遠野邸の裏庭を覆っていた紫紺のプラズマと焦熱の風は、与野飛鳥の掌の『捕食』の孔へと完全に呑み込まれ、跡形もなく消え去っていた。
残されたのは、泥に塗れた遠野四季の肉体――その胸中深くで蠢く、死徒ロアの真の霊核だけだった。
「ひ……ヒィィッ……!」
ロアの喉から、千年の転生者にあるまじき、情けない引き攣った悲鳴が漏れた。
肉体はすでに限界を迎えていた。秋葉の紅赤朱の炎を飛鳥に喰らい尽くされ、自身の放った神代の雷霆もことごとく少年の胃袋へと消えた。
魔術障壁も、再生を支える莫大なエーテルの循環も、いまや完全に断絶されている。そこに立っているのは、死を恐れて他人の肉体に寄生し続けてきた、哀れな一匹の寄生虫の成れの果てだった。
「化け物……! 貴様ら、揃いも揃って……この私を……数秘紋の極みに達した我が魂を……!」
「――醜く喚くのは、そこまでにしなさい」
凛とした硬質な声が、冷たい夜気を切り裂いた。
飛鳥の手を離したシエルが、一歩、泥濘を踏み締めて前に進み出る。
青い法衣の裾には、飛鳥から流れ込んだ純粋な熱量が白い燐光となって巡っていた。彼女が両手で構え直した概念武装『第七聖典』。その有角獣の頭骨を模した銃口が、キィィィンと空間を震わせるほどの聖別されたエーテルを収束させていく。
ロアの黄金の瞳が、恐怖に引き攣った。
「シ……エル……! 我が器よ、我が半身よ……! 思い出せ、貴様のその肉体は、かつて私と共にあったものだ! 私を殺せば、貴様の魂を繋ぎ止めている不死の楔も……!」
「ええ、知っています」
シエルの声音には、先ほどまでの迷いも、自分を呪う絶望の濁りも微塵もなかった。
眼鏡のない素顔、その美しい蒼い双眸に宿るのは、数多の血を流し、数多の悔恨を抱えてなお、一人の少女として明日を生きることを選んだ戦士の誇り。
「貴方が消えれば、私の『死ねない呪い』は解ける。……世界が私を貴方と同一視する矛盾は解消され、私はただの、死ぬことのできる人間に戻る」
シエルの脳裏を、夕暮れの坂道、茶道部室の鉄瓶の湯気、そして先ほど飛鳥がくれた温かな手の感触がよぎった。
(……私は、死にたいわけじゃなかった)
シエルは胸の奥で、静かに自らの魂と向き合っていた。
罪を償うために、死を求めて怪物狩りの泥濘を這いずり回ってきた。
けれど、違ったのだ。
あの少年が、「シエル先輩、貴女を生かします」と笑ってくれた瞬間、彼女の凍てついていた心は、生きてあの穏やかな放課後へ帰りたいと、痛いほどに叫んでいた。
「ロア。貴方に奪われた私の過去を、貴方に奪われた無数の命の無念を……今、この一撃で終わらせます」
シエルは第七聖典の撃鉄を、力強く引き絞った。
「――主の御名において、罪障を薪とし、魂魄の輪廻をここに絶たん!」
聖別された概念杭が、銃身の中で極限まで加速する。
純白の閃光が裏庭の闇を真昼のように照らし出し、降り注ぐ雨粒が一瞬にして蒸発した。
「第七聖典・原罪執行(エクソシズム)――穿てッ!!」
ドォォォォォォンッ!!
轟音とともに放たれた純白の光条。
それはもはや物理的な質量弾ではなかった。聖堂教会が編纂した、転生の理そのものを否定し、魂の因果を原初の無へと還元する絶対浄化の裁き。
「ギ……ギャアァァァァァァァッ――!!」
ロアの絶叫が夜空を引き裂いた。
直撃した概念杭が、遠野四季の胸部を寸分の狂いもなく貫通する。杭から吹き荒れる聖なる業火が、寄生していたロアの千年の魂を内側から包み込み、激しく焼き焦がしていく。
転生を重ねた蛇の執念が、火の粉となって千切れ飛ぶ。
だが――。
千年間、真祖の追撃すら躱し続けてきたロアの悪霊は、肉体が灰へと変わる寸前、怨念の煙となってシエルの胸元へと飛びかかろうとした。
『シエルゥゥッ! 道連れだァッ! 貴様の肉体を道連れにして、地獄の底へ――!』
「――行かせないよ」
横合いから、静かな声が割り込んだ。
影のように割り込んだ与野飛鳥の左手が、シエルの眼前で虚空を鷲掴みにした。
ガチリッ。
形なき怨念の塊――ロアの魂の最後の残滓が、飛鳥の掌の孔に直接捕らえられた。
『な……っ、離せ……! 離せェェッ!』
「千年の蛇の魂、か。……少し毒気が強すぎるけど、先輩に擦り傷一つつけさせるわけにはいかないんでね」
飛鳥の双眸が、冷徹な捕食者の色へと沈む。
『起源:捕食』――完全嚥下。
ゴォォッ!
飛鳥の掌の中で、ロアの魂が激しく暴れ、やがて漆黒の吸引孔の中へと無理やりに引きずり込まれていった。
バキバキ、バキリ、ゴクン。
飛鳥の魂の深奥で、異形の炉心が最後の咀嚼を完了させた。
蛇の怨嗟も、狂気も、転生の魔術構造も、すべてが飛鳥の肉体という無限の胃袋の中ですり潰され、無害な余剰魔力となって霧散していく。
裏庭に、完全な静寂が戻った。
遠野四季の肉体は、憑りついていた悪霊が完全に消滅したことで、血の混血の狂乱を失い、静かに泥の上に横たわっていた。その胸の傷は第七聖典によって穿たれていたが、ロアの魂が抜けたことで、肉体の反転も急速に凪ぎ、ただの仮死状態の少年へと戻っていた。
そして――。
「……あ……」
シエルの口から、微かな吐息が漏れた。
手にした第七聖典が、役目を終えたかのように重い金属音を立てて泥の上に落ちる。
シエルは自らの胸元を押さえた。
いつも頭蓋の裏でチリチリと疼いていた、冷酷なロアの残滓。世界が自分を「ロアの器」として縛り付けていた、あの忌まわしい不死の因果の重圧が、嘘のように消え去っていた。
身体が、軽い。
皮膚を撫でる夜雨の冷たさも、足元の泥の重みも、すべてが「生きた一人の人間」としての確かな感覚となって、シエルの五感を満たしていく。
「……終わった……のですね……」
シエルの蒼い瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
代行者として戦い続けた日々の重圧。背負い続けてきた罪の意識。
そのすべてから解き放たれた少女は、膝から崩れ落ちそうになった。
けれど、彼女の身体が泥に触れることはなかった。
「――お疲れ様でした、シエル先輩」
温かな腕が、崩れ落ちるシエルの身体を、しっかりと正面から抱き止めていた。
飛鳥の腕の感触。
ブレザー越しに伝わってくる、力強く、どこまでも優しい心臓の鼓動。
怪物を喰らい尽くしたはずの少年は、今、ただ一人の後輩として、震えるシエルの背中を優しく包み込んでいた。
「飛鳥、くん……」
「約束、果たせましたね。……先輩の明日を、ちゃんと守れました」
飛鳥が耳元で、柔らかく囁いた。
その瞬間、シエルの張り詰めていた心の防壁が、完全に決壊した。
シエルは飛鳥の胸元に顔を埋め、彼の濡れたブレザーを両手で強く握りしめながら、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
雨音の中、二人の体温が静かに溶け合い、長かった三咲町の悪夢の夜に、確かな夜明けの光が差し込もうとしていた。