昨日までの肌寒さが嘘のように、柔らかい秋の陽光が三咲高校の校舎を包み込んでいる。
中庭の銀杏は鮮やかな黄金色に染まり、風が吹くたびにハラハラと葉を散らしてグラウンドの隅を埋めていた。
昼休みの喧騒が響く渡り廊下。与野飛鳥は購買で買った紙パックのいちごオレを指先に引っ掛け、のんびりとした足取りで歩いていた。
「あ、飛鳥くん!」
向こうから小走りに駆けてきたのは、藍色のブレザーに身を包んだシエルだった。
手には大きなトレイ。その上には、食堂の名物である特大盛りの激辛チキンカレーと、サイドメニューの揚げ餃子がこれでもかと積まれている。
「こんにちは、シエル先輩。……今日も相変わらず、視界を圧倒する標高ですね、そのカレー」
「ふふん、見くびらないでください。今日のカレーは特別ですよ。厨房のおじさんに頼み込んで、ガラムマサラとハバネロパウダーを通常の三倍にしてもらいましたから! これ一杯で、午後からの活力も十全というものです!」
誇らしげに胸を張るシエルの笑顔は、絵に描いたような無邪気な女子高生のものだった。
だが、飛鳥の眼はごまかせない。
至近距離ですれ違う瞬間、彼女の爪先から伝わる微かな筋肉の疲労度。昨夜、飛鳥と別れた後も、彼女は明け方まで街の霊脈の境界を巡回していたはずだ。瞳の奥にほんの僅かだけ差している影を、彼女は持ち前の愛嬌とカレーへの情熱で覆い隠していた。
「先輩、午後から茶道部ですよね? そんなにスパイスを摂取して、お茶の繊細な味が分からなくなっても知りませんよ」
「だ、大丈夫です! お茶を点てる前には、きちんとお湯で口内を清めますから! ……それより飛鳥くん、昨日の大福、本当に美味しかったです。あんなに上品なこし餡は久しぶりに食べました」
シエルは足を止め、トレイを片手に器用に持ち直すと、心からの柔らかい笑みを飛鳥に向けた。
「昨日は少し厳しく言ってしまいましたが……嬉しかったです。飛鳥くんが、私のためにあんなに一生懸命になってくれて」
「……どういたしまして。先輩が喜んでくれたなら、走った甲斐がありましたよ」
飛鳥は少しだけ目を細めて笑った。
彼女が守りたい日常。そして、彼女が人間として息を吸うための、このささやかな時間。
シエルが浮かべるその屈託のない笑顔を見るたびに、飛鳥の胸の奥底で、異形の炉心は静かにその獰猛な顎(あぎと)を眠らせることができた。
「では、放課後の部室で待っていますね。今日は私が、とっておきの玉露を淹れてあげますから」
「はい。楽しみにしてます」
シエルは満足げに頷くと、軽快なステップで食堂の方へと去っていった。
その後ろ姿を見送り、飛鳥が小さく息を吐き出した、その時だった。
――ズズ……ッ。
頭蓋の裏側を、錆びた針で引っ掻かれたような悪寒が走った。
飛鳥の足がピタリと止まる。
渡り廊下のガラス窓越し、校舎の向こう側――三咲町の駅前、白昼の商業エリアから、凄まじい密度の「概念の崩壊」が感知された。
(……なんだ、この霊気の断絶は?)
魔術の行使ではない。吸血鬼の眷属が暴れるような、下品で湿った呪詛でもない。
それは、存在そのものの「死」を直接抉り出し、不可逆の虚無へと叩き落とすような、絶対的な理不尽の刃の気配。
そして、その刃によって断ち切られたのは――。
この街の生態系の頂点に君臨するはずの、あまりにも清廉で、あまりにも強大な「天災」の霊基。
(……アルクェイド・ブリュンスタッド。あの真祖の姫が、殺された……?)
飛鳥の切れ長の瞳が、スッと細められた。
真祖。吸血鬼の頂点であり、地球の触覚とも呼ばれる自然霊の受肉体。通常兵器はおろか、教会の概念武装や最高位の魔術すら容易に弾き返す「不滅の受肉体」が、今この瞬間、街の白昼の雑踏で完全にバラバラに解体されたのだ。
犯人の気配は、あまりにも身近なものだった。
(遠野……志貴)
飛鳥は手にした紙パックを握りつぶしそうになるのを、辛うじて堪えた。
あの大人しく、貧血がちで、いつ消えてもおかしくないような佇まいをしていた高校生。
彼の奥底に眠っていた「直死の魔眼」が、白昼の衝動によって暴走したのだ。七夜の暗殺術の血脈と、万物の死を視る眼が重なり合い、彼は出会い頭に真祖の姫を十七分割に解体した。
世界が、急速に歪み始めている。
「……あいつ、なんてことをしてくれたんだ」
飛鳥は窓の外、青い空を見上げた。
真祖は死なない。肉体をバラバラにされようと、自然のバックアップを受けていずれ再生する。
だが、その代償は計り知れない。
ただでさえ自らの「吸血衝動」を抑え込むために霊力の八割を費やしているアルクェイドが、一度完全に殺され、無理矢理に肉体を再構築すればどうなるか。
弱体化。
そして――抑えきれなくなる、飢餓感と吸血衝動の暴走。
さらに最悪なのは、この街に潜伏している死徒――「ロア」の存在だ。
天敵であるアルクェイドが弱体化し、街の霊脈が乱れれば、ロアは一気にその活動を活発化させる。そしてロアを追うシエルもまた、その血みどろの渦中へと自ら身を投じていくことになる。
(先輩が、あの過酷な戦場に引きずり出される……)
飛鳥の魂の深奥にある『起源』――『捕食』の炉心が、低く、重い脈動を始めた。
遠野志貴がアルクェイドを殺したことで、運命の歯車は一気に加速した。
これから街は、死徒の蠢く狩場へと変貌する。
シエルは己の過去と贖罪のために、第七聖典を担ぎ、死をも恐れずにロアと対峙しようとするだろう。
「……冗談じゃない」
飛鳥は踵を返した。
放課後の茶道部でのお茶会。あの人が無邪気に笑う平穏な時間。
それを奪おうとするものが、死徒の蛇であろうと、狂った真祖であろうと、あるいは運命そのものであろうと関係ない。
飛鳥の身体から、普段の頼りない後輩の気配が綺麗に消え失せた。
その双眸に宿るのは、暗闇の頂点に立つ捕食者の、冷徹なまでの絶対的な意志。
「先輩の日常を汚すなら――相手が誰だろうと、俺がその霊基ごと、骨の髄まで喰い尽くすだけだ」
黄金色の銀杏の葉が舞い散る中、与野飛鳥は静かに、自らの狩りの支度を整え始めていた。