最初は、ただ夢の中に存在するだけだった場所。
そこには患者の記録があり。
水に沈んだ病室があり。
正体不明の包帯を纏った異象が徘徊し。
調査員たちの記憶にまで、僅かな食い違いを残した。
それでも病院は、探索を拒まなかった。
むしろ先へ進むための道を用意し、資料を見せ、そして三台の映写機によって調査員たちを現実へ送り返してきた。
やがて潯と残虹が三階の研究区画へ踏み込み、そこで初めて知ることになる。
――冷山病院。
それまで名もなき場所だった病院は、名前を得た。
そして二人が現実へ帰還した時。
その名前は、夢の中だけのものではなくなっていた。
数年前から冷山病院を知っていた者。
そこで夢を見たと語る者。
昔から存在していたはずの、いくつもの記録。
つい先ほどまで存在しなかったはずの過去が、まるで最初からそこにあったかのように現実へ紛れ込み始める。
それでも。
〈エイボン〉には、まだ終わらせていない仕事が残されていた。
すべての始まりとなった患者は、今なお眠り続けている。
病院が何者なのか。
何を望んでいるのか。
そして、自分たちはこれまで何を持ち帰ってきたのか。
その答えを確かめるため、潯と残虹はもう一度、冷山病院へ向かう。
名前を持った病院が、本当に得たものは名前だけだったのか。
そして。
何も起きていないと――誰が証明できるのか。
鳴り続ける通知音。
一件。
また一件。
冷山病院。
その名前を含む投稿が、クローラーAIへ次々と引っ掛かってくる。
ほんの少し前まで。
どこにも存在していなかったはずの名前。
それが今では、昔からそこにあったもののように現実の中へ紛れ込んでいる。
――ピコン。
「……まだ増えてる」
鑑定士がスマートフォンを見つめたまま呟く。
――ピコン。
「いい加減うるさいっすね……」
ナナリの耳が通知音に合わせて小さく動いた。
「音だけ切れないの?」
「今どこまで増えてるか確認してるの。ちょっと我慢して」
――ピコン。
いい加減鬱陶しくなってきたところで、潯が口を開いた。
「ただ、あたしたちはまだこの依頼を完了できていない」
その一言で、部屋の視線が潯へ集まった。
潯はベッドの脇へ目を向ける。
そこには、今回のすべての始まりとなった患者が横たわっていた。
眠ったまま。
規則正しく呼吸をしているが、目を覚ます気配はない。
「そもそも、この患者が悪夢にとらわれていることを助けられるかもって夢に入ったんだ。目的が変わってしまっている」
「……そういえば」
ナナリが患者を見る。
「店長たちは戻ってきたのに、患者さんは起きてないっすね」
「はい」
アドレーが頷いた。
「状態そのものは安定しています。しかし依然として睡眠状態にあり、これまでと変化はありません」
早霧が眉をひそめる。
「じゃあ、あの病院との繋がりも切れてないってこと?」
「少なくとも、その可能性は高いね。本人が寝てるときに、廃病院へ私たちが何度も行けてるのがその証明」
潯は腕を組んだ。
「冷山病院なんて名前がこっちへ出てきたのも大問題だ。何が起きたのかは調べなきゃならない」
その間にも。
――ピコン。
また一つ通知が増える。
「でも、それとこの依頼は別だ」
潯は患者を見る。
「この人がどうしてあの病院の夢を見始めたのか。どうすれば完全に切り離せるのか。そこはまだ何も分かってない」
アドレーが手帳へ視線を落とす。
「これまで三度の調査で、病院内部についてはかなり情報が集まりました。しかし、依頼人である患者と病院との関係については、確かにほとんど進展していません」
鑑定士が顔を上げる。
「だったら、もう一度入るの?」
「そうなるね」
潯は即答した。
「お嬢様」
アドレーの声が僅かに低くなる。
「現在、異象が現実側へ何らかの影響を及ぼしている可能性があります。先ほどまでと同じ方法での探索は危険です」
「分かってるよ」
潯の声から軽さが消える。
映写機。
あれを使った直後、冷山病院という名前が現実へ現れた。
偶然と考えるには、あまりにも出来すぎている。
もう一度あれを使えば、次は何が起きるか誰にも分からない。
「それでも、このまま放っておくわけにはいかない」
潯は眠る患者を見る。
「依頼を受けた以上、この人を置いて逃げるわけにはいかないだろ」
一瞬、部屋が静かになった。
そのわずかな沈黙の中で……。
――くすり。
残虹が笑った。
「……なんだい」
「いいえ」
残虹は椅子へ身体を預けたまま、口元だけを楽しそうに歪めている。
「随分と律儀なのね、と思って」
「何が言いたい?」
「別に?」
ちり、と手錠が鳴る。
「ただ――」
残虹は眠る患者へ顔を向けた。
「今度はちゃんと考えてから帰ってきた方がいいわね」
潯の目が細くなる。
「何を?」
「何を持って帰ったのか」
残虹の笑みが僅かに深くなる。
「冷山病院という名前だけで済んでいるなら……」
そこで残虹はわざと一拍、ここにいるエイボンの面々を目隠しの向こうからじっくりと見回してから言葉を紡いだ。
「まだ幸運だったのかもしれないもの」
――ピコン。
また一つ。
通知音が鳴った。
四度目の夢の中の病院。
再び潯と残虹は冷山病院と名前がついた廃病院の受付に立っていた。
「さて、四回目か……」
「探索するとしたら5分縛りの3階……と言いたいところだけど……」
カタン、と小さな音がして受付に一枚の紙が止められているバインダーボードが置かれる音がした。
「とうとうリアルタイムでお手伝いしてくれるそうよ」
「……ちっ」
思うところはありつつ、二人は受付へと近づき、バインダーボードを手に取る。
「地図?」
簡単な四角が組み合わさった何の変哲もない地図。
それは3階のエレベーターから時間制限部屋の間取りを大雑把であるが、鉛筆のようなもので書き込まれていた。
「つまりこれを使えと?」
「……なるほど、古典的ね」
「?」
残虹は受付の上に残っていたほかの乾いた紙束を集め、1枚を小さくまとめ空中へ放り出す。
「はっ!」
そのまま刀を抜き照明を切り落とし、電線を短絡させ火花を散らせる。
その火花に合わせるように剣先で紙を導き火種を作り出した。
そして残りの紙束へその火種を移し、小さな火を起こした。
「見事なものね」
「お褒めいただき光栄ですわ……、っと、やっぱり炙り出しね」
起こした火に地図を近づきあぶることで、隠されていた部分が紙の上に現れる。
本来であれば親切な異象のことだ、どこかにライターなり、火種を用意してくれただろうが、それを残虹がショートカットしただけのことだろう。
「なるほど……これがこの三階の真の姿か……」
炙り出てきた部分は5分制限で走り回った場所の一角。
明らかに壁だった場所から伸びるように別の通路、そして構造上現実にはありえない場所にある小部屋へとつながっていた。
「手間を省いてあげたんだからサービスしてもらえると嬉しいんだけど?」
そう、残虹が虚空へ問いかけるが反応はない。
「コミュニケーションが取れるタイプではないってことだね。向こうが一方的に押し付けてくるってことだ」
「ふぅん、つれないわね」
「とりあえず道は開いた、誘われてやるとしようか」