夜の帳を濡らし続けていた冷雨は、いつの間にか上がっていた。
雲の切れ間から差し込む黎明の光が、遠野邸の裏庭を包み込む泥濘と破壊の爪痕を、白く淡く照らし出している。
吹き抜ける朝風は冷涼だったが、そこにはもはや死徒の放つ腐敗の悪臭も、大気を焦がしていた神代の雷霆のオゾン臭もなかった。ただ、雨に洗われた濡れ土と、濡れ葉の放つ静謐な匂いだけが漂っている。
泥の上に膝をつき、与野飛鳥の胸元に顔を埋めて泣きじゃくっていたシエルの慟哭は、次第に途切れがちなしゃくり上げへと変わり、やがて静かな寝息のような深い吐息へと落ち着いていった。
「……シエル先輩」
飛鳥は濡れたブレザーの胸元から顔を上げさせようと、シエルの華奢な肩にそっと手を添えた。
だが、シエルは首を横に振り、ぎゅっと飛鳥の服の布地を握りしめたまま、微かに鼻をすすった。
「……もう少しだけ、このままでいさせてください」
掠れた、けれどどこまでも少女らしい甘えた声音。
かつて聖堂教会の「埋葬機関第七位」として、数多の怪異を冷徹に屠り、自らを『死ねない呪われた人形』と定義して心を凍らせていた代行者の姿は、そこには欠片も残っていなかった。
飛鳥は困ったように苦笑しながらも、その背中に回した腕を離さなかった。
手のひらから伝わってくる、シエルの体温。
彼女の霊核を蝕み続けていたロアの因果が完全に消滅した今、シエルの肉体は「不死の怪物」から、ただの「死ぬことのできる人間」へと戻っていた。
心臓の鼓動、皮膚の温もり、呼吸の乱れ――そのすべてが、生きている証として飛鳥の胸板を温かく叩いている。
(……長かったな)
飛鳥は空を見上げた。
街を覆っていた吸血鬼の悪夢は終わった。
アルクェイド・ブリュンスタッドを十七分割に解体した遠野志貴の凶行から始まった狂乱の歯車は、ロアという大元が飛鳥の『起源:捕食』によって魂ごと咀嚼・消滅させられたことで、完全に停止したのだ。
カツ、カツ、と泥を踏む微かな足音が近づいてきた。
顔を上げると、壊れかけた生垣の向こうから、白のハイネックセーターにロングスカートを纏った女性――アルクェイドが歩み寄ってくるところだった。
その真紅の瞳は、泥濘に横たわる遠野四季の肉体、そして飛鳥に抱き留められているシエルの姿を一瞥し、静かに目を細めた。
「……本当に、ロアの魂を丸ごと喰い殺したのね」
アルクェイドの声には、呆れと、そして底知れぬ捕食者に対する隠しきれない警戒が滲んでいた。
「信じられない。千年にわたって転生を繰り返し、世界の外側まで逃げ回っていたあの蛇の因果を……人間の胃袋で噛み砕いて消し去るなんて。教会の秘跡でも、私の力でも不可能な芸当よ」
飛鳥はシエルの頭にそっと手を置いたまま、アルクェイドを冷徹に見返した。
「不味かったですけどね。……これで満足でしょう、真祖のお姫様。貴女の宿敵は、この世のどこを探しても塵一つ残っていませんよ」
「……ええ。お陰で、私の目的もこれで果たされたわ」
アルクェイドは自らの胸元に手を当て、小さく息を吐き出した。
その白銀のショートヘアが、朝の光を浴びて淡く透き通るように輝いている。
「志貴に殺された傷を塞ぐために、無理をしてここまで保たせていたけれど……ロアが消えたなら、もう私がこの街に留まる理由はないわ。……これ以上ここにいたら、抑えきれない吸血衝動で、今度こそ街の人間を襲ってしまうもの」
彼女の身体の輪郭が、微かに陽炎のように揺らぎ始めていた。
真祖の姫の帰還。彼女は再び、誰の手も届かない千年城の玉座へと戻り、永遠に近い眠りの中で自らの飢えを封じ込めるのだ。
アルクェイドは踵を返し、数歩歩いたところで、肩越しに飛鳥とシエルを振り返った。
その表情には、初めて出会った時の冷酷さはなく、どこか悪戯っぽい少女のような笑みが浮かんでいた。
「教会の代行者。……貴女のその呪い、解けてよかったわね。これからは、その変な大喰らいの男にせいぜい甘やかされなさい」
「……言われなくても、そうします」
シエルが飛鳥の胸元から顔を半分だけ覗かせ、少しだけ赤い鼻をすすりながら、意地を張るように言い返した。
眼鏡のないその素顔は、涙で濡れそぼり、恥ずかしさで林檎のように赤く染まっていたが、その瞳にはアルクェイドへの敵意ではなく、どこか奇妙な戦友としての清々しさが宿っていた。
「ふふっ。さよなら、二人とも。……志貴には、よろしく伝えておいて」
アルクェイドの身体が、金色の光の粒子となって朝風に溶け、ふわりと虚空へと消え去っていった。
吸血鬼の真祖が去り、庭園には完全な静寂が戻った。
「……先輩」
飛鳥が呼びかけると、シエルは観念したように、名残惜しそうに飛鳥の胸元から身を離した。
けれど、その手は未だに飛鳥のブレザーの裾をぎゅっと掴んだままだ。
シエルは俯き、乱れた濡れ髪を手で払いながら、消え入りそうな声で口を開いた。
「……飛鳥くん」
「はい」
「私……本当に、人間になれたのですね。……もう、怪物でも、神の敵でもないのですね……?」
シエルの声が、微かに震える。
数百年の間、ロアの転生に巻き込まれ、故郷を失い、死ぬことすら許されずに戦い続けてきた少女。
その長すぎた悪夢が本当に終わったのだという実感が、彼女の胸の中でまだ恐る恐る脈打っていた。
飛鳥は両手を伸ばし、シエルの冷え切った両手を、自らの温かな掌で包み込んだ。
「ええ。もう何も背負う必要はありませんよ、シエル先輩」
飛鳥は優しく、慈しむように目を細めた。
「先輩は、ただの三咲高校の二年生です。茶道部の部長で、カレーが大好きな、俺の……大切な先輩です」
「飛鳥、くん……」
シエルの蒼い瞳から、再びぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
だが、それは先ほどまでの絶望や苦痛の涙ではない。
魂の底から溢れ出る、生きて明日を迎えられることへの、純粋な歓喜の涙だった。
シエルは飛鳥の手にしがみつき、彼の温もりに引き寄せられるように、自らその胸へと再び飛び込んだ。
「ありがとう……っ、飛鳥くん……! 私を……私を生かしてくれて、本当に……ありがとう……!」
「どういたしまして。……約束、守れましたから」
飛鳥はシエルの背中を優しく叩いた。
二人の頭上、雲間から差し込んだ朝陽が、破壊された遠野邸の庭を、そして寄り添い合う二人の影を、温かな黄金色に染め上げていった。
こうして――三咲町を震撼させた長き吸血鬼の夜は、幕を下ろした。
けれど、二人の「本当の日常」を取り戻すための物語は、まだ始まったばかりだった。