ようこそ幽鬼のいる教室へ 作:何故そこで愛!?
窓の外を流れていく景色は、もう三十分近く同じような緑と灰色の繰り返しだった。
反町友樹――最近ではもう、この名前を名乗ることの方が少なかった。
多くのゲーム関係者にとって、彼女は「幽鬼」という二文字の記号でしかない。
けれど今日、彼女が向かっているのは、いつも通り命をかけたゲームの会場ではなかった。
高度育成高等学校。
通称高育とよばれる、最新の学校だ。
政府肝入りのその学習機関に向かい大きく揺れるバスの座席で、幽鬼は胸の上にある小さく歪な膨らみを見る。
ちょうど心臓と思われる部分に、分かりやすくアピールするかのような手術跡が制服の下にあった。
幽鬼はゲームに参加するため、防腐処理と呼ばれる人体改造を受けている。
出血した血液をぬいぐるみの綿のように固めるそれは、プレイヤーの出血を防ぎつつも、観客にグロテスクな物を見せないようにする配慮であった。
しかしその時の手術跡は完全に隠蔽されている。
もちろん幽鬼は心臓病などではないし、そのための手術など行なっていない。
すべては運営が用意した「偽装」だ。
カルテも、検査データも、この学校の保健医ですら疑っていない先天性の心臓疾患。
定期的な「通院」の名目で校外に出られるように、あらかじめ道筋だけが敷かれている。
随分と回りくどいやり方だな、と幽鬼は内心で面倒に思った。
そう思ったところで、答える者はいない。
運営からのエージェントを経由した説明は簡潔だった。
曰く、ゲームの参加者を一般社会に、しかもよりにもよって国家主導の「実験的な学校」に紛れ込ませることには、相応の理由がある。
曰く、この学校の生徒たちの選抜基準や心理誘導のプロセスが、ゲームの観察対象として極めて興味深い、と。
そしてもう一つ、運営から告げられたことがあった。
この学校には、幽鬼には現時点では詳細を明かせない独自の学習カリキュラムがあるらしい――ただ、それがゲームを生き抜くうえで「効果的だろう」という一点だけは、念を押すように伝えられていた。
キャンドルウッズでの一件から、半年ほどがたっていた。
あの兎狩りが終わった夜、幽鬼は決めたのだ。
もう本能だけで戦うことをやめ、生き残るために、知識を、経験を学ぶと。
その半年は、幽鬼にとって自分自身を見つめ直すための時間でもあった。
師匠の弟子として、恥じない生き方をしているだろうか。
そう自問する時間が増えた。
がむしゃらに命を拾い続けるだけの日々から、少しでも師匠にふさわしいプレイヤーへと近づくために、何をすべきか。
答えの一つが、この学校だった。
もっとも、通うに値する場所を見極めるだけでも、思いのほか時間がかかった。
長々と学校選びに悩んでいた幽鬼に、運営が高度育成学校の話を持ちかけてきたのも、ちょうどそんな折のことだった。
頷いたのも、突き詰めればその決意の延長線上にあった。
もう一つ、この入学にあたって片付けておかねばならない問題があった。
幽鬼の実年齢は、一般的な高校一年生からは一年ほどずれていた。
中学卒業後から長くゲームの世界に身を置いてきた分、当然と言えば当然の話だ。
それでも、エージェントの後押しもあって、戸籍上は高校一年生として学校に届け出ることになっていた。
多少の無理を通してでも、幽鬼をこの学校に押し込みたい――運営側にそういう思惑があるらしいことは、幽鬼にもうっすらと伝わっていた。
自分がここで何を「観察」されているのかも、正直なところ大した関心はない。
安全な学校での青春も興味はない。
ただ、久しぶりに生き延びるための何かをここで拾えるかもしれないということ。
それだけが、この作戦に乗った理由と言えば理由だった。
バスの中は賑やかだった。
前の方の座席では女子生徒たちが甲高い声で笑い合い、後方では早くもスマートフォンで自撮りに興じるグループがいる。
誰も彼もが、これから始まる高校生活への期待と、そこはかとない不安を持て余しているのが分かった。
幽鬼にはその感覚が、ひどく懐かしいような、まるで自分のものではないような、奇妙な距離感を伴って感じられた。
バスの前方では、ちょっとした揉め事が起きていた。
正義感の強い女性が派手な身なりの高校生に、老女に席を譲るべきと説教しているようだった。
その声に煩わしさを感じていたが、やがて優しい少女が席を譲ったようですぐに騒動は収まった。
――と、そのとき。
隣の座席、正確には通路を挟んで一つ後ろの席から、視線を感じた。
反射的に、幽鬼の体がわずかに強張る。
長年ゲームで培われた感覚が、無意識のうちに「観察されている」という事実を拾い上げていた。
ゆっくりと視線をそちらへ向けると、そこには一人の男子生徒が座っていた。
特に目立つ容姿というわけではない。
かといって印象に残らないわけでもない、不思議な存在感。
周囲の浮かれた空気からは一歩引いた位置で、手にした文庫本に――いや、正確には開いてはいるものの、そのページはさっきから一向にめくられていない――視線を落としている。
目が合った。
一瞬だけ。
けれどその一瞬で、幽鬼は妙な感覚を覚えた。
値踏みをされたというのとも、少し違う。
まるで、こちらが「何を隠しているか」ではなく、「何かを隠している」という事実そのものを、静かに見て取られたような。
男子生徒の方が、先に視線を外した。
何事もなかったかのように、また文庫本のページに目を落とす。
幽鬼はしばらくその横顔を見つめていたが、やがて自分も窓の外に向き直った。
心臓のあたりに、手術痕のない胸のあたりに、そっと手のひらを当てる。
演技でしかない持病のはずのその場所が、今だけは本当に、小さく音を立てているような気がした。
変な人だ、とだけ思って、幽鬼はまぶたを閉じた。
バスは高度育成学校へ向けて、まだ長い道のりを走り続けている。
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……その男子生徒――綾小路清隆は、少し前まで、隣に腰掛けた黒髪の女子生徒と言葉を交わしていた。
堀北鈴音と名乗った彼女とのやり取りは、素っ気ない拒絶をはらんだ短いものだった。
特に打ち解けたという実感もないまま、会話は自然と途切れ、堀北は興味なさそうに窓の外へと視線を移していた。
手持ち無沙汰になった綾小路は、何とはなしに車内を見回す。
その途中、通路を挟んだ少し先の席で、一人静かに目を閉じている女子生徒の姿が目に留まった。
さっき、ふと視線が合った相手だ。
何がどう、と言葉にできるほどのものではない。
ただ、あの一瞬の目の合わせに、何となく妙な間があったような気がした――その程度の、些細な違和感。
深く考えるまでもないことだ。
これから始まる、これまで経験したことのない学校生活への期待の方が、今の綾小路の中ではずっと大きな部分を占めていた。
見知らぬ天井の下で、見知らぬクラスメイトたちと、これから三年間を過ごすことになる。
それがどんな日々になるのか、想像もつかない。
バスの窓の外を、まだ見慣れぬ景色が流れていく。
高度育成学校での生活は、まだ始まってすらいなかった。
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指定された教室に足を踏み入れた瞬間、幽鬼は自然と足を止めた。
窓際から数えて三列目、前から二番目の席。
そこに座っていたのは、バスで一瞬だけ視線が合った、あの男子生徒だった。
名簿で示された自分の席は、ちょうどその右前――つまり彼から見て斜め前の位置にあたるらしい。
目が合う。
どちらからともなく、小さく頭を下げた。
言葉はなかったが、互いに顔を覚えているという確認だけで十分だった。
幽鬼は特に何を思うでもなく、示された席に腰を下ろす。
すぐ後ろには、朝バスで彼の隣に座っていた女子生徒――堀北、と名簿に記載されていた気がする――が、既に着席していた。
席に着くと、幽鬼は視線だけを動かして周囲を観察し始めるり
誰がどこに座り、どんな表情をしているか。
声の大きさ、姿勢、視線の配り方。
断片的な情報を拾い集め、頭の中で素早く並べていく。
短時間で他者の情報を抜き取るというのは、プレイヤーにとって特別な技能というほどのものではなかった。
ゲームの会場では、見知らぬ参加者と顔を合わせ、命を託し合うかどうかを一瞬で判断しなければならない場面が何度もある。
それどころか、場合によっては狩場、攻撃対象となるプレイヤーを見つける手立てにもなった。
人間観察は、ほとんどの慣れたプレイヤーにとっては、呼吸と同じくらい自然に染みついた習慣になっている。
――左後ろの席の彼は、まだそれほど多くの情報を拾えない。
表情も声も、意図的に均されているような印象がある。
――後ろの堀北という少女は、姿勢の良さと視線の鋭さから、他人を見下す傾向がありそう。
誰かと群れることを好まないタイプかもしれない。
そんなふうに一人ひとりを値踏みしていると、教室の前方の扉が開いた。
現れたのは、鋭い目つきをした女性教師だった。
茶柱紗枝と短く名乗った彼女は軽い前置きの後、学校のシステムについての説明を始めた。
高度育成学校に入学した者は寮で生活し、敷地外に出ることは禁じられていること。
その状態で不自由しないよう、敷地内には街中のほぼすべてのシステムがそろっていること。
そしてそれらを利用するための代替通貨、それが通称「Sシステム」と呼ばれる、生活のほぼ全てを賄うためのプライベートポイントという物であるということ。
「今から配る学生証カードそれを使い、敷地内にあるすべての施設を利用したり、売店などで商品を購入できるようになっている」
そして彼女は自身のそれを確認するように告げた。
幽鬼がすぐに端末を開くとそこには10万の数字が書かれている。
「それからポイントは毎月1日に自動的に振り込まれるようになっている」
茶柱の淡々とした説明に、教室のあちこちからどよめきが上がった。
具体的な金額が提示されると、その声はさらに大きくなる。
何もせずに毎月これだけの金額が手に入るのか、という驚きと期待が、教室の空気を明るく染めていく。
幽鬼だけが、その熱に取り残されたような顔をしていた。
無理もない話だった。
ゲームの報酬は、この程度の金額とは桁が違う。
命を懸けて得る対価に比べれば、毎月支給されるという小遣いじみたポイントは悪くはないが、心を動かされるほどのものでもなかった。
普通の人たちは、これだけの金額でこんなに沸き立つのか、と幽鬼は少し呆れるような気持ちで眺めていた。
表面上だけ、当たり障りのない笑みを浮かべておく。
目立つ必要はない。
あまり馴染むつもりはなかったが、不用意に浮くことは、都合が悪かった。
更に先ほど茶柱の言い回しに違和感を感じ、幽鬼はゲームでも何度か経験したそのトラップを理解する。
こうした言い回し一つでプレイヤーを苦しめようとする手口は少なくない。
節約が必要かもしれない、幽鬼は不慣れなことに挑戦する決意をしていた。
やがて一通りの説明を終えると、茶柱は「あとは好きに過ごせ」とだけ言い残し、あっさりと教室を後にする
入れ替わるように、教室の前に一人の男子生徒が進み出た。
整った顔立ちと、誰に対しても親しみやすい柔らかな物腰。
彼は今後中を深めるために、自己紹介でもしないかと、クラス全体に向けて明るく提案する。
周囲からは特に反対の声も上がらず、なし崩し的に、一人ずつ席を立って名乗っていく流れができあがった。
提案した本人が、まず自ら手本を示すように口火を切る。
「僕の名前は平田洋介。中学では普通に洋介って呼ばれることが多かったから、気軽に下の名前でも呼んでほしい。趣味はスポーツ全般だけど特にサッカーが好きで、この学校でもサッカーをするつもりなんだ。よろしく!」
淀みのない喋り方だった。
抑揚も、間の取り方も、聞いていて不快なところが一切ない。
よく出来た司会進行のようだ、と幽鬼は思う。
誰に対しても等しく感じよく振る舞える人間というのは、裏を返せば、誰に対しても一定以上の距離を詰めさせない人間でもある。
少なくとも幽鬼の知る限り、ゲームの会場でそういう手合いが本音を漏らすところを見たことは、あまりなかった。
黄色い声を上げる女子を横目に端から順番に自己紹介は始まっていく。
「俺は山内春樹。小学生の時は卓球で全国に、中学時代は野球部でエースで背番号は4番だった。けどインターハイで怪我をして今はリハビリ中だ、よろしくぅ!」
声は大きいが、内容は非常に薄い。
探るまでもなく嘘に塗れたそれから、幽鬼は意識を切り離す。
この手の存在は、接するだけ損になることを幽鬼は知っていた。
明るい茶髪の少女が、人懐っこい笑顔を絶やさず、教室中を見渡すように話し始めた。
「私は櫛田桔梗といいます、中学からの友達は1人もこの学校には進学していないので1人ぼっちです。だから早く顔と名前を覚えて、友達になりたいって思います!」
拍手混じりの温かい反応が返ってくる。
誰からも好かれそうな、屈託のない喋り方だった。
「私の最初の目標として、ここにいる全員と仲良くなりたいです。皆の自己紹介が終わったら、是非私と連絡先を交換してください!」
よくできている、と幽鬼は素直にそう感じた。
表情、声量、視線の配り方、そのすべてが計算されているかのように整っている。
もちろん、天性のものである可能性も十分にある。
だが幽鬼の経験則が、わずかな違和感を拾い上げていた。
この手の「隙のない愛想の良さ」は、ゲームの会場でもたまに見かけるものだ。
多くの場合、それは処世術として身についたものであり、素の感情とは別のところで動いている。
次に名前を呼ばれたのは、体格のいい赤髪の男子生徒だった。
だが彼は席を立つどころか、露骨に舌打ちをして立ち上がると、こちらを一瞥もせずに吐き捨てた。
「俺らはガキかよ、自己紹介なんて必要ねぇ、やりたいヤツだけでやれ」
短くそれだけ言い残すと、返事も待たずに教室の扉を開け、大股で出ていく。
あとにはしん、とした空気だけが残された。
幽鬼はその後ろ姿を目で追いながら、あの感情の起伏をそのまま行動に出す人間だ、と評価を更新した。
腹に何かを溜め込むより、その場でぶちまける方が性に合っているのだろう。
分かりやすい分、扱いは意外と簡単で困る種類の人間ではない。
その少し後を追うように、すぐ後ろの席の少女がすっと席を立った。
堀北鈴音――先ほど確認した名簿にそう記されていた少女だ。
何を言うでもなく、誰の視線も気にする素振りもなく、静かに教室を出ていく。
自分の番を待たず、姿を消すことを選んだらしい。
幽鬼はその判断に、わずかな興味を覚えた。
あの場に居続けて自己紹介をこなすより、無駄なやり取りを切り捨てる方を選んだということだ。
合理的と言えば合理的だが、同時に、他人の視線をまるで気にしていないという証左でもある。
誰かに合わせるつもりがない人間の振る舞いだ。
幽鬼自身、似たような立ち位置を取ることが昔は多いかっただけに、その距離の取り方に少し懐かしさを覚える。
そうかと思えば、次は机の上に行儀悪く足を乗せ、手鏡と櫛で自分の髪を整えている男子だった。
幽鬼は今朝揉めていた人物と同一であることを確認する、
先ほどの男子にも匹敵する体格の彼は、立ちもせず、そのまま自己紹介を始めた。
「私の名前は高円寺六助。高円寺コンツェルンの一人息子にして、いずれはこの日本社会を背負って立つ人間となる男だ。以後お見知り置きを、小さなレディー達」
困惑する周囲を元に、彼は続ける。
「それから私が不愉快と感じる行為を行なった者には、容赦なく制裁を加えていくことになるだろう。その点は十分に配慮したまえ」
呆気に取られたようなどよめきが起きたが、本人はまるで気にする様子もない。
変わった人間だ、と幽鬼は思った。
朝バスで見かけた印象そのままだった。
だが、その振る舞いのすべてが計算なのか、それとも本気でそう思って生きているのか、幽鬼には見当がつかなかった。
少なくとも、幽鬼に積極的に絡むタチでは無さそうだと考え、交流を避けることを決める。
幽鬼の番が回ってきたのは、それからしばらく経ってのことだった。
席を立った瞬間、教室の空気がわずかに変わるのを感じた。
理由は分かっている。
白い髪に、左右で色の異なる瞳孔。
生まれについて問われることは、これまでの人生で数えきれないほどあった。
今回もまた、いくつかの視線が興味深そうにこちらへ向けられている。
「反町友樹です。
趣味は読書、です。
といっても少し前に没頭し始めたばかりで...あまり詳しくはないので、おススメとかはできません。
これからよろしくお願いします。」
短く、当たり障りのない言葉を選んで、幽鬼はそれだけを口にした。
本当は本など、ろくに読んだこともない。
師匠の言葉でこれから学ぶつもりだったが、まだ趣味と呼べるものではなかった。
けれど「無趣味です」と答えるよりは、よほど自然に聞こえるはずだ。
中身のない言葉を、それらしく整えて差し出す。
ゲームの会場で嫌というほど鍛えられた技術の一つだった。
質問が飛んでくることもなく、拍子抜けするほどあっさりと、幽鬼の自己紹介は終わった。
それでいい、と幽鬼は思う。
注目を集めすぎず、かといって不自然に無口すぎもしない。
ちょうどいい落としどころだった。
席に着き、次の生徒へと視線を移す中で、やがて左後ろの彼の番が回ってきた。
彼は少し慌てたようにと席を立つと、しどろもどろに言う。
「えー......えっと、綾小路清隆です。
その、えー...得意なことは特にありませんが、皆と仲良くなれるよう頑張りますので、よろしくお願いします」
それを眺めながら、幽鬼は内心でひとつの結論を出した。
――ああいうふうにはなるまい。
自分もコミュニケーションに自信があるほうではないが、ここまでではないだろう。
そんなことを考えながら、幽鬼は再び視線を巡らせ、クラスメイトたちの顔と情報を、静かに記憶へと刻んでいった。
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割り当てられた部屋の扉を閉めると、幽鬼はしばらくその場に立ち尽くして室内を見渡した。
一人分には十分すぎるほどの広さだった。
ベッド、机、収納棚、簡易的なキッチンスペースまで備わっている。
ゲームで提供される、一見豪華だが実際には命を脅かす罠や危険に塗れた部屋。
あるいは、他のプレイヤーに襲われるリスクから逃れるために身を潜めた、薄暗い洞窟の寝床。
それらとは全く違う、質素でシンプルな、まるでビジネスホテルのような部屋は、幽鬼を新鮮な気持ちにさせた。
運び込んだ荷物は、少なかった。
もともと私物と呼べるものをほとんど持たない生活をしてきたせいもある。
着替えを何枚か、洗面道具、そして――今はもう必要のないはずの聴診器や薬瓶といった、心臓病を偽装するための小道具一式。
これらも一応、部屋のどこかに紛れさせておく必要がある。
誰かに部屋を見られたときのために。
段ボール箱の中身を一つずつ取り出しながら、幽鬼は淡々と作業を進めていった。
そのうち、クローゼットに衣装を掛けていく段になった。
数えるほどしかない私服に混じって、幽鬼が今まで着てきた衣装――ゲームのたびに支給される、観客を喜ばせる悪趣味な様々な衣装が姿を現す。
カビが浮いていた2着はすでに捨てていたので、残ったのは10着。
それが今の幽鬼にとって、これまでのゲームを生き延びてきた証のようなものだった。
合計12回、幽鬼が生き抜いた数字である。
『ゲームの記録はきちんと取れ』
師匠の言葉を思い返し、そのうちの1着を手に取る。
白と黒の露出の激しい少なめな生地に、動物の耳を模したカチューシャが一緒に袋に入っている、バニー服だった。
キャンドルウッズ。
あの森を思い出すと、今でも少し呼吸のリズムがわずかに乱れる。
兎の中に紛れ込んだ殺人鬼に、兎も切り株も師匠も顔見知りも、ほとんど全てが殺された。
幽鬼自身も片目を切り裂かれながら、それでも生き延びた。
理屈でも技術でもなく、ただ運と本能、そして死した師匠への信頼だけを頼りに何とか切り抜けた夜だった。
幽鬼はそのバニー服をハンガーから外すと、両腕でそっと抱きしめた。
前回の12回目、幽鬼を主演としたゲーム、ゴーストハウスではみっともない姿を晒した。
脱出できた人数は最大数だった。しかし、その過程では失敗ばかりで、幽鬼の命にも手が届きかねなかった。
幽鬼首をへし折られる前の金子の表情を、信頼していた人間に命を刈り取られる呆気に取られた表情を思い浮かべる。
もう二度と、師匠の弟子としてあんな無様な戦い方はしない。
意図せず師匠の弟子としての自覚を持つようになり、そう心に決めている。
だからこそ、この学校にきた。
運営の思惑がどうであれ、この場所には確かに、知識という武器が眠っているのだろう。
見知らぬ外国の文字の読み方、投擲物の有効射程の計算、兎と切り株の寓話――ゲームの会場では師匠以外誰も教えてくれなかったものが、ここでは自分のために与えられる。
貪欲に、学ぼう。
生き残るための知恵を、一つでも多く手に入れる。
友達を作るためでも、青春を謳歌するためでもない。
全ては、ゲームの世界で生きていくために。
しばらくそうしてバニー服を抱きしめたまま立っていた幽鬼は、やがてゆっくりと腕を離すと、それを丁寧にハンガーへと戻し、クローゼットの奥へと掛け直した。
10着の衣装が、静かに並んでいる。
その一つ一つに刻まれた記憶を胸の内にしまい込み、幽鬼は残りの荷物の片付けに戻った。
窓の外では、まだ日が高いところにあった。
幽鬼は衣装だけの部屋を見て、買い出しに行くことを決意した。
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敷地内にあるという商業施設は、想像していたよりもずっと本格的だった。
コンビニエンスストアの棚には、日用品から食品まで一通りのものが並んでいる。
まるで街中にあるものと変わらない。
幽鬼はカゴを片手に、必要最低限の品を淡々と拾い集めていった。
歯ブラシ、シャンプー、簡単な食器類。
荷物は少なければ少ないほど良い、というのが長年染みついた感覚だった。
いつ、何が起きて、その場を放り出して逃げ出さなければならなくなるか分からない。
私物への執着は、そのまま逃げ足の重さに直結する。
そんな中、棚の一角に目が留まった。
数量限定無料商品、生徒1人につき4点まで
そう書かれたポップの下に、目を引く商品がいくつか並べられている。
菓子パン、飲み物、ちょっとした日用品。
値札の代わりに、大きく「0円」の表示。
――やっぱり。
幽鬼の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「ポイントは毎月1日に自動的に振り込まれる」――茶柱はそう言っていた。
だが、よく思い返してみれば、毎月10万ポイントが振り込まれる、とは一言も言っていない。
振り込まれる、という事実だけを述べて、その金額については何も保証していない。
あの淡々とした言い回しの裏に、幽鬼はそのからくりを見出していた。
今月がたまたま10万だっただけで、来月以降も同じ額が入ってくるとは限らない。
むしろ、そう思わせておいて、後から目減りしていく方が、よほど性格が悪い。
無料のものには、大抵の場合、裏がある。
ゲームの会場でも、拾いやすい場所に置かれた"お得すぎる"アイテムには、大抵何らかの仕掛けが仕込まれていた。
この学校の点数システムそのものが、そういう罠の集合体なのだろう。
自分の勘が外れていなかったということに、幽鬼はささやかな満足感を覚えた。
品定めをするような目で、幽鬼は無料コーナーに並んだ商品を、必要なものを選別してカゴへと放り込んでいく。
個数制限があるとはいえ、タダで手に入るものを見送る理由はない。
節約が必要かもしれない、というさっきの思いつきを、さっそく実行に移していく形になった。
「――それ、気になるよな」
不意に声をかけられて、幽鬼は顔を上げた。
少し離れた棚の前に、二人の生徒が立っていた。
一人はバスと教室で顔を合わせた、あの物静かな男子生徒――綾小路。
もう一人は、その後ろで無言のまま無料コーナーの表示をじっと見つめている女子生徒だった。
――たしか、教室で自分の後ろの席にいた人。
自己紹介の順番が回ってくる前に姿を消していたため、直接名乗られた記憶はない。
だが、名簿を確認した時に見た名前が、頭の隅から引っ張り出されてくる。
堀北、という字面だったはずだ。
同学年である以上、変にかしこまった話し方をする理由もない。
「ん、と……」
幽鬼は一瞬、言葉に詰まった。
何を話しかけられているのか、文脈を摑みかねる。
「無料の商品らしい。
数に限りがあるみたいだ」
綾小路が、幽鬼の視線の先にある「0円」の値札を指しながら、補足するように言った。
特別な意図があるようには見えない、雑談めいた口調だった。
それから、少し思い出したように付け加える。
「――綾小路だ、後ろは堀北。
同じクラスの」
短く、それだけの紹介だった。
堀北の方は、特に反応するでもなく、軽く会釈だけを返してくる。
「反町……で、いいよな?」
続けて、綾小路がこちらの名前を確かめるように口にした。
断定でも疑問でもない、どちらともつかない言い方だった。
距離を詰めるでもなく、かといって全くの他人行儀でもない、その中間を探るような響きが、その一言にはあった。
「うん、それで合ってる。
2人のことも名簿で見てたし、覚えてるよ」
幽鬼は短くそう答えた。
「それで…ああ、ちょうど見てたとこ」
続けてそう応じながら、幽鬼はカゴの中身にちらりと目を落とす。
すでに個数制限の4つが詰め込まれている。
「随分な量ね」
そう言ったのは堀北だった。
感心しているというより、少し呆れを感じさせる響きを持った声だった。
「タダのものは、貰っておいて損はないから」
幽鬼はそれだけを返した。
多少むかついたが、深い意図を悟られるつもりはなかった。
無料の裏に何があろうと、今の自分にとっては「もらえるものはもらう」というだけの話でしかない。
むしろ、こういう場面で余計な理屈をこねる方が、かえって目立ってしまう。
堀北は幽鬼のカゴを一瞥すると、それ以上は何も言わず、また棚の商品へと視線を戻した。
興味を失った、というよりは、これ以上関わる理由がないと判断したかのような素っ気なさだった。
一方の綾小路は、少しだけその場に留まったまま、口を開いた。
「俺も節約するべきかもしれないな」
さらりとした言い方だった。
だが、幽鬼はその一言に、わずかな引っかかりを覚える。
今の言葉には、少し具体的な計算が透けて見えた。
こいつも、気づいている。
幽鬼はそう見て取った。
毎月保証されているわけではないというあの仕組みに。
言葉にせず、それを匂わせるだけの言い方を選んだあたり、無防備に踏み込んでくるつもりはないらしい。
幽鬼はそれ以上追及するつもりはなかったが、内心で綾小路への評価を静かに一段引き上げた。
綾小路は言葉通り、無料コーナーに残っていた商品にいくつか手を伸ばし、自分のカゴへと収めていく。
――と、そのとき。
店の奥の方で、何かがけたたましく床に落ちる音がした。
「あ? 何か文句あんのか!?」
苛立った声とともに視線を向けると、そこにはバスや教室で見かけた、体格のいい赤髪の男子生徒の姿があった。
どうやらレジ前で学生証を無くし、他の人と揉めているようだった。
ぼんやりとその姿を眺める幽鬼の横で、綾小路はそばに近寄ると、何度か言葉を交わした後に料金を立て替えた。
「あの手の輩へ施したところで、何の利益もないというのに」
隣にいた堀北がその姿を見ながら言う。
同意を求めるような口調だったが、幽鬼は特になにも答えなかった。
会計を終えた彼らはコンビニ外で合流し、食事の支度を始める。
「私は帰るわ、こんなところで品位を落としたくないし」
「何が品位だよ、高校生だったら普通だろうが、それともいいとこのお嬢様だってか?」
侮蔑を隠しもしない堀北の態度に、赤髪の彼はヒートアップしていく。
最終的には頑なに相手をしない堀北が帰宅するまで、須藤の一方的口論は続いた。
「何なんだよアイツは!…で、てめえは何なんだ?あぁ?」
「え…あー」
2人仲裁を不慣れながらも続ける綾小路をぼんやりと眺めていた幽鬼は、そこで自分に矛先が向いた事に気付いた。
「反町友樹です、同じクラス。これからよろしく」
「んなっ、よろしくって……おれは須藤だ」
特に怖気付いた様子もなく自己紹介する幽鬼の姿に、彼、須藤は困惑しながら名乗り返す。
特にそこから会話が続くわけもなく、幽鬼が無言でいると、須藤は諦めたように座り込み、お湯の入ったカップ麺を開ける。
帰るタイミングを失い、綾小路と談笑しながら食事する2人を見ていると、やがてガラの悪そうな集団がやってきて、須藤と口論を始めた。
意外と治安は悪いのかもしれない、と幽鬼は事前の情報との乖離に困惑する。
途中、須藤が投げ捨てたカップ麺の汁が足にかかり、少し嫌な顔になりながらも幽鬼はやり取りを観察した。
「聞いたか?Dクラスだってよ。やっぱりな!お里が知れるってもんだよなぁ?」
「あ?どういう意味だよオイ!」
その様子を静観していると、どうにも気になる単語が入ってきた。
まるでクラスの番号に意味があるかのような言動、幽鬼は内容を聞き逃さないため集中する。
「可哀想なお前ら不良品に今日だかはココを譲ってやるよ、行こうぜ!」
「逃げんのかオラ!」
「吠えてろ吠えてろ。どうせすぐ、お前らは地獄を見るんだからよ」
どうやら喧嘩の内容は場所取りについてだったらしい。幽鬼はそんなのどこでもいいだろうという気持ちで、そのやり取りを見ていた。
発端はさておき、やはり上級生の言動は奇妙だ。
先ほどの仮説を補強するかのような分かりやすい見下し、先のことを予言するかのような特殊な言い回し、何かあると言っているようなものだった。
そうして上級生が去った後、須藤は片付けもせずに怒りに満ちた表情で去っていく。
残されたのは、床にぶちまけられたカップ麺と、途方に暮れた様子の綾小路と幽鬼だけだった。
「……少し待ってくれ」
そう言うと、綾小路は自分の荷物を足元に置き、店員のもとへと歩み寄っていった。
何か二言三言交わすと、備え付けの掃除用具を借り、不慣れな手つきで床の後片付けを始める。
幽鬼はその様子を、少し離れた位置から眺めている。
「店員の人がやってくれるんじゃない」
思わずそう口にすると、しゃがみ込んだまま作業を続けていた綾小路が、顔だけをこちらに向けた。
「まあ、同じクラスだからな」
それだけの、短い返事だった。
同じクラス、という言葉が、幽鬼の中で小さく引っかかった。
須藤と綾小路の間に、特別親しい様子は見えない。
むしろ、今日会ったばかりの相手同士に近い距離感だったはずだ。
それでも、後始末を代わりに引き受ける理由として「同じクラスだから」の一言が、迷いなく口をついて出てくる。
更には先ほどの上級生の言葉が思い返される。
Dクラスだから、欠陥品、地獄をみる。
まるで階級があるかのような口ぶりだった。
――つまり、この学校では。
個人の評価だけでなく、クラス単位でも何かが測られている可能性がある。
だとすれば、同じクラスの誰かが起こした問題や失点は、回り回って自分自身の立場にも跳ね返ってくる可能性がある。
チーム戦、というやつだ。
ゲームの会場でも、似たような構図を何度か経験したことがあった。
誰か一人のミスが、パーティ全体の生存確率を引き下げる場面を。
幽鬼はその可能性に思い至ると、床を拭く綾小路の背中を、もう一度見つめ直した。
「……なるほど」
小さくそう呟くと、幽鬼は周囲を観察する。
そこには2台の監視カメラが、こちらを観察するように向いていた。
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それから一か月ほどが経った。
幽鬼は特に問題を起こすこともなく、淡々と授業に参加し続けていた。
板書を写し、指されれば答え、必要があれば手を挙げる。
ゲームでは決して手に入らなかった、ただ椅子に座って知識を注ぎ込まれるだけの時間は、思っていたよりも幽鬼の性に合っていた。
もっとも、その環境に不満がないわけでもなかった。
授業中、私語をやめない生徒。
教師の話を聞かず、スマートフォンをいじる生徒。
あからさまに寝ている生徒。
そうした緩んだ空気が視界の端に入るたび、幽鬼の集中はわずかに乱された。
ゲームの会場では、一瞬の油断が死に直結する。
その感覚が抜けきらないままの幽鬼にとって、この教室の緩さは、時々ひどく居心地が悪いものに感じられた。
とはいえ、幽鬼はそれを口に出して咎めることはしなかった。
関わりを増やせば、その分だけ余計な注目を集める。
それに、あのコンビニでの一件以来、幽鬼の中には一つの仮説が根を張っていた。
この学校には、個人だけでなくクラス単位で評価される仕組みがあるかもしれない、という仮説だ。
だとすれば、今この教室で誰が何をしているかを黙って観察しておくことにも、それなりの意味がある。
断定するにはまだ材料が足りない。
今は判断を保留し、経過を見守るべき時期だった。
そうした距離の取り方は、当然ながら周囲からの評判にも影響していた。
誰かと群れることもなく、必要以上の会話もしない幽鬼の態度は、一部の女子生徒たちの目には「取っつきにくい」「何を考えているか分からない」と映っているらしかった。
教室の隅で、声を潜めた陰口が交わされているのを、幽鬼は何度か耳にしていた。
特に、教室内でも目立つ位置にいる女子の一団からの視線は、露骨に冷ややかだった。
誰が上でどこに序列があるか、といった空気に敏感な、いわゆる上位グループの人間たちである。
気にしても仕方がない、というのが幽鬼の結論だった。
友人関係の構築は、今のところ優先順位の低い項目だ。
そんなある日、時間割はプールの授業だった。
朝から、更衣室や廊下の空気がどこか妙にざわついていた。
噂によれば、池や山内をはじめとした一部の男子生徒たちが、女子生徒の胸囲について誰が一番か二番かと、勝手にランキングをつけて盛り上がっているらしい。
悪びれる様子もなく、廊下でも大声でその話題を続けている姿は、通りかかる女子生徒たちから、次々と冷ややかな視線を浴びている。
噂はまたたく間に広がり、それを聞きつけた女子生徒の多くが、次々と体調不良を理由に見学を申し出ていた。
どうでもいい、と幽鬼はその一連の流れを、他人事のように眺めていた。
自分にとっては、今さらどうということもない話だった。
幽鬼がこれまで参加してきたゲームは、その多くが見た目の優れた女性ばかりを選りすぐって集めたものだ。
カメラの向こうにいる無数の観客に向けて、水着まがいの衣装――もといスク水そのものを着せられ、命懸けの舞台に立たされたことすらある。
あのゲームのことを思い返す。
広大なプールの底、その水底一面に沈められたカプセルの中に、脱衣所へ通じる鍵が隠されていた。
定められた時間内にその鍵を見つけ出し、プールから上がって脱衣所に逃げ込めなければ、水面全体に電流が流されるという趣向。
幽鬼は制限時間ぎりぎりのところで水から上がり、脱衣所へ入ることで事なきを得た。
だがそのすぐ後ろで、同じように鍵を手に取り、脱衣所へ駆け込もうとしていたプレイヤーは間に合わなかったようだ。
水面に走った青白い光と、肉の焼ける鈍い音、そして鼻の奥にこびりつくような焦げた匂い――今でも、思い出そうとすれば容易く蘇る記憶だった。
命懸けの舞台の上で、見世物として値踏みされる視線には、嫌というほど慣れていた。
つまるところ学校のプールで多少好奇の目を向けられる程度、今更どうということもない。
だから幽鬼は仮病を使うこともなく、いつも通りにプールへ向かった。
案の定というべきか、朝の噂通り、仮病を使って見学に回った女子は少なくなかった。
水着ではなく、揃いのジャージ姿でプールサイドに現れる者が、クラスの女子のうちおよそ半数近くにのぼっている。
「嘘だろ、半分近く休みじゃん!」
池と山内が、あからさまに肩を落としているのが見えた。
期待していたものがまるごと不発に終わり、二人して露骨にがっかりした様子を隠そうともしない。
だが、その落胆も長くは続かなかった。
「お待たせ!2人ともどうしたの?」
明るい声とともに現れたのは、学校指定の水着に身を包んだ櫛田だった。
屈託のない笑顔で軽く手を振りながら、周囲の生徒たちに挨拶して回っている。
「……や、やっぱ来てくれるよな、櫛田ちゃんは!」
「神……いや女神だろ、あれは……」
池と山内は先ほどまでの落胆はどこへやら、途端に目の色を変えてはしゃぎ出した。
二人にとっては、それだけで今日の授業に来た甲斐があったとでも言いたげな盛り上がりようだった。
その少し後を追うように、幽鬼も同じ水着姿でプールサイドに姿を現した。
案の定というべきか、こちらにもいくつかの視線が向けられる。
白い髪も相まって、遠巻きに評価されているらしい気配は、痛いほど伝わってきた。
だが、幽鬼はそれに対して特別な反応を返すこともなかった。
「反町は胸さえありゃな〜」
胸囲が大きいだの小さいだのという物差しに、そもそも関心がない。
命の値段を天秤にかけられてきた身にとって、体のパーツの優劣を勝手に採点されることなど、どうでもよかった。
そのまま何事もなかったかのように、指定された位置へと歩いていく。
プールサイドで授業開始を待っていると、少し離れた場所で交わされている会話が、ふと耳に入った。
「綾小路くん、何か運動していた?」
そう言ったのは堀北だった。
首を軽く傾げながら、興味深そうに視線を向けている先には、上半身をあらわにした綾小路の姿があった。
「え、いや、別に。自慢じゃないが、中学は帰宅部だったぞ」
短くそう答える綾小路の声は、いつも通り平坦だった。
幽鬼はその会話を聞くともなしに聞きながら、自分もつい、視線をそちらへ向けてしまった。
――たしかに。
幽鬼がこれまで肉眼で目にしてきたのは、その全てが女性の身体だった。
幽鬼が参加しているゲームは、必ず見た目を選りすぐられた女性ばかりを集めたものだ。
会場で男性を見かけることは、運営側の人間を除けば、ほとんどなかったと言っていい。
だからこそ、こうして日常の延長線上にあるはずの、ごく普通の男子生徒の身体というものに、幽鬼はまるで馴染みがなかった。
鍛えられているのかいないのかも、判然としない身体だった。
だからこそ、なのかもしれない。
堀北が抱いたのと似たような違和感が、幽鬼の中にもわずかに芽生えていた。
特に運動部に所属しているわけでもなく、目立った鍛錬をしている様子もない綾小路の体つきは、ただの平凡な男子生徒にしては、かなり無駄がなさすぎるように見えた。
見間違いかもしれない。
あるいは、単に見慣れていないだけかもしれない。
幽鬼はそれ以上深く考えることはせず、視線を戻した。
ただ、頭の片隅にある綾小路という人物の輪郭に、また一つ、小さな符号が書き加えられたことだけは確かだった。
やがて授業が始まり、男子は四つほど、女子は二つのグループに分けられ、順番にコースを泳いでいく流れになった。
タイムを計測し、その場で記録していくらしい。
男子は各グループのタイム上位5名が、あとで改めて一つのグループを組み、決勝という形でもう一度競うことになっているようだった。
更には生徒のやる気を出すため、男女それぞれで全体一位のタイムを出した者にはプライベートポイントの追加支給があると伝えられた。
節約中の幽鬼としてはわざわざ逃す理由もない。
少しやる気を出し、個人で柔軟を行う。
やがて幽鬼は、堀北と同じグループに割り振られた。
水中での立ち回りに関しては、これまでのゲームでもいくつか経験があった。
泳ぐこと自体を主眼に置いたゲームは少なかったが、水を利用した舞台に何度か放り込まれたことはある。
加えて、幽鬼はもともと運動神経自体には恵まれている方だった。
二つが噛み合えば、ある程度のタイムを出すことは、さほど難しい話ではなかった。
幽鬼が泳ぎ切ると、記録を確認した体育教師が、感心したような声を漏らした。
「26秒台か。
いいタイムだな」
軽くそう褒められたあと、続けて問われる。
「水泳を習っていた経験があるのか?」
「いえ、特には」
幽鬼はそれだけを返した。
教師はそれ以上深く聞くこともなく、次の生徒の順番へと意識を移していった。
隣のレーンで泳ぎ終えていた堀北が、こちらへ一瞥をくれる。
何か言うでもなく、少し悔しさを滲ませつつも興味を持ったような視線だったが、それもすぐに逸れていった。
一方、別のグループでは、櫛田が泳ぐ順番になり、池たちが例によって声援を送って盛り上がっていた。
だが結果はそれほど振るわず、櫛田は4位に終わった。
代わりにそのグループを制したのは、小野寺という、これまであまり目立った印象のなかった女子生徒だった。
奇しくも幽鬼と同じ26秒台のタイムを叩き出したが、わずかに幽鬼のほうが早かったらしい。
悔しそうにしながらも、小野寺は幽鬼を称賛していた。
授業が終わり、シャワー室で汗と塩素の匂いを流していると、端末に短い通知が届いた。
表示された金額は、5000ポイント。
それが女子の中で最速タイムを出した分の報酬だった。
――悪くない。
節約中の身にとって、労せず入ってきた5000ポイントは、素直にありがたかった。
幽鬼はその金額を確認すると、満足げにひとつ息をつき、そのままシャワーを浴び続けた。
――と、視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた場所に堀北が立っていた。
何をするでもなく、ただじっとこちらを見つめている。
値踏みするような、観察するような目つきだった。
「何か用?」
幽鬼が尋ねると、堀北はしばらく黙ったまま、視線だけを幽鬼の胸元――正確には、そこに残る手術痕らしきものへと向けた。
「それ、心臓の手術跡よね。
何の病気なの?」
淡々とした、しかし探るような口調だった。
幽鬼は一瞬、言葉に詰まった。
まさかこんな場所で聞かれるとは思っていなかった。
あらかじめ運営のエージェントから叩き込まれていたはずの設定が、頭の中でとっさに引き出せず、数秒だけ間が空く。
「え、っと……ブルガダ症候群、ってやつ。
不整脈の……先天性の心臓の病気」
しどろもどろになりながらも、なんとか用意されていた病名を口にする。
日常生活の見た目にはほとんど症状が出ない病気だ、とエージェントから説明を受けていたのを思い出す。
念のため、と持ち込んでいたポーチから偽の常備薬と、聴診器代わりの小さな器具を取り出し、堀北に見せた。
「一応、薬とかも持ち歩いてて。
無理はしないようにって言われてる」
堀北はしばらくそれらを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
心当たりのない病名だったのか、それ以上細かく聞き返してくることはなかった。
「そう、それは大変ね」
素っ気なくそう言うと、堀北はもう一度、値踏みするような視線を幽鬼へ向けた。
「――それでいて、あの泳ぎ。
てっきり運動部にでもいたのかと思ったけど」
直接的な褒め言葉ではなかった。
だが、その言い方の裏には、確かな驚きと、幾分かの評価が滲んでいた。
心臓に持病を抱えながら、あれだけの身体能力を発揮できる人間は、そう多くない――堀北はそう言いたいのだろう。
「まあ、頑張ってはいるから」
幽鬼は当たり障りのない返事だけを返した。
それ以上、深入りされたくはなかった。
堀北はそれ以上追及することもなく、「そう」と納得したように短く言い残すと、その場を後にした。
一人残された幽鬼は、小さく息を吐き出す。
ヒヤリとした。
あの場でとっさに口が回らなければ、もっと不自然な間が空いていたかもしれない。
エージェントから叩き込まれた設定は、正直まだ体に馴染みきっていなかった。
もっと、言い訳の練習しておくべきかもしれない。
シャワーの水音を聞きながら、幽鬼はそんなことを考えていた。
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その日の夜、寮の部屋でくつろいでいた幽鬼のもとに、一本の電話がかかってきた。
明日から土曜日に入り、学校が休みになる。
そのことを頭の片隅で意識していた矢先のことだった。
画面に表示された番号には、見覚えがあった。
ゲームの招待は、いつもこの形でやってくる。
メールでも文書でもなく、エージェントからの直接の電話。
「――ゲームの招待です。
日程は、明日から二日間。
参加されますか」
淡々とした口調で、エージェントが用件を告げてくる。
迷うことはなかった。
幽鬼はその場で短く承諾の返事をすると、通話を切った。
夜も更け、人目につかない時間になった頃、幽鬼は寮の裏手に静かに現れた黒塗りの車に乗り込んだ。
運転席には見知った顔のエージェントが座っている。
車は音もなく走り出し、学校の敷地の外へと向かっていく。
これで13度目、学校生活が始まってからは初めてのゲームということになる。
車内でエージェントが路肩で停車すると、小さなカプセルを差し出してきた。
「いつも通り、睡眠薬です。
土日にゲームが入るよう、こちらでも調整はしているんですが……今後難しい時は、平日に通院という形で、学校を抜けてもらうことになるかと」
入学前から聞かされていた話だった。
幽鬼はそれを気にする様子もなく、黙って頷く。
もとより、この学校に通っているのはゲームのためだ。
平日に多少目立とうと、それ自体は織り込み済みの前提だった。
今さら悪目立ちを気にするような段階は、とうに過ぎている。
「――そういえば、学校の方はどうですか」
カプセルを差し出したついでに、といった調子で、エージェントがふと尋ねてきた。
特別な意味合いはなさそうな、あくまで世間話の延長のような口ぶりだった。
それでも、そこに幾らかの気遣いのようなものが滲んでいるのを、幽鬼はなんとなく感じ取った。
「別に何も。
普通に授業を受けて、普通に過ごしてます」
「そうですか。
何かあれば、いつでも連絡を」
それだけのやり取りだった。
深入りするでも、心配を露わにするでもない、あくまで業務的な確認の域を出ない言葉。
だが、こうして一言でも触れてくること自体、これまでのエージェントとの付き合いの中では、あまり記憶にないことだった。
窓の外、少しずつ遠ざかっていく学校の敷地を眺めながら、幽鬼は差し出されたカプセルを、ごく自然な動作で口に含んだ。
この作業も、もう十三回目になる。
慣れたものだった。
「今回も、健闘を祈ります」
エージェントの言葉を最後に、幽鬼の意識はゆっくりと溶けていった。
そうして幽鬼はいつも通り、ゲームの世界で目を覚ます。
幽鬼が、生きていくと決めた世界で。
続かない