こうして二つの資料を確認した二人だったが、フロアは相も変わらず水浸しのままだった。
そんな中、廊下を進んでいた早霧がふと足を止める。
「ねえ、あれ」
「ん?」
壁に取り付けられた古びたプレート。
かすれた文字で、
『ポンプ室』
と記されている。
「お、これ水抜けるんじゃないっすか?」
「だったら助かるんだけどね。靴の中もう最悪なんだけど」
二人は扉を開け、中を覗き込んだ。
部屋の半分近くを占める巨大なポンプ設備が鎮座している。
配管は壁や床を這うように伸び、その一部は二階の各所へ繋がっているらしい。
そして、設備の脇。
壁には一枚の紙が画鋲で留められていた。
「また資料っすね」
「読むよ。あんたもちゃんと見てて」
「了解っす」
早霧は紙面へ目を落とす。
「『水設備管理部より。二〇三号室の患者について――』」
ナナリも横から覗き込み、文字を追う。
「そこまで同じっす」
「『全身に包帯を巻いた当該患者が、繰り返し院内の水設備へ近づいている』」
「同じ」
「『度重なる設備トラブルと修繕が発生しているため、今後は水回りへ近づけないよう厳重に管理すること』……だって」
「……同じっすね」
早霧が資料から顔を上げる。
二人の視線が、自然と足元へ落ちた。
黒い水。
二階の床を覆い尽くし、一階そのものを沈めている大量の水。
「……これ」
ナナリが嫌そうに口元を引きつらせる。
「今の水浸しと関係あるんすかね?」
「可能性はあるんじゃない?」
「ってことは、前にいた包帯ぐるぐるも……」
「二〇三号室の患者だった、とか?」
二人とも答えは出さない。
資料に書かれているのは、あくまで昔この病院にいたらしい患者についての記録。
自分たちを探している様子だった異象と同じ存在だと断定できる材料はなかった。
ただ――。
「包帯に、水に、あの化け物っすか」
「嫌な繋がり方してきたね」
早霧は資料を壁へ戻すと、今度は巨大なポンプへ視線を移した。
「で。こっちは?」
「見る限り、まだ動きそうっすね」
ナナリが設備の操作盤へ近づく。
前回の配電室と同じく、傍らには簡単な操作手順が貼り付けられていた。
「……またご丁寧に説明書付きっす」
「完全にやらせる気じゃん」
「じゃ、やるっすか?」
「ここまで濡らされたんだから、さっさと抜いちゃって」
手順に従ってナナリがいくつかのスイッチを操作する。
しばらくして――。
ゴウン。
腹に響くような低い音とともに、巨大なポンプが動き始めた。
床を覆っていた水が、ゆっくりと排水口へ引き込まれていく。
「おぉー! 文明の勝利っす!」
「今更だけど、水浸しになる前提じゃないとこんなポンプ置かないよね?」
「……確かにそうっすね」
やがて水位は見る見るうちに下がっていった。
足首まであった水が消え、濡れた床のタイルが少しずつ姿を現していく。
完全に排水されるのも、時間の問題に見えた。
だが。
――ヒタリ。
廊下の向こうから、何かが聞こえた。
素足で濡れたタイルを踏んだような音。
ナナリと早霧の肩が同時に跳ねる。
――ヒタリ。
もう一度。
二人は顔を見合わせると、そっとポンプ室の扉から廊下を覗き込んだ。
点滅する照明の下。
あの包帯に覆われた人型実体が、こちらへ歩いてきている。
相変わらず表情どころか顔すら分からない。
だが、その進路は明らかにポンプ室へ向いていた。
「ま、まさか……水を抜いたからっすか?」
「知らない! とにかく逃げるよ!」
早霧がポンプ室を飛び出し、包帯実体とは反対方向へ駆け出した。
「待つっす!」
ナナリもその後を追う。
前回のように天井へ逃げようにも、ここは配管や設備が張り巡らされていて十分な高さがない。
早霧を抱えたまま異能でやり過ごすことは難しそうだった。
なら、とにかく距離を取るしかない。
二人は廊下を駆ける。
だが、完全には引き切っていなかった水が足元で大きく跳ねた。
バシャッ。
バシャッ。
静まり返った病院に、二人分の足音が響き渡る。
その瞬間。
包帯実体の動きが止まった。
「……やば」
早霧が呟く。
包帯実体が、ゆっくりとこちらを向く。
目など見えない。
それでも確かに――二人の存在を認識した。
次の瞬間。
走り出した。
「来たっす!」
速いわけではない、せいぜい人間の早歩き程度。
それでも、一本道の廊下では十分だった。
二人は角を曲がって、さらに走る。
そして――。
「行き止まり!?」
早霧が声を上げた。
目の前には壁、左右にも逃げ込める部屋はない。
道を間違えたのだ。
背後から。
――ヒタリ。
――ヒタリ。
包帯実体の足音が近づいてくる。
ナナリは一瞬だけ周囲を見回す。
天井へ逃げる余地もない。
抜け道もない。
隠れられる場所もない。