獅童正義は明智吾郎として生きることになった。 作:枝野トナナ
コスモスが雨に打たれて揺れている。
どこまでも続く緑とピンクの色彩の上で、真っ白な傘が弾むように動く。
思い出したくもないほどに美しいあの日の光景は、いつだって色褪せたまま繰り返される。
『ねえ、■■さん。私ね、■■■■が出来たの』
止めろ。聞きたくない。
夢の中でも俺は首を横に振る。
けれど彼女は傘の向こうで不思議そうに小首をかしげる。
長く、柔らかな、栗色の髪がふわりと揺れる。
『私、■■さんと一緒に幸せになりたいな』
止めてくれ。
そう思うならなぜ
どうして勝手な事をして愛されると思ったんだ。
『私は幸せになっちゃいけないの?』
そこに俺の幸せがないのだと、どうして気づかない?
お前は何度失望させれば気が済む?
何度同じ事を繰り返す? どうして学ばない?
愛せるわけがないだろう。
愛してもいないものを、愛せよと強いられたところで――!
どうして、どうして、どうして……ッ!!
『それでも私は――』
「――やめろぉッ!!!」
絶叫とともに跳ね除け――ようとして、起き上がりきれなかった身体がバランスを崩す。
寝袋の中にくるまっていたのだと思い出したのは肩を打ち付けた後のこと。
何日かぶりの悪夢に、呼吸が荒くなっていることに気づく。
まだ外は暗い。
スマホで時刻を確認する。午前2時半。割り切って起きるには早すぎる。
そもそも昨日は笹木に連絡を取ったあと、すぐに返事が来て……
回収してもらった服を受け取ってから寝袋に潜り込んだから、……普通に10時間以上寝ているのか。
冷蔵庫にはまだ何も入っていない。食料品は買い置きのカップラーメンだけ。
この時間なら近くのコンビニに出かけても大丈夫だろうか?
少なくとも昨日の素人どもは深夜に張り込むほどの根性はないだろう。
裏社会の連中が本格的に動いているとしたら危険だが――いや、それなら笹木や星野の情報網に引っかかるはずだ。
最寄りのコンビニまでなら徒歩5分圏内だし……
……行くか。
折り畳み傘を差しながら、小雨が降る中をゆっくりと歩く。
さすがに人の気配はない。路駐している車もない。
何事もなく、あっけなく目的地に辿り着く。
「いらっしゃいませー」
大学生ぐらいのバイトが1人、レジの中で作業をしている。
客は2人。化粧の濃い女と汚れた服を着せられたガキ。
ぎゃあぎゃあと一方的にがなり立てている、母親であろう女の金切り声を無視して、さっさと食料品を物色し会計を済ませる。
珍しくもない。東京に限った話でもない。
身勝手な女も、死んだ目のガキも、気にするだけ無駄だ。
……さっさと帰ろう。
まだ雨は降り続けている。
朝には晴れるだろうか?
どうせ車で移動するとはいえ、いつまでも雨音が響くのは気が滅入る。
家に着いた。
夜食のつもりで買いに行ったのに、気づけば食欲が無くなっている。
まあいい。朝食にすればいいだけだ。
そう言い聞かせて冷蔵庫にしまい込み、寝袋に潜り込んだ。
――夢の続きは、見なかった。
「だいぶお疲れのようですね、……吾郎さん」
「そうですね」
濡れた車窓から外を見る。
雨に打たれても桜はまだ咲き誇っている。
どうにもこうにも気分が晴れない。
食事だけは何とか口に押し込んだが――昨日のダメージが残っているのだろう。
……夢は、多分、関係ない。
「僕が知らない獅童正義の秘書ってどこの誰なんでしょうね?
そもそも高校生相手に知人偽装誘拐が成立すると思ってるバカは初めてみましたよ。
――ああ、いや、普通の高校生のガキなら成功するのかな……」
半ば独り言のつもりでつぶやいているだけだったが、笹木はそう受け取らなかったらしい。
「わ、私も星野も調査は進めますし、警察にも連絡済みです。
遠からず吾郎さんのご自宅付近と渋谷駅周辺に関しては巡回を強化すると思います」
「……そうですか。ありがとうございます」
形式だけの礼を言いながら、窓に映る明智吾郎の顔を見つめる。
これがお前の狙いだったのか?
どうしようもなく愚かしい素人ごときにしてやられる不自由さを突きつけて、この身の無力さを理解させたかったのか?
私を無力なガキに仕立て上げて、命以外の全てを奪ってみせたかったのか?
――心の中で問いかけたところで答えはない。
いつもは恨みがましい目でこちらを見るくせに、今日は素知らぬ顔をするばかり。
……いや。これが当たり前だ。
鏡像に意思は宿らない。映っているのは明智吾郎の顔をした私に過ぎない。
私は私だ。獅童正義という人間だ。
例え戸籍がどうなっていようと、身体がどうなっていようと、それでもここにいる私は私以外の誰でもない。
「大丈夫ですか? 吾郎さん」
「……っ、……ああ、気にしないで、ください」
耐えろ。怒りを顕わにするな。
こうなったこと自体に私の意思が関与していなくても――それでも現状は私が選び、望んだことだ。
明智吾郎として生き続け、生き延びて、政界に返り咲く。
私の意思で私の夢を追い続けるために、獅童正義という過去を切り捨ててでも、歩き続けてみせる。
その覚悟があったからこそ、笹木や他の連中に明智吾郎として扱うように……私から求めたのだ。
悪夢や幻影ごときに、揺らいでたまるか。
「――綺麗ですね、桜」
「え? ……ああ、そうですね。
今日の雨でだいぶ散るでしょうが……花見頃なのは間違いないですねえ。
東京の桜もいいですが、関東だと幸手の桜堤も見事ですよ」
「幸手……埼玉、でしたっけ? 話には聞きますが、行ったことはないな」
「桜並木と菜の花畑がずっと続いているんですよ。
妻が好きでしてね。実は昨日行ってきたばかりです」
「……それは良かった。奥さん、楽しんでいらっしゃったでしょう」
「曇り空でしたが、雨は降りませんでしたからね。
……このような事になるなら、吾郎さんもお誘いすれば良かった」
「気にしないでください。僕だってどこの馬の骨かもわからんバカが動くとは予測してませんでしたし。
……それに、奥さんとの時間を邪魔したって仕方ないでしょう? それこそ馬に蹴られて死ぬ奴だ」
「ははは……いやいや、そんなことはありませんよ。
妻は人と仲良くなるのが好きなんです。せん……吾郎さんもご存知でしょう?」
「……そうですね。おおらかで気立てのいい方ですよね」
もう半分以上聞き流しながら相槌を打っているが、笹木は気づいていないようだ。
いいんじゃないか。幸せなら。
実際幸せなんだろう。
そういう夫婦や家庭があってもいい。いや、あったほうがいい。
それ以上のことは特に何も思わない――あえて言うなら、自分の生き方には合っていないというだけだ。
他人がそういう生き方を選ぶ分には自由だし、不幸になるより幸せである方がずっといい。
結婚式に呼ばれたら祝福するし、惚気話だって聞いてやるさ。
間違いなく。
「……ああ、そろそろ着きますね。
検査が終わったらご連絡しますから、笹木さんはポロニアンモールでも見ていてください」
「え? 付き添いは……」
「大丈夫ですよ。桐条の病院ですし。
それに、何時間かかるかもわからないのに付き合わせるのも悪いでしょう?
せっかくですから羽を伸ばしてきてくださいよ」
……そういうわけで1人で病院に行ったはいいが。
受付で1時間待たされて、CTだのMRIだので1時間かかって、診察待ちで1時間で、会計待ちで30分。
診察もあるから合計4時間コースになってしまった。
これだから病院は嫌なんだ。
……結果?
薬を飲んで寝たのが功を奏したのか、
良かった良かった。それはそれとして昨日のクソ共は許さんが。
ともあれ会計も終わったし、さすがに空腹も覚えてきた。
笹木に連絡してさっさと迎えに来てもらおう――と、スマホの電源を入れると、通知が届いている。
『明智くん! 火曜日と水曜日の午前中どっちも空いてるよ!
好きな方選んでね!』
……木場税理士からか。
そう言えばこっちも連絡する予定だった。
『火曜でお願いします』と送ると、すぐに『りょ! 押さえます!』と返信がつく。
……レスポンスが早いのは良いことだが、ビジネスの話でここまで崩した文体を使うのはどうなのだろう?
それとも私が普通の高校生だと思っているからこそ、身構えさせないようにあえて若者言葉を使っているのだろうか?
――などと考えていると、追加のメッセージが届いた。
『おけまる! 足も出すから10時に君の家に迎えに行くね!』
……おけまる?
オッケー
とりあえず『ありがとうございます』とだけ打ち込み、笹木のトークを開いて迎えの要請を送る。
ここからポロニアンモールはさほど離れていないとはいえ、出庫やら渋滞やらを考えれば20分は掛かるだろう。
ロビーの椅子に座り、ぼんやりと周囲を見る。
当たり前だがほとんどの患者は1人で座って会計を待っている。
そんな中で唯一、野球選手のような格好の男が若い看護師と親しげに話していた。
三角巾で腕を吊っているあたり患者であることは間違いないだろうが、どこか恋人同士のようにも見える。
看護師も怪我をしている男も幸せそうにしているからだろうか。
やがて男は会計に呼び出され、看護師も仕事に戻っていく。
――私もスマホの通知が鳴った。どうやら迎えが来たらしい。行こう。
「いやあ、やはりここに来たらこれを食べませんとねえ!」
巌戸台駅前商店街にあるラーメン屋、はがくれ。
鍋島ラーメンを名乗るだけあって、佐賀県風の豚骨醤油スープが美味い店だ。
しかし笹木曰く、はがくれ丼なるチャーシューを乗せた丼飯こそが至高らしい。
まあ確かに肉が好きならそうなるだろうな。
若い奴ならラーメンと一緒に頼んで掻き込みそうだ。
どこぞの欠食児童を思い返しながら麺をすする。
中細麺に絡んだまろやかでコクのある熱々の汁が空腹に染み渡る。
こういうのでいいんだよ。こういうので。
――そう言いたくなる味だ。
もっと都心に近ければ週1で通っていたかもしれないな。
「チェーン展開して23区内に出してくれればいいんですけどねえ。
巖戸台は機会がないと足を運びにくくて」
「……まあ、しばらくは病院の送り迎えを頼みますから、その時にまた食べに来ればいいじゃないですか」
「それはそうなんですが……そういえば次の通院はいつになったんですか?」
「ええと……今月の28日ですね。木曜日です。
時間は今日と同じですよ」
本当は1ヶ月後で良かったそうだが、5月4日はゴールデンウィーク真っ最中だからな。
1週間前の空いている曜日に前倒しだ。
「わかりました。ではその日はお迎えに上がりますので」
「よろしくお願いします」
予定を確認し終えたあと、それぞれのメニューを平らげて外に出る。
ここの商店街は賑やかだ。
定食屋だのたこ焼き屋だのファーストフードだの甘味処だの、食が充実しているからだろうか。
そもそも構造からして商店街というよりはショッピングモールに近しいし、桐条の開発能力の高さを否応にも思い知らされる。
……どうしてこういう真っ当な商売もできるのに、わざわざオカルト警察だの兵器開発だのに走るのだろうな?
無論桐条には桐条の考えと理念があるかもしれないが、外部の人間からすると普通に街の開発だけやっていれば良かったんじゃないのか、と思わざるを得ない。
あそこの一族は、平穏な日常を退屈な毎日だと感じる人種なのだろうか。
それともより良い明日を望むがあまり、蝋の翼で彼方の星を掴みに行こうとしているだけなのか。
――わからないな。
わかりたくもない。
大衆から最も遠い場所にいる連中の考えなぞ、汲み取るだけ無駄だろう。
「……ああ、そうだ。
帰り、ホームセンターとか寄れます?」
「いいですよ。何かお探しで?」
「昨日、買いに行くつもりだったんですよ。
傘と寝具――ああ、あと傘立ても」
「なるほど。それならミトリが近くにありましたから寄っていきましょう。
結構いい品が揃ってるんですよ。妻と一緒に見に行くと、2人でついつい余計なものまで買ってしまいます」
「……へぇ。例えば?」
「この前は――カラーボックスと中に収まるケースを買いましたね。
小分けにできる収納が欲しかったのですが、これが実にちょうどいいサイズでして。
組み立て式ですから、もし買われるならお手伝いしますよ」
「はは……まあ見てから考えます」
――幸せであろうとなかろうと、日々は続いていく。
ならば幸せである方がいいに決まっている。
その幸せの形が人それぞれであるなど当たり前の話で、だからどうやったって幸せになれないものもいる。
……愚かすぎて、相手の幸せどころか、自分の幸せの形すら理解していないから。
なあ、そうだろう? 明智吾郎。
お前も、お前の母親も、幸せになれるはずがなかったんだ。
最初から――最期まで、ずっと。