冷たい夜雨が叩きつける遠野邸の裏庭は、すでに現世の庭園としての原型を留めていなかった。
美しく刈り込まれていたはずの西洋芝は、高密度の魔力放電によって根こそぎ剥ぎ取られて泥濘と化し、樹齢数百年の古木は幹の半ばから炭化して折れ曲がっている。大気を満たすのは、オゾンが焼ける異臭と、肉の焦げる悍ましい悪臭。
紫紺の電光が闇を引き裂くたび、広大な空地に二つの影が激突する火花が散った。
「――主の御名において、我が祈りを糧とし、異端の縛めを断ち切らん!」
神聖なラテン語の洗礼詠唱とともに、シエルが大地を蹴った。
法衣の裾を激しく翻し、手にした『第七聖典』の巨躯を、重力を無視した膂力で軽々と旋回させる。
銃口から撃ち出された純白の概念杭が、超音速のソニックブームを巻き起こしながら空気を穿つ。
だが――。
「遅いのだ、シエル! 我がかつての肉体よ!」
泥濘の中から立ち現れた人影――遠野四季の肉体を持つ死徒ロアの真の本体が、嘲笑とともに右腕を薙ぎ払った。
その腕はもはや人間の手肌ではない。遠野の反転した血とロアの数秘術が最悪の形で混ざり合い、黒紫色の鱗と蛇の肉芽が幾重にも蠢く異形の凶器と化していた。
バチンッ! と空間が弾け飛ぶような衝撃音。
第七聖典の概念杭が、ロアの異形の剛腕によって真正面から叩き折られ、火花を散らして泥の中へと弾き飛ばされた。
「くっ……!?」
シエルの蒼い瞳に、焦燥の色が走る。
先ほど地下変電所で焼き払った抜け殻とは、魔力の純度も肉体の強度も次元が違っていた。遠野家の地下牢に眠っていた四季の原初の肉体。それは遠野槇久が恐れ、封印し続けた「本物の先祖返り」の器であり、ロアの千年の魂と完全に同調を果たしたことで、真祖にすら匹敵する強靭な再生力と出力を誇っていた。
「どうした、埋葬機関の第七位! その程度の鉄杭で、この我が真の受肉を止められると思うてか!」
ロアが宙を舞い、両手の指先から無数の雷針(スクワイア・ボルト)を網の目のように放射した。
「死ねィ! 貴様のその忌まわしい不死の肉体ごと、灰燼に変えてくれる!」
紫紺の雷撃の豪雨が、シエルを全方位から包囲する。
退路はない。第七聖典を盾に防御姿勢を取ろうとするシエルだが、その足元は泥に囚われ、わずかに反応が遅れる。
直撃すれば、不死の身体とはいえ霊核を激しく損傷し、再生までに長い空白を作ってしまう――。
その絶体絶命の刹那。
――ドゴォォォォンッ!!
洋館の二階、執務室の窓から飛び降りてきたひとつの影が、ロアとシエルの間の泥濘へと、落雷のような勢いで突き刺さった。
巻き上がる土煙。
激突の瞬間に発生した不可視の衝撃波が、シエルへと殺到していた数十条の雷撃の軌道を、力任せにぐにゃりと歪めて四方へと吹き飛ばした。
「……なっ!?」
ロアが着地し、驚愕の声を上げる。
雨煙を切り裂いて姿を現したのは、濡れた制服のブレザーの袖をまくり上げ、肩で小さく息を吸い込む少年――与野飛鳥だった。
その全身からは、二階で遠野秋葉の『紅赤朱』の炎を根こそぎ平らげた余波として、鮮烈な深紅と漆黒が混ざり合う、神仏じみた濃密な魔力の燐光が陽炎のように立ち上っていた。
「……飛鳥くん!」
シエルの喉から、安堵と切迫が入り混じった叫びが漏れる。
その蒼い瞳は、無事に戻ってきた後輩の姿を捉えた瞬間、張り詰めていた戦士の糸が切れそうになるほど激しく揺れ動いた。
「秋葉さんは……秋葉さんはどうなったのですか!?」
「部屋のソファでぐっすり寝てますよ」
飛鳥は振り返り、シエルに向かって普段通りの柔らかい笑みを向けてみせた。
「鬼の炎は、俺が残さず全部いただきました。あの子の反転はもう止まってます。……これで、この屋敷の霊脈が焼き切れる心配はありません」
「全部……喰らった……!?」
シエルは息を呑んだ。
他者の生命力を強制略奪する遠野秋葉の紅赤朱。それに飛び込み、無傷でその概念ごと嚥下して鎮めてみせた少年の理不尽。
その人外の強大さに、代行者としての理性が再び警告を発しかける。
けれど――その少年が、雨に濡れる自分を庇うように一歩前へ進み出た背中を見た瞬間、シエルの胸を埋め尽くしたのは、恐怖などではなく、胸が痛くなるほどの熱い信頼だった。
「小僧……貴様、秋葉の血の檻を破ったというのか……!?」
ロアの黄金の瞳が、侮蔑から明確な殺意と警戒へと染まり上がる。
「神代の雷霆だけでなく、東洋の鬼の霊基すら呑み込むか。……貴様のような変異種、教会の記録にも存在せんぞ。何者だ!」
「さっきも言ったでしょう」
飛鳥は冷淡に告げ、泥濘を一歩踏み締めた。
「ただの、三咲高校の一年生ですよ。……先輩の淹れてくれるお茶と、放課後の穏やかな時間を愛する、どこにでもいる後輩です」
「ほざくなァッ! そのような化物が、人間の日常に擬態して生きられると思うなッ!!」
ロアが激昂し、異形の剛腕を振り上げた。
「数秘紋・雷獣瀑布(スクワイア・カタラクト)――ッ!!」
ロアの背後から、天を突くほどの巨大な紫紺の雷竜が顕現した。
裏庭全体を昼間のように照らし出す、神罰の如き高圧プラズマの塊。空気が焦げ、足元の泥水が一瞬で沸騰して蒸発していく。
「消え失せろ、異端の捕食者ァッ!」
雷竜が咆哮を上げ、飛鳥とシエルをまとめて消滅させるべく、大気を引き裂いて突進してきた。
「飛鳥くん――っ!」
シエルが叫び、飛鳥の腕を引こうとする。
だが、飛鳥はその場から一歩も動かなかった。
少年は静かに両腕を前へと突き出し、胸の奥底にある『起源:捕食』の炉心を、今夜最大の出力で解放した。
「――ご馳走様です、死徒ロア」
ゴオオオオオオオッ――!!
飛鳥の両の手のひらを中心にして、空間そのものが球状に反転した。
光すら脱出できない、完全なる絶対捕食の吸引孔。
突進してきた巨大な雷竜は、飛鳥の身体に触れる寸前、不可視の力場によって無理やりに首をねじ曲げられ、その莫大なプラズマの奔流ごと、飛鳥の掌の特異点へとなだれ込んでいった。
バキバキ、ゴクン、ジュウウウウッ!
飛鳥の全身の皮膚の下を走る魔力回路が、紫の光を帯びて激しく脈打つ。
ロアが千年にわたり研ぎ澄ましてきた神代の術式。その構成要素、因果の結合、魔力の奔流のすべてを、飛鳥の魂は一切の損耗もなく噛み砕き、純粋な自らの生命力へと変換していく。
膨大な熱量が、飛鳥の黒髪を激しく揺らし、その切れ長の瞳に神威にも似た冷徹な光を宿らせた。
ものの十数秒。
裏庭を焦土に変えるはずだった大魔術は、一筋の煙すら残さず、飛鳥の胃袋の中へと完全に消え去っていた。
「な……ば……馬鹿な……ッ!?」
ロアの顔から、完全に余裕が剥がれ落ちた。
全身の鱗を逆立て、恐怖のあまり後退る死徒。千年の転生の中で、数々の代行者や真祖と戦ってきた彼をして、自らの放つ神秘が「ただの食糧」として無造作に消滅させられる理不尽は、存在の根本を否定される絶望そのものだった。
「これで、お前の手札は全部見せてもらいましたよ」
飛鳥は口元を手の甲で拭い、冷徹にロアを見据えた。
「雷も、呪いも、全部いただきました。……残っているのは、その醜悪に這いずり回る魂だけだ」
飛鳥は振り返り、呆然と立ち尽くすシエルへと手を差し伸べた。
「シエル先輩。……最後の仕上げです」
「……飛鳥、くん……」
「あいつの魔術障壁は、俺が全部喰らい尽くして穴を開けました。……あいつの転生の輪廻を、先輩の手で終わらせてください」
飛鳥の瞳は、どこまでも澄んでいた。
怪物の牙を持ちながら、最後の引鉄をシエルに託す少年の想い。
それは、シエルが背負い続けてきた過去の罪悪感、ロアの器として犯してしまった過ちを、彼女自身の意志と手で清算させるための、何よりも優しく、尊い贈り物だった。
シエルの蒼い瞳から、熱い涙が零れ落ちた。
彼女は自分の手袋を外し、震える素手で、飛鳥の差し伸べられた右手をしっかりと握り返した。
「……はい、飛鳥くん!」
少年の体温が、シエルの指先から全身の魔力回路へと流れ込む。
迷いは消え去り、絶望は払われた。
シエルは第七聖典を力強く構え直し、夜の帳を切り裂くような凛々しい声で、聖なる裁きの言葉を紡ぎ始めた。