獅童正義は明智吾郎として生きることになった。 作:枝野トナナ
カーテン越しの光で目が覚めた。
昨日の無理が尾を引いているのか、単に寝起きだからか、ふらつきながら起き上がる。
3学年進級に必要な出席日数は足りているから、学校には行かなくていいが――残念ながら身体を労る時間は作れそうにない。
そして今日も朝食を買うのを忘れた。
タクシーで送還されたあと、ベッドにぶっ倒れて寝たからだ。
やはり家政婦を雇わないとダメかもしれん。
十数年前と同じ悩みに直面し、同じ決断を下し――たいのだが。そもそも未成年者が家政婦を雇えるのだろうか?
まあいい。吉阪に連絡を取って、シャワーを浴びて、出かける用意をしよう。
ファミレスならモーニングメニューもあるはずだ。
「お、お、おまたせしましたー!」
明らかに入りたてのアルバイトが、危なっかしい手つきで料理を並べていく。
どれを誰が頼んだかも考えられない様子で、ぐちゃぐちゃに置かれた皿。
だが吉阪は苦言を呈することもなく、まるでバイトに協力するように、メニューを振り分ける。
「これは俺のですね。で、これがせ……吾郎君で、こっちは俺。
これで大丈夫。ありがとう」
「あっ、あざ……じゃないありがとございます! ごゆっくりー!」
地味で目立たないが、人当たりの良い好青年。
それが私から見た吉阪庵という男の評価だ。
おそらく新島に聞いても似たりよったりの感想が出るだろう。
誰がどう見ても善人の類で、悪事には向いていない。
事実、
スケジュール管理。宿泊先や会議室の手配。アポの処理とリマインド。
新島が本気で調べようが叩こうが埃一つ出てこない、完全にシロの人材だ。
もちろん国家公務員でもある公設秘書にヤバい仕事を直接任せるはずもないのだが――
「いただきましょうか、……吾郎くん」
「そうですね。いただきます」
……様子を観察するまでもなく、いつもより落ち着きに欠けている。
そうなるのもわからなくはない。
いや、多分これが普通の人間の反応だ。
「すみませんね。皆さんには色々とご迷惑をかけました」
「え? い、いや、そんなことは……」
「事実ですよ。バカバカしすぎて落ち度ですらない。
あなたも他の人達も、至らなさ過ぎる僕の過ちにただ巻き込まれただけだ」
これは本音だ。
いくら私といえど、酔っ払って女に手を出してガキに殴られて死んだという有り得ん無様さに対して弁解する気はない。
あまりにもマヌケすぎて完全に喜劇だ。
しかもその尻拭いに――クソガキとはいえ――ガキの命が使われたという事実を、真っ当な人間が受け止めきれるはずもない。
「割り切れないものを無理に割り切る必要なんてありません。
信用や信頼の問題ではない。
この男の性格では、明智吾郎を見捨てる選択など取れないというだけだ。
「……俺、は」
「気に病む必要はない、と言っているんです。
少なくともあなたが苦しむことは、僕を含めて誰も望んでいない」
明智吾郎だって別に吉阪に恨みはないだろう。
あいつの母親を捨てた時、こいつはただの学生だった。
獅童という政治家が初当選する前から、いつか総理になれると太鼓判を押して熱心に支援してくれた食品会社社長――の息子。
確かに付き合いだけみればどの秘書よりも長いが、それだけの理由で八つ当たりの対象にするバカはいないはずだ。
それに――
「
吉阪の父親は、十数年前に自殺した。
会社が同業他社に乗っ取られたからだ。
工場と販路を奪われ、役職持ちは首を切られ、労働力になる人材は低賃金で使い潰され――向けられた怨嗟の声に耐えきれずに首を吊った。
最初に遺体を見つけたのは細君で、一時心を病む原因になった。
どこにでもある話だが、当の本人はそんな言葉で片付けられるはずもない。
善人寄りのガキだろうと、暗殺者紛いのクソガキだろうと、考えることは同じになる。
「……」
「断言しますよ。あなたは恨まれるようなことはしていない。
今の僕でも、それだけは言える」
「……はい」
「……すみません、食事中に長話をしてしまって。
冷める前に食べきりましょうか」
促すと、吉阪はスープに手を伸ばした。
喉が乾いたのだろう。が、最初よりかは多少落ち着いたように見える。
私もトーストにジャムを塗って口に運ぶ。
当たり前だが冷めてしまっていた。仕方ない。必要経費だ。
「……その、吾郎くんは、……政治家を目指すんですか?」
「もちろん。
生きることを望まれた以上は、期待に応えて結果を出さなければ」
「……なら、先生と、呼んでも、いいですか?」
――なるほど。
「いいんじゃないですか? ニックネームってことで。
オッサンよりかはマシですし」
「え? ……あっ! いえ、あれは……!」
「獅童先生が言ってましたよ。
ただでさえ子供は好きじゃないのに、生意気にオッサン呼ばわりしてきた時はさすがにクソガキ呼びで返したって」
反抗期とはそういうものだと言われても、正真正銘子持ちでなかった20代の時にオッサン扱いされるのはショックだった記憶がある。
こいつの父親が死ななければ、ここまでの面倒は絶対に見なかっただろう。
――それだけの恩義が、こいつの父親にはあった。
――それ以上に、政治家として、美談として使えた。
『ありふれた悲劇の遺族に救済の手を差し伸べるなんて、なんて出来た人だろう』
『恩義があるからと、子供の大学進学まで面倒を見るなんて』
『あの先生は弱者を見捨てない』『優しくて面倒見のいい議員さんだ』
『すごい』『すごい』『すごい』
……笑える話だ。
受けた恩義を返せたことなんか一度もない。
死んだ人間には何も返せなどしない。
だから私は――俺は、こいつに甘くせざるを得ない。
「……本当に、先生なんですね」
吉阪がつぶやく。
懐かしんでいるというより、どこか諦めるような声音で。
「昨日、笹木さんに言われました。
俺がその気なら、先生――獅童先生の後釜に収まってもいいと」
「そうでしょうね。僕も推薦しましたから。
笹木さんには華がない。星野さんはご存知の通り、完全に論外。
中継ぎを任せるなら、あなたが一番まともだ」
「……僕に、務まるでしょうか」
「最初から万全に務められる人間なんていませんよ。
星野さんは補佐に残します。笹木さんは僕も使いたいので、外部の弁護士になってほしいですけど」
「…………星野さん、ですかあ………」
おい。遠い目をするな。
気持ちはわかるが。
「能力だけは間違いなく優秀ですし、彼なりに吉阪さんのことは気に入っていますよ。
多分、吉阪さんのスタイルに合わせた動きはできると思います。
とにかくあなたの手に余ると思った案件は星野さんに任せてしまえばいい。
吉阪さんが苦手なことは、星野さんの得意分野なので」
「……は、はい」
「自信を持ちなさい。あなたなら獅童先生の地盤を引き継げます。
――もちろん、7年後には返していただくつもりですが」
「それはもちろん! 俺からもお願いします!
先生が戻ってくるまで、何とか――いや、絶対に守り抜きますので!」
意気込むのは結構だが、本当に7年維持するのはかなり大変だぞ?
さすがに4月の補欠選挙は
特に――
「……吉阪さん。一つだけ忠告しておきます。
僕が戻るか相応の策が浮かぶまで、
「え? それは……ええと、先生の?」
「あなたの、です。
――次の総選挙、奥村が政界進出を目指して出馬するという噂がある」
「!!」
奥村邦和。
ビックバンバーガーを要するオクムラフーズの社長であり、認知訶学研究のスポンサーの一人であり、吉阪の実家を潰した張本人だ。
いつ使い潰してもいいスケープゴート兼、振れば金を出す財布として研究に噛ませていたが……
まさか私の方から認知訶学を切り捨てざるを得ない状況になるとは思わなかった。
「現状の僕たちには奥村を潰す手段がない。
いくら獅童先生の票田があろうと、向こうには企業のコネとカネがある。
真正面から敵対すれば負けるのはあなただ。それだけは肝に命じてください」
「……はい」
「はっきり言って、今後状況がどう動くかわかりません。
奥村以外にも、蔵元の孫が出馬するとか、春日部が自分の子飼いを出そうとしているという話もある。
どれほど大きなチャンスに見えても飛びつかないこと。必ず僕でも笹木さんでも星野さんでもいいから相談すること。
そして、あなたはあなたらしく振る舞うこと。これを守ればどうにかなる――と思います」
吉阪は善人だ。
下手に裏のカネやコネに手を出すより、こいつ自身のクリーンさを前面に押し出したほうがまだ戦える。
春日部統志郎と同じく――というか完全に売りが被るが――、汚れ仕事は回りが処理すればいい。
「大丈夫。あなたならやれますよ。
やれるようにバックアップします」
「……務め、ます」
「あははは。そんなガチガチにならなくても大丈夫ですよ。
――あ、そうだ。
そういえば、例のものって持ってきてます?」
「え? あ、はい。こちらです」
私の問いかけに、吉阪は鞄をがさがさとまさぐって一通の封筒を取り出す。
遺言書の正本だ。
「ありがとうございます。
星野さん、なんか言ってました?」
「ええと……いつもの場所で昼寝する、って言ってましたね」
「……ほう」
スマホの待受画面で時間を確認する。
10時32分。
かなり早いが――……行くなら電車だよな?
できれば吉阪の車に乗せてもらいたいんだが……
「……新宿駅って車で行けます?」
「無理ですよ! いくらなんでも!」
だよなあ。
――というわけで、昨日に引き続き電車移動である。
地下鉄特有の轟音に三半規管をやられながら這々の体で目的地にたどり着く。
あいつが気に入っている場所といえば映画館カルト9のカフェスペース、オリアスだ。
……しかし星野の姿は見えない。早すぎたか。
獅童正義の政策担当秘書である
正確な表現を追求するなら、裏社会に適合しすぎて表社会に出すべきではないタイプのカスでクズである。
まさしく吉阪とは正反対であり、あいつとは真逆の意味で信頼できない人間だ。
ただ……そんなゴミカスでも、それを凌駕する美点はあった。
「――おっと、俺のほうが遅刻しましたか。
久しぶりのサシだから、あと10分ぐらい話すと思ったんですがね」
背中から声がかかったと思えば、断りもなく真横にどかっと座り、私の眼の前にレモネード入りのカップを置く。
ギリギリカタギに見えるヤクザのような出で立ちの男を横目で見やりながら、私は素直に飲み物を口に運んだ。
「話すべきことは話しましたよ。それこそ十分に」
「プレッシャーもたっぷりかけましたってか。吉阪くんも大変だ」
くっくっく、と喉を鳴らすように笑うと、男――星野は自分で頼んだアイスカフェラテを手に取る。
飲むわけではない。右手でくるくると回すように振って氷を溶かしているだけだ。
――そして、机の下で、奴の左手が僕の足をつつく。
「
「ご苦労さまです」
周囲に気取られぬよう私も前を向いたまま、コインロッカーの鍵を受け取ってズボンのポケットにしまう。
こいつはクズだが仕事はできる。
あらゆる欠点を凌駕してしまう程度には。
「それにしても坊主のマネ、下手ですね。
素で喋った方がなんぼか近いんじゃないですか?」
「……探偵らしく振る舞うなら、これぐらいでちょうどいいと思いますが」
「一言足りませんよ。坊主はもっと捻くれてて、煽りグセがついてて、隙あらば毒を吐きたがる」
そんな欠点を真似してどうするんだ。
そんなんだから友達の一人も作れないんだろうが、あのクソガキは。
「そう言われましても、僕は僕ですからね……
今からでも、人に好かれる努力を重ねていきたいんですよ」
「その顔で言われると鳥肌立ちますね」
うるせえよ。
好きでこうなったわけでもねえよ。
「ああそうだ。ちょっと予定と路線変えました」
「――何を?」
「あんまり
どうせやるなら、向こうが先にやったことにしてしまえってね」
「いや本当に何を?」
すっとぼけたいわけではないが、話が見えない。
こいつに任せたのは貸金庫の中身のすり替えだ。
遺言書の正本と偽造した遺言執行者選定合意書、それに切り捨てていい私設秘書達を使って、パンドラの箱の中身を抜き取り別の書類を入れさせる。
こいつなら私設秘書達を裏切らせずに完璧に仕事を実行できる、と思って任せたが……どこを改変したんだ?
「探偵王子なら推理が得意でしょう?
考えてみてください。
…………ああ。
うん、まあ、なるほどな?
「まさか、
「そう。未来の総理大臣、獅童正義は殺された。
ただし田舎のガキではなく、世界を巻き込む大陰謀によって――ってね。
女に絡んで酔っ払ってグーパンされて死んだってより、こっちのほうが格好がつくでしょう?」
うるせえよ。
悪かったなぁ、格好がつかないクソマヌケな理由で死にかけて!
「そういうわけで、そういう路線に行くように、ちょちょいっと編集してます。
いや〜光太郎さんが一晩でやってくれましたってシゴデキすぎませんか、俺」
確かにそうだがうるせえよ。
「あとは新島ちゃんが宝箱を開けて、先に開けられたことに気づいて、俺を締め上げて実行犯を探す。
そうしたら俺が色々思いつきを喋って、事務所の宝箱から
「誰が実行犯役なんだ?」
「柴田と荻島と幡谷。勝手に小遣いちょろまかしてたし、色々知りすぎてるし、ちょうどいいでしょうよ」
一応覚えている。3人とも認知訶学研究関連で小間使いに使っていた奴らだ。
しかし、あんな奴らが大人しく切り捨てられる側に回るわけ――
「箱の中身を教えて、すり替えなきゃ君らが捕まるかもって心配しただけですよ。
そうしたら向こうから方法を聞いてきたんで、捕まった時のリスク含めて説明してやりました。
ああ、あと未開封の封筒なら事務所の金庫で預かるって話はしたかなあ?
先生が使ってた封蝋なんて再現できないし、開けた形跡があったら知らぬ存ぜぬは突き通せないのでね」
……脅したんだな。
「俺はただ、やるなと言って止めただけ。
それから中身もわからん封蝋付きの封筒を金庫に入れただけ。
――ま、その封筒は元の持ち主に返すわけですし、よく似た封筒がなぜかまだ金庫に入ってますけどね。
本当に何も知らない吉阪くん含め、あいつら3人以外は捕まりませんよ」
例え3人がボイスレコーダーを回していたとしても、教唆に当たるとは受け取られないラインの会話しか拾えないだろう。
こいつはそれができる奴だ。
船は船頭に任せよという言葉通り、こと悪巧みであればこいつ以上の
「あとはボスがうまく立ち回ってくれりゃあいい。
新島ちゃんは頭が良いから、変に誘導しなくたってこっちのレールに乗ると思いますがね」
「……あなた、冴さんのこと知ってるんです?」
「そりゃ坊主のバディ役にして大丈夫か不安でしたからね。
頭が悪くても坊主と息が合わんでしょうし、賢さが合格ラインでも
「……それだけ用意周到なのに、なんでヤクザの女に手を出しちゃったんですかね?」
「いやー、あの頃は若かったんでねえ……
そういうボスも人のことは言えないと思いますけどね。おかげで坊主が割り食った」
……うるせえよ、とは言えないか。
水商売の女に手を出してひどい目にあったのはお互い様だ。
「……そういえば、ずっと聞きたかったんですけどね。
その坊主を差し出したのは、誰の差し金なんです?」
明智吾郎が素直に命を差し出すとは思わない。
あいつは復讐が目的のはずだ。
母親を捨てて死に追いやった血縁上の父親――獅童正義への復讐が。
「少なくとも俺と笹木さんと吉阪くんは違いますね。
坊主は一人で医者に呼び出されて、しばらく悩んでいた」
星野は記憶の糸をたぐるように天井を見上げる。
その表情に嘘の色はない――今のところは。
「確か、古い方のスマホを開いて、部屋の隅に立って――いや、ただぼうっとしてただけだな。
それから医者からの説明を俺達に話して、身辺整理したいからって一度東京に戻って、それで――」
「古い方のスマホ?」
「ええ。俺が仕事用に買ってやった奴じゃなくて、あいつが元々持ってたスマホです。
画面が小さくて、ホームとか戻るとか全部物理ボタンのやつ」
……私が今使っている明智吾郎のスマホは、フルタッチスクリーンだ。
そして病院では獅童正義のスマホ以外は預かっていなかった。
「彼が東京に戻った時、誰か一緒に行きました?」
「吉阪くんが泊まり込みやるってんで、俺と笹木さんと3人で帰りましたね。
つっても渋谷で分かれましたし、俺も笹木さんも別に勧めはしませんでしたよ。
そりゃボスに生きていてほしい気持ちはありましたけど、坊主が尻拭いする必要はないでしょ」
本人の前で言うなよ。
――しかしもっともな話でもある。
「そういうわけで、いったいなんであんな覚悟ガンギマリになったのかは俺にはわかりません。
笹木さんも吉阪くんも間違いなく同じこと言うと思いますよ。
何ならあの二人の方がそういうまともな感性の持ち主だってことは、ボスだって理解してるでしょう」
「……確かに、そうですね。
それで、東京に戻ったのは、その日だけで?」
「ええ。吉阪くんから連絡があって、坊主が戻ってきて手術に同意したって話を聞かされて、それきりです」
だとすると、最後に明智吾郎と会話したのは吉阪か。
単純に性格の問題で動揺していただけだと思っていたが――……最後に話した当人となれば、思うことも増えるだろう。
しかし星野の話がどこまで本当かが問題だ。
古いスマホとやらが見つかれば、何かわかるかもしれない……が、今日帰って家探しするのは無理だ。
これからコインロッカーを探して中身を回収し、家に置いた上で新島と連絡を取り、遺言書を見せる必要があるというのもあるが――
いい加減食料品を買って、洗濯物をコインランドリーにぶち込まないと、日常生活に支障をきたす。
「色々ありがとうございます。
ところで、未成年者が一人で頼める家事代行サービスってあります?」
「未成年者契約の取消権があるんでマトモなところはキツイんじゃないですかねー。
まああの後見人がその程度でギャーギャー言うとは思いませんが……あ、そうだ。
こういういかがわしい店なら単発で受けてくれるかもしれませんよ」
……なんだこれ。家事代行サービスヴィクトリア?
「……こんなの絶対そういうプレイのデリヘルじゃないですか。
呼べませんよ、いくらなんでも」
完全に趣味じゃないし、しばらく女はこりごりだ。
仕方ない。色々落ち着いてから笹木か吉阪に頼んで、普通の家政婦を派遣してもらうとするか。