キャプションにも書きましたが、水木さんは長生きおじさんです。
昭和二十年代———
すれ違った男から、ふわりと一枚こぼれ落ちた。
「おいアンタ、落としモンだぜ」
地面より先に白い紙片を捕える。手にしたそれは、若い男女が映る写真だった。綺麗な椅子に背筋をピンと伸ばして座る、ショートが似合う快活そうなモガが写っている。その隣に幽鬼のようなと言っては人間相手にはいささか失礼な、だがその言葉が妙にしっくりくる男が佇んでいた———まさに振り返った男と瓜二つな感じの。
のそりと振り返った男は、数瞬こちらをじっと見ては背後におどろ色を漂わせてきた。なんだか警戒心の強い男だ。ふるりと写真を振って見せれば、元から丸い目をさらに丸くして色褪せた縹色の懐を探り、さぁっと青褪めた。カラコロと下駄を鳴らして寄って来た男に「ほらよ」と写真を渡せば、あからさまにホッと息を吐く。この間ずっと無表情だったのだが、自ずと伝わってくる男の感情に、まるで自分がサトリにでもなった気分だ。本来は感情豊かな奴なのかもしれない。
まるで柳が枝垂れるように長身を折って男が礼をする。
「かたじけない」
「別嬪だなぁ———奥さんかィ?」
受け取った写真を———いや正確には写っている女性を、まるで割れ物のようにするりするりと撫でる様は、事情を知らずとも訳ありと察せられて。
「うむ……うむ、そうなのじゃ」
ほろりと綻んだその男は、促せばぽつりと行方知れずの女房を捜していると言った。
帰ってから親父に話すと得た男の正体に、男の事情も相まって酷く興味が湧いたのだった。
妻を探して方々を駆けずり回っている男。
この世から色を失ったようなツラをしていた男。
かの濡羽が過ったのは自然な事で。
なんとも、手を貸してやりたいと思ったのだ。
◇◆ ◇◆ ◇◆
現代令和———某所居酒屋。
妖なら誰もが知るかの関東妖怪任侠一家『奴良組』が初代総大将・ぬらりひょんは、例によって無銭飲食に勤しんでいた。
昭和の時代をコンセプトにした定食屋。今時珍しく全席喫煙可能なところまで当時の面影を踏襲するという気合いの入り様。彼の左隣に座る客から漂ってくる重たい煙も相まって、軽く数十年ほどタイムスリップした気分である。確かそんな妖もいたのではあるまいか。今度組に居まいか捜してみるのも面白そうだ。
すっかり綺麗にした皿に今し方まで使っていた楊枝を置いて、意気揚々と席を立つ。もちろんお代は払わない。何故なら ぬらりひょんの畏れによって今日も誰にも気付かれないから———華麗なる食い逃げの術であった。
「おい待ちな、じーさん」
くい、と袖を掴まれ
「無銭飲食タァ良い度胸じゃねぇか」
ニヤリと弧を描く涙堂の、左の勝色を眉上から縦に割る古傷が見える。その流れで左耳も欠けているのが目に入った。まるで桜だ。傷の具合からして10年は降るまい———つまり、3年前のあの大抗争に巻き込まれてできた傷ではないという事。何ぞ事故にでも遭ったのか。
いやいやそれ処ではない。
———こ奴、畏れを逸らしおった。
鵺との決戦の折に生死を彷徨ってからこちら、己の衰えを目に見えて感じてはいたが、ただの人間に見破られるとは。
陰陽師の類だろうか。季節柄上着を椅子に掛けているが、一見 何処にでもいそうなサラリーマンだ。薄手のジャケットスーツに半袖のニットシャツとスニーカーを合わせた、
しかし装いなどいくらでも繕える。何も花開院だけが陰陽師ではないのだ。ぬらりひょんの
「いや何、悪い話じゃない。アンタの飯代を払ってやろうってんだ。その代わり———」
ぐいと青年の腕が背に回され、がっしり体重を掛けられればツンと香る 酒精のにほい。居酒屋の温かみのある照明から判り辛いがほんのり赤い頬。はたと目をやれば席には案の定 昼間っから酒徳利が幾本か。
「ちょっと愚痴に付き合えよ」
———こやつ、超酔っておる。
男曰く。
土産も土産話もたんとできて、意気揚々とそろそろ帰る旨を報せたら、当の愛息子にはしばらく帰ってくるなとキツく言われてしまったそうな。
さらにようやく帰ってきたと思ったら、己の居ない間に大変な目にあった我が子の話を人伝に聞いてしまい。情けないやら頼られなかったやらで大層大荒れだった。
それで不貞腐れてこの店で呑んでいたと云う訳だ。肩透かしもここに極まれりである。
「天塩にかけて育てた可愛い義息子だぞ!? もうすっかり俺なんかの手は必要ないってのは分かっちゃいるが、何にも知らされずのうのうと過ごしてたと知ったこっちの身にもなれ!」
中身はなるほど人の親だが、態度はまるで
「心配くらいさせろよぉ……」
ついにテーブルに突っ伏した男の背中を、ぬらりひょんは気付けばポムポムとあやしていた。
己も人の親どころか祖父である。男がその血の繋がらない義息子とやらを可愛がっているのは充分に伝わって来た。
というか男が帰れなくなったという理由に心当たりが有りすぎて尻の座りがとても悪い。
そっと逃げようと畏れを発動する。
「聞いてんのかじーさん!」
「聞いとる聞いとる」
この酔っ払い、どう云うワケか畏れを使って逃げようとすると敏感に阻止してくるのである。周囲は相変わらず、客どころか店の者たちまで ぬらりひょんを認識していない状況———己の畏れは間違いなく発動している筈なのだ。勘が鋭いのだろうか。それとも。
「うちの子はなぁ、赤ん坊の頃からそりゃあもう可愛くてなぁ……!」
さっきと同じ降りを再び滔々と語り出した。逃亡を阻止する度に会話内容がリセットされる仕様である。完全に酔っ払いの絡み酒だ。ぬらりひょんの眉尻も もうこれ以上ないくらいに下がり切っていた。
「……酒のせいかのぅ」
酔っ払って前後不覚で畏れにも気付けないような状態になっている———ぬらりひょんはそう納得することにした。そうであってほしいという現実逃避とも云う。むしろそうであれ。
———誰か、迎えに来とくれんかのぅ……。
盛大にため息を吐いた彼は、今日ばかりはお供を一人も付けなかった事を後悔した。
知られたら雷が落ちる案件。