遠野邸。
高い石造りの塀に囲まれた広大な敷地には、かつて名門として栄えた厳格な静寂が漂っているはずだった。だが、今この夜に洋館を包み込んでいたのは、名家の誇りなどではない。
大気を朱色に染め上げるほどの濃厚な「血の熱気」と、空間の歪みから漏れ出る死徒の呪詛。屋敷全体が、外界から隔絶された巨大な「異界の胃袋」へと変貌していた。
「……結界が完全に反転しています」
正面の鉄扉の前で足を止めたシエルが、法衣の裾を濡らしながら眼鏡のない蒼い瞳を険しく細めた。
手にした第七聖典の霊子回路が、屋敷から噴き出す禍々しいエーテルの波長に反応し、キィィィンと耳障りな共鳴音を立てている。
「遠野家の退魔の結界……いえ、人外の血を封じるための檻が、内側から食い破られています。この波長……ロアの数秘術だけではありません。遠野の血族が持つ、先祖返りの『混血』の残滓が、ロアの魂と最悪の形で混ざり合っている……!」
「……ああ。遠野四季の肉体だけじゃない」
隣に立つ与野飛鳥は、ブレザーのポケットから手を抜き、冷徹に洋館の窓々を見据えた。
彼の視覚、そして全身の毛穴を通じて感知される『捕食』の触覚は、屋敷の奥底で脈動する「ふたつの熱源」を捉えていた。
ひとつは、地下の暗渠で抜け殻を焼き払われたはずの、死徒ロアの真なる本体。
遠野の屋敷の地下牢に長年幽閉され、実父・槇久によって血の狂気を抑え込まれていた四季の「真の原形」。
そしてもうひとつ――。
屋敷の二階、当主の執務室のあたりで、急速にその純度を高め、暴走の淵へと叩き落とされつつある、あまりにも苛烈な紅い炎。
(遠野秋葉……。あの子の反転が、ロアの孵化に呼応して始まっている)
飛鳥は静かに息を吸い込んだ。
遠野志貴がアルクェイドを十七分割に解体したあの日から始まった狂乱の連鎖。
志貴に己の生命力の半分を分け与えて生かしていた妹・秋葉は、志貴が真祖殺しという人外の領域に踏み込んだことで、その生命のパスを通じて「紅赤朱(くれないせきしゅ)」と呼ばれる鬼の血を限界まで励起させられていた。
そして、その隙を突いて脱走したロアが、屋敷の霊脈を掌握し、秋葉の生命力を喰らいながら完全な受肉を果たそうとしているのだ。
「先輩。正面突破します」
「待ってください、飛鳥くん。この門には、接触した者の生体魔力を強制的に吸い尽くす反転結界が――」
シエルの制止の声が響くよりも早く、飛鳥の右手が無造作に鉄扉の格子へと伸ばされた。
パチン、と空間が爆ぜるような火花が散る。
門に張り巡らされていた赤黒い呪詛の結界が、侵入者を焼き尽くすべく一斉に牙を剥いた。
数万ボルトの電圧に匹敵する霊的毒素が、飛鳥の掌を通じてその神経網を焼き切ろうと逆流する。
だが――。
「――うるさいな。門番の真似事なんて、柄じゃないだろ」
飛鳥の掌の前で、空間がぐにゃりと歪んだ。
『起源:捕食』。
結界を構成していた数百年分の遠野の怨念、ロアの敷設した防護術式、そして反転の血の呪詛。そのすべてが、飛鳥の手のひらに口を開けた不可視のブラックホールへと、音もなく一滴残らず吸い込まれていく。
ジュウウウッ……と、鉄扉の表面から赤黒い燐光が蒸発するように消え失せた。
バキリ、と硬質な音を立てて頑丈な閂が砕け散り、巨大な門がゆっくりと内側へと押し開かれる。
「……結界の構造式ごと、丸呑みにした……?」
シエルは息を呑み、信じられないものを見るように飛鳥の横顔を見つめた。
代行者として、教会の秘跡や概念武装を駆使して数々の結界を解体してきた彼女だからこそ、目の前で起きた現象の理不尽さが誰よりも理解できた。魔術的な解呪(ディスペル)ではない。ただ、存在そのものを「栄養」として平らげてしまったのだ。
「行きましょう、シエル先輩。……あの屋敷のメイドたちや、遠野志貴が巻き込まれる前に」
飛鳥は振り返ることなく、濡れた前庭の玉砂利を踏み締めて歩き出した。
その背中からは、先ほど結界の呪詛を喰らったことで、より濃密で、神仏すら圧倒しかねない深淵の魔力が陽炎のように立ち上っていた。
シエルは胸元をぎゅっと握りしめた。
恐ろしいはずの、人外の怪物。
けれど、その背中はどこまでも迷いがなく、自分を振り返った瞳には、あの夕暮れの茶道部室と同じ、温かな光が確かに宿っていた。
(……この人は、本当に)
シエルは第七聖典を強く構え直し、飛鳥の隣へと駆け寄った。
「はい、飛鳥くん。……私の背中は、貴方に預けます!」
二人は前庭を疾走し、洋館の重厚な玄関扉を蹴り破って、血の臭気配る闇の館へと突入した。
エントランスホールは、異様な静寂に包まれていた。
高い吹き抜けの天井から吊り下げられたシャンデリアは叩き割られ、磨き上げられた白磁の床には、黒いコールタールのような液体が幾重にも飛び散っている。
「……シエル、様……?」
階段の踊り場の陰から、弱々しい声が響いた。
現れたのは、白いエプロンドレスに身を包んだ少女――屋敷に仕える双子のメイドの妹、翡翠(ひすい)だった。
普段は能面の如く感情を表に出さない彼女の瞳が、恐怖と絶望に大きく見開かれ、その華奢な肩は小刻みに震えていた。
「翡翠さん! 無事ですか!?」
シエルが駆け寄り、彼女の身体を支える。
「秋葉さんは……志貴くんはどこにいますか!?」
「あ、秋葉様は……二階の奥で……髪が、赤く……ご自身の熱を抑えきれなくなって……」
翡翠の唇がガチガチと鳴る。
「そして……地下から這い出してきた、あの怪物が……志貴様を……志貴様の体を乗っ取ろうと……裏庭の離れへ……!」
「裏庭……!」
シエルが顔を跳ね上げる。
「先輩」
飛鳥が翡翠の前に歩み寄り、その額にそっと指先を触れさせた。
翡翠の身体を侵食しかけていたロアの毒気が、スッと飛鳥の指先へと吸い取られ、彼女の呼吸がふわりと落ち着きを取り戻す。
「翡翠さん、琥珀さんと一緒に地下の防空壕へ隠れていてください。……ここから先は、俺たちが全部片付けます」
「貴方……は……?」
翡翠が呆然と飛鳥を見上げる。制服を着た見知らぬ少年。しかし、その瞳から伝わってくる絶対の安心感に、彼女は無意識に深く頷いていた。
飛鳥はシエルへと向き直った。
「先輩。二手に分かれましょう」
「え……? 二手に……!?」
シエルが狼狽したように声を上げる。
「裏庭にいるロアの本体……遠野四季の肉体は、志貴の魔眼と魂を奪って完全体になろうとしている。あれを止められるのは、第七聖典を持った先輩と、志貴自身の力だけです」
飛鳥は二階へと続く大階段を見上げた。
そこから、屋敷全体を焼き尽くさんばかりの、紅蓮の劫火の魔力が渦を巻いて流れ落ちてきている。
「俺は二階へ行って、暴走しかけている遠野秋葉の『反転』を止めます。……あの熱量を放置すれば、屋敷ごと街の霊脈が焼き切れて、先輩たちが戦う足場すらなくなる」
「ですが、飛鳥くん! 秋葉さんの『紅赤朱』は、他者の生命力を強制的に奪う略奪の炎です! いくら貴方でも、あんな剥き出しの人外の熱量に飛び込めば……!」
シエルの蒼い瞳に、痛切な悲鳴が滲む。
離れたくない。この怪物の少年を、たった一人でそんな危険な炎の中へ行かせたくないという、理屈を超えた感情が彼女の心を激しく揺さぶっていた。
飛鳥は一歩近づき、シエルの両肩に手を置いた。
至近距離で視線が交錯する。
「先輩。信じてください」
飛鳥の声は、どこまでも優しく、そして揺るぎなかった。
「俺の胃袋を甘く見ないでください。遠野の鬼の炎だろうが、全部喰らって鎮めてみせます。……だから先輩は、先輩の過去に、ロアという忌まわしい蛇に、自らの手で決着をつけてきてください」
「飛鳥、くん……」
「約束したでしょう? 二人で、あの放課後の茶道部へ帰るって」
飛鳥は柔らかく目を細め、シエルの額に、自らの額をコツンと軽く当てた。
「特大盛りの激辛カレー、楽しみに待ってますから」
シエルの胸の奥底で、最後の迷いが粉々に砕け散った。
彼女は涙を拭い、眼鏡のない素顔に、代行者としての、そして一人の強い少女としての誇り高い笑みを浮かべた。
「……はい! 約束です、飛鳥くん! 絶対に……絶対に生きて戻りなさい!」
シエルは法衣を翻し、裏庭へと続く回廊を弾丸のように駆け抜けていった。
第七聖典の銃身から、過去のすべての罪を清算するための、純白の聖火が燃え盛る。
残されたエントランスホール。
与野飛鳥はゆっくりと首を巡らせ、大階段の上――紅蓮の熱気が渦巻く二階の闇を見据えた。
少年の全身から、人間としての気配が完全に消え失せる。
その双眸に宿るのは、万物を貪り喰らう絶対捕食者の、底知れぬ狂気と冷徹。
「さて……ごちそうの時間だ。遠野の姫君」
飛鳥は階段を一歩ずつ踏み締め、炎の燃え盛る地獄のフロアへと登り始めた。