ようこそ幽鬼のいる教室へ 作:何故そこで愛!?
それから一か月が経ち、15回目のゲームを終えた翌日、幽鬼はいつも通りに登校した。
運営から案内され、町の角からこっそりと寮に戻ってからはほとんど記憶に残っていない。
シャワーを浴び、傷の具合を確認し、泥のように眠っただけだ。
死線をくぐり抜けた実感は、まだ体の奥にわずかにこびりついていたが、それを引きずるほど幽鬼は初心者ではなかった。
自身の右手を見る。
今回はあまり向いているタイプのゲームではなかった。
テーブルに飲食品が用意された、棚二つほどの小さな図書館に案内された幽鬼とほかの11人ほどのプレイヤー。
そこで今回のゲームは、この中にある書籍から出題されたクイズ系のゲームであると、例題を提示されながら告知された。
8時間後に椅子に四肢を拘束され、回答を誤るたびに右腕から順に切断され、5問目の誤答で首が飛ぶというルールと同時に。
幸いなことに早々にゲームの法則が、各書籍の中に不自然に差し込まれた無関係な一文が設問であると理解できたので、なんとか今回も切り抜けることが出来た。
しかし確認が間に合っていない書籍もあったため、2問の誤答で両腕は切断されてしまったが。ゲーム後には傷跡すら残さず治療されている。
途中で書籍に頼らず自前の知識で切り抜けた少女もいたのを見た幽鬼は、改めて知識の重要性を感じていた。
教室に足を踏み入れた瞬間、いつもとは違う空気に気づいた。
あちこちで生徒たちが端末を片手に、困惑した表情を浮かべている。
「振り込まれてない」「バグじゃないの」という声が、あちこちから漏れ聞こえてきた。
今日は5/1。
毎月一日に自動的に振り込まれるはずのプライベートポイントの日だった。
幽鬼自身、その日付にはさほど関心を払っていなかったが、周囲の様子から察するに、どうやら異変が起きているらしい。
自分の端末を確認する。
残高は、先月と変わらない数字のままだった。
振り込みは、ない。
――ああ。
幽鬼は特段動揺することもなく、その数字を眺めた。
コンビニの一件から、ずっと頭の片隅に引っかかっていた仮説がある。
茶柱の説明は「毎月自動的に振り込まれる」であって、「毎月十万が振り込まれる」ではなかった。
そしてあの日、上級生たちが須藤に向けて放っていた、階級めいた言葉の数々。
Dクラス。不良品。地獄を見る。
点と点が、ようやく目に見える線として繋がろうとしていた。
やがて教室の扉が開き、茶柱が姿を現した。
生徒たちが口々に問いただす質問を適当にいなすと、全員を着席させる。
教室のざわめきは収まらないまま、彼女はそれを一瞥すると、侮蔑を隠しもしない声で切り出した。
「本当に愚かだな、お前たちは」
刃物のように鋭い一言だった。
教室が、一瞬で静まり返る。
茶柱は淡々と疑問に答えていく。
入学初日に伝えたのは、あくまで「ポイントは毎月一日に自動的に振り込まれる」という一点のみであったこと。
その金額が毎月十万円である、などとは一言も口にしていないこと。
悪い素行を取るほど、クラスへの評価が下がり、それがそのままプライベートポイントの提供量を決めるクラスポイントの目減りに直結する仕組みであったこと。
クラスの番号がそのままクラスポイントの序列となっており、Dクラスは落伍者の集まりで構成されていること。
「事前に気づいていた人間もいたようだがな」
クラスの混乱を無視しながら、茶柱は幽鬼と綾小路のほうに少し視線を向ける。
幽鬼はそれを無視する。綾小路は背後の堀北と何かを話していた。
「さて、もう一つお前たちに伝えなければならない残念な知らせがある」
そう言って彼女は何かを張り出す。
「この数字が何か、バカが多いこのクラスの生徒でも理解できるだろう?先日の小テストの結果だ」
クラス中の人間の名前とその横に数字が記されたそれは、わかりやすく成績を記していた。
100点満点で幽鬼は52点、学力に関して努力はしているが、中学時代ろくに出席もしていなかった幽鬼にとっては目下最大の課題であった。
「これが本番なら7人が入学早々に赤点となっていたところだ」
32点の部分に線を引きながら茶柱はそう言う。
「た、退学?どういうことですか?」
「なんだ、説明していなかったか?この学校では中間テスト、期末テストで1教科でも赤点を取ったら退学になることが決まっている」
「は、はあああああああ!??」
混乱する生徒たちを他所に彼女は続けた。
「それからもう一つ付け加えておこう、この学校の高い就職率・進学率のサポートは誰でも受けれるわけではない。
クラスポイントを確保し続け、Aクラスとなったクラスだけがその恩恵にあずかれる」
このクラス間の序列は、一年間限りの遊びでは終わらないらしい。
学年が上がるごとに積み重ねられていくクラスの評価は、やがて三年後の卒業時、進路や推薦枠といった形で、生徒一人ひとりの将来に直接跳ね返ってくるという。
Aクラスとして卒業する者とそれ以外とでは、その先に用意されている選択肢の幅そのものが、はっきりと違う。
なるほど、と幽鬼は思う。
このクラスという檻の中に、命こそ懸かっていないものの、確かに「賭け」の構造がある。
負け続ければ、緩やかに、しかし確実に、生徒たちの将来という名の首が絞められていく。
ゲームとは違う速度で、違う形の淘汰が進んでいく場所。
それが、この学校の正体だったらしい。
「そ、そんな...聞いていないですよそんな話!滅茶苦茶だ!」
先ほどの退学では騒がなかった、比較的成績に優れた生徒たちも騒ぎ続ける。
彼らはそれを目的にこの学校に入学を決めている。
それが果たされない挙句、3年間質素で惨めに過ごせと言われれば抗議せざるを得ないだろう。
幽鬼はそのやり取りをぼんやりと眺める。
既にまともな社会で生きる予定がない幽鬼にとって、目的はこの学校の教育設備や様々な取り組みである。
あまり長くはないだろう将来のことで騒ぐ気はなかった。
「中間テストまで後3週間、まあじっくりと熟考し、退学を回避してくれ。お前らが赤点を取らずに乗り切れる方法はあると確信している」
その言い回しに幽鬼はピクリと反応する。
またこの言い回しだ、別解が用意されているような、罠のような言葉。
「できる事なら、実力者に相応しい振る舞いをもって挑んでくれ」
最後にそう付け加えると、茶柱は軽く鼻を鳴らし、それ以上の説明もせず、あっさりと教室を後にする。
休み時間、教室は混乱の渦に叩き落とされていた。
「退学ってマジかよ……」
「もうポイント全部使っちまった……」
「ポイントよりも進学だ...ふざけんなよ...!」
あちこちから聞こえてくる声は、悲鳴に近かった。
最初の月に湧いて出た浮かれた空気の分だけ反動は大きい。
その中でも特にポイントにまつわる物は多い。
無料コーナーで貰えるだけ貰い続け、最低限の物以外を必要としない幽鬼とは違い、多くの生徒は無邪気に金を使い切っていたらしい。
Dクラスが落ちこぼれの烙印であるという意味を、この時になってようやく、教室の誰もが実感し始めていた。
幽鬼自身は、端末に表示された数字を、あらためて確認した。
68,400ポイント。
節約に節約を重ねてきた結果としては、悪くない数字だった。
周囲の悲鳴混じりの声を聞く限り、これはこの教室の中でもかなり上位に位置する残高であることは想像に難くない。
食費を削ればもっと残せたが、師匠の『ふさわしい物を食え』という言葉が、バランスの整ったしっかりとした外食に幽鬼をつれだしていた。
残念ながら自炊は全くと言っていいほどできないので、今後の課題としている。
幽鬼はこれらのポイントを誰かに分け与えてやるつもりは、毛頭なかった。
自分の身は自分で守る。その安全が確保され余裕があれば他者にも手を伸ばすが、基本は自分を最優先。
そういう生き方しかしてこなかった幽鬼にとって、それはあまりに当然の前提だった。
やがて、パニックの中から立ち上がったのは、平田だった。
「みんな、授業が始まる前に落ち着いて聞いてほしい。来月はポイントを確保するために、クラス全体で協力しなくちゃならない。遅刻や私語、携帯なんかをお互いに注意する必要があると思うんだ」
穏やかだが、芯のある声が響く。
大多数が賛同の声を上げる一方で、反発する声もあった。
「は?なんでそんな事お前に指示されなきゃならねえんだ。ポイントが増えるならともかく、変わらないなら意味ないだろ」
特に名指しで指摘されていた須藤が、吐き捨てるように言う。
平田はそれでも粘り強く言葉を重ねていたが、須藤は最後まで首を縦に振らず、教室から荒々しく出て行く。
そのやり取りを、幽鬼は少し離れた席から静かに眺めていた。
団結を呼びかける平田と、それに背を向ける須藤、そして不平不満だけを口にするその他の人間。
このクラスが今後どちらへ転がっていくのか、まだ読み切れない。
だが、少なくとも一つだけ、はっきりしたことがあった。
このクラス単位の評価制度――「Sシステム」というものの正体こそが、運営が入学前に匂わせていた「観察対象として極めて興味深い」という言葉の、本当の意味だったのだ。
生徒たちを四つのクラスに分け、互いに競わせ、蹴落とし合わせる。
その果てにどんな選別と序列が生まれるのか、そしてその中での幽鬼の立ち回り、それこそを運営は見たがっていたに違いない。
ゲームの会場でよく目にする光景と、根本的には何も変わらない。
命の代わりに、点数と将来を賭けて殺し合う、ただそれだけの違いだ。
――さて。
幽鬼は少しの間、自分の立ち位置について考えを巡らせた。
師匠の弟子として、いずれは自分も、誰かを導く側に回る日が来るかもしれない。
そのために必要なのは、生き延びる技術だけではなく、人を動かし、束ねる経験でもあるはずだ。
キャンドルウッズでの師匠の姿を思い浮かべる。
ベテランと初心者が入り混じる無数の兎陣営を従え、武装した切り株たちをたやすく制圧して回った師匠の姿を。
それを思うとこのクラス間の競争に自ら首を突っ込み、平田のように旗を振る側に回ってみる、というのも、一つの選択肢ではあった。
だが、教室を見渡せば見渡すほど、その気は急速に萎んでいった。
てんでばらばらな方向を向いた視線。
団結を呼びかける声に、真正面から背を向ける人間。
互いへの不信と、自分本位の言い分だけが飛び交う空気。
今のこのクラスは、あまりにも状態が悪すぎる。
まとめる価値のない集団を、無理にまとめようとするのは、ただの徒労だ。
ゲームでも烏合の衆を率いようとして共倒れになったチームを、幽鬼は何度も見てきた。
今は、動くべき時ではない。
幽鬼はそう内心で結論づけると、それ以上教室の喧騒に関わろうとはせず、静かに視線を窓の外へと移した。
このクラスがどんな末路を辿るのか。
それを、もう少しだけ、外から眺めていることにする。
ひとまずは、学力が必要だろう。
幽鬼はそれを考えると、放課後にあるクラスの方針決定の会議を誘ってきた平田を丁寧に断る。
遠くから聞こえてくる陰口を聞き流しながら、幽鬼は授業まで意識を沈めた。
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『1年Dクラスの綾小路くん。担任の茶柱先生がお呼びです。職員室まで来てください』
放課後、教室に無機質なアナウンスが響いた。
覚えのある呼び出しではなかった。オレは今後の方針について相談するクラスメイトと堀北の視線を背中に受けつつ、席を立つ。
職員室で茶柱先生を捕まえ、そのまま指導室へと通される。
扉が閉まると、先生は珍しく前置きもなく本題に入った。
「単刀直入に聞く。反町のことで、何か気になることはあるか」
予想外の名前だった。少しの間を置いて、オレは慎重に言葉を選ぶ。
「はあ気になること、ですか」
「別になんでもいい、感じた印象や性格、おもったままに伝えろ」
先生の目は、こちらの反応を見定めるようだった。仕方なく、オレは思っていたことをいくつか並べる。
バスの中で最初に感じた、値踏みされているような視線。
人当たりが悪いわけではないが、周囲と一線を引き、自ら孤立しにいく言動。
勉学は苦手そうにしている普通さ。
そして今朝の混乱の中、静かに周囲を観察していた異物感。
一通り話し終えると、先生はしばらく黙り込んだ。
「……そうか」
「茶柱先生、随分と歯切れが悪いですね」
「私にも把握しきれていない部分がある。あの生徒に関しては、通常の生活指導とは別の扱いになっている、とだけ言っておく」
「別の扱いですか」
「これ以上は言えん。私の一存で話せる範囲を超えている」
要するに、上から何かを言い含められている、ということだ。それも、担任である茶柱先生本人にすら、詳細を明かされていない類の話。学校側の管轄を超えた何かが、反町の背後にはあるらしい。
「もう一つだけ」
先生は続けた。
「お前が今口にしたような反町への疑念を、他の生徒に軽々しく話すな」
釘を刺すような口調だった。その言い方自体が、逆にこちらの興味を煽る結果になっていることに、彼女自身も気づいている。
要するに、周囲には悟られず、反町の様子を探りたいとのことだろう。
自分自身の反町への好奇心はある、正直、渡りに船というやつだった。
「分かりました、で要件はそれだけですか」
「いや、本題はこれからだ、少しそこに隠れていろ。私が出てこいと言うまで、声も出すなよ、破れば即退学だ」
「は?言ってる意味が…」
急転換した話についていけないまま給湯室に押し込まれる。
程なくして指導室のドアが開く音がした。
「まあ入ってくれ。それで、私に話とは何だ? 堀北」
「率直にお聞きします。何故私が、Dクラスに配属されたのでしょうか」
「本当に率直だな」
現れたのはどうやら隣人のようだった。
彼女は茶柱に息をつく間も与えぬほどに、自身がDクラスに相応しくない優秀な人間かを論理的に捲し立てていた。
「おいおい、お前は随分と自己評価が高いんだな」
茶柱先生はそんな彼女を嘲笑う。
「お前の学力が優れている点は認めよう。確かに勉強が出来ることは1つのステータスだ。それを否定するつもりはない。
しかし、この学校は本当の意味で優秀な人間を生み出すための学校だ。
それだけで上のクラスに配属されると思ったら大間違いだ」
彼女の言葉に堀北は何かを言いたそうにして、飲み込んだ。
悔しいが納得できる部分も多いのだろう、扉越しの堀北の雰囲気はその様子を目に浮かばせるほどだった。
「説明になっていません。私がDクラスに配属されたのが事実かどうか、採点基準が間違っていないかどうか。再度確認をお願いします」
「残念だがDクラスに配属されたことはこちらのミスではない。お前はDクラスになるべくしてなった。それだけの生徒だ」
「……そうですか。改めて学校側に聞くことにします」
結局、堀北はこれ以上の内容を引き出せないと判断したのだろう。
最後までその声に不服さを滲ませながら引き下がる。
「上に掛け合っても結果は同じだ。それに悲観する必要はない。朝も話したが、出来不出来でクラスは上下する。卒業までにAクラスへと上がれる可能性は残されている」
その道のりの困難を知りながら、茶柱は堀北に簡単にそう言った。
今朝の惨状、現状のクラスポイントを見て、そんなことができるとは思えない。
「簡単な道のりとは思えません。未熟な者が集まるDクラスがどうやってAクラスよりも優れたポイントを取れるというのですか。どう考えても不可能じゃないでしょうか」
「それは私が知ったことじゃないな、まあ、精一杯目指してみるといい。案外逸材揃いかもしれんぞ?」
「適当な冗談を…」
「あぁそうだった。もう一人指導室に呼んでいたんだった。お前にも関係のある人物だぞ、出て来い綾小路」
はぁ、とため息をこぼす。
どうしてこんなにも堀北の怒りを買いそうなタイミングで呼ぶのか。
なるべくその顔を見ないようにしながら、茶柱に抗議する。
「いつまで待たせれば気が済むんですかね」
「私の話を……聞いていたの?」
「話? 何か話してるのは分かったがよく聞こえなかったな。意外と壁が厚いんだ」
「そんなことはない。給湯室はこの部屋の声が良く通るぞ?」
そこから先は到底話し合いとはいえない、一方的なやり取りだった。
綾小路の言い分を徹底して潰しながら、茶柱は堀北へその異常さを提示していく。
50点で統一された点数、高難易度問題への正答、偶然ではすまされないそれは確実に堀北の視線を訝しげな物へ変えていく。
結局、帰宅を許可された時には、堀北は茶柱の話をすっかり信じ込み、綾小路を戦略として数えるようになった。
寮への帰り道を堀北と歩く。
「そういえば、今日は随分と長く呼び出されていたのね」
「まあ、いろいろと」
言葉を濁すと、堀北はそれ以上追及しなかった。
「それよりも、今後はクラスのために協力してちょうだい。どうせする事もないでしょう?」
「あるから嫌だ」
「ありがとう、喜んで協力してくれると信じていたわ」
「言ってないんだが…」
どうやら彼女の耳にはこちらの声は届いていないようだった。
綾小路の言葉を無視してプランを練っている。
「まずは学力向上ね。素行の問題もあるけれど、中間試験を越えなければ話にもならないわ」
「オレは協力しないからな」
「プランが固まったら連絡するわ、大丈夫。頭を使わずに済む、単純な労働よ」
大きくため息を吐いて、諦める。
もはや何を言っても無駄なのは気づいていた。
しばらく無言で並んで歩いたあと、オレはふと切り出す。
「なあ、反町についてどう思う」
「唐突ね。……そう、あなたも気になっていたの」
反応は早かった。どうやら向こうも同じことを考えていたらしい。
堀北は口には出さずに思い返す。
プールの時のあれは、正直不自然だった。
持病持ちであれだけ運動できることはさておき、応答があまりにも拙い。
それに、他にも気になることはあった。
堀北は少し声を落とす。
「時々、彼女からこちらが観察されているような気分になるわ。まるで、値踏みでもされているような、曖昧な表現で悪いけれど…」
その表現に、オレは内心で頷く。バスの中で覚えた感覚と、ほとんど同じだ。
「なんと言うか、少し分かる気がするな」
「根拠のない印象論よ、今のところは。あまりあてにはしないで」
堀北はそう締めくくったが、その口ぶりには、単なる印象論では片づけられない、クラスに潜む未知への興味が滲んでいた。
オレは、それ以上深くは踏み込まなかった。
自分の中にある違和感の内容を、堀北にすべて明かすつもりはない。
彼女がSシステムを察していたことを言えば、自分も理解していたと告げるようなものだ、確実に追及されるだろう。
こちらの手の内を晒さない程度に、相手の観察眼を借りる、それくらいの距離感が今はちょうどいい。
「まあ、そのうち仲良くなれば、そのあたりも分かるかもしれないな」
「…本当にそう思っているの?」
「一応、友達になりたいとは思っている」
曖昧に答えると、堀北は小さく息を吐き、それ以上は何も言わなかった。
反町友樹。
彼女の抱えている秘密が何であれ、少なくとも一つだけ確かなことがある。
このクラスにはまだ表に出揃っていない駒が、思っていたより多いらしい。
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翌日、教室の空気は、昨日までとは明らかに違っていた。
私語は目に見えて減り、居眠りをする生徒の数も少ない。
昨日の一件がよほど堪えたのだろう。
昨日までの緩みきった空気を思えば、上出来と言っていい変化だった。
おかげで幽鬼にとっても、いつもより幾分か過ごしやすい授業になった。
集中を乱す雑音が少ない分、板書を追う手も止まらずに済む。
須藤は居眠りしているが、思考を妨げるようなものではない。
悪くない一日になりそう、と素直にそう思えた。
昼休みになると、張り詰めていた空気にも、わずかな緩みが戻ってくる。
そんな中、壇上に立ったのは平田だった。
どうやら退学対策として検討していた結果考案された勉強会について、全体に参加を呼びかける。
場所と時間、必要な人。
淀みなく説明していく姿は、確かにリーダーとしての適性を感じさせる。
だが、参加を素直に受け入れる者ばかりではない。
「ちっ…」
須藤が、舌打ちと共に拒否を示す。
昨日の一件を根に持っているのか、あるいは単に平田という人間そのものが気に入らないのか。
理由がどちらであれ、頑なに首を縦に振ろうとしない態度だけは変わらなかった。
結局、須藤をはじめとした数名は、最後まで参加を拒んだまま、それぞれ思い思いの方向へと散っていく。
幽鬼はその一部始終を、少し離れた席から眺めていた。
須藤という生徒――素行は褒められたものではない。
成績も、褒める要素を探す方が難しいくらいだ。
それでも、身体能力だけは間違いなく高いものを持っている。
よく言えば直情的、悪く言えば単純。
考えようによっては、扱いやすい部類に入る人間だろう。
小さく息を吐いて、幽鬼は腰を上げる決意をする。
クラスのため、というほど大した動機ではない。
まだクラス競争への積極的な参加を決めた訳ではなかった。
しかし、今後幽鬼の心が変わった際に、手遅れであっては困る。
更に言えば、あの手の人間を動かす方法なら、既に効果を実証済みのものが幽鬼にも一つあった。
説得の材料も、口八丁の交渉術も、幽鬼の得意分野ではない。
だが幸い、もっと単純で、もっと確実な手段がある。
拳を交わすこと。
それこそが、幽鬼にとって一番、慣れたやり方だった。
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空が、青からゆっくりと灰色へ滲んでいく時間帯だった。
特別棟の裏手に近い通路で、幽鬼はバスケ部の部室が見える位置に立ち、待っていた。
待つこと自体は、そこまで苦にならない。
ゲームの会場で身につけた感覚からすれば、これくらいの時間はどうということはなかった。
やがて、部活を終えた須藤が、汗を拭いながら一人で歩いてくるのが見えた。
声をかけるタイミングを見計らい、幽鬼はその前に進み出る。
「須藤、少しいい?」
我ながら、ぎこちない切り出し方だった。
こういう雑談めいた声かけには、未だに慣れない。
「あ? なんだよ、お前、反町…だったか?」
須藤は怪訝そうに眉をひそめる。
警戒とも面倒くささとも取れる表情だった。
「勉強会、出ないんだって?」
「関係ねぇだろ、お前に」
「別に。ただ、須藤ってそんなに格好悪いんだ、って思っただけ」
わざとらしいくらい平坦な声で、幽鬼はそう続けた。
挑発というものに慣れているわけではない、と、幽鬼は少し前のゲームでとあるお嬢様を派手に煽ったことを忘れて考える。
だが、この手の人間の急所がどこにあるかくらいは、経験から何となく分かる。
「……は? 今、なんつった」
「頭が悪いから、勉強するのが怖いんじゃないの。逃げてるみたいで、格好悪いなって」
「てめえ、なめてんのか!?」
須藤の顔色が、みるみる変わっていく。
大股で距離を詰めてくると、幽鬼の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「もう一回言ってみろよ、コラ」
至近距離で睨みつけてくる須藤に対し、幽鬼はまるで動じなかった。
胸ぐらを掴まれた程度、揺さぶられた程度、痛くも痒くもない。
それどころか、口元にはうっすらと笑みさえ浮かんでいた。
「喧嘩、しよう」
拍子抜けするほど、あっさりとした声だった。
須藤は一瞬、意味を掴みかねたように動きを止める。
「は?」という間の抜けた声が漏れた。
幽鬼はその手を振り払いもせず、静かに続けた。
「ここじゃ目立つし、場所を変えよう。
人も来ないし、カメラもない場所を知ってる」
そう言って、事前に目星をつけていた特別棟裏へと、須藤を促す。
そこは校内の監視カメラの死角にあたる、数少ない場所の一つだった。
今日までの学校生活の中で、幽鬼が独自に頭へ叩き込んでいた情報の一つでもある。
戸惑いながらもついてきた須藤の前で、幽鬼は制服のブレザーを脱ぎ、傍らに置いた。
「タイマンね」
「はぁ? 何言ってんだお前、意味わかんねぇよ」
「私が勝ったら、須藤は勉強会に出る。須藤が勝ったら――プライベートポイントでも何でも、私にできることなら何でも言うこと聞く」
「お互いに今日のことは秘密、キズができてそれを誰かに聞かれても、転んだって言おう」
淡々と、条件を並べる。
提案というより、既に決まった予定を伝えるような口ぶりだった。
「……ふざけんな。女殴るほど、俺は落ちぶれてねぇよ」
須藤は舌打ち混じりにそう吐き捨てる。
「それに、お前になんか興味ねぇし。何もいらねえよ」
一度は、はっきりと拒む姿勢を見せた。
そこにあったのは、粗野な物言いの奥にある、意外なほどまっすぐな一線だったのかもしれない。
だが幽鬼は、そこで引き下がるつもりはなかった。
「ふぅん。じゃあ、口だけなんだ」
「あ?」
「勉強も嫌、喧嘩も嫌。逃げてばっかりだね、須藤って」
ゆっくりと、しかし確実に、須藤の中の何かを逆撫でしていく。
挑発というより、的確な急所への一突きだった。
「……ああ、もういい。上等だよ」
しばらくの沈黙のあと、須藤は苛立たしげに首元をボキボキと鳴らした。
「言っとくけどな、手加減はしてやるよ。けど、その減らず口には、ちょっとは怖い目を見せねぇと収まらねぇみたいだな」
そう言うが早いか、須藤は拳を構える。
その目に宿るのは、もはや躊躇ではなく、確かな闘志のみ。
幽鬼もまた、軽く肩を回しながら、静かに構えを取った。
――始まり、そしてあっという間だった。
須藤の拳が唸りを上げて振り抜かれる。
少し威力を抑えられるが見えるスピードだが、体格差からくる一撃の重さは、素人目にも分かるほどだ。
だが幽鬼は、それをぎりぎりの紙一重で見切り、体を横に流す。
痛みへの恐怖というものが、幽鬼にはほとんど存在しない。
かすった程度の衝撃なら、避けることより先に受けてしまっても構わない、とすら思っている。
だからこそ、動きに一切の迷いがなかった。
かわしざま、須藤の脇腹へ肘を叩き込む。
続けて膝の内側を蹴り、体勢を崩したところへ、拳を三連で突き入れる。
「っ、てめ……!」
一撃一撃は、決して重くない。
けれど、須藤の反撃をことごとく躱しながら、確実にダメージだけを積み上げていく幽鬼の動きは、明らかに只者ではなかった。
体格でも、単純な力でも、須藤の方が上のはずだ。
それでも、削られていくのは須藤の体力ばかりだった。
「くそ……っ、当たれよ……!」
苛立ち混じりの声とともに、須藤の攻撃が徐々に大振りになっていく。
それでも彼は、なかなか倒れなかった。
バスケで鍛えたであろう体力は、伊達ではないらしい。
――長引かせると、他の人間に見つかる可能性がある
幽鬼はそう判断すると、大振りになった須藤の腕をかいくぐり、背後へと回り込んだ。
そのまま首元へ腕を回し、確実に締め上げていく。
「が、ぐ……っ」
須藤の抵抗は次第に弱まり、やがてその体から力が抜けていった。
腕の中で、ずしりとした重みだけが残る。
意識を失った須藤を見下ろし、幽鬼はそこでようやく、はっとした。
――やりすぎた。
幽鬼の同年代異性への態度がわからん…