秋の夜気は、陽が沈むとともに加速度的にその純度を研ぎ澄まし、三咲町の古い街並みを冷たい底冷えの中に閉じ込めていく。
街灯の光が途切れる新星街の裏路地。飲食店から排出される油の匂いと、吹き溜まりの落ち葉が放つ腐葉土の気配が混ざり合う暗がりの中、与野飛鳥はブレザーの襟に顎を埋め、静かに息を潜めていた。
「……随分と、行儀の悪い集まり方をしてるな」
飛鳥の呟きは、夜風にかき消されて誰の耳にも届かない。
細めた双眸の奥、彼の視界には、常人には決して知覚できない「霊的熱量」の濁流がはっきりと映し出されていた。
路地の奥、トタン屋根の影。三つの人影が、痙攣するように身を寄せ合っている。
着ているのはボロボロに擦り切れた作業着やジャージ。一見すれば浮浪者か泥酔者のように見えるが、その肌は死蝋のように白く乾ききり、眼球には生きた人間の宿す光彩が微塵も存在しない。
死徒の下位種――すでに脳の機能を停止し、吸血鬼の眷属としてただ「生きた血肉」を求めて彷徨うグールたちだった。
三体のグールは、足元に倒れ伏す野良犬の死骸を取り囲み、骨を砕く鈍い音を立てて貪り食っていた。
腐敗した肉の臭気と、わずかに漏れ出る吸血鬼特有の呪詛のエーテル。その澱みは、この数週間で三咲町の暗部に確実に根を広げつつある「病巣」の欠片だった。
(今夜のシエル先輩の巡回ルートは、このブロックの表通りだ。……こんな汚らしい残骸を、あの人に見せる必要はない)
飛鳥はポケットから両手を抜き、ゆっくりと路地裏の泥を踏み締めて前進した。
足音は一切立たない。質量を持った肉体でありながら、地面の埃一つすら巻き上げない歩法。
グールの一体が、獲物ではない「新たな生体反応」を感知してぎょろりと白濁した眼球を巡らせた。
血に濡れた口腔から、喉を鳴らすような威嚇の濁音。
『ギ……ィ……アァ……ッ!』
異様な筋力でアスファルトを蹴り、乾いた爪を鎌のように振り上げて飛鳥の喉元へと飛びかかってくる。
常人であれば、その速度と威圧感だけで腰を抜かし、為す術もなく頸動脈を引き裂かれるところだろう。
だが、飛鳥は身じろぎ一つしなかった。
驚きも、恐怖も、あるいは退魔の士が抱くような義憤すらもない。ただ、空腹の獣が目の前に転がってきた木の実を一瞥するような、絶対的な無関心。
「――ごちそうさま、とは言えないな。泥水みたいな味しかしないんだから」
飛鳥が右手をほんの数センチ、前へと掲げた。
その瞬間、彼の魂の深奥にある『起源』――**『捕食』**の炉心が、音もなく臨界まで励起した。
飛鳥の手のひらを中心にして、空間そのものが黒い鏡のように歪んだ。
物理的な触手でも、魔術の術式でもない。それは、世界に存在する「超常の歪み」そのものを、存在の根底から貪り食うための不可視の吸引孔だった。
飛びかかってきたグールの爪が飛鳥の喉元に触れる寸前――ガチリ、と硬質な概念の軋み音が路地に響いた。
『――ッ!?』
グールの絶叫が、音になる前に掻き消える。
グールの全身を構成していた死徒の呪詛、死体を無理やりに動かしていた人外の魔力、そして霊基の残滓が、まるで掃除機に吸い込まれる煙のように、一瞬にして飛鳥の掌の孔へと引きずり込まれていった。
バキバキ、ゴク、と飛鳥の体内深くで、異形の炉心が怪異の霊基を噛み砕く音が鳴る。
呪詛の毒素は飛鳥の規格外の消化器官によって完全に中和され、無害な純粋魔力へと変換されて四肢の末梢へと吸収されていく。
残されたのは、魔力を根こそぎ奪われ、ただの「時間の経過した灰」へと戻った肉塊だけだった。
飛びかかってきたはずの怪異は、飛鳥のブレザーの裾に触れることすら叶わず、路面の上にサラサラとした白い灰の山となって崩れ落ちた。
「ギャ……ッ!」
「ア……!」
異変に気づいた残る二体のグールが、本能的な恐怖に駆られて背を向け、路地の奥へと逃げ出そうとする。
人知を超えた怪物であるはずの彼らが、目の前の高校生を「絶対に勝てない捕食者」だと、その壊れかけた脳で直感したのだ。
「逃がすわけないだろ。……先輩がここを通る前に、綺麗に片付けなきゃいけないんだから」
飛鳥の姿がブレた。
次の瞬間には、逃げるグールの背後に音もなく回り込んでいる。
両手を無造作に伸ばし、二体の頭部を背後から鷲掴みにした。
『ヒッ――』
悲鳴を上げる暇すら与えない。
飛鳥の掌から噴き出した『捕食』の渦が、二体の頭蓋から一気に全身へと浸透していく。
体内の腐敗した血も、魂の澱みも、吸血鬼の呪いも、すべてが飛鳥の肉体というブラックホールへとなだれ込み、咀嚼され、消滅していく。
シュウウウ……と微かな蒸気のような燐光を放ちながら、二体の巨躯が足元から崩壊し、夜風にさらわれて灰となって散っていく。
ものの数秒。三体の死徒の眷属は、この世界から跡形もなく「消去」されていた。
飛鳥は静かに息を吐き出し、口元に手の甲を当てた。
微かな鉄の味と、胸の奥で燻る生温かい熱。
「……不味いな。やっぱり死徒の端くれなんて、雑味ばかりで胸焼けがする」
これが、与野飛鳥という少年の「夜の顔」だった。
三咲高校の誰もが、彼をただの穏やかで頼りない後輩だと思っている。
けれどその実態は、聖堂教会が血眼になって捜索し、死徒の二十七祖すら恐れ慄くべき「超常の捕食者」。人外の闇を貪り食うことでしか己の衝動を鎮められない、理外の特異点。
飛鳥はブレザーの埃を払い、路地に散らばった灰を靴底で軽く散らすと、何事もなかったかのように表通りの歩道へと歩き出した。
街灯の光が届く大通りに出た瞬間、飛鳥は鋭敏な知覚で「それ」を捉えた。
カツ、カツ、と硬質な靴音。
アスファルトを踏み締めるそのテンポ、体重の乗せ方、そして大気を通じて伝わってくる、凛とした清涼なエーテルの匂い。
(……来た)
飛鳥は一瞬で戦闘の気配を完全に霧散させ、肩の力を抜いて、いつもの「気のいい後輩」の顔を作った。
建物の角から姿を現したのは、フード付きの黒いハーフコートを羽織ったシエルだった。
制服の眼鏡はそのままに、首元には青いマフラー。手にはコンビニの白いビニール袋を提げているが、その歩幅の精密さと周囲への警戒眼は、完全に「代行者」のそれだった。
シエルは周囲の路地に視線を走らせ、微かに眉をひそめた。
「……妙ですね。確かにこのあたりから、死徒の眷属の不快な気配が漂っていたはずなのですが」
シエルの持つ最高位の探知能力ですら、飛鳥が完全に喰らい尽くした後では、グールの痕跡を捉えることはできない。あるのは、ほんの微かに残る「何かが消滅した」空気の揺らぎだけだった。
「……あれ? シエル先輩?」
飛鳥はわざとらしく驚いた声を上げ、街灯の下からシエルへと手を振った。
シエルが弾かれたように顔を上げる。
「――飛鳥くん!?」
彼女の表情が一瞬で戦士の冷徹さから、慌てふためく少女のそれへと崩れた。
シエルは小走りで駆け寄ってくると、飛鳥の肩を掴み、上下をまじまじと検分するように見つめてきた。
「飛鳥くん、どうしてこんな時間に、こんな人気のない場所にいるのですか!? あれほど寄り道をしないで真っ直ぐ帰りなさいと、夕方にあれほど念を押したはずですよ!」
怒気を含んだ声。しかしその奥にあるのは、大切な後輩が怪物たちの牙にかかりはしなかったかという、痛々しいほどの安堵と心配だった。
「あ、すみません先輩。実は、さっき言ってた駅前の和菓子屋さん、部活帰りに寄ったらちょうど大福が売り切れちゃってて。……どうしても明日の部活に先輩に食べてほしくて、隣町の深夜営業の分店まで買いに行ってたんです」
飛鳥は申し訳なさそうに頭を掻きながら、ポケットから取り出した小さな紙袋を掲げてみせた。
もちろん、これはグールを狩る前に駅前で買っておいた本物の大福だ。
シエルは紙袋を見つめ、それから信じられないものを見るように目を丸くした。
「だ、大福……? そんなもののために、こんな遅くまで出歩いていたのですか!?」
「そんなものだなんて酷いなぁ。先輩、あんこ好きだって言ってたじゃないですか。せっかく手に入ったのに」
「う……そ、それはそうですけれど……! ですが、今は街で物騒な事件が起きていると言ったでしょう! もし飛鳥くんに何かあったら、私……」
シエルの声が、微かに途切れた。
眼鏡の奥の青い瞳が、痛ましそうに揺れる。
(……この人は、本当に)
飛鳥はその瞳の揺らぎを見逃さなかった。
シエルにとって、飛鳥のような人間は単なる「後輩」ではない。
自分がどれほど手を血に染め、教会の暗部で怪物を屠り続けようとも、翌日学校へ行けば「先輩、おはようございます」と屈託のない笑顔を向けてくれる、眩しい日常そのものなのだ。
その日常が自分の知らないところで壊れてしまうことを、彼女は何よりも恐れていた。
シエルは小さく息を吸い、自分を落ち着かせるように胸元を押さえた。
「……とにかく、無事でよかったです。本当に、何事もなくて……」
「心配性ですね、先輩は。ほら、怪我一つしてませんよ」
飛鳥は両手を広げてみせ、それから自然な動作で、シエルの羽織っているハーフコートの袖口にそっと触れた。
「先輩こそ、こんな時間にどうしたんですか? コンビニの袋……あ、カップ麺ですか? 夜食?」
「え、ええ……まあ、そんなところです。少し勉強をしていて、小腹が空いたので買い出しに」
シエルが気まずそうにビニール袋を後ろへ隠す。
もちろん、それは夜の巡回任務の合間に買った偽装用の夜食だった。
飛鳥は袖口に触れた指先から、再び微小な『捕食』の術理を滑り込ませた。
シエルが先ほどまで街を走り回って蓄積した筋肉の疲労物質、そして彼女の霊核の奥で軋んでいる「死徒への敵意と緊張の毒」。それらを、彼女に気付かれないようにスッと自らの体内へ吸い上げ、無害化する。
「……あ」
シエルが小さく声を漏らした。
冷え切っていた指先に、じんわりと温かい感覚が戻り、強張っていた首筋の緊張がふっと解ける。
「先輩、やっぱり冷えてますよ。早く帰って、温かいもの食べて寝てください」
「……飛鳥くん」
シエルは自分の袖口に触れる飛鳥の手を見つめ、それから困ったように、けれどひどく愛おしそうに目を細めた。
「飛鳥くんは、本当に優しいですね。……でも、甘やかすのは私の方なんですから、あまり先輩の真似をしないでください」
「はいはい。じゃあ、大通りまで一緒に歩きましょう。そこまで行けば街灯も明るいですし」
「ええ、そうしましょう」
並んで歩き出す二人。
シエルの横顔には、先ほどまでの張り詰めた戦士の面影はなく、ただの後輩思いの優しい上級生の笑顔が戻っていた。
けれど、その穏やかな夜風の向こう側――三咲町の霊脈が、不穏な軋み音を立てていた。
遠野の屋敷に帰還した遠野志貴。
そして、この街へと足を踏み入れた「真祖の姫」アルクェイド・ブリュンスタッド。
二つの理外の歯車が噛み合い、白昼の惨劇へとカウントダウンが始まろうとしていることを、二人はまだ口にしていなかった。
飛鳥はシエルの歩幅に合わせながら、夜空に浮かぶ冷たい月を見上げた。
(先輩。……どれほど大きな波が来ようと、貴女のこの笑顔だけは、俺が絶対に喰い破らせない)
その決意を胸の炉心に秘め、飛鳥はシエルと共に、静かな夜の坂道を下っていった。