十一月半ばの夕刻。山の手の木立を揺らす木枯らしは冷え切っていたが、新星街の駅前通りへと下りてくると、帰路を急ぐ人々の熱気と飲食店の排気口から立ち上る匂いが、街に生々しい生活の体温を取り戻させていた。
「――見てください、飛鳥くん! あそこの立て看板! 『地獄のトリプルチキンカリー、挑戦者求む!』って書いてありますよ!」
シエルがブレザーの袖を引っ張りながら、駅前の雑居ビルの一階にあるインド料理店の前で立ち止まった。
その足取りは羽のように軽く、制服のスカートをふわりと揺らしている。目元にかけ直された楕円形の眼鏡の奥で、蒼い瞳が爛々と輝いていた。
「先輩……あれ、激辛マニアが救急搬送されたって噂の新メニューですよね。本当にあれにする気ですか?」
与野飛鳥は苦笑しながら、店先に掲げられた禍々しい深紅のポスターを見上げた。
『ハバネロ、ブート・ジョロキア、キャロライナ・リーパーを独自黄金比でブレンド』という物騒な惹句が踊っている。常人であれば胃壁が悲鳴を上げ、翌朝の登校すら怪しくなる代物だ。
「何を怯んでいるのですか、飛鳥くん。死徒の千年の呪詛を丸呑みにして平然としていた貴方の強靭な胃袋が、たかだか唐辛子のカプサイシンごときに屈するわけがないでしょう?」
「いや、人外の魔力と物理的な辛さは別物なんですが……」
「大丈夫です! もし飛鳥くんが倒れたら、私が責任を持って介抱してあげますから!」
胸を張るシエルの笑顔には、かつて夜の三咲町を単身で駆け、己の命を呪いながら黒鍵を投擲していた代行者の影はどこにもなかった。
自らを縛り付けていた不死の因果が解け、飛鳥にその魂の澱みを喰らい尽くされたことで、彼女は今、ただの「後輩をからかって楽しむ女子高生」としての生を全力で謳歌していた。
「……分かりましたよ。先輩のおごりですし、付き合います」
「よろしい! では、いざ戦場へ参りましょう!」
カランコロン、とドアベルを鳴らして店内に足を踏み入れる。
香辛料の濃厚な香りが満ちる店内は、夕方の早い時間帯ということもあって客足はまばらだった。奥のボックス席に並んで腰を下ろすと、シエルは迷うことなく店員を呼び、目当ての特大盛りを二つ注文した。
「先輩、本当に自分もそれ食べるんですか?」
「当然です。人に勧めておいて自分が逃げるなど、茶道部部長の名折れですからね」
すました顔で水を一口含むシエル。
その横顔を眺めながら、飛鳥はテーブルの下で自らの掌を握り直した。
(……本当に、綺麗に消えてるな)
飛鳥の『捕食』の知覚は、シエルの全身を巡る生体エネルギーの純度を確かめていた。
かつて彼女の神経系にこびりついていたロアの冷たい残滓は、一欠片も残っていない。心臓の規則正しい鼓動、皮膚の表面を流れる微かな発汗、そして何より、傷を負えば血を流し、寿命が来れば老いて死んでいくという「人間としての有限の理」。
世界が彼女をロアと同一視していた矛盾のパスは、飛鳥の炉心の中で完全に消化され、無へと帰したのだ。
「……飛鳥くん? 人の顔をじっと見つめて、どうしたのですか?」
シエルが不思議そうに小首を傾げた。
至近距離で見つめ合わされ、眼鏡の奥の白い頬がほんのり朱に染まる。
「いえ。……先輩、本当に笑うようになったな、と思って」
「な、なんですか急に……! 私だって普段から笑っていましたよ!」
「嘘ばっかり。前の先輩の笑顔、どこか張り詰めてて、今にも消えちゃいそうでしたから」
飛鳥が柔らかく目を細めると、シエルはぐっと言葉を詰まらせた。
彼女は机の上のグラスを両手で包み、視線を落として小さく唇を尖らせた。
「……それは、そうです。あの頃の私は、いつロアが現れて自分がどう壊れるかも分からず……自分の明日なんて、信じていませんでしたから」
シエルの声が、微かに低くなる。
「学校に通っていたのも、半分は監視と隠蔽のためでした。……でも、飛鳥くんが茶道部に来てくれて、くだらないお喋りをして、お菓子を食べて……その時間だけが、私にとって唯一の『呼吸のできる場所』だったんです」
シエルは顔を上げ、潤んだ蒼い瞳でまっすぐに飛鳥を見つめた。
「貴方が化け物だったとしても、私を救ってくれた神様だったとしても、関係ありません。……私にこの温かい明日をくれたのは、飛鳥くんですから」
「先輩……」
不意打ちのように紡がれた真摯な言葉に、今度は飛鳥の方が微かに気圧された。
だが、その甘やかな空気を切り裂くように――。
「オマタセシマシター! ジゴクノトリプルチキンカリー、トくだいモリ、フタツネー!」
威勢のいい店員の声とともに、テーブルの上に運ばれてきたのは、深紅のマグマのように煮えたぎる巨大なカレー皿だった。
立ち上る湯気だけで鼻腔の粘膜がチリチリと痛む。赤唐辛子と黒胡椒が容赦なく振りかけられたその威容に、飛鳥は思わず引きつった笑いを漏らした。
「……これ、兵器の実験場じゃないですよね?」
「ふふ、受けて立ちましょう! いただきます!」
シエルは目を輝かせ、スプーンを深紅の海へと突き立てた。
三十分後。
駅前の雑居ビルを出た二人の足取りは、対称的だった。
「……辛かった。あれは魔術的な毒気じゃなくて、純粋な生物兵器ですよ……」
飛鳥は胃を庇うように、気持ち前屈みで額の汗をハンカチで拭いながら、大きく息を吐き出した。
さすがの捕食者の炉心も、胃袋に直接放り込まれた純粋なカプサイシンの暴虐には、少なからず消化器系の抗議を受けていた。
一方で、シエルは満足そうに口元をナプキンで拭い、頬を高潮させて上機嫌だった。
「美味しかったですね! スパイスの調合が絶妙で、特にあのジョロキアの刺激がチキンの旨味を引き立てていました! ……飛鳥くん、顔が少し青いですよ? 情けないですね、あんなに強かったのに」
「先輩の味覚がおかしいんです。……舌の神経、本当に人間なんですか?」
「失礼ですね! 立派な人間の、カレーを愛する女子高生の舌ですよ!」
ぷくっと頬を膨らませるシエル。
その無邪気な仕草に、飛鳥の口元から自然と笑みがこぼれた。
夜の帳が下り、駅前通りの街灯がぽつぽつと灯り始める。冷たい風が二人の間を吹き抜けていくが、激辛カレーで芯から温まった身体には、心地よい清涼感だった。
ふと、シエルが足を緩めた。
人通りの途切れた、公園脇の並木道。
シエルは俯き加減に歩幅を小さくすると、コートのポケットから手袋を外し、そっと飛鳥のブレザーの袖口を引いた。
「……飛鳥くん」
「はい?」
飛鳥が足を止めると、シエルは躊躇うように、けれど確かな意志を込めて、自らの冷えかけた素手を飛鳥の手のひらへと滑り込ませてきた。
細く、柔らかな指先。
以前のように、呪詛を吸い上げるための接触ではない。ただ温もりを求め、相手の存在を確かめるための、恋人同士の繋ぎ方。
シエルは指と指をぎゅっと絡め合わせると、飛鳥の腕に自らの肩をぴったりと密着させてきた。
「……少しだけ、遠回りして帰りませんか?」
眼鏡の奥から上目遣いに見上げてくる瞳は、夜の街灯を反射して、吸い込まれそうなほど深い藍色に潤んでいた。
昼間の部室で見せていた凛とした先輩の顔はどこへやら、そこにあるのは、少しでも長く好きな人の隣にいたいと願う、ただの一人の少女の表情だった。
「買い食いしたのがバレたら、明日の朝、茶道部の顧問に怒られますよ」
「いいんです。怒られたら、二人で並んでお説教を受ければいいですから」
くすりと悪戯っぽく笑い、シエルは飛鳥の腕にさらに体重を預けてきた。
薄いコート越しに伝わる、柔らかな体温と、トクン、トクンと規則正しく刻まれる確かな心臓の鼓動。
飛鳥は観念したように息を吐き、絡められた手をしっかりと握り返した。
「じゃあ……坂の上の展望台まで、付き合いますよ」
「はい!」
満面の笑みを咲かせたシエルの声が、冬の夜気の中へと溶けていく。
かつて数多の血と呪いに塗れ、死徒の影に脅かされていた三咲町の夜。
その暗闇を喰らい尽くした少年の隣で、解脱の光を得た少女が、二度と離さないとばかりにその温かな手を握りしめていた。