本校舎の隅、普段は文化部の部室としてあてがわれている別棟の一室。
「――はい、どうぞ。お待たせしました、飛鳥くん」
シエルが正座の姿勢のまま、両手で茶碗を差し出してくる。
濃い緑色の水面には、微細な泡が均一に立ち、秋の冷えた空気を遮るように温かな蒸気が立ち上っていた。
「ありがとうございます、先輩」
与野飛鳥は礼を執り、茶碗を受け取った。
指先から伝わってくる確かな陶器の熱。茶を一口含むと、心地よい苦味の奥から、まろやかな甘みが舌の上に広がる。
「……うん、すごく美味しいです。やっぱり先輩の点てるお茶は、そこらの専門店よりずっと落ち着きますね」
「ふふ、お上手ですね。でも、素直に褒められると悪い気はしません。……今日は少し、お湯の温度を低めにして旨味を引き出してみたんです」
シエルは満足そうに目を細め、自らの分の茶碗に口をつけた。
眼鏡の奥の青い瞳。その表情は、どこまでも穏やかで、放課後の部活動を楽しむ普通の女子高生そのものに見える。
けれど、飛鳥の眼は欺けない。
彼女の制服の襟元、首筋の皮膚の下を巡る血液の拍動が、昼間よりも明らかに鋭角に研ぎ澄まされている。
昼休みに三咲町の商業エリアで起きた、あの未曾有の霊的切断――遠野志貴による真祖アルクェイドの殺害。
その異常事態を、代行者であるシエルが察知していないはずがなかった。彼女は今、内心の張り詰めた緊張を、このお茶を点てる所作で辛うじて押し殺しているのだ。
「……先輩」
「はい? 何でしょう、飛鳥くん」
「今日、なんだか街が騒がしくないですか? 放課後、校門のあたりにパトカーのサイレンが何回も聞こえましたし……。駅前の方で、また大きな事故でもあったんでしょうか」
飛鳥はわざと、何も知らない一般生徒としての疑問を口にした。
シエルの指先が、茶碗の縁でピクリと硬直した。
ほんの一瞬、コンマ数秒の逡巡。シエルは茶碗を膝の上へと静かに下ろすと、困ったように眉尻を下げてみせた。
「……ええ。どうやら、白昼の繁華街でかなり凄惨な事件があったみたいです。詳しいことはまだ警察も発表していませんが……通り魔のようなもの、だとか」
「通り魔……白昼堂々、そんなことが起きるなんて物騒ですね。先輩の家の方は大丈夫なんですか?」
「私の住んでいるアパートの周辺は、今のところ静かなものですよ。……ですが、飛鳥くん」
シエルは身を乗り出し、飛鳥の瞳をまっすぐに見つめた。
その眼差しには、先ほどまでの穏やかさを塗りつぶすほどの、痛々しいまでの真摯さと保護の感情が滲んでいた。
「昨日も言いましたが、本当に……本当に気をつけてください。今回の事件は、これまでのものとは少し性質が違います。街の中に、常識では測れない『危険』が紛れ込んでいるのは間違いありませんから」
彼女の声は低く、微かに震えていた。
常識では測れない危険。彼女が言っているのは通り魔などではなく、弱体化して暴走しかねない真祖の姫であり、それに呼応して動き出すであろう死徒ロアのことだ。
シエルにとって、目の前にいる飛鳥は「自分が血みどろになってでも守るべき、無垢な日常の象徴」だった。
この少年が放課後に部室へ顔を出し、たわいもない雑談に笑い、温かいお茶を飲んで帰路につく――その何気ない生活を守ることこそが、かつてロアの器として無数の命を奪ってしまった彼女の、唯一の生きる杖だった。
「……飛鳥くんのような普通の人たちが、理不尽に命を脅かされるようなことだけは、絶対に……あってはならないんです」
シエルは独り言のように呟き、自らのブレザーの胸元を強く握りしめた。
その指先の震えから、彼女の魂の奥底で軋んでいる「過去の罪悪感」と「ロアへの復讐心」が、黒い澱みとなって漏れ出しかけている。
(……そんな顔をするなよ、先輩)
飛鳥の胸の奥が、ちくりと痛んだ。
彼女は今、自らが背負う不死の呪いと、いつ果てるとも知れない吸血鬼狩りの重圧に押し潰されそうになりながら、それでも目の前の後輩の安全を最優先に祈っているのだ。
飛鳥は茶碗を畳に置くと、畳の上に置かれていたシエルの左手の上へ、自らの右手を重ねた。
「――っ、飛鳥くん?」
シエルが驚いたように目を丸くし、頬をわずかに染めて身を引こうとする。
だが、飛鳥はその手を離さなかった。無理に力を込めるのではなく、包み込むような温かな力加減で、彼女の細い指先を握る。
「大丈夫ですよ、先輩」
飛鳥は柔らかく目を細め、安心させるように微笑んだ。
「俺は絶対に無茶なことはしませんし、危ない場所にも近づきません。それに……先輩がそんなに心配して祈ってくれているなら、俺が事件に巻き込まれるわけないじゃないですか」
「そ、それは……そうですけれど……」
「先輩の手、やっぱり少し強張ってます。……お茶を点ててくれたお礼です。少し、力を抜いてください」
飛鳥は握った手のひらから、魂の奥底に眠る『起源』――『捕食』の吸引孔を、極小の規模で解放した。
シエルの皮膚を通じて、彼女の霊核から染み出していたロアの呪詛の澱み、そして極限の精神的緊張が、音もなく飛鳥の肉体へと流れ込んでいく。
飛鳥の体内深くに座す異形の炉心が、ドクリ、と重く脈打った。
流れ込んできた呪詛の毒気を、飛鳥の魂は一切の抵抗なく噛み砕き、清浄な魔力へと変換して己の糧とする。
「……あ……」
シエルの口から、微かな吐息が漏れた。
先ほどまで頭蓋を締め付けていた重苦しいプレッシャーと、胸の奥で渦巻いていたロアへの昏い衝動が、まるで春風に吹かれた淡雪のように、ふわりと消え失せていく。
代わりに満ちてくるのは、飛鳥の手のひらから伝わる、驚くほど温かで優しい体温だった。
シエルは自分の手を見つめ、それから赤くなった顔を慌てて俯かせた。
「も、もう……飛鳥くんは、不意打ちが多すぎます。……男の子が、年上の女の手をそんなに簡単に握るものではありませんよ」
「あはは、すみません。先輩があんまり辛そうな顔をしてたから、元気づけようと思って」
飛鳥は何食わぬ顔で手を離し、頭を掻いた。
シエルの表情からは張り詰めた影が綺麗に消え、ただの照れ屋な女子高生の柔らかさが戻っていた。
その時、遠くの校舎から下校を告げる鐘の音が響いた。
「……もうこんな時間ですね。名残惜しいですが、今日はここまでにしましょうか」
シエルは立ち上がり、エプロンを外しながら窓の外を見やった。
街の明かりが点々と輝き始めている。その光の海の下で、今夜から始まる凄惨な狩りの予兆を感じ取っているのだろう。彼女の横顔には、再び代行者としての冷徹な意志が僅かに兆していた。
「飛鳥くん。帰りは気をつけて」
「はい。先輩も、戸締まり気をつけて帰ってくださいね」
部室を出て、薄暗い廊下を歩く飛鳥の背中を見送りながら、シエルは小さく胸元に手を当てた。
飛鳥に触れられた手のひらには、まだ温かな熱が残っている。
(……守らなきゃ)
シエルは眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。
あの穏やかな後輩が笑っていられる明日を守るためなら、自分はどれほど手を血に染めても、どれほど肉体を刻まれようと構わない。
彼女は決意を胸に、自らの武器――黒鍵と第七聖典が待つ、戦いの闇へと身を投じるべく歩き出した。
校門を出たところで、与野飛鳥の歩みが止まった。
三咲町の夜空を見上げる。
冷たい群青の天蓋には、白く研ぎ澄まされた月が浮かんでいた。
街のあちこちから、先ほどまで潜んでいた怪異の残滓が、真祖の弱体化に呼応するように蠢き始めている。
「……先輩は、本当に優しいな」
飛鳥は独り言を呟き、ブレザーのポケットの中で拳を握りしめた。
シエルが自分を守るために命を削ろうとしている。
その愚直な献身を愛おしく思うと同時に、彼女をそこまで追い詰めるこの街の歪みに対して、胸の奥の炉心が獰猛な唸りを上げていた。
(遠野志貴がアルクェイドを解体した。……なら、再生した真祖が今夜あたり、志貴の前に姿を現すはずだ)
アルクェイド・ブリュンスタッド。
万全の状態であれば神仏に等しい霊格を持つ真祖の姫だが、今の彼女は肉体を再構築したばかりで、全盛期の力を大きく失っている。
そして、その隙を突いて街の死徒どもが動き出し――いずれ、ロアとシエルが激突する破滅の夜がやってくる。
「先輩にばかり、汚れ役を背負わせるわけにはいかない」
飛鳥の瞳が、暗闇の中で捕食者の冷徹な光を宿した。
シエルが知らない裏側で、街の闇を片っ端から間引き、喰らい尽くす。
彼女の前に立ち塞がる脅威を、彼女が気付く前にその霊基ごと咀嚼して消し去る。
冷たい夜風が吹き抜ける中、与野飛鳥の姿は、音もなく夜の雑踏の中へと溶け込んでいった。