十月の末、三咲町を包み込む夕暮れは、まるで古いガラス瓶を透かしたように重く、どこか底冷えのする気配を孕んでいた。
なだらかな傾斜が続く見晴らし見返り坂。傾いた西日がアスファルトを細長く朱色に染め、家路を急ぐ生徒たちの影を長く引き伸ばしている。擦れ違う三咲高校の制服組の話し声、遠くの幹線道路を走る大型車の低いロードノイズ。どこを切り取っても、地方都市の放課後そのものだった。
「――まったく、飛鳥くん。またそんな薄着をして。三咲の冬の入り口を甘く見ていると、風邪を引いて後悔することになりますよ?」
すぐ隣から、鈴を転がすような、けれどどこか生真面目な声音が降ってくる。
「大丈夫ですよ、シエル先輩。これでも結構、寒さには強いほうなんです。ほら、手だってこんなに温かいですし」
与野飛鳥はブレザーのポケットから右手を取り出し、ひらひらと振ってみせた。
切れ長の瞳と、癖のない黒髪。体格は同年代の男子高校生と比べても特別大柄というわけではなく、至って標準的。むしろ、どこか頼りなげで人当たりの良さそうな雰囲気を崩さない彼は、周囲の誰もが認める「人畜無害な一年の後輩」だった。
隣を歩くシエルは、呆れたように小さく息を吐き出すと、制服の眼鏡の位置を指先で押し上げた。
「そういう問題ではありません。自己管理も学生の大切な本分です。……もうすぐ十一月なんですから、明日からはちゃんと下にカーディガンを着てきなさい。いいですね?」
「はーい。先輩がお母さんみたいに小言を言うので、善処します」
「お、お母さんだなんて……! 私はまだ立派な女子高生ですよ! 一つしか違わないのに!」
眉を八の字にしてむくれるシエルの仕草に、飛鳥は小さく肩を揺らして笑った。
シエル。三咲高校の二年生で、茶道部の部長。誰にでも分け隔てなく接する優しい先輩であり、学校の食堂で異常な量のカレーを嬉々として平らげる、少し変わった名物生徒。
周囲の人間が見ている彼女は、まさにそうした「ちょっとユニークで頼れる上級生」そのものだった。
だが、飛鳥の眼には――その奥にあるものが、あまりにも明瞭に見えていた。
(……今日も、右肩と腰の筋肉が酷く強張ってるな。昨夜も歩き回ったのか)
飛鳥は視線を泳がせながら、無意識に呼吸のテンポを落とし、知覚を研ぎ澄ます。
シエルが歩くたび、彼女の身体の芯から微かに漏れ出るエーテルの軋み。ブレザーの厚い生地の下に隠された、鋼のように引き締まった筋肉と、無数の実戦を潜り抜けてきた戦士の重心。そして何より――彼女の魂の深奥にこびりついている、ヘドロのように重く、呪わしい「澱み」。
ロア。かつて彼女の魂と肉体を乗っ取り、今なお世界を巡る忌まわしき吸血鬼の残滓。
シエルはその罪を自らの血で清算するため、聖堂教会の異端狩り部隊「埋葬機関」の第七位代行者として、夜ごと血みどろの怪異を屠り続けている。そして今、この三咲町に潜伏しているとされる転生体を仕留めるために、学生という仮面を被って潜入していた。
シエルにとって、この三咲高校での時間は、いつか終わるべき「かりそめの平穏」に過ぎない。
そして飛鳥のような、何も知らずに笑っている後輩は――自分がどれほど手足を汚し、泥を啜ってでも守り抜かなければならない、「眩しく尊い日常の象徴」そのものだった。
『飛鳥くんたちの生きるこの日常を、怪物たちの勝手で壊させたりはしません』
以前、放課後の茶道部室で、夕陽に照らされたシエルが紅茶を淹れながら、独り言のようにポツリと呟いた言葉を、飛鳥は今でも鮮明に覚えていた。
あの時、シエルは窓の外の校庭を見つめていた。まるで、二度と戻れない故郷を遠くから見つめる亡命者のような、痛々しいほど澄んだ瞳で。
(……先輩は、本当に不器用だな)
飛鳥は胸の中で小さく息を呑み、歩幅をシエルに合わせる。
シエルが守ろうとしている「日常の住人」であるはずの与野飛鳥。
だが、彼の実態は、シエルが想像しているような「守られるべき無力な人間」などでは断じてなかった。
飛鳥が生まれ持った魂の型――『起源』。
それは、存在の原初において定められた魂の方向性であり、彼の場合は**『捕食』**だった。
ただし、彼が喰らうのは獣のように肉や骨ではない。
魔力、呪詛、怨念、そして吸血鬼が撒き散らす「超常の闇の残滓」。人外が人外たる所以である霊基の歪みそのものを、自らの肉体という無限の炉心へと引きずり込み、噛み砕いて自らの糧へと変換・無害化してしまう異能の怪物。
死徒や吸血鬼にとって、飛鳥という存在は天敵などという生易しいものではない。彼らにとっての絶対的な捕食者であり、暗闇の生態系の頂点に君臨する「不可視の天災」だった。
シエルが夜の街を駆け、血を流して死徒の残滓を滅ぼしている裏で、飛鳥もまた動いていた。
彼女が傷つかないよう、あるいは余計な深手を負わないよう、街に蔓延り始めた死徒の下位種(グール)の群れを、闇の中で音もなく「喰らい尽くして」間引く。それが、飛鳥がこの数ヶ月間、密かに続けてきた日課だった。
けれど、そんな自分の正体を、シエルに明かす気は毛頭なかった。
彼女は、自分のような「日常の人間」がいるからこそ、あの過酷な代行者としての任務に耐え、辛うじて人間としての心を繋ぎ止めているのだ。
もし自分が、教会や吸血鬼すら戦慄する人外の捕食者だと知れば、シエルの足元は崩れ去ってしまう。彼女が命懸けで守ろうとしている「飛鳥くんの日常」そのものが、ただの欺瞞だったと突きつけることになってしまうからだ。
だからこそ、飛鳥は徹底して「頼りない、後輩の飛鳥くん」を演じ続けていた。
「……あ、そういえば先輩。明日の放課後って、茶道部ありますか?」
飛鳥は何気ない調子で、歩道脇の自動販売機の前で立ち止まりながら尋ねた。
「ええ、ありますよ。といっても、部員は私と飛鳥くんの二人だけですから、実質的にお茶を飲んでお菓子を食べる会のようなものですけれど」
「じゃあ、明日は俺がお茶請けを買っていきますよ。駅前の商店街に、新しい大福の店ができたんです。先輩、あんこもいけますよね?」
「もちろん大歓迎です! あ、でも、甘いものばかりだとバランスが悪いですから、少し辛いお煎餅なども合わせるといいかもしれませんね。……カレー味のお煎餅とか、売っていませんでしょうか」
「またカレーですか。先輩のカレー愛は底が知れませんね……」
「失礼ですね、カレーは完全食ですよ! スパイスの調合によって心身の活性化も図れますし、何より美味しいのですから!」
熱弁を振るうシエルに苦笑しながら、飛鳥は自販機のボタンを押した。
温かい缶の緑茶が二本、ガコンと音を立てて取り出し口に落ちる。
取り出した缶の一つを、シエルの指先へと手渡す。
「はい、先輩。とりあえずこれ飲んで温まってください」
「あ……ありがとうございます、飛鳥くん」
シエルは受け取った缶の温もりに目を細め、両手で包み込むようにして持った。
その瞬間、缶の金属面を通じて、飛鳥はシエルの指先から、極めて微小な「呪詛の澱み」を感知した。
(……やっぱりな。昨日の夜、死徒の眷属と接触してる)
飛鳥は微笑みを崩さないまま、缶を渡した右手の親指で、シエルの手袋の端、露出していた手首の肌にほんの一瞬だけ、ごく自然に触れた。
「先輩の手、やっぱり冷えてますよ」
「う……そ、それは、冬ですから」
シエルが微かに慌てて視線を逸らす。
その刹那――飛鳥の皮膚の毛穴から、不可視の『捕食』の触手が極小の規模で励起した。
シエルの体内、ロアの転生体特有の呪詛の澱み。その表層に滲み出ていた冷酷な渇きが、飛鳥の指先を通じて、まるで水滴が乾いた砂に吸い込まれるように、音もなく彼の体内へと呑み込まれていく。
ゴクリ、と飛鳥の魂の奥で、異形の炉心が微かに唸りを上げた。
シエルを蝕む呪詛の毒素が、飛鳥の体内で完全に噛み砕かれ、無害な熱量へと変換される。
これによって、シエルの肉体的な疲労は僅かに軽減され、ロアの残滓がもたらす精神的な苛立ちも一瞬だけ凪ぐはずだった。
「……あれ?」
シエルが首を傾げた。
手首の冷えがスッと引き、胸の奥を重く圧迫していた鉛のような感覚が、なぜかふわりと軽くなったのだ。
彼女は自分の手のひらを見つめ、それから不思議そうに飛鳥を見上げた。
「なんだか……急に身体が軽くなったような気がします。温かいお茶の蒸気のおかげでしょうか」
「プラシーボ効果ってやつじゃないですか? 先輩、単純だから」
「もう、一言余計です! 先輩を捕まえて単純だなんて!」
シエルは頬を膨らませて抗議したが、その表情には先ほどまでの張り詰めた強張りが消え、年相応の少女の柔らかさが戻っていた。
それを見て、飛鳥は満足げに缶のプルタブを引き抜いた。
こうして、シエルに悟られることなく、彼女の呪いを少しずつ喰らい、彼女の重荷を削り落としていく。
それが今の飛鳥にとって、何よりも守るべき放課後の儀式だった。
坂道を下りきった交差点。
赤信号で足を止めた二人の前を、冷たい風が吹き抜けていく。
西の空はすでに朱から群青へとグラデーションを描き、街の街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
ふと、シエルの視線が、交差点の向こう側――見慣れた学生服の少年の背中へと向けられた。
黒髪に眼鏡をかけた、どこか儚げな雰囲気を漂わせる少年。
遠野志貴だった。
「……遠野くん」
シエルが小さく呟いた。その声には、先ほど飛鳥に向けていた穏やかさとは異なる、鋭敏な観察者の色が混ざり合っていた。
遠野志貴。名門・遠野家の跡取りでありながら、長年親戚の家に預けられ、実父の死に伴って屋敷へと呼び戻されたばかりの高校二年生。
シエルが彼を注視しているのは、単なる同級生だからではない。彼の周囲に漂う、死の気配。そして何より、彼が抱える「何か」が、この街の澱みと共鳴し始めていることを、代行者としての勘が嗅ぎ取っていたからだ。
「遠野先輩ですね。最近、体調が悪そうに見えますけど……」
飛鳥もまた、志貴の背中を見つめながら口を開いた。
もちろん、飛鳥の眼は志貴の持つ異能――「直死の魔眼」の気配を、とっくに捉えていた。あの眼鏡の奥に封じられている、万物の死を視る狂気の視界。そして、彼の魂の底に眠る、退魔の一族・七夜の血統の残滓。
(遠野志貴。……あいつの存在が、この街の均衡を大きく揺らすトリガーになる)
飛鳥の直感がそう告げていた。
アルクェイド・ブリュンスタッドという真祖の姫が、この街へ近づいている。
そして、志貴と彼女が邂逅した瞬間、この三咲町の夜は、取り返しのつかない殺戮と破壊の舞台へと変貌するのだ。
信号が青に変わる。
志貴の背中は人混みの中へと消えていき、シエルは小さく息を呑んで視線を戻した。
「……飛鳥くん」
「はい?」
シエルは缶のお茶を一口口に含むと、少しだけ真剣な眼差しで飛鳥を見つめた。
その瞳には、深い哀切と、そして絶対に譲れない守護の決意が宿っていた。
「最近、夜の街で物騒な事件が増えています。……ニュースでも流れているでしょう? 連続通り魔事件だとかなんとか」
「ええ、見てますよ。夜遅くの出歩きは控えるようにって、学校でもプリントが配られてましたね」
「ですから、飛鳥くんも絶対に夜間の一人歩きはしてはいけませんよ。部活が終わったら、寄り道をしないで真っ直ぐ家に帰ること。……約束してください」
シエルの声は、優しく、けれど震えていた。
(……この人は、本当に)
飛鳥はシエルの瞳を真正面から見つめ返した。
彼女は今、自分のことなど何一つ考えていない。
これから始まるであろう血みどろの夜の戦い。自らが死徒の爪に引き裂かれ、泥を啜ることになろうとも、目の前にいる「大切な後輩」の平穏な明日だけは絶対に守り抜くのだと、その瞳が叫んでいた。
そのあまりにも愚直で、あまりにも愛おしい献身に、飛鳥の胸の奥が熱く疼く。
(先輩。……貴女が血を流して守ろうとする日常を、俺が壊させるわけがないだろう)
シエルが代行者としてどれほど過酷な運命を背負っていようと、飛鳥には関係なかった。
彼女が守ろうとする日常を、そして何より「シエル自身」を、飛鳥はその人外の力をもって、裏から完全に守り抜く。
たとえ真祖が現れようと、ロアが顕現しようと、彼女を傷つけるすべての闇を、自分が一人残らず喰らい尽くして消し去ればいいだけの話だ。
飛鳥は、シエルを安心させるように、とびきり人懐っこい笑顔を浮かべて頷いた。
「はい、約束しますよ、シエル先輩。俺、こう見えて臆病ですから。危ないところには絶対に近づきません」
「ふふ、ならよろしいです。……男の子なんですから、少しは頼もしいところも見せてほしい気もしますけれど」
「あはは、それはまた別の機会に」
二人は並んで歩き出し、交差点を渡る。
夕闇が街を覆い尽くし、冷たい夜の帳が静かに下りようとしていた。
その数日後――。
白昼の雑踏の中、遠野志貴が金髪の真祖を十七分割に解体し、三咲町の歯車が決定的に狂い始めることなど、まだ誰も口にしていなかった。
だが、夕影の中を歩く与野飛鳥の瞳の奥で、異形の炉心が、静かに、そして苛烈に覚醒の時を待っていた。