獅童正義は明智吾郎として生きることになった。 作:枝野トナナ
最後に自宅を出たのはいつだったろうか。
あの時は――名古屋の政財界と意見交換をして、軽減税率関係のヒアリングをしに静岡へ寄ったんだったか。
ついでに資金調達も済ませようと考えたのが間違いだったな。
……いや、止めておこう。あの日のことを思い出すだけで腸が煮えくり返りそうだ。
ともあれ、1ヶ月以上放置された家なんぞロクなことにはなっていない。
明智吾郎の家で経験済みだ。
――などと勝手に腐臭まみれの空気を覚悟していたが、蓋を開けてみれば大変綺麗に掃除されていた。
まさか出かける前より片付いているとは。
……いや、これも私が死んだことになっているからこそか。
生きている人間の部屋に勝手に入れば犯罪だと謗られるだろうが、死人はいちいち文句をつけないものな。
「さすがに生モノは残しておくと衛生的に問題があるからね……
もったいないけど記録だけ取って処分させてもらったよ。
あと、明らかなゴミはあっちの袋にまとめてあるから、確認したらサインもらっていいかな?」
「あ、はい」
透明なポリ袋に入っているのは、シュレッダーの中身を移したもののようだ。
こんなもの確認もへったくれもないだろうが、弁護士や税理士にとっては手続きこそが重要だろう。
差し出された同意書に一筆記し、木場に返す。
「うん、ありがとね! じゃああとは好きに見て回っていいよ!
欲しいものがあったらこの付箋貼って、逆に要らないものはこっちを貼っておいてね!
あ、黄色い付箋が貼ってあるものはダメだよ。
美術品はとんでもなく高いかもしれないから、ちゃんと査定してもらわないといけないからね」
今度は大型の赤付箋と青付箋を渡された。
木場が言う通り、絵画類には全て黄色の付箋が貼られている。
しかし私が欲しいのはパソコンとパーソナルチェア、それに取るに足らない小物類だ。
一番高いのは当然本革張りのチェアになるが……
「あらあら。その椅子が気になっているのかしら?
若いのになかなか良い目をしていらっしゃるのねえ」
私の視線に気づいた赤川弁護士が、上品に微笑む。
「カリイシ工芸のオーダーメイド品だけあって、丁寧な作りですものね。
お手入れは少し大変だけれど、きちんとケアしてあげれば20年は持たせられますよ」
「ええと……高すぎて持ち出せない、とかはないんですか?」
「そんなことはありませんよ。査定が必要というだけですわ、ねえ木場くん?」
「そうですね! 写真で査定額出せるから、赤付箋貼って大丈夫だよ!
ちょっと遅くなるかもだけど、引越し業者さん頼んでおくからね」
……そういうことなら遠慮なく回収しよう。これは一番気に入っていた家具だしな。
「あの、父のパソコンも貰っていいですか?」
「あのノートパソコンかな? ちょっと古いけど結構なハイエンドモデルだよね!
やっぱり写真は取らせてもらうけど、問題ないよ!」
「木場くんが全部申告をしますからね。
お勉強や趣味にも使えるでしょうし、遠慮なく持っていくといいわ」
付箋を貼る前に木場がパソコンを裏返し、型番などが記されたラベルを撮影する。
ついでにパソコン用のバッグの写真も取って、中に詰めて渡された。
「これは今日このまま持って帰っちゃって問題ないよ。
他に欲しいものある?」
「あ……じゃあええと、本とか日記とか、手帳とか……そういうものがあれば……」
――まあ日記はつけておらんがな。
何も知らんガキが手帳だけ欲しがるというのも怪しまれるだろう。
「そういうものはあちらの書斎にありましたわね。
一緒に行きましょうか」
「本はいっぱいあるからね! まとめて引き取っちゃう?」
「あらあら、さすがに高校生には難しい本ばかりだと思うわよ?
確かに良い本を揃えているけれど――場所も取るし、全部は難しいのではないかしら?」
「……そ、そうですか」
まあこれは赤川の意見の方が一理あるな。
いくら明智吾郎の家を書斎代わりにしているとはいえ、全部の本を収納して管理するには骨が折れる。
1回読んだら終わりになっている本も多いし、大学入試という目の前の問題を横に除けてまでして読みたい本もそうそうない。
しかしこの中でたった一冊しか選ばないというのも変に取られそうだし――そうだな。
「ええと……これとこれと、これと、この本を貰っていいですか?」
「へぇ? 『方法序説』と『ユング心理学入門』……『精神分析入門』と『認知訶学』?」
「哲学と心理学に興味があるの?
さすが高校生探偵さんね。いい趣味だと思うわ」
『認知訶学』以外はカモフラージュのようなものだが、一応どれも好きだったり興味があって買った本だ。
新居の方に置いて、寝る前に読み返してもいいだろう。
「手帳はこれだけだったかな。
物持ち良かったんだね、君のお父さん」
木場がデスク上の本棚から、他の本と挟んで置いていた鍵付き手帳を取り出す。
艶が出た黒の表紙に色褪せた薄茶色の留め具。ダイヤル錠は前にセットしたまま動いていない。
本革製でバインダー式。古びてはいるが特に捨てるほど劣化もしていないため、20年ほど使い続けている。
そもそもスケジューラーではなく、単純なパスワードノートとしてしか使っていないからな。
獅童正義以外の人間が利用して問題ないアクセス先となると、実際に有効活用できるのはほんのわずかだ。
その、
「ついでに文房具も貰っちゃえば?
ペンは何本あっても困らないし」
「そうですね……」
手帳以外は欲しいというほどでもないが、いずれ買い足す必要のある文房具ばかり。
勧められた通り、ペン立てごと回収してしまっていいだろう。
あとは――
「このメガネケース、もらってもいいですか?」
「ん? ああ、問題ないよ! 寄木柄のメガネケースって珍しいよね」
「ペン立てやコースターも寄木柄ですものね。お父様が好きだったのではないかしら」
「そう……だったんですね」
――良かった。
「ありがとうございます。
……とりあえず、これで、大丈夫です。
他の家具は……少し、僕の部屋には手に余るので」
実のところ防音マンションの方なら置けなくもないが、配送には当然引越し業者の手配が必要だ。
有象無象に新居の住所を明かしたくはない。
それに明智吾郎の部屋に置けるサイズで絶対に必要なものとなると、先ほどのパーソナルチェアだけだ。
「うーん、そっか。まあテレビとか冷蔵庫とか大きいもんね」
家電もあらかた買ったしな――
……あっ。
「あ、そうだ。ボイスレコーダーのようなものはありませんか?
政治家なら議会とか談話で録音しておいて後で書き出すとか、そういうことしますよね?」
「ああ、確かにねえ。
木場くん、そういうものはあったかしら?」
「……いえ。この家にレコーダーは無かったはずですよ?」
「え?」
……レコーダーがない?
オフラインのICレコーダーは置いていったはずだが……
いや、しかしこの場で私が問いただすのは不自然か。
「なら、持ち歩いていたのでしょうか……
あの……そういえば、父が最期まで持ち歩いていた品は、誰が預かっているんでしょうか?」
「多分警察かしら……あの事件の加害者は未成年の少年だったわよね?
なら、少年審判が終わったら返還連絡が来ると思うわ」
「赤川先生に連絡が行くはずですよね。遺言執行者だし」
「そうね……明智くんや亡くなられた獅童先生には申し訳ないけれど、状況的には保護観察処分になるでしょうし……
事件後の救護と通報も自分でやっていて捜査側も過剰防衛を視野に入れているようだし、女性の証言もあって事件の経緯はほぼ明らか。
家裁もこれ以上時間をかけないでしょうし、社会復帰も考えると4月8日には審判をすると思うわ」
「そういうの、いいんですかね?
事情はどうあれ結果としては人1人死んでるのに、加害者に配慮ってのも……」
「最初から加害者になるつもりだったのか、運悪く加害者になってしまったのかは区別されるべきですからね。
今回の少年は明らかに後者ですし、更生の機会を奪うべきではないと判断されるのは仕方ありませんよ」
……うるせえな。
何で自分が使ってた道具が欲しいだけなのに、こんな説教めいた話を聞かされなきゃならんのだ。
「――ああ、ごめんなさいね。
あなたの前で話すことではなかったわ」
表情に出したつもりはなかったが、雰囲気で察したのか、赤川が頭を下げてくる。
胸中で苦虫を噛み潰しながらも、私は今度こそ『状況を飲み込もうと努力している真面目な高校生』の仮面をかぶって答えた。
「いえ……大丈夫です。
話を聞く限り、父のほうが悪いのは僕もわかっています。
ただ……その、声が残っていればいいなと思っただけなので……」
本当に欲しいのはこの家にあるはずのICレコーダーだけだがな。
……誰が、どこにやった?
いや、そもそも他に無くなっているものがないか?
「あの……木場さん。
この家にあった財産のリストって、僕が見ることはできませんか?
もしかしたら欲しいものが他にあるかもしれません」
「ん? ああ、全然見ていいよ!
まだ作成途中だけど、この家にあるものについては全部記録したからね!」
そう言って木場は印刷されたリストを渡してきた。
写真と品名と、持ち出し日やサインを記入するための空欄がついている。
1枚1枚めくって、自分の記憶と照合し――……
……USBメモリ類とSDカード類がない。
どういうことだ……警察の家宅捜索か?
……いや、それならノートパソコンが押収されていないことに理屈がつかない。
だとしたら――プロの仕事か。
オフラインレコーダーは他人に見せるものではないし、USBメモリにしろカード類にしろ、いくつあるかを把握しているのは使用者本人だけだからな。
ノートパソコンのような『確実に重要機密が入っているだろうがどう考えても無いとおかしいもの』を取らずに残していくというのは、素人が下せる判断ではない。
くそっ……いや、この程度なら取り返しはつく。
見える場所に置いてある記録媒体には大した内容など入れていない。
ICレコーダーに入っているのは
音声だけでは『獅童正義率いる一派が首相を引きずり下ろすために国交相のスキャンダルを狙っていた』ということしかわからんはずだ。
……これは、さすがに認知訶学研究を続けたい奴らの仕事だろうか。
【ヒットマン】の連絡先を探しに来た……いや、ボイスレコーダーを盗んでいるなら警察の捜査が入ることを恐れたのか?
どちらにしろ、
……不愉快極まりないが、これに関してはこちらからリアクションすべきではない。
手がかりを掴むまでは……何も知らんガキを演じ続けるしかない……!
「……ありがとうございます。
少し欲しいものがありまして――この、ボトルシップをいくつかいただいてもいいですか?」
話題を変えるために、持ち帰れるサイズの趣味の品を引き取ることにする。
予定には組み込んでおらんが、まあ、3つぐらいなら新居に飾れるだろう。
「いいよー! たくさんあるよね! 全部持ってく?」
「いえ……これと、これを。あと、この……中くらいのものを1つ」
「小さめ2個と中型1個ね! オッケーオッケー!
配送してもらう? それとも今日持って帰る?」
「では、1つだけ持って帰ります。
残りはチェアと一緒に配送してください。さすがに重いので」
それでなくても本4冊とノートパソコンと小物類があるからな。
今の私でも新居まで持ち帰れそうな重量となると、小さなボトルシップ1隻がせいぜいだ。
「じゃあ、他の家具類はこっちで適切に処分することにするよ?
あとこの部屋、お父さんの秘書さんやってた星野さんって人が買い取ってくれるって話だけど、聞いてる?」
「ええ。先日、直接お話を伺いました。
僕が使うと悪目立ちしそうですし、星野さんなら大切に使ってくれると思いますので」
――こればっかりは嘘を吐くしかない。あのゴミカス野郎がまともに人の部屋を使うわけねえだろ。
だがさすがに世辞の1つや2つ言っとかねえと不審がられるからな。クソが。
「そういえば、僕が使わない家具は星野さんが買い取ることになるんですか?」
「そうだね! 先方が要るっていったらこの部屋と一緒に売って、いらないものは先に処分するよ!」
「……なら、大丈夫か……」
「え?」
「あ、いえっ、処分費用がかさんだら大変だなって思って……
……そ、そういえば、僕が受け取れる現金っていくらぐらいなんでしょうか。
今年大学入試なので、……入学金のことが、少し心配で」
いかん。普通に口を滑らせかけた。
敵に見事にしてやられたとはいえ、この程度で動揺するなど私らしくもない。
「ああ、そっか。それも確かに不安だよね。
でも大丈夫だよ! 来週中に君の生活口座に1千万円移動させとくから!」
「えっ」
少なッ!?
嘘だろ!? 銀行口座に7千万は入れてたはずだぞ!?
「え、えっと、そ、そんなにもらっていいんですか」
「いやまあ、もう少し渡しても大丈夫だとは思うんだけどね?」
木場が赤川の方をちらりと見やる。
さては――貴様かババア。
「美術品の査定もありますし、貸金庫の中のお金についても検察が調査している以上はすぐには返してもらえませんもの。
もちろんこの部屋や、お父様が事務所として使っていた部屋もありますから、そこを売ったお金もいずれは入ってきますけれど……
相続税がいくらになるかはっきりわかるまでは、油断はできませんものね。
どれほど多くなろうと確実に支払いができるように、6千万はこちらで預かった方が良いと判断しましたの」
……正論だ。正論ではある。
だが1千万か……いや、待て。
「……ええと、父は、株などは……やっていたのですか?」
「ええ。そちらは早めにあなたに渡るようにしてあげたいわ。
ただ、株の相続にはあなたの名義の証券口座が必要なの。だからまず、口座を作らないといけないのよ」
――それもそうだ。クソ。
証券口座開設もさすがに後見人の同意や手続きが必要だよな?
「心配しなくても赤川先生が必要な手続きをやってるから大丈夫!
後見人の方にもちゃんとお話してるからね!
今は証券会社の方の手続きを待っているところだから、1ヶ月か2ヶ月ぐらいで相続できると思うよ!」
……なんだ。もう取り掛かっていたのか。
私名義の株を受け取れれば配当金収入が期待できるし、最悪売って資金にできるからな。
売るのはいささか勿体ないが。
「わかりました。お二人とも、ありがとうございます。
――とりあえず今日は、これで十分です。
お手数をおかけして申し訳ありませんが、後のことはよろしくお願いします」
「ええ、遠慮なく任せてくださいね。
それと警察から連絡があったら、お父様の持ち物をお返ししますからね」
「俺も頑張るから安心してって!
そうだ、よかったらリストのコピー持っていく?
後から欲しいものが見つかるかもしれないしさ!」
「あ、ありがとうございます……」
……無いと思うが、一応受け取っておく。
明智吾郎の立場で断る理由もないだろうからな。
ともあれ――色々と、どうしたものか。
明日あたり、動けるやつと相談したほうが良さそうだ。
家具の配送が終わった後に、だが。
――ソファとローテーブル、一緒に買うべきだったな……
Q:相続税ってそんなに高いの?
A:「そうだね! 今回のケースは明智くん1人しか相続人がいないからね!
獅童先生の遺産が銀行に7千万あって貸金庫に3千万あるだろ?
それに自宅と事務所で不動産が5500万、株式に3千万、美術品と家具に1千万で、総額1億9500万だとしよう!
ここから基礎控除3600万引いて、税率40%かけて、未成年者控除で30万引けるから……相続税は4630万円ぐらいだね!」
「……やっぱり2千万円渡してくれても良いのでは?」
「木場くん。美術品や家具等にお高いものがあって評価額が5500万になった時はどうなりますか?」
「基礎控除引いた段階で2億円超えると税率が45%に上がります!
なんで6450万円ぐらい相続税でもってかれますね!」
「……というわけですわ。
しかし明智くんにも進学資金は必要ですから、1千万はお渡しすべきと判断しましたの」
「……日本の税金高すぎません?」
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ストックの関係で次回更新は明後日水曜の21時15分になりますが、これからも頑張って書いていきますのでよろしくお願いします!