獅童正義は明智吾郎として生きることになった。 作:枝野トナナ
聞き慣れない目覚まし時計のアラームに、見覚えのない天井。
大して寝心地の良くないベッドから起き上がり、スマートフォンに手を伸ばす。
丸々二週間放置されていたとはいえ、一晩充電してやったのだからさすがに起動するだろう。
指紋認証のロックを難なくクリアして、通知類を確認する。
笹木と吉阪。新島冴。警察関係者が数人。TV局のディレクター。学校。終わり。
――あんな捻くれた性格のクソガキだからまともな友人なんぞいないと思ってはいたが、ここまでくるといっそ清々しい。
よほど他人を信用できなかったのか、あるいは私へ復讐することしか頭になかったのか。
どうあれ人生の無駄遣いだ。
割り切る努力もせずに自分から不幸に浸り続け、使い捨ての駒に甘んじたガキ。
みすみす破滅へと突き進んだ人間に、同情心を寄せるわけがない。
カビだらけの食パンを捨て、冷蔵庫の中に残っていたパウチゼリーを啜りながらチャットの内容を確認する。
秘書の誰かが思い出して関係者に連絡を入れたのだろう。
連絡が取れない不安や苛立ちのメッセージは、一週間前を境に体調を気遣う内容へと変化していた。
特に学校の教師と新島は、他の連中に比べて送っている頻度や文章量が多い。
それなりに心配する程度には関係性が築けているか、単純に向こうが優しいだけか――
……少なくとも新島は前者だな。
あのじゃじゃ馬女検事は、良くも悪くも手柄に飢えている。
警察上層部から情報を入手して推理という形で横流しをしてくれる明智吾郎は、手放すには惜しい駒とでも考えているのだろう。
まったくもってお笑い草だ。
よりによって、精神暴走事件の真犯人をありがたがって頼りにしているのだから。
――そんなことを考えながら、毎日服用しないといけない類の処方薬を水で流し込む。
しかしけいれん発作を防ぐ抗てんかん薬や、縫合後の痛み止めなど、飲み忘れたら危険なものばかりだ。
なんだあの不味さ。
良薬口に苦しとはいうが、まとわりつく嫌な甘酢っぱさから苦みエグみを畳み掛けるな。
もう二度と口にしたくない。せめてカプセルに入れろ。
……さて、薬の服用も終わったし、身支度して笹木に連絡するか。
さすがに学校には同行してもらわないとな。
ああ、ついでにまともな食い物も調達させよう。
家主不在で二週間放置されたら保存食以外は全部腐るという当たり前の話を、どうして昨日のうちに気づけなかったんだろうな?
問われるまでもない――やることが多すぎるからだよ、クソが。
何十年ぶりかの制服に腕を通し、鏡を見る。
やはり若い頃の自分には似ていない。
私は黒髪だったし、あの時代の男子高校生が髪を伸ばすなんて有り得なかった。
目の形も違う。そもそも耳も鼻も、どのパーツを取ってもあの女そっくりだ。
愛せるわけがない。
愛していないのだから。
……だが、見慣れる努力は必要だろう。
ため息をつきながらも、記憶の中の明智吾郎に近づくように細部を整え、手袋を嵌める。
右手側は普通だが、左手側は
当分は左手麻痺という設定で通さないといけないからな。反射的に動かさないよう、保険をかけるに越したことはない。
多少不愉快だが、いずれ慣れる。
きっと。おそらく。
――多分、鏡を見るよりは、早く。
そんな沈みゆく思考を打ち切るように、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
私は急いで身だしなみを整え、笹木と合流する。
そうして学校に行って、診断書を見せて、色々と説明したうえで要望を申し立てたわけだが……
「では制限時間は180分です。離席の際は声をかけてください。解答が終わり次第提出を認めます」
そりゃあ避けて通れんよな……学力確認……!
マークシート式なのは利き手が使えなくなった明智吾郎への温情なのだろうが、どう見ても内容がセンター試験を濃縮したナニカだ。
冗談抜きで1年早い。本物の明智吾郎だったら解けないのではなかろうか。
そりゃあ予測自体はしていたが。
受験に必要な学力は求められるだろうと入院中にギチギチに勉強したし、そもそも30年前に一回通った道だがな。
文系科目なら余裕だし公民に至っては私の得意分野に決まっている――がな?
理数系はキツイ。
センター試験を廃止しろ、と文科省に圧力をかけたくなる程度にはキツイ。
それでもこれで一定点数を取らないと、早退許可付きの別室登校なぞ通るわけがない。
この学校だって慈善事業でやっているわけではないのだ。
進学校である以上、一人でも優秀な生徒をより良い大学に送り出す必要がある。
どんな事情があれど
誰だってそう言うに決まっている。
わかってんだよ。
この学校はマトモだ。何も悪くない。
ガキのワガママを聞くにあたって、ちゃんと判断基準を作って判定しようとしてるだけだ。
それはそれとしてクソがよ、と悪態をつかないとやってられんのだ。わかれ。
「……おわり、ました」
疲れ果て魂が抜けかけている私を他所に、担任教師が解答用紙を回収して出ていく。
スキャナーにかけて一気に採点してくれるのだろう。
そんな私の予測通り、五分もしないうちに結果が出た。
どうやら及第点は取れたらしい。
「明智くんならもう少し上を目指せると思うけれど……」と言葉を濁しながらぼやかれたが、知るか!
何が悲しくて50過ぎてもう一回高校に通わなきゃいけないんだよ! クソが!
「お疲れ様でした」
「……ッ本当にな!」
学校に顔を出す時間を極限までカットするためとはいえ、もうやりたくない。
ともあれ、これで平日1日1時間顔を出すだけで登校したことになる権利は確保した。
あとはマスコミの露出を上げて明智吾郎としての知名度を確保すれば、留年や放校処分の可能性はぐっと減るはずだ。
学力が備わっている有名高校生を留年させたとなれば、進学校としてのブランドに大きな傷がつくからな。
「少し早いですが、昼食はどうします?」
「なんでもいい……カフェインくれ。あと糖分。あとメシ」
「……喫茶店にしますか。四件茶屋にできたんですよね、ヨネダ珈琲」
人生で初めて、名古屋発のチェーン店に感謝した気がする。
あと、バカが考えたサイズのカツパンすらさっくり胃に収められる若い身体にも。
「はぁー、やっと人心地ついた……もっと増えればいいんですけどね、こういう店」
「渋谷にも7月にできるそうですよ。宮益坂の方に」
「へぇ……賢い選択だ。
業態こそ違えど、セントラル街だとビッグバンバーガーとカチ合いそうですからね」
だらだらと喋っていると、ウェイターが食後のコーヒーを運んできた。
ようやく、というのは我ながら短気が過ぎるか。
満腹になったおかげで精神的な余裕はあるし、テストを全速力で終わらせた分、ある程度はゆっくりできる。
「おまたせしましたー! カフェオーレとヨネダブレンドたっぷりサイズです」
「ああ、ありがとう」
さて。
作戦前の打ち合わせといこうか。
「ーーそれでは、お気をつけて」
「ええ。なにかあったら、また連絡させてください」
笹木と話を詰め終わった私は、一人駅へと向かう。
さすがに検察庁へ顔を出すのに、獅童の秘書は連れ回せない。
新島と約束した時間にはだいぶ早いが、こちらは昨日退院したばかりの病み上がりなのだ。
車移動と違って、電車だと乗り換えの手間が生じる分どうやったって身体に響く。
休み休み移動して、カフェで時間調整をすればいいはずだ。
表参道で乗り換えて霞が関へ。
見慣れた場所だが、明智吾郎として訪れるのは初めてだ。
そもそも他人に成り代わって生きる輩なんざいない、という事実からは目を逸らし、改札内のコーヒーショップに腰を落ち着ける。
少し頭が痛い。地下鉄に乗ったのは久しぶりだが、あんなにうるさい乗り物だったか?
冷たい飲み物でも飲んで気を紛らわそうと、アイスコーヒーを頼んだが……一気に飲まないで、氷が溶けるまで待った方がいいかもしれない。
時間つぶしがてらにマップを開いて、検察庁への道を確認する。
ーーそういえば家裁も近くにあるんだな。
雨宮蓮がどこの家裁でいつ裁判を受けるのかは知らないが、少年事件はそもそも傍聴制度の対象外だ。
人を殺したガキの面をじっくり拝んでやりたい気持ちはあるが……
『ピロン』
通知音に気づいてスマホを開けば、新島からの連絡だった。
予定より早く仕事が片付いたらしい。
飲みかけのプラコップを手に外に出て、地上へ向かう。
雲が残っていたはずの空はいつの間にか快晴へと変わっており、眩しい日差しが否応なしに目を焼く。
「……っ」
ふらついたはずみにコーヒーを床にぶちまけてしまった。
靴とズボンの裾が汚れてしまったがーーまあ、これはこれで、体調の悪さを示す演出にはなるか。
最低限拭いてから、立ち上がろうとして、また目がくらむ。
「大丈夫かい?」
すっと差し出された手を目で追うと、若い男が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
打算ありきの親切心ーーというわけでもないだろう。
さすがに今ばかりは、素直に受け取った方が良さそうだ。
「す、すみません……ちょっと、疲れが溜まってるみたいです」
「なら、どこかで休んだ方がいい。顔色も良くないし……」
「何グズグズしてるんですか! 統志郎さん!!」
「あっ……ちょ、ちょっと待ってくれ!」
おせっかいな男の言葉を遮るヒステリックな叫び声が呼んだ名前と、おどおどした態度に、私は男の正体を思い出した。
獅童正義としての政敵の一人、春日部由喜ーーの息子だ。
確か安藤社長の娘と政略結婚を進めていると聞いているが……あっちで叫んでいる女がそうか。
「いったいどうしたんですの!?」
「い、いや、その……」
「すみません……僕が、調子が悪いのを見て、心配してくれたんですよ」
いかにも気が強そうな女だな。
痴話喧嘩に巻き込まれたくもないし、適当に機嫌を取ってやるか。
「デート中、だったんですね。優しい旦那さんに、美しい奥さんなんて羨ましいなあ。
ああ、お二人の時間をお邪魔してしまって申し訳ありません。
もう大丈夫です、心配してくださってありがとうございました」
「……そうか。すまない」
「もう。早く行きましょう、お父様だって待ってらっしゃるんだから」
本当に気が強いーーで片付けられないほど性格が悪くないか? このクソ女。
さすが『仏の春日部』は格が違う。
いくらカネがほしかろうと、こんな女王気取りの勘違い女を義理の娘に選ぶとはな。
私が落としたプラコップを拾い上げたお人好しは、「何をしてるんですか!」と叱られながら勢いよく腕を掴まれ、牧場の子牛がごとく連行されていく。
他人を見て可哀想だという気持ちが勝ったのは久しぶりだ――などと思いながらも、女を待たせているのはこちらも同じ。
行こう。検察庁はすぐそこだ。
「遅かったわね、明智くーーって大丈夫!?」
ロビーに入るなり私に気づいた新島冴が、彼女らしからぬ声を上げた。
おそらくは顔色が相当悪くなっているのだろう。
熱が出ているような感覚はないが、うっすらとしためまいがずっと続いている。
「私が足を運ぶべきだったわ。
退院したばかりと聞いていたのに……無理をさせてごめんなさい」
「いえ、僕より、冴さんの方が忙しいでしょうし……僕としても、話さないといけないことが、多いので」
「とりあえず座ってて。入館手続きは私が代筆するから、一緒に持っていきましょう」
「はい……」
落ち着け。ゆっくりと息を吐いて、呼吸に集中しろ。
私は今からこの女を騙し切る必要があるんだ。
……どうせ体調不良の演技はする予定だった。嘘が真実に変わっただけだ。
「ああ、ちょうどよかった。肩を貸してもらえますか?
この子を私の執務室で休ませたいの」
「え? 俺?」
「貴方しかいませんよ」
「マジで? まぁしょうがないな……」
通りがかりの検察事務員だろうか。
若い男に連れ添われながら、私はやっとのことで目的地にたどり着く。
クソ。午前中に頭を使いすぎてオーバーヒートしたか?
「すみません……却って、ご迷惑を……」
「貴方が謝ることじゃないわ。私の落ち度よ。
本当はソファがあればいいんだけど、椅子しかないから……突っ伏して構わないから、休んでちょうだい」
ずいぶんとお優しい態度だな。こんな人を気遣う余裕がある女だったとは。
まあいい。
さっきのクソ女ーー安藤真理恵みたいにギャーギャー喚かれるよりは、こっちのほうがマシだ。
「……その……冴さんは、僕の……入院について、どこまでご存知で……?」
いつもより回りが遅い頭をカバーするために丁寧に言葉を選ぶ。
感情をコントロールしろ。今は絶対にキレ散らかすわけにはいかない。
目を閉じて余計な視覚刺激を減らし、冷静な思考を保つことだけに集中する。
「……警察側から連絡があったわ。貴方に脳腫瘍が見つかって、入院したと」
なるほど。笹木達も直接連絡するようなヘマは犯してないか。
さすがに本物の明智吾郎の後見人を挟んだのだろう。
「その手……後遺症、残ってるの?」
「ええ……左手が動かせないのと……いくつか記憶が、欠けているみたいです。
手はリハビリで治るかもと、言われたけど……無くなった記憶の方は……戻らない、だろうと」
「……学校は、大丈夫なの?」
「今日行って、確認してもらいました……勉強は問題なかったです。
ただ、同級生や、先生のことが、全くわからなくて……3年は、別室登校させてもらうことに、なりました」
「……そう」
少しだけ首を方向け、薄目を開けて、新島の様子を伺う。
眉間にシワを寄せて遠くを見ているあたり、損得勘定の算盤を弾き始めたようだ。
――結果が出る前に、叩き割ってやったほうがいいだろうな。
「……冴さん。僕、獅童先生の、隠し子だったんですよ」
「え?」
どんなに賢い人間でも――いや、賢いからこそ、新島のような人間は予想外の情報を聞かされた時に思考を一旦停止する。
全ての情報を収集してから再計算しようという意識が働くからだ。
「母さんが言ってたんです、ずっと。
それに僕は母さんに似てたから……有名になれば、向こうが気づいてくれると……
それで、むかしTVで見た、白鐘さんみたいになれれば……って、事件を解くようになって……
……初めて取材された、次の日に、獅童先生の秘書さんに、母さんの名前を……聞かれました」
「……」
「先生が倒れて、連絡があって……DNA鑑定を受けました。
それから念のためにと、健康診断を勧められて……脳腫瘍が見つかって。
手術して、起きた時には、先生は亡くなっていて……遺言書を渡されました。
他に相続人がいないから……僕に全ての財産を相続すると」
「……全ての?」
「ええ……秘書さんの話だと、貯金以外に、不動産とか、美術品とか、色々あるみたいで……
……貸金庫もあるから、鍵を探して開けないといけないって、言われました」
「――!」
新島の表情が変化する。
頭の良いヤツは話が早くて助かるな。
「冴さん……正直に、言います。
僕は……怖いんです。何もかもが、急すぎて……
事件は、謎を解けば、解決するけど……政治の世界は、絶対、違うじゃないですか……」
この手の誘導で重要なのは、語りすぎないことだ。
何を言いたいのかわからないぐらいでちょうどいい。
聞き手がよほどのバカでなければ、自力で推測できない内容があるなら「落ち着いて」「説明してくれ」と促すだろう。
そしてバカじゃない人間は――勝手に結論にたどり着く。
「そうね。君が危惧するのも当然だわ。
貸金庫の中身がカネとは限らない。スキャンダルの証拠が出てきた事例なんていくらでもある」
そう言うと、新島は腕を組んで考え込み始めた。
曲がりなりにも検事だから、最初は明智吾郎の身の安全について検討するだろうか。
――まあ、客観的に考えて直接消すバカはいないはずだ。
相続者がいなくなったら貸金庫の中身は国のものだからな。
その一方で、明智吾郎を脅したり、利用しようとする人間は出てくる可能性が高い。
今でこそ事務所の整理だとか職員の解雇だとか再就職だとか、外部は外部で誰を獅童の後釜に据えるかでドタバタしているが――
あと一週間もすれば大方の仕事が落ち着いて、貸金庫を知っているものが、何らかの対処を目論むはずだ。
「明智君、いくつか確認させてちょうだい。
まず遺言書はあなたの手元にあるの?」
「……いえ。昨日、退院した、ばかりで、何も……多分、獅童先生の、家に、あると思います……」
「遺言書の中身は確認してない?」
「直接は……見てないです……全部、先生の秘書さんに、聞きました……」
「あなたが会った秘書の名前とか役職とかわかる?」
「ええと、笹木さんと、吉阪さんと、……誰かなあ……怖い感じの、人、でした。
役職は……笹木さんが、一番偉いということしか、わからないです」
「笹木と吉阪――吉阪?
もしかして、
ん?
「え、ええ、たしか、そうですけど……」
「吉阪先輩が……それなら……」
知り合いだったのか? そんな話は――……
……いや、吉阪の奴、いずれは私の政策担当秘書を目指したいとか言っていたな。
新島と年齢も近そうだし、同じ大学の法学部に在籍していてもおかしくないのか。
「明智君。体調が良くなったらできるだけ早く吉阪さんに連絡を取って、君の家まで遺言書を持ってきてもらってちょうだい。
あの人はまともだから、相続者である君から頼めば断ったりはしないはずだわ。
それで彼が帰ったら私を呼んで。何とか仕事の合間に抜けていくから」
「……わかり、ました」
多少予想外の事実は発覚したが、概ね計画通りだ。
私はソファからゆっくりと身を起こし――目を閉じて頭を抑える。
少し休んだんだから回復しても良さそうなのに、まさか全然治っとらんとは。
何だ? 知恵熱か? 貧血か? 光過敏か? 自律神経か? 身体と中身で認知が一致しないからか?
――全部ありそうだな。
「今日はタクシーを呼ぶからそれで帰りなさい。
……できるだけ早く動いた方がいいのは確かだけど、それで君が倒れたら本末転倒よ。
後遺症が残るほどの手術をして繋いだ命なんだから、大事にしなさい」
正論だな。
ああ、全く正論だよ、新島冴。
繋いだ命じゃなくて、