獅童正義は明智吾郎として生きることになった。 作:枝野トナナ
悲嘆には段階がある、と知ったのは親が死ぬときだったか。
否認と怒りを繰り返し、やがて取引という名の祈りに変わり、叶わぬ願いに絶望し、全て諦めて受容に至る。
そんな話を思い出しながら、俺は心のなかで中指を立てた。
誰が受け入れるかよ、クソが。
未成年のガキの身体で生きていけと言われて納得する気などないが、それでも俺は――本来獅童正義であった私は生きている。
なら、生きているうちにやりたいことをやってやろうじゃないか。
さっさと退院して明智吾郎としての人生を送る傍らで、獅童正義として成し遂げたいことをクリアしていく。
――そうやって目標を立ててしまえば、立ち止まっている時間が惜しくなった。
医者の勧め通りにリハビリをこなした。
薬ごときに頼らなくても感情のコントロールができるように、何度も鏡を見て耐える練習をした。
面会に来た秘書どもには、私のことを明智の名で呼ぶように命令し、奴の学校の教科書と参考書籍を取り寄せさせた。
利き手の違いはどうしようもないが、手術の後遺症で麻痺したと言い張って時間を稼ぎ、少しずつ矯正していけばいい。
どこまで行っても時間は有限だ。
獅童正義の死に関わる手続きは秘書達に任せ、明智吾郎として生きていくために必要な努力を積み重ねる。
――そうして、退院の日はやってきた。
3月21日。
どんよりと曇った空の下、4月の足音を知らせるかのように桜が開き始めている。
病院の玄関には既に白いミニバンが止まっていた。
安っぽい私服に身を包んだ男は、公設秘書の一人――笹木だ。
「ご退院おめでとうございます、吾郎さん」
「いえ、迎えに来てくださってありがとうございます」
本物の明智吾郎は猫を被りきれていないガキだった。
欠点まで模倣する必要はないが、最低限、表面をなぞる努力はすべきだろう。
わざとらしく頭を下げてやると、笹木は少し驚いたように目を見開く。
「あの、せん――」
「僕は明智吾郎ですよ。
獅童先生のために働いた同志である皆さんのご厚意を無碍にすべきではないと思って、お車の申し出をありがたくお受けしただけです。
僕は先生の後釜に座れる立場でも、年齢でもありません。そうでしょう?」
どこにネズミが潜んでいるかなどわからない。
それでなくてもマスコミはスキャンダルに飢えている。
情報欲しさに、秘書や車に盗聴器を仕掛ける――というのはさすがに無理だとしても、どこで聞き耳を立てているか。
今後一生を他人として生きていかなければいけない状況で、過去の顔を使い分けようなど愚の骨頂だ。
「しかし困ったなあ。
脳の手術を受けたせいか、記憶が曖昧になっている部分が多いんです。
まずは僕の家に向かってください。軽く掃除と片付けをしないと」
「……わかりました」
探偵王子としての活動や裏の仕事であれば監視もしていたが、高校での活動についてはノータッチだった。
日記やスマートフォンを探して、明智吾郎がどんな私生活を送っていたか、可能な範囲で調査すべきだろう。
もっとも結果がどうあれ、二回目の高校生活を謳歌する気などないがな。
「ああ、そうだ。明日、朝一で学校に行きたいんです。
さすがに記憶障害で同級生の顔も名前も思い出せないようでは、担任の先生にも迷惑がかかりますからね。
病院でもらった診断書がありますから、別室登校をお願いするために、弁護士として立ち会っていただけませんか?
それと僕の名義上の保護者にも一報を入れていただけたらと。僕が直接話すよりスムーズだと思いますので」
「それは構いませんが……私でよろしいので?」
「手っ取り早いですからね。
笹木さんだって、先生が亡くなった今、些細であろうと臨時の収入はあったほうがいいでしょう?」
大抵の場合は地盤を引き継いだ奴を新たなオヤジと仰いで秘書や事務員の座に滑り込む――が。
さすがに私の真実を知っている者を野放しにするわけにはいかない。
第一秘書の笹木。第二秘書の吉阪。政策担当秘書の星野。
――この三人だけは何としても飼い続ける必要がある。
「僕も探偵王子としての活動は続けたいですから。
確定申告や弁護士業、アドバイザーを行ってくれる大人の方の助力は欲しい。
さすがにまとまった月給をお支払いすることは難しいですが、
「そういうことでしたら、もちろん。
ならば我々は弁護士として事務所を立ち上げたほうがよろしいですか?」
「そうですね。後片付けが終わった後にでも」
私は言葉を切って、窓の外を見た。
すれ違いざまにモノレールが走り抜ける。新都市交通のあねはづる、だったか。
ピークタイムを過ぎているせいか、乗客の姿はほとんど見当たらない。
「今日は、吉阪さんと星野さんはどちらへ?」
「オフィスと会館の引き払いの指揮を執っています。
先生が亡くなってから10日ですから、立て込んでいまして。
私だけ抜け出してきた次第です」
……手術の日がいつかはわからないが、こいつらが最初に面会に来てから二週間は経っている。
多少引き伸ばしをかけたのか。
確かにその方が動きやすくはある。今日明日ぐらいまでなら残務処理や精算に口を出せるギリギリのタイミングだ。
「できればせん――……吾郎さんが退院なさるまで、葬儀を待ちたかったのですがね」
「構いませんよ。僕ごときが参列したって時間の無駄だ。
それより、銀行にも早めに行っておいた方が良さそうですね。
明日の午後までに遺言書や必要書類を揃えておいてください」
「え?」
笹木が後ろを振り向きかけたが、睨みつける前にすぐ視線を元に戻す。
「チッ、運転中によそ見するな――と、失礼。僕らしくありませんね」
「す、すみません! ……ですが、銀行に?」
「貸金庫ですよ。
僕は未成年だが、遺言執行者代理人を選任する権限がある。そういう遺言を作ってありますよね。
そして僕の後見人には白紙委任状を出すように頼んであるはずだ」
「え、ええ……それは確かに、そうしておりますが」
「意地汚いサメ共が食い荒らしに来る前に、一つぐらい野良犬の手柄にでもくれてやりましょうよ。
仕方ないでしょう。墓に操を立てたって」
――それが空の墓ならば、なおさらだ。
私の思惑をこいつなりに汲み取ったのか、笹木はごくりとつばを飲む。
「……先生は、ご自身を売るつもりなので?」
「何度も言わせないでくれません?
僕は明智吾郎ですよ。
僕が、僕のために、最善を尽くすのは当たり前の話でしょう?」
死人自身に己の墓守をさせようとする、その考え自体は否定しない。
否定はしないが――死人が大人しく墓守に甘んじるなどと思うな。
「安心してください。笹木さん達は売りませんよ。
別に金に困っているわけでもありませんしね。
ただ――いずれ来たる7年後のためにも、僕という存在を侮られるようなことがあってはならない」
出馬権が得られるのは25歳。
今年手が届くはずだった政界の玉座は遥か彼方に追いやられてしまったが、愚直に諦めてやるつもりはない。
この国という船の舵を握るのは、私一人だけでいい。
「どうせ身の程知らずどもが、こぞって先生の後釜を狙うのは既定路線。
勝手にパイを切り分けさせるより、こちらでサーブしてやったほうが都合がいい。
そうすれば、賢い方々は僕の意図にも気づいてくれるでしょう」
獅童正義が弱みを握っていた人間のうち、消していいバカだけを選んで退場させる。
多少なりとも政界を泳ぎ生き延びてきた奴らなら、私がどれほどの爆弾をどれだけ握っているかなど知っているはずだ。
大勢は初手の爆撃で『明智吾郎の意図』を理解する。
その一方で、眼の前の正義しか判別できない公権力の犬どもは派手な音と光に目を眩ませる。
「いいじゃないですか。
貴方達三人以外は獅童先生のカネとコネで生きてきて、そのために仕事をしてきた連中ばかりだ。
死ぬまで――いや、
「…………」
「――それとも、笹木さんは。
今の僕など、国を動かせる器ではないとお考えですか?」
「……っ、い、いいえ!! いいえ、いいえ!!
せんっ――吾郎さんは、間違いなく、この国の頂点に立つべきお方です!!」
上ずった声が車内に響く。
今回の件、誰が絵図面を描いたのか知らないが――この様子では笹木では無さそうだ。
だからといって必要以上の信用や信頼を置く気もないが。
ため息交じりに再び窓の外を見ようと顔を背ける。
――冷え切った目のクソガキが、こちらを見つめていた。
「――ああ、そうだ。例の少年の件ってどうなってるんです?」
「え……あ、雨宮蓮のことですか?」
「その雨宮くんが、モサモサした黒髪のガキなら、多分そうですね」
名前だけでわかるかよバカが。殴られた後のことは何も知らんのだぞ。
だいたい私が興奮しないように医者と口裏合わせて、最初の面会以降一切話そうとしなかっただろうが。
「その――なんとか暴行罪で逮捕させることはできたのですが」
こいつにしては歯切れが悪い。
ミラー越しに睨みつけてやると、視線を感じ取ったのか、しどろもどろと言葉を続ける。
「先生の容態の急変で我々が走り回っている間に、逮捕の報道を見た女が警察にタレこみまして。
警察への圧力をかけ続ける余裕もなく……勾留期限もありますから、このまま家裁送りになるかと」
「なるほど。それで?」
「これ以上は、その……情報収集をする時間が」
「そんなことはわかってますよ。
僕が知りたいのは、何の圧力もかけられない今、雨宮蓮がいつごろシャバに出てくるかです」
この国はガキに甘い。
何度も補導されまくった札付きのワルならともかく、青臭い正義感故の過ちとわかれば、警察や家裁はすぐに温情路線に切り替える。
まして女の証言があるなら過剰防衛は通るだろう。
「……新学期前には、保護観察処分が降りるかと。
ですが学校側は既に放校処分を下しています。
噂によれば雨宮家には東京に保護司の知人がいるとのことで、都内の高校を重点的に探しているようです」
「なるほど」
都内か。
それならむしろ都合がいい。
「なら、秀尽に引き取らせましょうか」
「え?」
「小早川校長なら先生の看板がなくたって動いてくれますよ。
あの人、笹木さんや星野さんに散々相談してたじゃないですか」
「そ、それは……しかし、我々が、その、先生の仇に便宜を図るなど……」
「我々の目が届かないところで野放しにするぐらいなら、監視してしょっぴける罪がないか調べた方がいいでしょう。
もちろん秀尽学園の名誉や体裁もありますから、無理に罪をなすりつける必要はないにしても――
噂だといるんでしょう?
バレー部顧問の体育教師、鴨志田卓。
元金メダリストという華々しい経歴と相応の指導力があるが、素行に問題があると報告を受けている。
特に陸上部が実質的に潰された件については、小早川の方から隠蔽を依頼してきたからな。
たとえ
その時に窓口になってやったのはこいつと星野だったはずだ。
「そう……ですね。確かにあの教師なら、生意気な小僧が目に付けば潰しにかかるかと」
「あるいはもう一度正義感で立ち上がって殴り殺すかもしれませんね。
前科者のガキが、かつて日本に金メダルをもたらした英雄を」
そうなれば雨宮蓮の人生は終わるだろう。
できれば自分の手で殺してやりたい気持ちはあるが、合法的にやるのは難しい。
明智吾郎の『才能』が使えれば良かったのだが、どうやらアレは身体ではなく脳に――あるいは脳が生み出す『心』に付随する能力だったようだ。
入院中に何度か認知世界への干渉を試みはしたが、何も起きなかったしどうにもならなかった。
まあ仕方がない。
奴の『才能』も認知訶学も、どちらも訶学だ。
科学の域に到達していないからこそ有用であり、価値がある。
「せめて
あと半年あれば――……いや、逆か。
今となっては、
私の言葉に、笹木も危険性を理解したのだろう。
ブレーキを踏んだ反動で車体が揺れ、後続車がクラクションを鳴らす。
「チッ……! 少しは安全運転しろよ。こんなことで切符切られたら時間の無駄だとわからんのか?」
「も、申し訳ありません! で、ですが……我々の関与しないところで、あれが完成すれば……」
「消される可能性はあるな」
答えてから自分が動揺していることに気づき、深呼吸した。
今の私は明智吾郎だ。そうでなければならない。
それに興奮しすぎて頭痛を引き起こしても面倒だ。
薬があるからと慢心せず、精神状態を意識して自力で鎮静するよう心掛けねば。
「――獅童先生が研究の主導者であり、【
客観的に見て、先生亡き今、関わりが薄いくせに色々知っている人間を生かしておく理由は低い。
僕と吉阪さんはまだ、何も知らない駒を貫き通すこともできるかもしれないが……」
「……やられる前にやる、ということはできないのですか?
先に連絡さえ取れれば――」
それが出来たら苦労しねえよ。
「【ヒットマン】が他の奴と繋がってたら僕の秘密をバラされて終わりですね。
何せあいつは認知世界に侵入できるし、僕の知識ではせいぜい自衛が限界だ。
廃人化や精神暴走は防げても、認知世界の僕がどんな姿かを確認することまでは防げない」
「そういうものなのですか?」
「認知世界はあくまでも人の心に由来する概念ですからね。
敵意を持つ相手から守ってくれる存在を知っていて、正確に認知していれば、心の中で実際に防衛機構として働くというだけです。
だからこそ、
知らない奴や嫌いな相手に近づかれたら身構えるけど、知ってる人に近づかれる分には平気でしょう? あれと同じですよ」
「なるほど……」
正直、消される可能性が一番高いのはこいつだ。
第1秘書という見せしめにうってつけのポジションもそうだし、
吉阪にはやるべきことをやり遂げるまで生きてやるという気概がある。
星野には自分が死なないと本気で信じ込めるほどの悪運がある。
安全な場所で『殺される前に殺す』という発想は出せても――
それが出来る精神性がなければ、認知世界からの干渉に抵抗することは不可能だろう。
「僕の知識になってしまいますが、
認知世界への侵入は不安や恐怖という形で現れますから。
廃人化は厳しいが、精神暴走であれば半日耐えれば助かるはずだ」
「……肝に銘じておきます」
こいつは失いたくない駒だ。
付き合いが長いからというのも無くはないが、人脈や能力面を考えても切り捨てるべきではない。
……だからこそ、【ヒットマン】の正体が明智吾郎であるという真実にも辿り着いてほしくはない。
「獅童先生が亡くなったことは報道で【ヒットマン】も知っているでしょうから、おそらく向こうもこちらと接触を絶つ可能性が高い。
そもそも奴の目的は
今までに獅童先生が払った金で満足しなければ、大江あたりに繋ぎを取って向こうの味方につくでしょう。
さすがに気前の良さでは向こうのほうが上だ」
「――では、袂を分かつしかないということですか」
「そうせざるを得ないでしょう」
獅童正義亡き今、こちらが協力を拒否し弓を引く姿勢を見せれば奴らも対策を打ってくるだろう。
だが、そもそも現状では協力するという選択肢が存在しないのだ。
奴らのうちの誰かが、明智吾郎を切り捨てて私にこの身体を与える計画を立てた張本人であるならまだ話は別だが……
――有り得んな。
奴らが獅童正義に求めたのは、総理の座に就く担ぎやすい神輿。
代議士どころか出馬権すら持たない明智吾郎ではお飾りにすら使えない。
正体をバラしたとしても合流するルートがないのなら、いさぎよく損切りするしかないだろう。
「せっかくここまで来たとはいえ、乗れない船なら沈めたほうがマシだ。
あいつらに横取りされるなんて冗談じゃない」
「で、ですが、どうやって……」
「……どうにかして噂を流すしかないだろう。佐伯と南条に」
三大財閥のトップは、年齢や性格こそ違えど全員が全員『日本を背負って立つ者の矜持』やら『ノブレス・オブリージュ』という奴を持っている。
自分たちが預かり知らぬところで廃人化ビジネスなんてものが実用化に近づいていると知れば、当然気に食わないだろう。
ましてや人の心に干渉する認知訶学が、再現不可能なオカルトから再現可能な科学の領域にたどり着きつつあるとわかれば、即座に危険性を理解するはずだ。
私と大江が、顔だけ広い旧華族を後ろ盾に引き込んだのは、奴らの情報網に引っかからないようにするための防護柵が必要だったからだが……
こんな状況になった以上はどうしようもない。
「奴らなら知りさえすれば勝手に手を打つだろうし、
元々いつバレてもおかしくなかった以上、僕が動いたとは気づかれにくい……はずだ。
問題はどうやって知らせるかだが――」
「それならば我々にお任せください。
情報屋を噛ませてあちらのネットワークに繋ぎます」
「ああ……なら、頼みます。
僕も、もう少し回せる手がないか考えますから」
昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵。
味方を増やす余裕がないのなら、少しでも多く敵を減らさねばならない。
政治とはそういうものだ。
他人を認めなければ成り上がれない一方で、信じてしまえば背中を切られる伏魔殿。
だからこそ私は誰も信じない。
ただ認めて利用するだけだ。
「……全く、やることが多くて困りますね。
病み上がりの半死人に捌ける仕事の量じゃないですよ」
私が本当にやりたいのは、雨宮蓮への復讐と、この国の舵を握ることだけだと言うのにな。
苦笑をすれば、窓の向こうで明智吾郎が嘲笑を浮かべる。
――クソガキが。
私は苛立ちに蓋をすべく、目を閉じて、わざと笑い返してやる。
たとえ身体は
バカな母親共々、あの世で指をくわえて見ているがいいさ。