獅童正義は明智吾郎として生きることになった。 作:枝野トナナ
第1話――3/?? 『Broken Game Board』
20XX年3月某日、ある事件が大々的に報道された。
将来を嘱望されていた政治家が、高校1年生の少年と夜の路上で揉めて死亡したのである。
民衆が死んだ男に向けていた期待の大きさ故か、当初は少年を責める声も大きく、SNSや掲示板等で本人特定を試みるものも多数存在した。
しかし日を置かず、事件の詳細が明るみに出たことであっけなく騒ぎは沈静化した。
酔っぱらった男に絡まれた女性を守るべく、少年が反射的に手を出してしまった結果の事故。
何の政治性もない、言ってしまえば何の面白みもない結末に、大衆は引き潮の波のように興味を失い――少年の名前もついに明るみに出ることはなかった。
多くの人間にとってはそれだけの話だった。
所詮は他人の不幸ごと。政治家の存在とて代わりを探せば済むことでしかない。
人の命はかけがえがないと言われるが、社会を回す歯車はいくらでも代わりがある。
取り返せないものを嘆くよりも前を向いていくべきだと、綺麗事を並べ立てることで今日も社会は回っていく。
ただ――当事者たちにとっては、それだけで片付けられる話ではなかった。
どうしようもなく不幸なことに。あるいは救いがたいほど間の悪いことに。
彼の命ではなく役目こそが、真に替えようがないものだったのだ。
さて、ここで伏せていた人物の名を明かそう。
少年の名は雨宮蓮。
救急車を呼び、警察に出頭し、温情で過剰防衛こそ認められたが『人を殺してしまった』罪人。
そして死んだ政治家の名は獅童正義。
50代という若さやカリスマ性故に期待を注がれた『清廉な政界の星』という表の顔とは裏腹に、清濁の『濁』にまみれた男――
――一言で表すならば、悪党だった。
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「……ますか―。きこえますかー」
「声、聞こえますかー」
まどろみを破るようにどこからともなく声が響いた。
その意味を理解するよりも早く、急激に視界が眩しくなる。
目を焼く光。白い天井。覗き込む人影。
「聞こえますかー、まばたきできますかー? 聞こえたらまぶたをパチパチと……ああうん。大丈夫ですね」
うるさい、と思いながらも指示通りにしてやると、人影は満足そうに頷いた。
帽子にマスク、見覚えがなくもない衣装。
多分、医者だ。それも手術中の。
意識が覚醒し、明瞭になっていくにつれて、喉の渇きが不快感を刺激する。
そんなこちらの苛立ちに気づいているのかいないのか、医者は矢継ぎ早に指示を出す。
「瞬きは出来てますね。手は握れますか?
はい、じゃあ左手も。足の指も動かして」
一体いつまで続くんだ……と思いこそしたが、それ以上思考が進まない。
医者はただ、必要であろうことを淡々とこなしていく。
何の説明もないままに。
「声、出せますかー」
「……ああ」
「自分の名前、言えますかー」
「……獅童正義」
「うんうん、大丈夫そうですね」
ようやく一通りの手続きが終わったのだろう。
同時に、濁水のような眠気が襲ってくる。
「プレセデックス投与します」「ICU移動準備出来ています」「翌朝までバイタルチェックを……」
複数の人影も飛び交う会話もおぼろげな意識の向こうにかき消えていく寸前、どういうわけかたった一言だけ、やけに鮮明に聞き取れた。
「当面の間は、鏡を見せないように」
――わけのわからない指示だな、という疑問は、眠りの中に溶けて消えた。
最初の違和感が視界に入ったのは、次に目が覚めた直後のことだった。
医者が来たことに気づき傾けた顔。その端に、耳にかかった髪の毛が垣間見えたのだ。
年を重ねるにつれて後退していく額に辟易して、潔くスキンヘッドにしたのは何年前からだったろうか。
とにかく、もみあげにも他の場所にも髪束など残していない。
それに、医者と会話する最中で声の変調にも気づいた。
最初は喉が乾いて荒れていたからだと思い込んでいたが――……声が出しにくいのではなく声色そのものが変わっている気がする。
嫌な予感がした俺は、医者に気づかれないように自分の記憶をたどり始めた。
獅童正義という名前、政治家としての経歴、いつしか五十を超えていた自分の姿、そして最後に覚えている出来事。
確か酔いが回ったまま女を持ち帰ろうとして、通りすがりのガキが絡んできて――……それで?
……クソガキに顔を殴られて、その後のことは、………覚えていない。
脳震盪で気絶した? いや、脳出血を起こして手術された?
脳を手術したとなれば、医者の対応もある程度は頷けなくもない。
――『ある程度だけは』、だ。
脳を手術したからといって髪は生えないし声も変わらない。
そもそも鏡を見せるな、なんて注意事項が出てくるはずもない。
嫌な汗が背中を伝う中、医者は慣れた様子で俺の身体を移動させ、CTスキャンやいくつかの検査をこなしていく。
俺はただ、医者にバレないように自分の姿を確認する術を探した。
病室には窓があるはずだ。個室ならテレビがあるはずだ。あるいは金属製の部品を使った何かがあるはずだ。
――そんな思考回路などとっくにお見通したと言わんばかりに、鏡の代わりになるものなどどこにもなかった。
そもそも意識を保っていられる時間さえ長くはなかった。
ずっと腕に刺さり続けている点滴は、いつ見てもぽたりぽたりと落ちている。
鎮静剤の類だろうと思考を巡らせたところで、気づけば眠りに引きずり込まれ、医者の呼びかけで目を覚ます。
ただ、そんな状況でも、時折視界に映るものはあった。
邪魔になりそうなほど伸びた栗色の髪。
妙に若々しく、あったはずのシワやたるみがきれいさっぱり消えた腕。
利き手ではないはずの左中指に残る、治りかけらしきペンだこ。
嫌な心当たりが脳裏を過ぎっては、それ以上先に進むことなく消えていく。
そんな時間がいったいどれほど続いただろうか――
「――さて、まだ薬は効かせていますが、現状について説明しますね」
いつの間にか眼の前にいた医者が、淡々と喋り出す。
もし俺がいつもの俺であったなら悪態の一つや二つを飛ばしていただろうに、今は何の感情も湧いてこない。
「私は主治医の竹田です。
獅童さん。貴方は脳震盪で病院に搬送されたあと、吐瀉物による化学肺炎を起こし、敗血症性ショックによって容態が急変しました。
しかしドナーのご厚意により、緊急で
適合率が高かったことも幸いして手術は成功し、術後の経過も極めて順調ですが、まだ縫合部位の傷は塞がっていません」
完全な素面であったならば、最初に自分の耳を疑っただろう。
そして医者の言葉を疑い、その意味を飲み込むまでに倍以上の時間がかかっただろう。
「興奮による出血を避けるために、明日いっぱいまで鎮静剤の投与を続けます。
ですので、秘書の方々とのご面会を許可できるのは明後日の午前中からとなります。
死亡届については明後日の日付で作成いたしますので、ご面会の時に相談なさってください」
「……なにを、いって」
「ああ、本当に興奮しないでください。
急に動いたり大声を出すのもダメです。ほら、何も考えずに息を吸って、吐いて」
「そんなの、できる、わけ」
「わかりました。少し眠くなる薬を入れます。
ゆっくり目を閉じて休んでください。
面会の前に、鏡を見る時間はご用意いたしますので」
――そしてまた、意識が途絶えた。