二階へと続く絨毯敷きの大階段を踏みしめるたび、靴底を通して伝わってくる床板の温度は、異常なまでの熱を帯びていた。
壁に掛けられた歴代の当主と思しき油絵の肖像画は、熱気でニスが沸騰して泡立ち、黒く変色した額縁から煙を上げている。天井の漆喰には蜘蛛の巣のような亀裂が走り、三咲町の外気から降り注ぐ冷たい雨の匂いすら、このフロアの熱気によって瞬時に蒸発させられていた。
与野飛鳥はブレザーの襟元をわずかに緩め、静かに呼吸を整えながら廊下の奥を見据えた。
「……酷い熱量だな。人間の血管を通すようなエーテルじゃない」
飛鳥の呟きは、廊下に満ちるゴオオオッという重い熱風の唸りにかき消される。
突き当たりの両開き扉――当主の執務室の木扉は、内側から激しく焼け爛れ、炭化した木枠の隙間から、鮮血のように赤い燐光が間欠泉のように噴き出していた。
遠野秋葉。
遠野の家に眠る人外の血族――「混血」の頂点に立つ、鬼の血脈の覚醒。
幼少期、死にかけた義兄・遠野志貴に自らの命の半分を分け与えたことで、彼女の生命維持の天秤は常に崩壊の危機に晒されていた。そして今夜、志貴の意識が混濁し、地下のロアが真の覚醒を始めたショックに引きずられる形で、彼女の内なる鬼の血――『紅赤朱(くれないせきしゅ)』が暴走の臨界点を突破したのだ。
バキンッ! と甲高い破裂音が響き、炭化した扉が吹き飛んだ。
熱波とともに室内の調度品が灰となって廊下に飛び散る。
赤く染まる部屋の中央に、その少女は立っていた。
普段の厳格で清廉な浅上女学院の制服は、放たれる熱気によってボロボロに引き裂かれている。
何より異様だったのは、その髪だった。
背中まで届く艶やかな黒髪は、根元から毛先まで完全に「燃え盛るような深紅」へと変色し、重力を無視して大気中に炎の触手のように揺らめいていた。
瞳は感情の光を失い、他者の存在そのものを灰燼に帰す冷徹な狂気を孕んで、濁った琥珀色に発光している。
『――だれ……?』
秋葉の唇から漏れたのは、少女の声でありながら、幾重にも重なる怪異の咆哮を帯びた異形の声だった。
『兄さん……? いいえ、違う……。余所者ね……。遠野の檻に踏み入る鼠は……すべて灰になりなさい』
秋葉が細い腕をすっと水平に掲げた。
その瞬間、彼女の周囲の空間に、目に見えぬ無数の「檻」が張り巡らされる。
遠野秋葉の異能――『略奪』。
魔術のような火炎の投射ではない。視界内に存在する対象から「熱(生体エネルギー)」を強制的に奪い取り、奪った熱量をそのまま発火現象として還元する、人外の略奪術式。
ゴォォォォォッ!!
飛鳥の足元の絨毯が、前触れもなく一瞬で炭化し、青白い劫火が彼の身体を取り囲むように噴き上がった。
血液が沸騰するような錯覚。常人であれば、熱を奪われた瞬間に身体の末梢が凍結して壊死し、同時に奪われた熱によって外側から炭屑へと焼き尽くされる二重の処刑。
だが――。
「……成程。火を放ってるんじゃなくて、奪った熱を燃やしてるのか」
青白い炎の壁の奥から、平然とした声が響いた。
「――っ!?」
秋葉の琥珀色の瞳が、信じられないものを見たかのように細められる。
炎の中から現れた与野飛鳥は、ブレザーの裾一つ焦がしてはいなかった。
彼の全身を覆っていたのは、不可視の「喰らい口」。
秋葉が飛鳥から熱を奪おうと伸ばした無数の不可視の髪(檻)――そのすべてが、飛鳥の皮膚に触れた瞬間、逆に彼の『起源:捕食』によって、根こそぎ先端から噛み砕かれていた。
「悪いけど、俺から何かを奪おうなんて百年早いですよ、遠野の当主様」
飛鳥が一歩、前へと足を踏み出した。
その瞬間、飛鳥の胸の奥深く、異形の炉心がズンと重く脈打った。
(……美味いな)
飛鳥の口元に、無意識の笑みが浮かぶ。
下等なグールの腐った泥や、ロアの千年の呪詛とは根本的に異なる、純度の高い「原初の神秘」。
日本古来の鬼、神仏に近い人外の血脈が放つ剥き出しの生命力。それは飛鳥の内なる飢渇を激しく刺激し、彼の理性のタガを軋ませるほどの極上の熱量だった。
『お前……何者なの……!? 私の檻を……私の血を、喰っているというの……!?』
秋葉の理性に、激しい動揺が走る。
奪う側であったはずの自分が、逆に生命の根底から引きずり出され、貪られている。
その本能的な恐怖に抗うように、秋葉は両手を振り乱した。
『消えなさい……消えなさいッ!! 赤主・檻髪(せきしゅ・おりがみ)――ッ!!』
部屋中の空気が朱色に染まり、数千本に及ぶ紅い髪の奔流が、大気を引き裂く咆哮を上げて飛鳥へと殺到した。
空間そのものを削り取る、紅赤朱の全開略奪。
「――全部まとめて、いただきます」
飛鳥の両手が、前方の虚空へと突き出された。
『起源:捕食』――限定臨界解放。
ゴオオオオオオッ――!!
執務室の窓ガラスが一斉に粉々に吹き飛んだ。
飛鳥の両の掌を中心にして、空間が球状に歪み、漆黒の吸引孔が全開となる。
秋葉が放った数千の紅い髪の奔流は、飛鳥の身体を焼き尽くすどころか、巨大な渦潮に巻き込まれる水流のように、すべて飛鳥の掌の孔へと吸い寄せられていく。
バキバキ、バキリ、ゴクン。
飛鳥の魂の炉心が、狂乱の音を立てて鬼の血をすり潰す。
秋葉の放つ暴走した熱量が、飛鳥の強靭な消化器官によって瞬時に純粋な魔力へと解体され、彼の四肢の隅々へと行き渡っていく。
飛鳥の黒髪が、余剰魔力の燐光を帯びて微かに宙に浮き上がった。
『あ……ぁ……ッ!?』
秋葉の喉から、悲鳴が漏れた。
略奪の檻を完全に無効化され、自らの血の暴走をすべて吸い上げられたことで、彼女の身体から急速に鬼の熱気が抜け落ちていく。
深紅に燃え盛っていた髪が、毛先から元の艶やかな黒髪へと急速に戻り始めた。
飛鳥は一気に間合いを詰めた。
残像すら置き去りにする速度で秋葉の眼前へと踏み込み、崩れ落ちそうになる彼女の華奢な肩を、左手でしっかりと抱き止める。
「――っ、離し……なさ……い……」
秋葉が弱々しく抵抗しようとするが、その指先にはもう、誰かを傷つける力は残っていなかった。
飛鳥は右手の人差し指を、秋葉の額――第三の目が位置する眉間へとそっと当てた。
「遠野秋葉。……志貴の命を背負って、よくここまで耐えましたね」
飛鳥の声音は、夕暮れの茶道部室でシエルにお茶を差し出す時と同じ、どこまでも穏やかで優しいものだった。
「でも、もう大丈夫です。貴女のその余分な鬼の炎……俺が全部、綺麗に平らげてあげましたから」
飛鳥の指先から、最後の微小な『捕食』の力場が注ぎ込まれた。
秋葉の霊核にこびりついていた、反転の暴走因子とロアの呼応の残滓。その毒気のすべてが、スッと飛鳥の指を通じて吸い出され、完全に消滅する。
「あ……」
秋葉の琥珀色の瞳から濁りが消え、元の澄んだ黒い瞳が戻った。
彼女は驚いたように飛鳥の顔を見つめ、それから糸が切れた人形のように、静かに意識を手放して飛鳥の腕の中へと倒れ込んだ。
その寝息は、長い悪夢からようやく解放された少女の、安らかなものだった。
飛鳥は秋葉の身体を抱き起こし、部屋の隅に残っていた傷のないソファへと優しく寝かせた。
上着を脱いでその細い肩へと掛けてやる。
「……ふぅ。ごちそうさまでした、遠野のお嬢様」
飛鳥は口元を手の甲で拭った。
胸の奥に満ちる、圧倒的な熱量。
神仏の領域に近い鬼の血を喰らい尽くしたことで、飛鳥の全身の魔力回路はかつてないほどの臨界点へと達していた。
その時――。
ズズズズズズッ……!!
洋館の裏庭から、大気を裂くような凄まじい衝撃波と、純白の聖火の閃光が窓ガラスの向こうを照らし出した。
第七聖典の銃声。
そして、それに抗うように響き渡る、死徒ロアの真の本体の禍々しい咆哮。
シエルが、戦っている。
自らの忌まわしい過去に、不死の呪いの元凶に、命を削って立ち向かっているのだ。
飛鳥は振り返り、割れた窓から冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
少年の切れ長の瞳に、暗闇の頂点に君臨する絶対捕食者の、苛烈なまでの光が宿る。
「待たせましたね、シエル先輩」
飛鳥は窓枠に片足をかけ、雷鳴轟く裏庭の地獄へと向けて、音もなく虚空へと身を投げ出した。