“誰か”だった。
冷たい雨は、私の身体から血と一緒に体温を奪って行く。
もしかしたら自分は死ぬのかもしれない。そんな悪い予感が胸に響いた。
自分は無意味だとは思っていたが、死んで自分が本当に無意味になってしまうのは怖かった。
考えるのが怖くて、目を瞑る。
その後は何も起こらずに、ただ雨に打たれる時間が続いていたが、しばらくすると雨に打たれる痛い感覚が無くなった。
目を開けると、女の人が立っていた。
多分、高等部の先輩。
「……大丈夫ですか?」
女の人は、私を見下ろしながらそんなことを言った。
挨拶代わりの憐憫の瞳。
私はそれが憎くてたまらない。
彼女は私の傷を見て、大体の事情を察したのか救急医学部に連れて行くと言ってきた。
「……大丈夫です。私は、弱くないですから」
私はつい、そんなことを口にしていた。
認めたくなかった。
憐れまれたくなかった。
服装からして、彼女は多分風紀委員の人間だ。
毎日のように不良共と銃撃戦を行なっている強い人たち。
そんな人に、自分の気持ちを分かった気になってほしくなかった。
けど、彼女は何も言わずに私を背負って行った。
「……馬鹿ですね。強い弱いで物事を語るなんて。
強いだけで物事が解決するなら、ヒナ委員長が居る私たちはなんなんだっていうんですか。」
彼女は私を背負っている。
傘を差しながらでは歩きづらいので、彼女は傘を畳んでおり。必然的に彼女も濡れてしまっている。
それなのに、彼女は私を背負うのを辞めようとはしなかった。
「別に弱くたって誰も文句なんか言いやしませんよ。
その他にも大切なことは沢山あります。本当に困った時に役に立つのは、強さではなく補い合える信頼関係ですよ」
……それが中学時代、私が彼女に初めて出会った日の話。
その後、高等部に進学した私は、彼女に憧れて風紀委員に入った。
彼女の言う意味。弱いままでも構わないという言葉の意味を知りたかったから。
思えば、私が真に優しい人間だったのはその時までだったのかもしれない。
高等部に入って、彼女の側で見たものは彼女達への陰湿な嫌がらせ。
上からは嫌がらせ。毎日のように犯罪者を捕らえる為に駆けずり回る。
そんな毎日を過ごしてボロボロになって行く彼女。
その時に、私は忘れてしまったのだと思う。
弱いままでも良いという彼女の言葉を。
その時に、私は得てしまったのだと思う。
嫌いな人間を屈服させてしまいたいという歪んだ欲望を。
『それで、どうすると言うのですか?今更。
あのゲヘナの生徒会は、下らない理由の為に貴女の敬愛する人間を踏み躙った。
奴等は理解していません。貴女の努力を。
奴等は嘲笑っています。貴女の優しさを。』
「っ…………」
ブツンとマダムが囁く。それで夢は覚めていた。
確かに、許せないと思う。彼女は正しい。けど─────
それでも私は、雨が恋しくなってしまった。
また、優しい雨に抱かれたいと思った。
屋上なら、きっと雨を防ぐ物は何もない。
嵐は本格的にやって来ている。屋上は、きっと南国のスコールのようになっているんだろう。
そう考えると、ほんの少しだけワクワクしてくる。
私は、ゆっくりと屋上に。
なつかしい、なつのあめにうたれるため。
*
屋上は、浅底の湖となっていた。
ゴーゴーと獣の呻き声のような音を立てて水が端に取り付けられた排水溝に吸い込まれていき、一秒毎にそれ以上の量の雨が落ちて来ている。
水の量は想像以上であり、歩くたびに靴の中に水が流れ込む。
雨は斜めに降り注ぎ、風はボロボロのフェンスを引きちぎらんばかりに吹き荒れている。
其処はまるで、遥かなる海上。
そんな誰も入ることのできない、陸の孤島に彼女は舞い降りた。
ピチャリと音がした。雨と水面がぶつかり合うような弱々しい音では無い、酷くはっきりとしたソレ。
まるで自分の首元を優しく撫でる冷たい手のようなその音に引かれ、ネロはゆっくりと振り向いた。
……吹き荒れる嵐の中、ネロが十メートルほどの屋上に立っているのを見た彼女は、躊躇うことなく地上から飛び上がった。
街灯を足がかりに跳ね、壁を走り、彼女の視界の端へ死神は舞い降りた。
「参ったよ。こんなところで雨宿りだなんて」
嵐の中、鬼方カヨコは吐き捨てるように呟いた。
「鬼方───カヨコ」
「とうとう、自分の言葉に責任も持てなくなったか。万魔殿の連中に、お前が手を下さなければならない理由があったのか?
ただ、自分の為だけに力を振るう。
そんなお前は紛れもない“悪”じゃないのか」
「……知った風な口を。貴女には、理解できませんよ」
ネロは、手を噛み切るとその血を周囲に撒き散らす。血は、流れ続ける水にさらわれることもなく、水面に漂う。
まるで生きた何かのように。そう、カヨコが思考した瞬間、血の中からまるで煙のように、奈落から這い上がって来るかのように、肉の塊のような
応えるように、カヨコはナイフを抜くと眼鏡を外した。
これで二人の対面は三度目。
この世には三度目の正直なんて言葉があったな、とカヨコは何も言わずに笑った。
「……伝えた筈だよ。次…………なんかしたら殺すから。じゃあ、責任を取ろうか」
その言葉をキッカケに、二人の異常者の枷は解き放たれる。
殺し合いが、始まった。
「マコト先輩、なんか風紀委員に変な書類制作の依頼が行ってるんですけど、なんなんですかね?これ」
「………え!?(なにそれ)」