配電ステージの壁面に縫い止められた遠野四季――その肉体を操る死徒ロアの抜け殻が、血反吐を吐きながら喉を鳴らして嗤っている。第七聖典の概念杭から吹き上がる浄化の聖火に全身を焼かれながらも、その黄金の双眸には、自らの破滅すら盤上の布石に過ぎないとする底知れぬ狂気が宿っていた。
「く……っ、この肉体はただの残滓、本体は屋敷の地下だと……!?」
シエルの蒼い瞳が、激しい動揺に揺れていた。
手にした第七聖典の銃身から漏れ出る銀の燐光が、彼女の乱れた呼吸に合わせて激しく明滅する。
代行者として、ロアの転生を幾度も追い詰め、その度に逃げられてきた屈辱と絶望の記憶。この地下で決着がつくと信じ、己の命すら投げ出す覚悟で撃ち放った一撃が、またしても空振りに終わったという事実に、彼女の精神が軋みを上げていた。
「シエル先輩、動揺してる暇はありません。屋敷へ行きますよ」
飛鳥は配電ステージから飛び降り、シエルの足元に着地した。
その足取りには、先ほどロアの大魔術『数秘紋・雷獣群生』を全方位から一飲みに咀嚼した影響など微塵も感じられない。むしろ、数百年分の濃密な魔術構造を喰らい尽くしたことで、飛鳥の全身を巡る魔力回路はかつてないほどに研ぎ澄まされ、ブレザーの裾からは大気を震わせるほどの不可視の重圧が陽炎のように立ち上っていた。
「……飛鳥くん」
シエルはハッと息を呑み、飛鳥の横顔を見つめた。
その少年は、自分を欺いていた。三咲高校の大人しく頼りない後輩の皮を被りながら、死徒の呪詛を素手で喰らい、神代の雷撃を平然と呑み干す、教会すら知り得ない絶対捕食者。
本来ならば、代行者として即座に排除すべき「人外の怪物」。
けれど――。
その怪物は今、自分を狂気から引き戻すように、あの夕暮れの坂道と同じ、静かで揺るぎない眼差しで自分を見据えていた。
「遠野の屋敷で、何かが孵化しようとしています。……あの血の臭気、下等な死徒の比じゃない。遠野の反転した血統と、ロアの真の霊核が融合し始めているんだ」
飛鳥の知覚は、数キロ離れた山の手――遠野邸の地下深くで脈動を始めた「異形」の鼓動を、皮膚の毛穴一つひとつで捉えていた。
遠野志貴がアルクェイドを十七分割に解体したことで生じた街の歪み。その間隙を突き、ロアは遠野槇久が遺した屋敷の暗部、幽閉されていた真の肉体と同化を果たし、三咲町の霊脈そのものを喰らい尽くそうとしていた。
「……待ちなさい、二人とも」
冷たく、けれど微かに息を乱した声が背後から響いた。
アルクェイド・ブリュンスタッドだった。
白銀のショートヘアを濡らした真祖の姫は、壁のロアの抜け殻を一瞥すると、爪先を軽く払ってその頭蓋を衝撃波で粉々に粉砕した。抜け殻は即座に白い灰となって崩れ落ち、配電ステージの床へと霧散する。
アルクェイドは赤い瞳を細め、胸元を強く押さえながら歩み寄ってきた。
その足取りは、先ほどよりも明らかに重い。
自らの霊力を削って肉体を無理やり再構築した代償――そして、血を求める飢餓の衝動が、彼女の理性を内側から激しく侵食し始めていた。
「屋敷に行くなら、私も連れて行きなさい。……ロアの首を刈り取るのは、私の役目よ」
「無理ですね。今の貴女じゃ、屋敷の結界に触れただけで吸血衝動が暴走して自滅しますよ」
飛鳥は冷ややかに言い放った。
「貴女の霊基の芯……志貴に刻まれた『死』の傷が、まだ塞がっていない。その状態でロアの本体が放つ濃厚な反転の血気に当てられれば、志貴を襲って血を啜る化物に逆戻りだ」
「な……っ、生意気な口を利かないで、人間の分際で……!」
アルクェイドの紅い双眸が、激昂とともに獣の輝きを帯びる。大気が軋み、彼女の周囲の空間が質量を持って飛鳥を圧殺しようと歪みかけた。
真祖の誇り。弱体化していようと、地上のいかなる生命にも見下されることなど許されない絶対種の威厳。
だが、飛鳥は眉一つ動かさなかった。
それどころか、一歩前に踏み出し、アルクェイドの放つ威圧の力場を、右手の平一枚で「スッ」と撫でるように薙ぎ払った。
パチン、と乾いた火花が散る。
アルクェイドが展開しかけた空間の歪みが、飛鳥の掌にある『起源:捕食』の孔へと吸い込まれ、あっけなく霧散した。
「――っ!?」
アルクェイドが信じられないものを見るように目を見張る。
「言ったでしょう。暴走するなら、貴女の魔力ごと喰い尽くすって」
飛鳥は冷徹に言い放った。
「志貴のことが心配なら、ここで大人しく霊力を練り直していなさい。……先輩の街を荒らされるのも、貴女が無様に狂い落ちるのも、俺の胸焼けの種にしかならない」
「貴方……本当に、何者なの……」
アルクェイドは息を呑み、押し黙った。
千年間、地上のあらゆる吸血鬼を狩り続けてきた彼女をして、目の前の少年の「底の知れなさ」は未知の領域だった。死を恐れず、真祖の威圧をただの糧として払いのける絶対捕食者。
飛鳥はアルクェイドから視線を切り、隣のシエルへと向き直った。
「シエル先輩。行きますよ」
「……あ、飛鳥くん、待ってください……!」
シエルが法衣の裾を翻し、小走りで飛鳥の隣へと並ぶ。
地下変電所の脱出路――地上へと続く長い階段を駆け上がりながら、シエルは並走する飛鳥の横顔を、痛ましそうに見つめた。
「飛鳥くん。貴方は……どうして、そこまでしてくれるのですか」
湿った階段に、二人の足音が反響する。
シエルの声は、冷たい雨の混ざる外気の中で、消え入りそうに震えていた。
「貴方の力があれば、聖堂教会からも、死徒の二十七祖からも逃れ、どこでだって平穏に暮らせるはずです。……なのに、どうして私なんかのために、こんな血みどろの怪異の巣窟に飛び込むのですか。私は……貴方に救われるような人間ではないのに……!」
かつてロアの器として犯した、故郷の村の虐殺。
教会から「死ねない異端」として疎まれ、死ぬことすら許されずに吸血鬼狩りの泥濘を這いずり回ってきた年月。
そんな自分を、目の前の少年はなぜ、命を削るようにして救おうとするのか。その問いが、シエルの胸を激しく締め付けていた。
飛鳥は階段を駆け上がりながら、ふっと口元を緩めた。
振り返ることもなく、前を見据えたまま、穏やかな声で答える。
「先輩。放課後の茶道部で、先輩が淹れてくれた玉露の味、覚えてますか?」
「え……? お、お茶……?」
突拍子もない問いに、シエルが戸惑いの声を上げる。
「あの時、先輩は言いましたよね。『飛鳥くんたちの生きるこの日常を、怪物たちの勝手で壊させたりはしません』って」
シエルの呼吸が、止まった。
「あの時の先輩の顔、すごく痛々しくて、すごく綺麗でした。……自分の命なんてとっくに諦めているくせに、俺みたいな赤の他人の明日を守るためなら、喜んで地獄に飛び込もうとしていた」
飛鳥は階段の踊り場を蹴り、地上へと続く鉄扉を力任せに押し開けた。
吹き込んでくる、冷たい夜雨と、遠野の屋敷から漂う血生臭い風。
「そんな無茶苦茶なお人好しを、見捨てられるわけがないでしょう」
飛鳥は振り返り、雨に濡れるシエルの瞳をまっすぐに見つめた。
「先輩が俺の日常を守ろうとしてくれた。なら――俺は、俺の持てるすべての力で、シエル先輩、貴女の『明日』を守る。……誰に許されなくたって、俺が先輩を生かします」
「飛鳥、くん……」
シエルの蒼い瞳から、大粒の涙が零れ落ち、雨水と混ざり合って頬を伝った。
冷え切っていた彼女の魂の奥底に、かつて誰も灯せなかった、眩いほどの熱が満ちていく。
代行者としての戒律も、ロアの呪いも、すべてを超えて――彼女の心が、目の前の少年へと完全に傾いていた。
遠く、三咲町の丘の上に聳える巨大な洋館――遠野邸の輪郭が、暗雲を裂く雷光に照らし出された。
屋敷全体を包み込む、赤黒い結界の膜。
死徒ロアの完全覚醒と、遠野の血の暴走。
「行きましょう、先輩。……俺たちの、平穏な放課後を取り戻しに」
「……はい、飛鳥くん!」
シエルは涙を拭い、力強く頷いた。
二つの影が、雨の夜を切り裂いて疾走する。
すべての因果が収束する遠野の屋敷へ向けて、最終決戦の幕が切って落とされた。