暗ければ電気を直す方法が用意され。
水に阻まれれば排水する手段が示され。
必要な資料も、先へ進むための鍵も、探索を続ければ必ず見つかる。
危険な異象は存在する。
それでも、捕らえられた調査員から探索の成果まで奪うことはない。
まるでこの病院そのものが、誰かに中を歩き回り、何かを見つけてもらうことを望んでいるかのように。
そして残虹は、一つの疑問を口にした。
探索者を現実へ帰す、三台の映写機。
あれは本当に――探索者を帰すためだけのものなのか。
その答えを確かめるため。
今度は潯と残虹が、名もなき病院のさらに奥へと足を踏み入れる。
〈エイボン〉と残虹一行は再び橋間地《はしまち》にある診療所の一室に集まっていた。
その部屋にはすでに患者が寝かされており、規則正しい寝息を静かに立てていた。
「アドレーさん、ちょっといい?」
潯と残虹が患者と同室に備えられたベッドへと横たわり準備を進める中、鑑定士はアドレーに声をかけた。
「どうかされましたか、鑑定士様」
「いや、一応と思ってベーグルで似たような異象の話がないかって調べてみたんだけど……。 夢に病院が出てくる、何かを集めるような夢、病院で怪物に追われる夢。 みたいな投稿が数件あったんだけど、関係あると思う?」
鑑定士はアドレーにベーグルの検索結果を見せる。
僅か数件、確かに鑑定士が言うようなものだった。
ただ、どれも単発投稿、都市伝説系ユーザーのもの、数字もあまり伸びておらず与太話の領域を出ない物ばかりだ。
それにどれも病院という単語は共通しているが病院そのものの名前は無いあたり、それぞれの関連性は薄そうに思えた。
「ふむ、見る限りよくある都市伝説程度でしょう、疑ってかかっているので関連性を見つけようとしてより疑わしく見えてしまっている、と考えられます。ただ、補助資料となるかもしれませんので投稿日付と投稿の内容をメモはしておきましょうか」
「分かった、こっちでやっておく。アドレーさんは二人を頼むね」
「お任せください」
そうして鑑定士はナナリと早霧と協力して情報収集を始めた。
「で、性悪女、子守歌でもいる?」
「冗談でしょう? 良いアイマスクを付けているからすぐ寝られるわ」
「は、口が減らないやつだ。そいじゃアドレー、この場を頼むよ」
「はい、お嬢様もお気をつけて」
その後、潯と残虹の二人は真昼だというのにすぐに寝息を立てて寝始めた。
「ふぅん、夢の中じゃ自認している姿になるみたいね」
残虹はそう呟くと、自分の両手を軽く開いて眺めた。
手錠の擦れた感触もなければ、囚人服の袖もない。
指先を動かしてみても、身体の自由に違和感はなかった。
「起きて早々、自分の格好を眺めて何してんだい」
少し離れたところから声がした。
顔を向ければ、潯もすでに目を覚ましている。
こちらも現実で横になった時と変わらない様子で、周囲を見回していた。
「確認していただけよ」
「何を?」
「ここの夢が、何を基準に私を作っているのか」
残虹は自身の袖を指先で摘まんだ。
「現実の肉体をそのまま写しているなら、私は囚人服に手錠姿のはずでしょう?」
「ああ」
そこでようやく潯も残虹の姿を上から下まで眺める。
「言われてみりゃそうだねぇ」
「だから、自分自身の認識を拾っているのか。それとも――」
残虹は言葉を切り、周囲へ視線を巡らせた。
薄汚れた受付。
所々剥がれ落ちた壁。
古びた案内板。
鼻を突くような湿気と、消毒薬が腐ったような臭い。
ナナリと早霧から聞いていた特徴と、概ね一致している。
「この病院そのものが、私がどういう姿をしている人間なのか知っているのか」
「後者だったら?」
「面白いじゃない」
「ほんっと性格悪いね、あんた」
潯は呆れたように笑った。
残虹も薄く笑い返す。
「それはお互い様でしょう?」
二人は軽口を交わしながらも、すでに周囲の確認を始めていた。
まず目についたのは受付だった。
前回までナナリと早霧が最初に現れた場所。
そして二度目の探索では、包帯の異象に捕まった二人が戻された場所でもある。
残虹はしゃがみ込み、床へ指を触れる。
冷たい。
指先へ伝わる感触は妙に生々しい。
夢だと理解していても、作り物めいた曖昧さはほとんどなかった。
「聞いてた以上に出来がいいわね」
「夢なんだから、もっとふわふわしてると思ったかい?」
「夢だからこそよ。人間の夢なんて、普通はもっと雑なものだもの」
残虹は立ち上がる。
「見ている時は整っているように感じても、細部まで観察すると綻びが出る。文字が読めなかったり、部屋の構造が繋がっていなかったりね」
「ここにはそれがない?」
「今のところは」
壁に掛けられている院内案内へ目を向ける。
文字は読める。
廊下の先を見ても不自然な歪みはない。
床のタイルも、一枚一枚異なる汚れ方をしている。
無駄に細かい。
「誰かが見ている夢というより、最初からこういう場所があるみたい」
「そいつはナナリたちも言ってたね」
潯は受付の奥を覗き込む。
「問題は、今回はどこを調べろって言ってくるかだ」
「三度目なのに?」
「あたしらにとっちゃ一度目さ」
「病院にとっては?」
潯の動きが一瞬止まった。
残虹が笑う。
「おチビちゃん二人が二度来て、電気を直して、水を抜いて、二階まで調べた」
「……なるほどね」
「もしこの場所が探索の進捗を保持しているなら、また一階からやり直させる必要はないでしょう?」
二人は受付から廊下へ出た。
照明は点いている。
前回、ナナリたちが復旧させたものだ。
潯が天井を見上げる。
「電気はそのまま……か、やっぱり、覚えてるようだね。この病院」
その時だった。
――チン。
静まり返った院内に、小さな金属音が響いた。
二人が同時に音の方を見る。
廊下の奥。
以前は動かなかったはずのエレベーター。
その上部にある階数表示が点灯している。
一階。
扉がゆっくりと左右へ開いた。
潯と残虹はしばらく無言でそれを見つめた。
「……罠?」
残虹が尋ねる。
「分からない」
潯は即答した。
「おチビちゃんたちの時は?」
「エレベーターが使えたなんて話はないね」
「ふぅん」
残虹は楽しそうに口元を歪めた。
エレベーターの中には誰もいない。
ただ、操作盤の三階を示すボタンだけが赤く光っていた。
一階。
二階。
そのどちらでもない。
三階。
まるで行き先を指定するように。
「随分と分かりやすい歓迎ね」
「歓迎っていうか、こりゃ完全に誘導だろ」
「ほら」
残虹は先にエレベーターへ足を踏み入れる。
「やっぱり親切じゃない」
「その親切さを一番疑ってる奴が言う台詞かい」
潯も後に続いた。
扉が閉じる。
誰もボタンには触れていない。
それでもエレベーターは静かに動き始めた。
表示が変わる。
一階。
二階。
そして――三階。
残虹は上昇する箱の中で、僅かに顎を上げた。
「さて」
「なんだい?」
「今回は何を見せてくれるのかしらね」
次の瞬間。
――チン。
音とともに扉が開いた。
その先に広がっていたのは、これまでの病棟とは明らかに雰囲気の異なる廊下だった。
患者のための場所ではない。
壁際には積み上げられた書類棚。
カードキー式の扉。
曇ったガラスの向こうには、用途の分からない実験器具が並んでいる。
そして廊下の正面。
古びた案内板には、たった一つだけ。
『研究区画』
そう書かれていた。