獅童正義は明智吾郎として生きることになった。 作:枝野トナナ
見覚えのある顔だった。
予測もしていた。
鏡の中で、思い描いていた通りのガキがこちらを睨みつけている。
何が起きたのかわからないと言わんばかりの間抜け面で。
「思ったより落ち着けていますね。
これなら鎮静剤は予定通り減らしていって大丈夫そうですね」
機械的なまでに淡々とつぶやきながら点滴を調整しているこの医者は、本当に人間なのだろうか。
そんな考えが浮かぶあたり、鎮静剤でも恐怖を完全に封じ込めることはできないものなのか。
あるいは今の状況でこの程度の感想しか出てこないのだから、薬の力を恐れるべきなのか。
泡のように沸き起こっては消える感情に身を任せ、俺はわかりきっている疑問を口にする。
「……どうして私の顔が明智吾郎になっているんだ?」
「彼が
何の?
――何を提供したら、こうなる。
「良かったですね。血の繋がった息子さんがいて。
おまけに息子さんが『ドナーに必要な素質』の持ち主だなんてなかなかないことですよ。
この
おそらくは回復力の問題だと思われますが、獅童さんは実に幸運でしたね」
何の素質だ。
なんで前例があるかのような語り口なんだ。
その疑問さえ、医師のネームプレートに気づいた瞬間解消してしまう。
『月光館大学付属総合病院高度救急救命センター脳外科部 竹田久男』
月大病院。
日本三大財閥の一翼を担う表の顔と、日本で唯一人体実験と兵器開発を手掛けるオカルト狂の裏を持つ、かの桐条財閥運営の大病院だ。
かつてオヤジと仰いだ政治家が残した金言は今でも覚えている。
――『佐伯は裏切るな。南城には逆らうな。桐条とは関わるな』、だ。
「今後、死亡届の作成が終わり次第、我々は貴方のことを明智吾郎さんと呼ぶことになります。
そうしないと色々と辻褄を合わせられなくなってしまいますからね。
せっかく助かった命ですから、この先もがんばって生きていきましょう。
なあに、身体も若くなっていますから、少し慣れればなんとでもなりますよ」
鏡の向こうで、当の明智吾郎が眉をひそめた。
それもそうだろう。奴からすれば、言いたいことしかないに決まっている。
別に奴の身を案じてやるほど気にかけていたことはないが……だからといって、この医者や桐条の連中ほど人間性を捨てた覚えもない。
「脳という臓器は繊細ですが、同時に適応力が極めて高い部位でもある。
神経系と延髄部の接合という高すぎる壁がネックになっているだけで、そこを乗り越えてしまえばどうということはありません。
現に五感も手足もちゃんと動くでしょう? 後は慣れとリハビリだけですよ」
――脳。
他人の身体に脳を移植する。
ならば身体を提供した側の脳は、いったいどうなるというのか。
考えるまでもないし考えたくもない。
答え合わせなんてもってのほかだ。
「では、私はこれで。
1時間後にご面会の予約が入っていますから、皆さんの話も落ち着いて聞くようにしてくださいね。
昨日も言いましたが、興奮しすぎると出血リスクがありますので、体調に異変を感じたらすぐにコールを押してください」
わかっている。
吐き捨てたかった言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。
――そして、医者の言葉通り、ぴったり一時間後に三人の男が入室してきた。
公設秘書として使ってやっている連中だ。忘れるはずもない。
「先生! お目覚めになられたのですね!?」
「私のことがわかりますか?」
「お体の調子は大丈夫なのですか!?」
ずきんと頭に響いた痛みは、こいつらの囀りがうるさかったからだろうか。
だんだんと戻ってきた感情が胸の奥で燻り始める。
「――誰の指示だ?」
吐き捨てた言葉に、一瞬だけ連中は戸惑いの表情を浮かべるが、すぐに答えを返す。
当たり前だ。それができないクズを片腕扱いしてやった覚えはないのだから。
「は。先生の容態が悪化したことを聞きつけた大江先生から、こちらの病院を紹介されました。
同時に先生のご親族やご子息を探し、相続人候補を探すべきだとも言われ……
その、ご子息の可能性がありそうな、明智に……いえ、吾郎さんにDNA検査を行ってもらいました。
そして結果を見た竹田医師が、先生と吾郎さんであれば、『特別な手術』ができるかもしれないと」
「それで?」
「……吾郎さんが承諾してくださったので、お願いしました。
勝手なことをしたとは思いますが、先生がいなくなればこの国の政治的混乱は避けられません。
それに吾郎さんでは『先生の財産』を運用することはできないでしょう」
なるほど。
そういうシナリオで納得しろと。
「誰の意思だ」
「我々三人と吾郎さんの総意です。また、我々と月大病院の一部以外に先生の現状を知るものはおりません」
「……わかった。一旦は信じてやる」
とんだ茶番劇だ。
だが乗らないという選択肢は最初から存在しない。
拒絶も弱みも、こいつらの前で見せるわけにはいかない。
「私を生かす選択をしたということは、遺言書を作らせる気なのだろう?」
「はい。公証人はこちらで手配しています。
文面も用意済みですので、ご確認ください」
びっしりと書き込まれた細かい文字に、反射的に鼻へと伸ばした指先が空を切る。
最初から眼鏡など掛けていないと気づけたのはすぐで、眼鏡がなくても文字が読めると気づいたのは数秒後だ。
政治家・獅童正義の財産は何も現金や貴金属だけではない。
人脈や利権といった、獅童正義という人物でしか使いこなせない資産は除外するしかないにしても――
単純な裏帳簿やスキャンダルのもみ消し、口利きの証拠といった、使い所を間違えなければカネになり間違えれば爆弾になる代物がある。
もちろん、そんなものをそうと分かる場所に放置するバカはいない。
俺の――……いや、私の場合、信用できない他人よりはマシだろうと3つの銀行の貸金庫に分散して預けている。
弱みを握った大手地銀の支店にはいつでも切れるトカゲの尻尾を。
地元の地銀には
そして23区外のメガバンク支店に本命を。
ここにいる連中は、私が貸金庫を複数使っていることは知っている。
地銀に預けたカネに限って、仕方なく取りに行かせたこともある。
――逆に言えば、そこまでだ。
そして政治家・獅童正義には、公的な意味での妻子は存在しない。
兄弟もいない。両親は既に死んでいる。
かろうじて従兄弟や大叔父の一家が生きているが、そいつらは
仮にこいつらが何の手も打たず、私を死なせていたらどうなったか。
まず相続人不在のまま銀行口座と貸金庫が凍結される。
今は3月で使用料の引き落としは4月。死亡通知により口座が凍結されたら使用料は払われない。
銀行は中身を廃棄するために正当な手続きを経て貸金庫を開け、中身を見て、警察や検察に通報するだろう。
死んだ政治家に配慮するバカがいるわけないからだ。
そうして私が関わった悪行は白日の元にさらされ、政財界全体がスキャンダルに巻き込まれる。
私と一緒に甘い蜜を吸ってきたこいつらが破滅するのは間違いないし、他にも大勢の人間が失脚するだろう。
なら、普通にDNA鑑定を盾にして明智吾郎本人を相続人にすればいい――ともいかない。
たった一ヶ月で私が使っていた貸金庫の在り処を突き止めて使用料を支払う必要があるというのもネックにはなるが、それ以前の段階で問題がある。
当たり前だが、政財界や裏の人脈全てが私と繋がっているわけではない。
獅童正義とその一派にご退場願いたい連中は決して少なくないだろうし、その中には仏気取りの春日部のように油断ならない奴らもいる。
そして明智吾郎は二代目探偵王子としてプロデュースしていた駒だ。
『正義の探偵である息子が父の悪事を公表する』――そんなシナリオを誰かが書いたとしたら、奴らが乗らない理由がどこにある?
政治の世界など元より魑魅魍魎しかいない。
マッチポンプの探偵ごっこしかできないガキでは到底生き延びられない。
パンドラの箱を開かれるぐらいなら、ガキなんぞよりも死人自身に自分の財産を管理させたほうが安心だ。
その対価がたった一人の命で済むのならば、実に安い買い物でしかない。
きっと、こいつらはそう考えた。
明智吾郎の自由意志など無関係に、美談に仕立て上げるために『そういうことにした』。
他人事であればいくらでも納得できる。
ふざけるな、と吐き捨てたくなるのは、それが自分事だからだ。
もちろん私がこいつらの立場であれば同じ選択をしただろう。
どうせ裏切ったら殺すつもりの――いや、裏切る前に殺すつもりだった駒だ。
いずれ捨てる駒をいま利用して何が悪い?
ああ、頭ではわかっている。
わかっているのに、サイドテーブルの上に置いた鏡の中で、恨みがましい視線がこちらを睨み返している。
「……十分だ」
「ご確認いただけましたか。では、署名を。
あとはこちらで処理しまして、相続人として先生が動けるようにいたします。
20歳までの2年間における遺言執行者は、先生が指定権を持てるようにいたしますので」
「私の死亡届はいつ出すつもりだ」
「遺言書の手続きが終わり次第、すぐに。
おそらくは明後日に公表することになるかと」
「……そうか」
頭が痛い。
私は――……俺はいま、何の会話をしている?
死んでいないのに死んだことになり別人として生きていく?
鎮静剤の効果がいよいよ切れてきたのか、思考が感情に追いつかなくなってきている。
どうしてこうなった?
考えるまでもない、何もかも全部あの――
「……あのガキの名前はなんだ」
「え?」
「俺を殴ったガキだ。何の調べもしてないのか?」
「い、いえ! 警察に自首していますから、それは……ただ、今はそれよりもやるべきことが」
秘書の言い訳は最後まで聞けなかった。
反射的に伸びた手は鏡を掴んで投げ飛ばし、しかし割れるような頭痛のせいで、割れることなく床に落ちた。
「調べろ! さっさと!!」
「はっ! た、ただちに!」
慌てて踵を返す秘書たちと入れ違いに、医者が駆け込んでくる。
盗み聞きをしていたのか監視をしていたのかは知らないが、よくもまあこんなに涼しい顔をしていられるものだ。
「興奮してはいけませんよ。落ち着いて息を吸って吐いてください」
「落ち着いていられるか!
なんでこんな事になった!?
どうして俺があのクソガキになってるんだ!!」
「わかりました。鎮静剤打って、こっちの薬を再開しましょう。
今日はもうゆっくり寝て身体を休めましょうね、寝れば良くなりますよ」
「ふざけるな! どけ、邪魔だ!
俺を誰だと思ってやがる! ああクソ、クソが……!!
死ね……! 殺す、ころしてやる、あの、……くそ、がき………」
忘れていた激情と痛みに突き動かされながらぶつけたありったけの暴言も、ぶち込まれた薬に遮られて消えていく。
やがて何もかもが虚ろなまどろみに飲み込まれて、一日がまた、ただ過ぎていった。
Q:佐伯とはなんですか?
A:女神異聞録ペルソナに登場する企業セベク、その母体である佐伯コングロマリットを指しています。
ちなみにセベク御影支社は神取鷹久のせいで暗黒企業化していましたが、佐伯コングロマリット本体の関与は神取が否定していたので暗黒企業の可能性は南条&桐条より低めです。
この作品内では桐条>南条>佐伯の順で暗黒企業度が高いという設定になっています。
またトップの権力の強さは南条>佐伯>桐条という設定です。
経営哲学については南条がNo.1、桐条が調和する2は完全な1に優るに対して、佐伯は3本束ねた矢は折れぬというイメージです。
財閥と言っていますが実際には財閥は解体されてないとおかしいので、クソデカグローバル企業集合体を便宜的に財閥と呼んでいると思ってください。
特に覚える必要はないです。