そこには何者かによって用意された資料と、全身を包帯に覆われた正体不明の異象が存在していた。
そして現実へ戻ったナナリと早霧の証言には、同じ資料を見たはずにもかかわらず、僅かな食い違いが生じていた。
それは単なる夢の曖昧さなのか。
それとも、この病院そのものが何かをしているのか。
確かめるため、二人はもう一度、名もなき廃病院へと足を踏み入れる。
二度目の廃病院。
目を開けたナナリと早霧の前には、思いもよらない光景が広がっていた。
「み、水浸しっす!?」
「それも冷たいっ!」
二人が現れたのは、廃病院二階へ続く階段の踊り場。
だが、一回目とは様子がまるで違っていた。
一階は完全に水没している。
階段の下には黒々とした水面が広がり、とても降りられそうにない。
さらに溢れた水は二階にまで達し、フロア全体を数センチほど浸していた。
どこへ足を置いても水を踏む状態だ。
「ナナリ、あんたの異能使って天井張り付こうよ」
「早霧を抱えてずっと動くのは無理っすよ……。諦めて濡れるしかないっす」
「感電しないかなぁ……」
「照明ついてるのが逆に怖いっすね。とにかく気を付けるっすよ」
二人は仕方なく水へ足を踏み入れ、まずは前回映写機のあった部屋へ向かった。
ぱしゃ。
ぱしゃ。
歩くたび、静かな病院に水音が響く。
部屋そのものは前回と変わっていなかった。
三台の映写機も、そのまま鎮座している。
ただし――。
「ありゃ、フィルムがないっすね」
「また集めて来いってことでしょ?」
そう言いながら、早霧は前回フィルム缶が置かれていた机へ目を向けた。
代わりに置かれていたのは、一本の鍵。
早霧がそれを摘み上げる。
前回開けることのできなかった、二階の廊下の先へ進むためのものらしい。
「資料を集めて、何をさせたいんっすかね、この異象」
「さぁね」
早霧は鍵を弄びながら答える。
「でも、資料を集めるか患者さんが起きない限り、こっちの意思じゃ目を覚ませないんでしょ?」
「そうっすね」
「だったら、向こうのルールに付き合うしかないじゃん」
早霧はそう言って廊下の突き当たりへ歩き始めた。
ナナリもその後を追う。
ぱしゃ。
ぱしゃ。
歩くたびに水面が揺れ、やけに大きな音が響く。
幸い照明は点いている。
それでも薄暗いフロアいっぱいに広がる水は、ほとんど周囲の景色を映していなかった。
黒く。
のっぺりと。
まるで水というより、粘ついたコールタールのように見える。
「これあれっすね。宅配ゲームに出てきたタールってやつに見えないっすか?」
「だとしたら、今からホラー展開だけどいいの?」
「つっても、ここが異象空間だってのはもう分かってるっすからね」
ナナリは水面を覗き込みながら、軽い調子で続ける。
「出てきたら大体殴れるっすよ?」
「……あっそ」
早霧は呆れたように返す。
その間にも。
二人が立てた波紋だけが、黒い水面をゆっくりと遠くまで伝わっていった。
やがて二人は、何の変哲もない職員待機室へとたどり着いた。
机と椅子。
壁際には棚。
そして例のごとく、操作を受け付けないまま電源だけが入ったパソコンが一台置かれている。
「またこれっすね」
「今回は勝手に読んじゃダメだからね」
早霧の言葉に、ナナリが「分かってるっすよ」と頷いた。
二度目の調査へ入る前、アドレーから一つ指示を受けている。
資料を発見した場合は、その場で内容を声に出して読み上げること。
さらに、読み上げていない側も画面を確認し、書かれている内容が一致しているか逐一確認する。
前回起きた認識の齟齬が、いつ発生しているものなのかを調べるためだった。
最初から二人に別の資料が見えているのか。
病院を離れる過程で記憶が変質するのか。
あるいは夢から目覚めた瞬間に何らかの干渉を受けているのか。
それを切り分けるための、簡単な実験でもある。
「じゃ、あっしから読むっすよ」
「どーぞ」
ナナリが画面を覗き込む。
表示されていたのは、前回見た資料とは違う。
どうやら院内で行われていた監視についての記録らしい。
「えーっと……『Vについては引き続き監視が必要。本人が監視に気付いている可能性があるため、今後はより気付かれにくい方法へ変更する』……」
そこで一度区切り、ナナリは早霧を見る。
「ここまで合ってるっすか?」
「合ってる。続き」
「了解。『実験については予定通り継続する』……っすね」
「うん。そこも同じ」
二人は同時に画面を見直す。
少なくとも今この瞬間、互いに見えている内容に違いはない。
「よし。第一チェック、異常なしっす」
「……なんか健康診断みたい」
「でも、これ変じゃないっすか?」
ナナリが再び画面へ顔を近づける。
「Vって、前に出てきた人っすよね?」
「患者を担当してた人っぽかったね」
「その人を病院がこっそり監視してる。それで――」
ナナリの指が、最後の一文を示す。
「『実験』ってなんの実験っすか?」
「さぁ」
早霧は肩をすくめる。
「ただの治療なら、わざわざそんな書き方しない気はするけど」
「しかも監視がバレそうだから、もっとこっそりやれって……」
「患者だけじゃなくて、この病院そのものが怪しくなってきたね」
前回までに見えていたのは、奇妙な症状を持った患者と、その患者を巡って起きた事故。
だが今度の資料は違う。
病院の中で誰かが誰かを監視している。
しかも、その裏では何らかの実験まで進められていた。
「とりあえず、これが今回の一枚目っすね」
ナナリがパソコンから離れる。
「内容も今のところ二人とも一致」
「じゃ、次」
早霧はさっさと出口へ向かう。
「今回はちゃんと声出して読んでよ」
「分かってるっすって!」
二人は再び水の張った廊下へ出た。
ぱしゃ。
ぱしゃ。
静かな病院に、二人分の足音が響く。
その少し後。
二人は、複数の監視モニターが並んだ小部屋を見つけた。
電源の入った画面には、時間と場所だけが記された静止映像。
そして机の上には、一冊の監視記録が開かれたまま置かれている。
今度は早霧がそれを手に取った。
「じゃ、次あたし読むよ」
「お願いするっす」
「『深夜、院内を移動する不審人物を監視カメラが確認』」
早霧が読み上げる。
ナナリも横から紙面を覗き込み、指で文章を追っていた。
「合ってるっす」
「『映像を確認した結果、人物は研究員Vと断定。今回の件について事情聴取を行う』」
「……そこも同じっすね」
二人が揃って黙る。
「V、めっちゃ疑われてるじゃん」
「夜中に何してたんすかねぇ」
「分かんない。でも、一枚目と合わせると――」
早霧は先ほどの資料を思い返す。
病院側は以前からVを監視していた。
そして今、そのVが深夜に何かをしていたことまで記録されている。
「Vが何か隠してるのか」
「それとも病院側がVに何か隠してるのか」
「どっちもありそうなのが嫌だね」
「っすねぇ……」
まだ、どちらが正しいとも判断できない。
ただ一つ確かなのは。
一回目の調査で見つけた『病気』についての記録よりも、明らかに人間臭い事情が見え始めているということだった。