潯を先頭に二人は再び5分制限がかかる研究区画へと踏み込んだ。
だが、書類などは探さない、余裕をもって隠し通路のある壁まで移動する。
「切れる?」
「はいはい」
残虹の剣筋が走り、壁が細かく切断される。
瓦礫に変わったその先には人一人が通れる通路が現れた。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
踏み込んだ先の部屋。
そこには、すでにすべての書類が並んでいた。
机が三つ。
その上へ、それぞれ一冊ずつ。
「……随分とまあ」
潯が呆れたように呟いた。
「もはや取り繕う気もないみたいね」
残虹も笑う。
その時、潯がふと顔を上げた。
「性悪女」
「なに?」
「時間」
廊下側の壁。
研究区画へ入った時から減り続けていた数字が見える。
『03:27』
止まっていた。
「……なるほど」
残虹の笑みが薄くなる。
「ここでは急がなくていい、と」
「読めってことだろうね」
「最後まで親切だこと」
潯は一番手前の机へ近づいた。
置かれていた一冊目。
表紙には、
『渉異病症科 症例記録』
二冊目。
『異象実験 経過報告』
そして最後。
一冊だけ他とは明らかに違う。
病院の正式な書式でもなければ、管理番号もない。
使い古されたノート。
表紙の隅に、手書きで一文字だけ記されていた。
『V』
「……ようやく本人のお出ましか」
潯がノートへ手を伸ばす。
「順番があるんじゃない?」
残虹が止めた。
「順番?」
残虹は三冊を眺める。
「わざわざ三つ並べているんだもの、最初から読ませる順番まで決めている可能性があるわ」
「そこまで付き合う必要あるかい?」
「あら」
残虹が笑った。
「ここまで散々言うことを聞いてきたじゃない」
「誰のせいだと思ってる」
「少なくとも私だけではないでしょう?」
潯は小さくため息をつくと、一冊目を手に取った。
「じゃあ、お望み通り最初から読んでやろうじゃないか」
ページを開く。
最初に記されていたのは。
これまで何度も断片的に目にしてきた、あの症状だった。
「『患者番号二〇三。全身性の疼痛、および体内に持続する灼熱感を訴える』」
残虹が向かい側から覗き込む。
「熱は?」
「異常なし。火傷も炎症もなし、と」
潯が頁をめくる。
症状は次第に悪化し、患者は冷水を強く求めるようになった。
長時間水へ浸かろうとし、夜間には病室を抜け出して水道設備へ向かう。
「二回目の水浸しと繋がったわね」
「そうみたいだ」
さらに。
『身体を包帯で覆う行為を確認』
潯の指が止まる。
患者は腕、脚、胴体、顔へと包帯を巻く範囲を広げていた。
本人によれば、強く巻くことで灼熱感が和らぐ。
逆に外されると症状は急激に悪化し、激しい抵抗を示したという。
「なるほど」
残虹が資料を指先で軽く叩く。
「水と包帯。随分見覚えがあるわね」
潯は最後の頁へ進んだ。
そこには診断名が記されていた。
「『隠火症』」
「隠れた火、ね」
「進行すると意思疎通が難しくなり、周囲への攻撃行動も確認……か」
二人の脳裏に、ナナリと早霧が交戦したという全身を包帯で覆った異象が浮かぶ。
潯は資料を閉じた。
「似すぎてるね」
「ええ。でも同一とは限らない」
残虹はすぐに返した。
「患者が異象になったのかもしれないし、病院が患者を模しているだけかもしれない」
「病気そのものが形になった可能性もある」
「そういうこと」
潯は一冊目を机へ戻す。
「正体は分からない。でも、元になった症例はこれだろう」
残虹の視線が二冊目へ移る。
『異象実験 経過報告』
「次は」
残虹が薄く笑う。
「その病気を、病院が何に使おうとしたのかしらね」
潯は何も言わず二冊目のファイルへ手を伸ばした。
表紙には、
『異象実験 経過報告』
と記されている。
「さて、こっちはどうだい」
ページを開く。
最初に並んでいたのは、研究体制と実験目的だった。
「『隠火症を既知の疾病ではなく、異象性を持つ現象として扱い、発生条件および進行過程を検証する』」
残虹が横から覗き込む。
「治療じゃなくて研究ね」
「しかも――」
潯が次の頁をめくる。
そこには、患者を水から隔離した場合。
包帯を外した場合。
睡眠を制限した場合。
症状がどう変化するかを記録した実験内容が並んでいた。
「……趣味が悪いね」
「患者を治すより、どうすれば症状が強く出るかを調べてる」
残虹の笑みが僅かに薄くなる。
さらに先。
『症例を制御可能な異象現象として利用できる可能性あり』
潯の指が止まった。
「利用、ねぇ」
「ここまで来ると目的は分かりやすいわね」
頁をめくる。
研究責任者として記されていたのはN主任。
その下にある協力者の欄には、
『V』
「やっぱりVは研究する側だった」
「少なくとも最初は、ね」
そして、次の記録。
『研究員Vに隠火症と酷似した初期症状を確認』
二人の視線が止まる。
全身の疼痛。
灼熱感。
水への執着。
「……本人まで発症した」
潯が低く呟く。
残虹は黙って次の行を追った。
『本人への告知は行わず、監視を継続』
『研究資料へのアクセス権限を段階的に制限』
『深夜、研究区画内を移動するVを確認』
「二回目に見た監視記録と繋がったわね」
「ああ」
潯は最後の頁へ進む。
そこには短い内部報告。
『Vによる情報持ち出し、および実験妨害の疑いあり』
報告者。
『N主任』
残虹が小さく笑った。
「密告者」
「研究員が自分の病気を隠されて、監視されて、権限まで取り上げられた」
潯はファイルを閉じる。
「そりゃ、何かする気にもなるか」
「だからといって、何をしたのかまでは分からないけれどね」
そして最後に残った三冊目。
それだけは病院の正式な資料ではなかった。
使い古された一冊のノート。
表紙には、手書きで一文字だけ。
『V』