見晴らし見返り坂を登りきった高台、三咲町を一望できる展望台の広場には、吹き抜ける風の音以外に人の気配はなかった。
街灯の青白い光が、古びたベンチとコンクリートの柵を寒々しく照らし出している。けれど、眼下に広がる街並みは、昨日までの澱んだ不穏さが嘘のように、無数の家庭の窓明かりと幹線道路のテールランプが穏やかな光の絨毯を織り成していた。
「……綺麗ですね」
シエルがフェンスに両手をかけ、白い息を吐きながら小さく呟いた。
首元に巻いた青いマフラーに顔の半分を埋め、眼鏡の奥の蒼い瞳を細めている。
「そうですね。あの下で、数日前まで怪物が暴れ回ってたなんて、誰も信じないでしょうね」
与野飛鳥は隣に立ち、ポケットに手を入れたまま横顔を眺めた。
かつてその身を苛んでいたロアの呪いも、教会の異端として自分を縛り付けていた不死の重圧も、いまのシエルからは綺麗さっぱり消え去っている。風に揺れるショートヘア、吐き出される白い息の温もり。そのすべてが、生きている一人の人間としての確かな輪郭を取り戻していた。
「……飛鳥くん」
シエルが不意に、フェンスから手を離して振り返った。
その表情には、激辛カレーを食べて悪戯っぽく笑っていた時の陽気さはなく、どこか張り詰めた、けれどひどく澄んだ真剣さが宿っていた。
「はい?」
「私……ずっと、怖かったんです」
シエルは自分の両手を胸の前で重ね、指先を強く握りしめた。
「ロアが消えて、不死の呪いが解けて……普通の人間になれたことが、本当に信じられなくて。朝起きた時、もしかしたらまたあの地下牢に逆戻りしているんじゃないか、飛鳥くんが笑いかけてくれたあの放課後も、全部死に瀕した私の都合のいい夢だったんじゃないかって」
彼女の声が、夜風の中で微かに震える。
数百年の間、奪われ、汚され、死ぬことすら許されずに戦い続けてきた少女の、あまりにも深すぎる心の傷。
飛鳥がその原因たるロアの魂を噛み砕いて消滅させたとしても、魂に刻み込まれた痛みの記憶だけは、そう簡単に拭い去れるものではなかった。
「でもね、飛鳥くん。さっき……お店で貴方の手を取った時、分かったんです」
シエルが一歩、飛鳥へと歩み寄る。
彼女の靴音が、静かな展望台にコツンと響いた。
「貴方の手のひらの熱が、私をここに繋ぎ止めてくれている。……貴方が隣にいてくれるから、私は『明日が来るのが怖い』んじゃなくて、『明日も飛鳥くんに会いたい』と思えるようになったんです」
シエルは両手を伸ばし、飛鳥のブレザーの前襟を、指先でぎゅっと掴んだ。
至近距離で見つめ合わされる蒼い双眸。そこには、以前のように「守るべき無力な後輩」を見つめる保護の目線は欠片もなかった。
自分を地獄から引きずり上げ、人間に戻してくれた、たった一人の男に対する、痛切なまでの情愛と渇望。
「先輩……」
「狡いです、飛鳥くん。……私の重荷を全部喰らい尽くして、自分は平然とした顔で後輩のふりを続けて。……そんなの、好きにならないわけがないじゃないですか」
とうとう口から零れ落ちた、飾らない告白。
シエルの白い頬が、夜の冷気のせいだけではなく、鮮烈な林檎色に染まり上がる。
恥ずかしさに耐えかねたように、彼女はそのまま額を飛鳥の胸板へと押し当ててきた。
「……もう、絶対に離してあげませんから。私のこの先の人生、責任を取って全部付き合ってもらいますからね」
くぐもった声で、けれど絶対に譲らない強さで紡がれる言葉。
飛鳥の胸の奥底で、異形の炉心がトクンと甘く脈打った。
怪異の呪詛を喰らう時のような獰猛な渇きではない。ただ、目の前の愛おしい少女の温もりを、永遠に抱きしめていたいという、人間としての純粋な衝動。
飛鳥はポケットから両手を抜くと、シエルの華奢な背中に回し、隙間なくその身体を引き寄せた。
「……はい。望むところですよ、シエル先輩」
「飛鳥くん……」
「俺の魂が尽きるまで、先輩の隣にいます。……先輩が淹れてくれるお茶も、激辛カレーも、小言も、全部俺が受け止めますから」
飛鳥の腕の力に導かれるように、シエルがゆっくりと顔を上げた。
眼鏡のフレーム越しに重なり合う視線。
どちらからともなく、二人の顔が近づいていく。
吐息が触れ合うほどの距離で、シエルが静かに瞼を閉じた。
冷え切った唇の上に、温かな飛鳥の唇が重なる。
かすかな吐息が漏れ、シエルの指が飛鳥の背中の布地を強く握りしめた。
深く、熱く、互いの存在を魂の奥底まで確かめ合うような口づけ。
風が吹き抜け、街の光が二人を優しく照らし出す中、二人の境界線は甘やかに溶け合っていった。
唇が名残惜しそうに離れた時、シエルは潤んだ瞳で飛鳥を見上げ、ふにゃりと蕩けるような笑みを零した。
「……飛鳥くんの唇、少しだけカレーの味がします」
「先輩が無理やり食べさせたんでしょう。……もう一回、味見しますか?」
「……はい。何回でも、してください」
夜の展望台で、寄り添う二つの影は、寒さを忘れたかのように再び熱い温もりの中へと沈んでいった。