死徒もカレーも捕食対象   作:にんら

17 / 19
第17話

決戦から三日が過ぎていた。

遠野邸の裏庭を焦土と化した激闘、そして市街地に影を落としていた一連の「連続通り魔事件」は、警察発表による大規模なガス爆発および暴徒の鎮圧という名目で、聖堂教会と遠野家の手によって強引に幕を引かれていた。

三咲町の空は、あの日までの濁った冷雨が嘘のように晴れ渡り、冬の訪れを予感させる乾いた青空が広がっている。

放課後の木造校舎、文化部棟の奥。

茶道部室の障子を開けると、鉄瓶の湯気とともに、香ばしいほうじ茶の匂いが漂っていた。

畳の上に正座しているのは、三咲高校の制服に身を包んだシエル。

その目元には、見慣れた楕円形の眼鏡が戻っていた。

代行者としての冷徹な法衣も、第七聖典の威容もない。そこにいるのは、どこからどう見ても生真面目で面倒見のいい「二年生のシエル先輩」そのものだった。

ただし――その眼差しだけは、いつになく鋭く細められ、目の前に座る後輩を真正面から射抜いていた。

「……さて。飛鳥くん」

「はい、シエル先輩」

与野飛鳥は、少しだけ居心地悪そうに正座の足を崩しかけながら、愛想笑いを浮かべてみせた。

ブレザーの制服、癖のない黒髪。裏庭で神代の雷霆を素手で喰らい、千年の死徒の魂を胃袋へと丸呑みにした怪物の気配は、綺麗さっぱり霧散している。どこにでもいる、気のいい頼りない一年生。

だが、今のシエルには、その仮面がどれほど規格外の怪異の上に貼り付けられたものか、痛いほどによく分かっていた。

「とぼけても無駄ですよ。……約束しましたよね? 全てが終わったら、この部室で徹底的に問い詰めると」

シエルはことりと茶碗を畳に置き、腕を組んだ。

眼鏡の奥の蒼い瞳は真剣そのものだが、その頬には微かに朱が差し、怒りというよりは「大切なものに騙されていた」ことへの拗ねたような色が滲んでいる。

「神代の雷撃を素手で咀嚼し、真祖の威圧を平然と払い除け、ロアの魂そのものを丸呑みにした『起源:捕食』……。埋葬機関の文書庫をいくら探しても、貴方のような理外の怪異についての記録はありませんでした。……貴方、本当に何者なのですか?」

飛鳥は頭を掻き、湯気の立つお茶を一口啜った。

「何者って言われても困りますよ。戸籍上も血統も、正真正銘の人間です。ただ……生まれつき、魂の形が少しばかり歪んでいたというか、胃袋が人外のゴミ処理場に向いていただけで」

「『少しばかり』で済む規模ではありません! あれだけの呪詛を喰らって、なぜ胃もたれ一つ起こさずに平気な顔で登校してこられるのですか!」

シエルが身を乗り出し、畳に両手をついて詰め寄ってくる。

制服の襟元から、彼女の微かな石鹸の香りがふわりと飛鳥の鼻先を掠めた。

その距離の近さに、飛鳥は苦笑を深める。

「不味かったですよ、ロアの魂。千年間熟成されたヘドロみたいな味で、丸一日くらい口の中が苦かったですし。……でも、先輩の肩の荷が下りたなら、安いものですよ」

「――っ」

シエルの追及の言葉が、喉元でピタリと止まった。

少年の切れ長の瞳。そこに宿る感情は、あの日、泥濘の中で自分を抱きしめてくれた時と何一つ変わっていなかった。

世界を敵に回すような人外の力を持っていながら、この少年がその牙を振るった理由は、ただ一つ――自分に「明日」を生きさせるためだけだったのだ。

シエルはぐっと言葉を詰まらせ、それから赤くなった顔を誤魔化すように俯いて、自らの膝の上のスカートをぎゅっと握りしめた。

「……そういうところです。貴方は……いつもそうやって、核心を逸らして、ずるいことを言います」

「ずるいですかね。本心なんですけど」

「ずるいです。……私を、どれだけ恥ずかしい気持ちにさせれば気が済むのですか」

シエルの声が、微かに小さく震えた。

彼女はゆっくりと顔を上げると、眼鏡を外して畳の上に置いた。

露わになった、あの裏庭で涙を流していた時の、素顔のシエル。

彼女は少しだけ潤んだ蒼い瞳で、飛鳥の右手――あらゆる呪詛を喰らい尽くした、その普通の人間の手をじっと見つめた。

「……私の、不死の呪いは……本当に、消えました」

シエルの指先が、恐る恐る、飛鳥の手の甲へと伸ばされる。

触れ合う皮膚の温度。

かつては冷酷に循環していたロアの残滓はどこにもなく、触れ合えばただ、一人の少女としての温かい熱だけが伝わってくる。

「今朝、指先を紙で切ってしまったんです。……痛くて、血が出て、すぐには塞がらなくて。普通なら、矛盾として一瞬で修復されていたはずの小さな傷が……夕方になっても、まだ赤く痛んでいました」

シエルは自分の左手の人差し指に巻かれた、小さな絆創膏を見つめた。

その痛みを、彼女はまるで奇跡の証であるかのように、愛おしそうに撫でる。

「私……本当に、死ぬことができる人間になったのですね。明日が来るのを、怖がらなくていいのですね」

「ええ。もう誰かの身代わりになる必要も、異端として自分を呪う必要もありませんよ」

飛鳥は手を返し、シエルの細い指先を、絆創膏ごと優しく包み込んだ。

触れた瞬間、シエルの肩が小さく跳ねたが、彼女はその手を引こうとはしなかった。むしろ、すがりつくように、飛鳥の手のひらへと自らの指を絡めてくる。

「……飛鳥くん」

「はい」

「私は……貴方に救われてしまいました。代行者としても、人間としても……もう、貴方のいない日常へは戻れません」

シエルの瞳から、ぽろりと一筋の雫が零れ落ち、畳に小さな染みを作った。

けれど、その口元には、花が綻ぶような、痛々しいほどに美しい笑みが咲いていた。

「ですから……責任を取ってくださいね。私のこの、新しく始まった命……貴方が隣で、ずっと見届けてくれなければ困ります」

「……随分と重たい注文ですね、先輩」

飛鳥は柔らかく目を細め、絡められた指先をしっかりと握り返した。

「いいですよ。先輩の点てるお茶も、特大盛りの激辛カレーも、全部付き合います。……俺が生きている限り、先輩の日常を脅かすものは、神だろうと悪魔だろうと、俺が一人残らず喰らい尽くして守りますから」

「ふふ……本当に、頼もしくて恐ろしい後輩です」

シエルは涙を拭うと、嬉しそうに目を細めて飛鳥の手を両手で包み直した。

張り詰めていた審問の空気は完全に溶け去り、西日の差し込む部室には、甘く穏やかな放課後の時間が戻っていた。

その時、部室の引き戸が遠慮がちにノックされた。

「――失礼します。……シエル先輩、いらっしゃいますか?」

引き戸が開き、姿を現したのは、黒髪に眼鏡をかけた少年――遠野志貴だった。

まだ顔色は少し青白く、首元に湿布を貼っているものの、その佇まいにはあの日までの狂気じみた憑き物が落ち、穏やかな表情を取り戻していた。

「あ、遠野くん。どうぞ、入ってください」

シエルは何食わぬ顔で眼鏡をかけ直し、飛鳥の手を離して居住まいを正した。その早業に、飛鳥は内心で小さく苦笑する。

志貴は部室に入ると、シエル、そして飛鳥を一瞥し、深々と頭を下げた。

「シエル先輩、それから……与野、だったよな。……二人には、本当に礼を言いたくて来たんだ」

「礼だなんて、遠野くん。私は何もしていませんよ?」

シエルが生徒会長代行のようなすました顔で微笑むが、志貴は苦笑しながら首を横に振った。

「隠さなくていいよ、先輩。……アルクェイドから、全部聞いたんだ。『教会の女と、底なしの胃袋を持った怪物が、お前の尻拭いをしてくれた』って」

アルクェイドの名が出た瞬間、シエルの眉がピクリと跳ね上がった。

「あのお姫様……余計なことばかり吹き込んで去っていきましたね……」

「あはは……でも、本当に助かった。秋葉の反転も綺麗に治まって、あいつ、今は屋敷でピンピンして俺に小言を言ってるよ。……四季の体も、魂の憑き物が落ちたおかげで、今は別邸の療養所で静かに眠ってる。医者も『奇跡的に脳の異常発熱が引いた』って驚いてたくらいだ」

志貴は飛鳥の前に歩み寄り、右手を差し出してきた。

その眼鏡の奥、直死の魔眼を宿す少年の瞳には、心からの感謝が滲んでいた。

「与野。……お前が秋葉を、そして俺の家を救ってくれたんだろ。本当に、ありがとう」

飛鳥は立ち上がり、差し出された志貴の手を握り返した。

志貴の魂の奥に眠る七夜の残滓。そして、魔眼の冷徹な気配。けれど、そこに狂乱の衝動はもうなかった。

「気にしないでください、遠野先輩。俺はただ、シエル先輩のお手伝いをしただけですから」

「お手伝い、ね……。アルクェイドが『あいつだけは怒らせるな』って本気でビビってたけどな」

志貴は肩をすくめて笑い、それからシエルへと向き直った。

「先輩。アルクェイドから、伝言を預かってるんだ。『私は城でしばらく寝るけれど、たまには退屈しのぎにあの街のお茶でも飲ませてよね』……だそうだ」

「……絶対に呼びません。あんな吸血鬼、二度とこの街の土を踏ませるものですか」

シエルがぷいと横を向くと、部室の中にドッと和やかな笑い声が広がった。

志貴が去った後、部室には再び二人きりの静寂が戻ってきた。

茜色の夕陽が畳を長く照らし、鉄瓶の湯気が金色に透き通っている。

「……ねえ、飛鳥くん」

シエルがぽつりと呟いた。

「はい?」

「お腹、空きませんか?」

飛鳥は時計を見上げた。針はすでに五時半を回っている。

「そうですね。……先輩、約束覚えてますよね?」

「もちろんですよ!」

シエルは満面の笑みを咲かせ、立ち上がって制服の裾を払った。

「駅前のカレー屋さん、新メニューの『超激辛・地獄のトリプルチキンカリー』が出たそうなんです! 今日は私が、飛鳥くんに特大盛りを奢ってあげますからね!」

「……地獄のトリプルですか。ロアの魂より胃に悪そうだな……」

「ふふ、飛鳥くんの規格外の胃袋なら、余裕で平らげられますよ!」

悪戯っぽく笑いながら、シエルは自然な動作で飛鳥の腕に自らの腕を絡ませてきた。

廊下に出れば誰かに見られるかもしれない距離。けれど、シエルはその腕を離そうとはしなかった。

茜色に染まる見晴らし見返り坂を、二つの影が寄り添うように下っていく。

怪異の夜は終わり、二人の新しい、甘く温かな日常が、ここから静かに紡がれようとしていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。