直死の魔眼保持者・鬼方カヨコ 作:カヨコ大好き
其処は暗く、底は昏かった。
自身の周囲にある闇だけの世界を見て、私は自身の死を受け入れた。
何も無い筈の世界に漂っている。裸で、生物本来の姿で、鬼方カヨコは沈んで行く。
果ては見えない。いや、そもそも最初からそんなものが無いのかもしれない。
そこは無なのだから、何かが存在していること自体が可笑しな話だ。
そこには、当然のように光も闇もない。何も無いが故に、落ちることさえ意味を持たない。
無という言葉すら、そこでは正しくない。
形容すら不可能の「 」の中に於いて、私の身体だけが沈んでいる。
裸身の私は、余りにも禍々しい在り方だ。いや、私だけではない。ここに「ある」ものは全てが毒気が強すぎる。
虹色で、だけど白で、そして透明で、黒。全てが私の身体に吐き気を催す。
「──── これが、死」
呟く声すら、きっと夢。
ただ、時間と思われる物を観測する。
「 」には時間なんて無いけど、私にはそれが見えていた。
流れるように自然に、腐敗するように無様に、時間だけを数えていた。
何も無い。
どこまでも遠くを見たとしても、何も見えない。
いつまでも何かを待ち続けても、何も見えない。
どこまでも緩やかで、完成されている。
何も無いその場所では、「ある」だけで完璧だった。
ここは死。
死者だけが向かう場所。生者では行けない場所。
なのに、私だけが生きているなんて────
気が、狂いそうだった。
二年間。私はここで死という概念に触れ続けた。
それは観測ではなく、寧ろ闘いの激しさが近かったと思う。
*
「ねえ、3階の個室の患者さんの話、聞いた?」
「ん〜と、この前目覚めた人のこと?あの美人さん。その人がどうかしたの?」
「そうそう。変に大人っぽい雰囲気のあの人。あの患者さん、目覚めた後に何したと思う?
なんと、自分で自分の目を潰したのよ」
「う〜わ。何それ?二年間昏睡していたせいでおかしくなっちゃったタイプ?
っていうか、よく目覚めて直ぐにそんな動けるわ。
この前一ヶ月寝てた別の不良、銃を構えるのだって難しそうだったじゃん」
「いや、あの娘ってなんかどっからかお金が流れて来てたらしいのよ。このまえ先輩に教えてもらったんだけどね。この病院に医者がいるのも、そのお金の持ち主が無理矢理ねじ込んだから。
それで、先輩がその子の身体を動かして定期的にリハビリとかしてたらしいわよ。雑に扱うとめっちゃ怒られるって」
「何それ?寝てる間に勝手に身体を触られてんの?普通にそっちの方がホラーじゃん。
何であの子ってそこまでされてんの?」
「凄い人なんじゃない?なんか、マコトの知り合いらしいよ。
詳しいこと、全く分からないけど。
って、別にそういうのはどうでも良くてね。なんか、あの娘失語症らしいのよ。ゲヘナの子って変に精神的に不屈な子ばっかだから、そういうのに対処できる人がいなくてね。
それで、こんど連邦生徒会長が招いたっていう……“先生”を呼ぶんだってよ。」
「マジ!?あのSNSで話題になってた人?厄災の狐を一人で追っ払ったって言う?」
「そう。それも先生の初めての本格的な仕事になるらしいのよ。私は分かる。アレは今後のキヴォトスの話題の中心になる。
だから、今度一緒にサインとか貰いにいかない?」
*
【1】
朝になれば、途端に病院は騒がしくなる。
廊下を行く救急医学部の足音や起き出した患者の生活音が何度も繰り返される。外からは不良と風紀委員の生徒の銃撃戦の音が響いている。
目が覚めたばかりの私には、その喧騒は大きすぎる。幸いにも私の病室は個室だが、それでも気になるものは気になる。音楽プレーヤーでもあれば良かったが、それも無い。
程なくして、医者が診察にやって来た。救急医学部に医者っていたっけ?
「気分はどうですか?鬼方さん」
「──── さあ。よく、わからない」
感情を抑えた私の返答に、医者は困った風に黙り込む。
「……そうですか。まあ、昨夜よりは落ち着いているようで。辛いでしょうが、現在の貴女の状況をお話しします。
気分が悪くなったら、遠慮なく言ってください」
医者の言葉に私は無言を返答とした。ご生憎様。そんなことに興味なんて無かったから。
医者はそれを承諾の意と勘違いしたらしい。
「では、手短に説明を。現在の日付は■■年の六月十四日。貴女は二年前の三月五日の深夜、戦車にぶっ飛ばされて当院に運ばれました。覚えはありますか?」
「…………。」
私は答えない。────そんな事は知らない。
記憶から引き出せる最後の記憶は、何かからあの子達と逃げてて……ああ、ダメだ。自分が何かから逃げてたのか。そもそもその時期に自分が何をしていたのかまで思い出せない。
「一応伝えておきますが、記憶が回復しなくても不安になる必要は有りませんよ。傷は腹の怪我を除いて軽傷でしたから。
……戦車の砲弾が掠ったのはご愁傷様ですが。
ただ、その反面で倒れた際に頭をぶつけたようです。当院に運ばれた時点で既に昏睡状態だったそうですので。ですから、記憶が思い出せないと言うのは二年間の昏睡状態による一時的な意識の混乱でしょう。昨夜の診断では脳波に異常は見られませんでした」
二年間……そう言われても困る。
鬼方カヨコにとって、二年前は確かに昏睡状態になった日だろう。
だが、私は違う。
私にとって、二年前……いや昨日すらも「無」だ。
「また、両眼の傷も重いものではありません。圧迫による傷は眼球の障害でも軽いものですからね。包帯も時期に取れるでしょう。外の景色を見るのはあと数日我慢してください」
医者の言葉は、何処か私を非難するようだった。
それに対して、私は何も言わない。医者は後日“先生”という大人が自分の元に来ることだけを伝えるとそのまま病室を後にした。
そうして、私はまた孤独になる。
ベッドの上で天井を見て、何をするでもなく存在している“私”。
「私の名前────」
乾いた唇が、自然と動く。
「鬼方、カヨコ」
けど、そんな人物はここには存在しない。
二年間の死は、私を殺した。
鬼方カヨコとして生きていた十六年は、最後の一年を除いて全て思い出せる。だが、それは意味を為さない。
二年間という、短くて長い空白は私と鬼方カヨコの間に、埋めようのない断絶を作ってしまった。
私は間違いなく鬼方カヨコで、それ以外の何者でもないのに──かつての記憶を、自分の物と実感できない。
今の私は、鬼方カヨコという人間の一生を映像にして見ているだけ。決して映画の中には入れない。
まるで、フィルムの中の幽霊。
ため息が出る。
私は、私が分からない。
それどころか、とんでもない物まで付いてしまっている。
いま現在、私の瞳は包帯でぐるぐる巻きになっている。
先ほど医者が言っていたように、重症というわけでもない。
ただ、私が願ってそうさせてもらっている。
昏睡から目覚めて初めて目にしたのは、驚いて駆け寄ってくる救急医学部の部員ではなく、彼女の首筋に引かれた線だった。
人にも、壁にも、空気にも──禍々しく清廉な線が見えた。線は生物のように常に流動して、固定されない。
だが、確実に個体の何処かにあり、今にもそこから死が浸み出しそうな強迫観念に囚われた。
私に話しかける生徒が、首筋からボロボロと崩れた……少なくともその時の私にはそう見えた。
それが何なのか理解した瞬間──私は、自らの腕でその両目を押しつぶした。
不幸にも、二年間動かなかった腕力はまだ弱く、私の行為は途中でアッサリと止められてしまった。
「もうすぐ──目が、治るのか」
そんなのは御免だ。あんな世界など、私は二度と見たくない。
私の見ている死は、私が二年間見て来た世界と全く同じ物だ。
ずっと、吐き気のするような絶望を感じ、そしてようやく逃れられたあの世界。
あんな場所と同じ気配のする沢山の線。
あの線を見続けてしまうと、いつか自分もそちらに行ってしまうと、私は疑いようもなく確信していた。
そんなのは嫌だ。
私は指先を瞼に突き立てる。あとは引き金を引くような素直さで、この指を眼球に突き入れるだけだ────。
「余り、そのような真似をすべきでは無いかと」
だが、その行為が達成されるよりも早く。
私の手は、何処からか現れた声の主によって、アッサリと止められてしまった。
*
唐突に聞こえた声。
私は意識を声のした方向へと向ける。
そこにいるのは────誰だ?
誰かはクツクツと笑みをこぼしながら、私に声をかける。
「その瞳は……直死の魔眼、でしたか?それを無くすべきではありませんよ。もっとも、ベアトリーチェの残した情報によると、それを潰したところで貴女が見えているものが見えなくなるということはないようですが」
「誰だ────医者じゃ、ないようだけど」
私の問いに、誰かは笑みを噛み殺したようだ。
気配が、私の眼前へと迫る。
「私は探究者ですよ。貴女に、その瞳の扱い方を教えに来ましてね」
若々しいようで、老人のようでもある胡散臭い声。……私は、間違いなくこの誰かは嘘つきだろうと思った。
「嫌だね。知らない人の話は聞くなって学校では教わってるんだ」
「クックック……そうですか。
では──── Vanitas vanitatum et omnia vanitas。このフレーズに聞き覚えは?」
「───ッ!!」
私は、その日、目が覚めてから初めて動揺した。なんだ?この感覚……
「やはり、聞き覚えがありましたか。
ベアトリーチェは貴女にわざわざ治療費を払って、一体何を考えていたのか。
つくづく興味深いですね」
私が混乱している間にも、男は尚も情報の洪水を浴びせてくる。
誰だ?何だ?私は、どうなってしまったんだ?
「それでは、その感覚を忘れないように。
現在の貴女の心は伽藍の洞。その心の在り方を続けて仕舞えば、貴女の心は有もしない物に取り込まれますよ」
誰かは、尚も言葉を続けてくる。
だが、はやる心の私の耳に、その言葉が留まることはなかった。
*
夜になって、病院は静かになった。
時々廊下に響くスリッパの啜り泣くような音だけが、私は目覚めているのだと伝えてくる。
静寂の中で───いや、静寂の中だからこそ。
何も見えない私は、自分が一人だと突きつけられる。
『逃げなさいッ!カヨコッ!!』
『アルちゃんも早くッ!!』
『わ、私が、私が引き受けますからッ!!』
頭の中でリフレインする誰かの声。
それが、私の心を苛立たせる。
「嫌だな……こんな誰の物かも分からない声に、自分の在り方を左右されるなんて」
嗤ってみたけれど、胸に開いた伽藍は埋まらない。せめて虚しいとでも思えれば、この凪の心にも変化があるだろうに。
自分が判らないはずだ。私は誰でも無いから、今の自分にあるのは何もかもが消えたガランドウだけ。
その中に、いったい何が入るのやら……
『わ、タシが?はい。る……よ』
ふと、そんな声が聞こえた。
病室の中で静かに、けれどもハッキリと聞こえる虫の息のような音が。
目の前に、白いモヤがある。
見えてはいないが、分かるのだ。
それが何なのかまでは、私には分からないが。
何かはクラゲのように透明で、何をするでもなく大気という海を漂っている。
その何かが、一直線に私へと迫った。
私は何もしない。
ただ、ゆっくりと自分の首を絞めようとしている“ソレ”をただ待ち続けていた。
それが幽霊だとしても、私には怖くなかった。
だって、自分という存在が曖昧な私にとって、幽霊で襲われても困る理由なんて無かったから。
何かは私の頰に触れた。
全身が冷えていく。まるで、力が抜けていくかのように。
不快ではあった。だが、私は何をするでもなく、それを見つめ続けた。暫く私に触れ続けていると、それは融解した氷みたいに溶けていった。
理由は明白だ。アレが私に触れ続けていたのは五時間以上。もうすぐ日の昇る時間になる。日が登ったら、幽霊は消えるのが世の常だ。
眠れなかった分、私は今から眠ることにした。
それからも毎日。私はこの幽霊に自分の喉元を絞められ続けては、昼に眠る。
そんな異常とも言える毎日を送っていた。
*
【2】
それから数日が経って、ようやく件の先生という大人がやって来た。
「“やあ。さっそく、自己紹介に行きたいんだけど……”」
「貴方は先生、私は鬼方カヨコ。
これの他に何か言いたいことは?」
「“あ……えっと、無いです”」
私の適当な返事に、彼は律儀に返事をした。
基本的に目が見えない私は、その人がどういった人なのかを声だけで判断するように努めるようになった。
まるで盲目の患者。
まあ……別に、そんなことをしたとて、本当に盲目になったわけではないし、こうしていたとしても私の瞳は死を見続けている。
意味なんて無いのかもしれないが、それでも何もしないよりはマシの筈だ。
「“んーっと、鬼方カヨコちゃん……だよね。
安心して!私が来たからには、もう安心だから”」
安心という言葉を二度も使っているようなテンパっている人間を信用できるかと言えば、難しいと思う。
私はそんなことを思った。だが、同時にその声を聞いた私の耳は、どこかで恐ろしいまでに先生の声を受け入れ始めていた。
時々、人間の中には特異な……惹きつける才能というのを持っている奴がいる。
マコトやヒナのような、上に立つ人間。そう言った人間が持っているものだ。
この先生という大人はそれと近しい……俗に言う、カリスマという奴を同じように持ち合わせているように思う。
だからだろうか。
彼は人の話を聞くというのが、とても上手かった。
基本的にはこちらの話を聞いているだけだが、リアクションは大きく、それでいてこちらの話を遮らない。
仮に話が逸れたのなら、こちらの話に呼応した話題を提供して再び聴きに回る。
話しているだけで、気分が高揚し、次から次へと話題を無意識的に提供したくなる。
この恐怖を、否定して欲しい。
この孤独を、埋め合わせて欲しい。
そんな稚児のような欲求があったと、私は否定することはできない。
だから、気がついた頃にはこちらの身の上の大体は、彼の耳に入っていた。
「“なるほど…… 解離や離人感を目覚めてから常に感じていると。”」
「……分かるの?私がどういう状態なのか」
「“うーん……今日のために読み漁った本から得た
まあ、
……で、ここからが本題、と彼の気配が変わった。
真っ直ぐこちらを射抜くような彼の声を聞いて、思わず私は、包帯越しにその声を見据えた。
「“例え原因が何であったとしても、カヨコちゃんが欲しい答えは同じなんでしょ?
君の欲しい答えは……ズバリ、
私は最初、この目の前の人間を頼りない人間と見做していた。ナヨナヨしてるし、テンションもなんか変だし─────だが、今は違う。
この人間には、こちらの答えを見透かしたような不気味さと、不器用ながらもこちらの不安を減らそうと奔走する安心感が、同時に同居していた。
それは、まるで矛盾。
複数の概念を同時に一つの箱に押し込めたかのような、歪で不気味な美しさ。
ピカソの絵画のような、常識から外れた芸術性があった。
「その答えを、アンタは教えてはくれないの?」
ほんの少しのいたずら心を込めて、私は彼に尋ねた。
彼は、それにどんな表情をしたのだろう?
ただ……フ、と優しく笑う声がした。
その声は、まるで春の陽だまりのような暖かさで、私は自然と毒気を抜かれてしまう。
「“記憶とか、自分自身の認識に関する話って、この世には沢山ある。懐疑論なんかはその筆頭。
きっと、カヨコちゃんも一度は聞いたり見たりしたことがあると思うんだ。
……で、大抵の場合は結末という名の結論を出すんだけど、その結末は大体ふたつに別れる。
自分の
自分の
因みに、どっちも大体はハッピーエンドとして扱われる。やってることは正反対なのにね。
……こういう話は厄介だよ?
だってどちらが良いかっていう答えがまだ……というか永遠に無いんだ。結局、どちらも良いっていう結果に落ち着いてしまう。
そりゃそうだよね。この話の肝って、記憶がどうこうとか、自分の生き方がどうこうとかそんな話じゃない。
例えどれだけ世間的に賞賛される素晴らしい考えだとしても、本人が納得出来ないのなら辛いだけ。
逆に本人が納得さえすれば、それがどんなに可笑しな結論だったとしても……幸せにしかならない。
結局、自分で答えを出すしか無いんだ。
今の自分はどう足掻いても今の自分にしかなれない。
それを受け入れないと、進むも戻るも出来ないんだからね”」
随分と面倒な話だと思った。
アレコレ理屈を捏ねた、その結果が私次第とは。
自分に自信の持てない私には、なんとも面妖な問いと解だ。
そんな私の心情を見透かしたのか、彼はゆっくりと私の手を自分の手で包む。
「“まあ、答えを出すのは自分、と言っても自分一人で考えなければならない、なんて決まりは無い。
逃げても隠れても立ち向かっても、全部一緒に考えよう。辛い時、苦しい時、必ず私は君のそばにいるから、ね?”」
「……それって、私の味方でいてくれるってこと?私なんて、守る価値があるとは思えないけど……」
「“ハハハ!そりゃあ困るね。私は守る価値があると思っちゃった。だって、カヨコはこんなにも色んなことを考えて、頑張ってる。
そんな娘を無価値だなんて断ずるのは私には無理。
それに、もしかしたら、これから価値が生まれるのかもしれない。
君の未来は、無限なんだよ。カヨコ。
無価値とは正反対だ”」
それは、一切の根拠も無い。
言ってしまえば、ただの綺麗事だった。
だが、それでも……
それでも、その言葉と私を包んだ手の温もりは、一寸どころか自身の体の内すらも
目が覚めてから最初の、暖かな希望の光だった。
*
そこから三日間、私の枕元にあの影が現れるようなことはなかった。
*
【3】
そして、七日目。
その日は、私の包帯が外れる日。
とても恐ろしい。
だが、私に出来ることは何も無かった。
あの探究者とやらが言うには、私は目を潰しても死を見てしまうらしい。
なら、やることは絶望しかない。
シュルシュルと、包帯が解かれていく。
包帯が一つ解かれる度に、昼の光が痛いほど私の網膜に突き刺さる。
このまま、私の瞳の景色を全部燃やしてくれたら良いのに……
そんなことを願ってしまうが、当然のように何かが起こるわけもなく。それどころか光に慣れてくれば、自然と世界は輪郭を取り戻していった。
「気分はいかがですか?鬼方さん」
包帯を解いた先にいたのは、医者と救急医学部の生徒達。
それから、奥には先生も控えていた。
───ああ……吐き気がする。
案の定、誰彼女の体には死が見えており、私はその光景に眉を顰めた。
やはり、世界は不快だ。
*
「“んー……二年ぶりの光はどう?カヨコ”」
「普通」
ベッドの付近に丸椅子を持ってきて座った先生に、私はぶっきらぼうに答えを返す。
彼はそれについては一切の文句も無く、少し困ったような笑みを浮かべた。
初めて見た彼の顔だが、特にこれと言って感動が浮かぶわけでも無い……ありきたりな顔をしていた。
特徴は……強いて言えば、ちょっとだけゴールデンレトリバーに似ているぐらいだ。
目の当たりが特に。
「一応……謝っておくけど、ごめんね。
私は答えを見つけられなかったよ」
我ながら珍しく、殊勝な態度で謝罪する。だが、先生は特に気にした様子を見せない。
「“いやいや、そりゃあまだ一週間だからね。
そんな簡単に答えなんて見つかったなら、きっと記憶喪失系の物語は流行らないだろう?
時間が掛かるものなんだよ、そういうのは。
そして、時間が答えを出してくれるわけでも無い”」
時間が答えを出してくれるわけじゃない。そんな彼のフレーズが疑問に思って、私は首を傾げた。
「“キッカケが必要ってこと。
自分が答えを出すための。
それは時間によるものより、都合よく出会えるかが重要だから”」
結局、待つしかないというわけか。
あまり性に合わないな。
「“それよりカヨコ。眼鏡をかけないのかい?”」
「────?」
急に何を言うんだと疑問に思って、彼の指差した方向を覗いてみると、本当にそこには眼鏡が置かれていた。
ベッドの横の机の上に、ポツンと、ただ一つだけ。
埃をかぶって、使われることも忘れて、ただ存在しているだけの古びた置物。
その姿は、まるで現在の私の生き写しのようにも覚えた。
「“それって、カヨコのだろう?ずっと前からそこにあったから”」
「……さあ。どうだろうね」
残念ながら、眼鏡をつけていた覚えはないが、何となく眼鏡をかけてみた。
戯れと言う奴だ。他意は無い。
きっと、その─────置き去りにされている姿に、同情したわけじゃ無い。
「───────!?」
「“カヨコ?”」
だからこそ、私は驚いたのかもしれない。
なんの意味もない……そう思っていた眼鏡をかけた瞬間。私の視界から死の気配を放ち続けていた……あの忌々しい線が、消えたのだから。
これは、何も起こらないという悪い期待を裏切られたからに他ならない。
死の見えない世界は、私が何よりも望んでいたもので、どんな宝石よりも、輝いて見える。
自然と、私の口は笑みの形を作り上げていた。
「はは……確かに、これは私のだね。
間違いないよ」
「“………そっか。”」
ほんの少しだけ安心した。
これなら、一生この眼鏡をかけていれば良いだけだ。
過去のことなんて忘れて、ただの普通の人間として生きていける。
『逃げなさいッ!カヨコッ!!』
『アルちゃんも、早くッ!!』
『わ、私が、私が引き受けますからッ!!』
これだけしか覚えていない、過去の断片。
忘れたって、何の問題も無い。
寧ろ、忘れるべきだ。
うん……
─────でも、それは本当に。
─────けど、それは本当に?
……そうに決まってる。
そうやって私は自身の心に、無理矢理に決着をつけた。
*
夜になった。
周囲は昏い闇。今日に限って、廊下を行く足音も聞こえない。
穏やかな闇の中で、私は自身の記憶と向き直っていた。
古いフィルムを映すように、断片的に鬼方カヨコの記憶と向き直る。
最後の記憶。
誰かは分からない少女達が、必死に私の名前を呼んでいる。
それだけなのに、私の心はささくれ立つ。
喉奥に突き刺さった小魚の骨のように、不快感が消えない。
意識は沈む。
自身の体験した場所へ行こうと、ただ思い出を刺激する。
ぎぃ、と病室の扉が開く。
重々しくて、緩慢な足音が近づいてくる。
救急医学部か?いや、今の時刻はとうに午前零時を超えている。
来訪者があるとすれば、それは────。
その時、人間の手が私の首に絡みついた。
冷たい掌は、そのまま私の首の骨を折らんと力を込めた。
*
【4】
「が─────」
首に掛かる重圧に、ただ私は喘いだ。
息ができない。喉が締め付けられる。
窒息する前に、首が捩じ切られる。
私は、その目で相手を見つめ───
(……人間じゃ───ない)
緩やかに、その
形は間違いなく人形。
薄緑色の髪をした小柄な少女。だが、それはもう生者の物ではなかった。
死人が、一人でに動いてベッド上の私を襲っている。
首に掛かる力は休まない。
私は相手の両手を掴んで一応抵抗してみるが、ヘイローは無いのにびくともしない。
いや、そもそもこれは、私の望んだことか。
「─────」
呼吸を止め、抵抗を止め、ただ相手を受け入れる。
このまま殺されるなら、それも良い。
だって私には生きる意味がない。
幽霊が消えていくのが世の常なら……私は幽霊と大して変わらず。なんなら私は生きることを苦痛に感じている。
そんな私は消えるべきだろう。
そんなことを考えていると、自然と私の脳は痙攣した。
まるで、それは間違っていると主張するように。
崩れていた記憶が、形作られる。
───ああ、そうだ。
───確かアレは雨の日で、依頼をこなして
───彼女達の元に帰る時、あの女に襲われて……
───それで、彼女達に庇われた。
はは……なんだそれ。
私には、生きる意味なんて既に無かったのか。
力がかかる。
実際にはまだ数秒も経っていないのに、時間はとってもゆっくり。
ゴムのように間延びしていく。
死者が死んだような生者を殺す。
氷のような爪が喉に食い込む。
この殺人行為に容赦なく、たぶん理由も無い。
首の皮膚が裂けた。
血が、ゆっくりと私の首をつたってベッドの上に雫を垂らす。
流れる血は、生きた人間の証だ。
死んで───それを捨てる。
捨てる?
そこで疑問に思った。
私の記憶にある、彼女達。
私の為に命を使って───命を捨てた彼女達。
彼女達は、本当に喜んで命を捨てたのだろうか。
……そうだ。そのことを失念していた。
命を捨てることに、彼女達自身の納得と選択があったのか。
仮に、それがあったとして、私はそれを受け入れられるだろうか。
───死にたかった筈がない。
───受け入れられるわけが無い。
だって、死はあんなにも孤独で無価値なのに。
死は、暗くて絶望的だったのに。
死ほど、恐ろしい物などあり得ないのに。
「───いやだ」
気がついたら、私はそんなことを口にしていた。
それが何を指しているのかも、判然としないまま───ただ、死体の両腕を掴む。
片足を、無理矢理あいての鳩尾に押し当てる。
「死ぬことなんて───クソ喰らえだッ!」
力の限り、私は目の前の肉塊を蹴り飛ばした。
ベッドから立ち上がる。
武器はない。勝機もない。
やっているのは、ただの駄々こね。
だが、それで良い。
後先なんてどうでも良い。
そんな物は、一瞬を生き抜いた後に考えれば良い。
それこそが、
死体が私に迫る。
力は、相手の方が強い。
当然だ。私は病み上がりの病人。相手は多分なんらかの訓練を受けていた死体。
敵う道理は無い。
両腕を掴まれ、ジリジリと窓際に追い込まれる。
コン。と硝子の冷たい感触が背中に広がる。
このまま行けば、私は落とされるだろう。
無常に、意味もなく。
「────────」
だが、私はそのことを、もう恐れはしない。
死の淵に立とうとも、今の状況は恐るるに足らず。
こうやって、組み付かれるのは承知の上だ。
「……はあ」
ため息を吐く。
自身のやろうとしていることの、余りにも無謀っぷりに。
今の私たちは───地上何階か?
「───来なよ」
私はそう言って、両手を死体から離す。
死者は首筋目掛けて手を伸ばす。
それより早く───私は、自由になった手で窓ガラスを叩き割り、両者はもつれるように下へと落下して行った。
*
アル。ムツキ。ハルカ。
ああ、そうだな。そんな名前だったな。
私は、落下しながら泣くように笑っていた。
*
緩慢に上から下へと流れて行く光景。
私はその中で、ネコのように空中で体制を立て直すと相手の両手足首を掴み、固定する。
そのまま、踊るように相手を下へと向ける。
その後は、殆ど自分の勘に従って跳躍した。
既に地上は目前だったようで、死体は地面に叩きつけられ、私は地面と平行に跳んでいた。
病院の生垣を破壊しながら地面に着地する。
「くそっ………」
頭が痛くてガンガンする。
三階分の高さだ。衝撃が殺し切れるわけがない。ほんの少しだけ脳震盪になってる。
私はどうにかして逃れようと、壁に取り付けられた梯子を使って一階だけ上の層にある中庭へとよじ登る。
私の周りは何もない。こんなことがあっても、物音の無い静かな夜が続いている。
私は、自身の痛みを感じていた。
───まだ、生きてる。
───アイツはどうなった?
多分下敷きにしてやったから、生きてるわけがない。
だが、もしかしたら生きているのかもしれない。
なら、やるしかない。
恐ろしいことに、未来のことを考えていると自然と自身の中の空白は薄れていった。
身体が闘うために、集中を始めている。
「はは……」
笑う。
そうだな、これが私だ。私は随分と周り道をしたらしい。
笑う。
こんなにも、答えは簡単だったというのに───────
*
「クックック……ネコですか?貴女は」
私の背後から声がした。
振り返ってみると、真っ黒いスーツを着た化け物が立っていた。
何だこいつ。
ぎろりと視線を彼へと向けると、彼は両手を上げて敵意がないことをアピールする。
「おや?勘違いしないでくださいよ。
探究者。そう名乗った筈ですよ」
「ああ。お前か」
取り敢えず、コイツが何者なのかは分かった。
まあ、変わらず信用のできない相手ではあるが。
「……で、お前。アレはなに?正体は知っているんだろ?」
「病院というのは、多くの人間の感情の受け皿になるもの。それが形になったのが、ほんの少し前まで貴女を襲ったもの。
その感情は、ただの思念のようなものでそれ単体では安定せず、虚な部分のある肉体を求めます。
その為、伽藍堂の貴女を襲っていたのですが、何者かがどこからか死体を持ち込んだようで。
今のアレは肉体を得て尚、貴女の身体を奪おうと企んでいるようです。」
「長い。一言で説明しろ」
「仕方がないですね。
アレは、敵です」
「承知」
バキリと音がして、奴が登ってくる。
お行儀よく梯子を登ってくるなんて真似はせず、真っ平の壁をよじ登って。
奴が、私へと迫る。
私は素手で向かいうつが、アッサリと殴り飛ばされる。
全く、肉体のスペックが違いすぎないか?
「一応言っておきますが、相手は既に死んでいる死体です。
死んでいる以上、殺すことは不可能。
完全に消滅させる兵器も無い以上、我々には勝ち目はない。
直ぐにでも退避するべきです」
なんだ。
偉そうな登場したくせに、その程度か。
奴は後退した。
私は下がらない。
別に、3階から落ちて足が折れたわけじゃない。
私は、ただ
「死んでいようがなんであろうが、アレは生きた死体でしょう?」
ゆっくりと、這いながら下半身を上げる。
獲物を狙う肉食獣のように。鋭く、相手を見据える。
血が流れる。皮膚が裂けている。絞められた。痕が残ってる。
でも────私は生きてる
その感覚に、
「なら─────殺せる」
カチャリ、そう音を立てて自分の眼鏡を外した。
闇の中─────直死の魔眼が蒼く輝いた。
細く、でも確実に地面を蹴る。
死体もまた、私に迫る。
私は相手の伸ばした両腕をしゃがんで回避すると、腰のあたりにタックルして押し倒す。
硬い感触が、手に触れる。
「コレ、借りるよ?」
相手の腰のバックルに入れられていた拳銃を手に取る。
セーフティを
一発、二発。
相手の顔面に叩き込む。
だが、
「まいったな。殺せなかった。
武器が違うのかな?」
私の放った弾丸は相手の死の線には干渉せず、ただ顔面に撃ち込まれただけだ。
死体は、穴の空いた顔を気にすることもなく、私を掴んで投げ飛ばした。
その際に、私は蹴りを相手の腹に叩き込む。
草の上を転がりながら、私は笑った。
「なんだ、こんなことか」
だらり、と操っていた糸が切れたかのように死体は倒れる。
私の瞳は、私の蹴りが死の線を消し去っている姿を確かに捉えていた。
それでも、僅かにまだ糸が残っていたのか、ゆっくりと死体が這いずって私へと迫る。
私は、奪い取った拳銃を天へと向ける。
「死が、私に近づくな」
ダンと音を立てて銃弾が発射され、同時に生まれた黒いオーラが死体へ炸裂する。
弾き飛ばされた死体は、ダランと停止している。────だが
「まだですッ!まだ本体が生きているッ!」
探究者の言葉と共に、死体から灰色の煙のようなものが巻き上がり、私の内側へ入り込む。
「ぐっ─────」
身体から力が抜ける。
私にはわかる。コイツは、私が高揚して隙を見せれば、確実に乗ってくるって。
「鬼方さん────」
探究者は、私の元へと駆け寄ろうとしている。
私はそれを手で制すると、ゆっくりと倒れた死体へ近づく。
よく分からないが、コイツは何かの特殊部隊らしい。
ボロボロの服に対して、さまざまな武器が積み込まれている。
私はその中から、最も手に馴染むものを引っ張り出した。
銀色に輝く───ナイフを。
* *
鬼方カヨコはナイフを両手で掴み、その切先を“自身”へと向ける。
虚だった瞳に、熱が戻る。
固く閉ざされた唇が、ギリ、と音を立てる。
「これで───逃がさない」
彼女は笑っていた。
最早、数日前までの弱々しい誰かはその場にはいなかった。
何者にも縛られず、彼女はナイフを天へと掲げる。
月が、星が、彼女の瞳へ映り込む。
それら全てが落とせる程の獰猛な殺意が、彼女から立ち上っていた。
「私は、弱い私を殺す。
おまえなんかに───鬼方カヨコは渡さないッ!!」
ナイフは滑らかに、彼女の胸に刺さった。
*
銀の刃を引き抜く。
血は流れず、胸にはそこを突き刺したという痛みだけが残っている。
彼女は、ナイフを振るうとゆっくりと探究者へと向き直る。
「お前、あのフレーズ。
それについて知っている情報を教えろ。
教えなかったら─────」
彼女の瞳は、今もなお蒼光を発しており、探究者はそのプレッシャーにブルリと身体を震わせた。
「無論です。
実を言えば、我等もソレを追っていた。契約しましょう。我々が情報と資金を提供する代わり、貴女は我等の手足として動く」
「……いいよ。但し、私が手足として動くのは、その理由が私の目的と一致した時だけだ。」
アッサリと自身が隠していた契約の裏を突かれ、探究者は呆れた表情を見せる。
「クックック。随分と慣れてますね。
昔は良く騙されたのですか?」
「アルは超が付くほどのお人好しでね。
私たちが注意しないと、直ぐに騙されちゃうんだよ」
探究者からの問いに、カヨコは苦笑と共に返した。
ゆっくりと自分が奪い取ったナイフの柄に目を向ける。
─── Vanitas vanitatum et omnia vanitas。
そのフレーズを、カヨコは哀しげに眺めていた。
* *
【5】
夢から覚めて、朝日を眺める。
光の中にすら存在している死を見て顔を顰めた私は、直ぐにベッドの近くに置かれていた眼鏡をかけた。
昨夜に私を襲った死体は、私が探している連中と繋がりがあると思われる装備を持っていた。
仮に、二年前のあの日に社長達が殺されていたのなら、間違いなく私の動揺を誘う為に彼女達の死体が使われていたはずだ。
だが、決してそんなことはなかった。
『少なくとも、この死体が二年前の殺人事件のものなら、あの事件は殺人事件ではなかったのかもしれませんね。』
もし、万に一つ……億に一つ、彼女達が二度と手に入らない過去として消えてしまったのなら、私はどうしただろうか。
ここから消えてしまうだけだろうか。
それとも─────
「“おはよう。カヨコ”」
扉が開く音がして、私は首だけをそちらへと向ける。
そこにいるのは、相変わらずの先生。
手には花を持っている。彼は、ほぼ毎日私の元へお見舞いへ来てくれていた。
「……私ね、答えを見つけたよ」
私がそんなことを言ってみても、彼はその穏やかな笑みを崩さない。
「“そっか。ちなみに、それってどんな答え?”」
そんなことを尋ねてきたので、私は彼に一枚のチラシを渡した。
「……はい。こんな答え」
スマホが使えるようになってから、パワポで徹夜で作ったものだ。
「“便利屋……68?”」
「そう、金さえ貰えば何でもする何でも屋。
そして私が社長兼、課長兼、室長の鬼方カヨコ。」
「“おおーー!!カッコいいッ!!”」
「………はあ」
私の、少し格好をつけたと自覚のある答えを先生はバカ真面目に称賛する。
ちょっとぐらい引いてくれたら良かったのに、コレじゃあ少し恥ずかしい。
顔がほんの少しだけ赤くなる。
「“実を言うとさ、私ってカヨコの話が初めての依頼?仕事?みたいなもんなんだよね。
だから、ちょっとだけ緊張してたし、カヨコが答えを見つけられて安心してるんだ。
なんていうか、カヨコが私にとっての初めての生徒なのかもね”」
彼は、心の底から笑った。
それだけなのに、私のガランドウの心は暖かくなる。
彼の笑顔は、何処か春の終わりの陽射しと合一していきそうな、柔らかさがあった。
私はソレを、ぼんやりと眺めていた。
飽きるまで。
……そっか。私が初めてなのか。
「待ってて。必ず取り返す。そうしたら……
また四人で」
彼に気が付かれないように、柔らかく。私はチラシに向けて声をかけた。