街灯が途切れる新星街の外れ、旧市街へと続く古い跨線橋の上。吹き抜ける夜風が、鉄骨の継ぎ目をガタガタと震わせている。眼下を走る線路はとっくに終電を終え、錆びたレールだけが青白い月光を鈍く跳ね返していた。
橋の中央、冷え切った欄干に背を預け、与野飛鳥はブレザーのポケットに両手を突っ込んだまま、静かに視線を彷徨わせていた。
「……随分と、露骨に湧いて出たな」
飛鳥の呟きは、乾いた夜風に溶けて消える。
彼の切れ長の瞳は、周囲の空間に漂う「霊的汚染」の濃度を冷静に計測していた。
遠野志貴がアルクェイド・ブリュンスタッドを十七分割に解体したあの日から、わずか二日。
世界の均衡は、目に見えて音を立てて崩れ始めていた。
真祖の姫という絶対的な抑止力が一時的にでも機能を停止し、その霊基を再構築するために莫大なエネルギーを消耗している。その空白を嗅ぎつけた街の暗渠の害虫ども――死徒ロアの眷属たちが、待ってましたと言わんばかりに活動を活発化させていた。
カサリ、と線路脇の砂利を踏む微小な摩擦音。
続いて、クチャリと湿った肉塊が擦れ合うおぞましい咀嚼音。
跨線橋の真下、保守用通路の暗がりに、四つの影が蠢いていた。
一見すれば人間の浮浪者のようだが、その肉体はすでに生体としての呼吸を止め、全身の血管には腐敗した黒い泥のような呪詛が巡っている。死徒の下位種、グール。
彼らはどこからか引きずり込んできた野良犬や小動物の死骸を貪りながら、濁りきった白濁の眼球を絶え間なく蠢かせ、より濃密な「生きた人間の血肉」を求めて飢餓に震えていた。
「……シエル先輩は今、カトリック教会の礼拝堂で武具の手入れと戦術の再構築中だ」
飛鳥はポケットの中で、指先を軽く鳴らした。
シエルの気配は、ここから二キロほど離れた古い教会にある。彼女は今夜、街に放たれるであろう眷属の群れを根絶やしにするため、黒鍵の投擲精度を調整し、第七聖典の霊子回路を研ぎ澄ませているはずだ。
その真摯な瞳、自分のような一般生徒の日常を守るために、己の身を削って泥に塗れようとする愚直な背中。
(先輩がここへ来る前に、綺麗に平らげておくか)
先輩に、こんな無駄な露払いなどで体力を削らせるわけにはいかない。
ましてや、彼女の心にこびりついている「ロアの罪悪感」を無駄に刺激するような死徒の残骸など、視界にすら入れさせたくなかった。
飛鳥は跨線橋の欄干に片足をかけ、音もなく虚空へと身を投げ出した。
十メートルを超える落差。
重力に従って落下しながら、飛鳥の全身から人間としての生体反応がふっと希薄になる。
トン、と綿毛が落ちるような微かな着地音とともに、飛鳥はグールたちの群れの背後、わずか数メートルの泥濘へと滑り込んだ。
『――ッ!?』
異変を察知した一体のグールが、血に塗れた口腔を大きく開き、異形の咆哮を上げようとした。
人間の少年。格好のエサ。そう認識した怪異の四肢が、獲物を引き裂くべくバネのように跳ね上がる。
だが――その叫びが空気の振動になることすら、許されなかった。
「――うるさい」
飛鳥が右手を無造作に前へと突き出す。
その刹那、彼の魂の根源――『起源:捕食』の炉心が、音もなく完全解放された。
飛鳥の掌の前方に、空間そのものがブラックホールのように窪む、不可視の「喰らい口」が顕現する。
魔術の詠唱も、神秘の術式もない。それはただ、この世に存在する「人外の超常」「呪詛のエーテル」をあるべき無へと還元し、自らの胃袋へと流し込むための絶対的な食物連鎖の頂点の行使。
ゴォッ――!
大気が逆流するような低周波の軋みとともに、飛びかかってきたグールの全身が、まるで掃除機に吸い込まれる煙のように輪郭を崩した。
肉体を構成していた死徒の魔力、死者を無理やりに動かす呪詛の結合線、そして霊基の残滓。
それらすべてが、不可視の奔流となって飛鳥の掌の中へと呑み込まれていく。
『ギ……ガ……ッ!?』
グールは恐怖の悲鳴を上げることすらできず、四肢の先端からサラサラとした白い灰へと変じ、飛鳥の肉体という無限の胃袋の中へと咀嚼されていく。
バキバキ、ゴクン。
飛鳥の体内深くに座す異形の炉心が、貪欲に怪異の霊基をすり潰す。
死徒の放つ下品な呪詛の毒素など、飛鳥の規格外の消化機能の前にはただの雑味に過ぎない。瞬時に中和され、研ぎ澄まされた純粋な魔力熱量へと変換されて、飛鳥の全身の毛細血管へと吸収されていく。
残されたのは、泥の上に落ちた一握りの白い灰だけだった。
「ギャッ――!」
「オ、アァァ……ッ!」
残る三体のグールが、本能的な恐怖に全身の筋肉を硬直させた。
彼らは理性を失った歩く死体でありながら、目の前の高校生が「自分たちを食べる側」の絶対捕食者であることを、魂の根底で悟ってしまったのだ。
怪異たちは血のついた獲物を放り出し、線路の奥、闇の吹き溜まりへと一目散に逃走を図ろうとする。
「逃がさないよ。街の中に灰を撒き散らされたら、掃除が面倒だからね」
飛鳥の姿がブレた。
加速という概念すら置き去りにした、絶対的な空間移動。
逃げる三体の頭上、闇の天井を蹴った飛鳥は、音もなく彼らの前方に回り込んでいた。
両手を広げ、指先を扇状に開く。
その両の掌から、不可視の『捕食』の力場が一気に円錐状に放射された。
『――ヒッ』
三体のグールが同時に宙に浮き上がった。
足掻く手足、剥き出しになった牙、濁った眼球。そのすべてから、青黒いエーテルの光糸が奔流となって引きずり出され、飛鳥の掌へと吸い込まれていく。
質量を奪われ、呪いを喰らい尽くされた三つの肉体は、空中で一瞬にして輪郭を失い、冷たい夜風にさらわれて一片の塵となって霧散した。
静寂が戻る。
ものの数十秒。四体の死徒の眷属は、この世界から跡形もなく「消去」されていた。
飛鳥は掌を下ろし、小さく息を吐き出した。
喉の奥に広がる、鉄と泥の不快な後味。
「……相変わらず不味いな。ロアの眷属の端くれなんて、油の酸化したジャンクフード以下だ」
飛鳥はブレザーの襟元を正し、線路の砂利を踏んで跨線橋の階段へと歩き出した。
体内に取り込んだ魔力は膨大だったが、飛鳥にとっては飢えを僅かに紛らわせる程度のエピタイザーに過ぎない。彼の炉心が真に求めているのは、もっと根源的で、もっと強大な「超常の極み」――。
その時だった。
――トン。
頭上の跨線橋の欄干に、極めて軽やかで、羽毛のような着地音が響いた。
飛鳥の足が止まる。
背筋をチリリと撫でていく、冷徹で神聖なエーテルの波動。
死徒のような下品な腐敗臭ではない。夜の空気そのものを凍りつかせるような、研ぎ澄まされた「自然の息吹」と、それを覆い隠す圧倒的な暴力の予感。
(……この気配は)
飛鳥はゆっくりと振り返り、線路の上から見上げるように跨線橋の頂を見据えた。
月光を背負い、欄干の上に佇んでいたのは、一人の女性だった。
白のハイネックセーターに、足首まで届く紫がかったロングスカート。
夜風に揺れる、透き通るような白金(プラチナ)のショートヘア。
そして――暗闇の中で妖しく、紅く発光する、息を呑むほどに美しい真紅の双眸。
アルクェイド・ブリュンスタッド。
遠野志貴によって解体され、死の淵から肉体を再構築したばかりの、吸血鬼の真祖。
彼女は欄干の上に軽やかに立ち、猫のように首を傾げながら、眼下の飛鳥を見下ろしていた。
その表情には、志貴と出会った時の無邪気さや激昂はなく、獲物を観察する夜の支配者としての冷たい知性が宿っていた。
「……見慣れない生き物がいると思ったら。人間の形をして、あんな下等な死徒の残骸を丸呑みにするなんて、悪趣味ね」
鈴を転がすような、けれど空間全体を震わせる圧倒的な霊威を孕んだ声。
肉体を再構築した代償として、その霊力の大半を失っているはずの彼女だが、それでも纏う空気の格位は、そこらの死徒とは次元が違っていた。
飛鳥は表情を崩さず、ポケットに手を突っ込んだまま静かに息を吸った。
普段の「三咲高校の気のいい後輩」の仮面を脱ぎ捨て、暗闇の捕食者としての冷徹な光を双眸に宿す。
「夜風に当たるには、少し物騒な時間じゃないですか、真祖のお姫様。……バラバラに刻まれた身体の修復は、もう終わったんですか?」
アルクェイドの紅い瞳が、すっと細められた。
「私のことを知っているのね。……教会の代行者でもなさそうだし、あの陰気な七夜の生き残り(志貴)とも違う。貴方、何者?」
「ただの通りすがりの高校生ですよ。……この街の平穏を乱すゴミを、少し掃除していただけです」
「嘘ばっかり。人間があんな風に、魂の因果ごと死徒を喰い殺せるわけがないわ」
アルクェイドは欄干からふわりと飛び降りた。
重力を無視した軌道で、線路の砂利の上に音もなく着地する。
彼女が一歩踏み出すごとに、大気中のマナが呼応し、微かな燐光となって彼女の足元を照らし出す。
「貴方の体の中……ひどく奇妙な炉心があるわね。吸血鬼でもないのに、呪いと魔力を際限なく貪るブラックホール。……ロアの仲間かしら?」
アルクェイドの瞳に、僅かな殺気が宿った。
弱体化しているとはいえ、彼女が本気で腕を振るえば、この空間の質量ごと飛鳥をミンチに粉砕することなど造作もないはずだった。
だが、飛鳥は一歩も引かなかった。
それどころか、彼の胸の奥で、異形の炉心が歓喜の唸りを上げ始めた。
真祖。星の触覚。そのあまりにも濃密で、清浄にして強大な霊基の気配。
(……喰べたい)
飛鳥の内なる『捕食』の衝動が、理性を揺るがすほどの激しい渇きを訴えかける。だが、飛鳥はその獰猛な顎を、強靭な精神力でギリリと抑え込んだ。
「ロアの仲間なわけがないでしょう。あんな腐った蛇、不味くて胸焼けがする」
飛鳥は冷ややかに言い放った。
「それに、俺は貴女と戦う気はありませんよ、アルクェイド。……貴女が遠野志貴と何をしようと勝手ですが、街の日常をこれ以上壊さないでほしい。そして何より――」
飛鳥の脳裏に、夕暮れの部室で優しく笑っていたシエルの顔が浮かぶ。
「――あの人を、これ以上傷つけさせないでほしい」
「あの人……?」
アルクェイドが不審そうに眉をひそめた、その瞬間だった。
――シュッ!
冷たい大気を引き裂く、鋭利な飛翔音。
闇を貫いて飛来した四本の銀の切っ先が、寸分の狂いもなくアルクェイドの足元へと突き刺さった。
聖書の一節が刻まれた長大な黒い投擲刃――聖堂教会の概念武装、『黒鍵』。
「そこまでです、真祖アルクェイド・ブリュンスタッド!」
跨線橋の上、街灯の光を背負って現れたのは、青い法衣の裾を夜風に翻したシエルだった。
眼鏡を外し、冷徹な代行者としての蒼い双眸を研ぎ澄ませた彼女は、手元にさらなる黒鍵を展開し、絶対の敵意をもって真祖を見据えていた。
そして――。
そのシエルの視線が、アルクェイドの数メートル手前に立つ、制服姿の少年の背中を捉えた。
「――っ!?」
シエルの呼吸が、凍りついたように止まった。
その青い瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれ、激しい動揺に揺れ動く。
「……あ……す……か……くん……?」
震えるシエルの声が、夜の静寂に落ちた。
そこには、自分が命を削ってでも守ろうとしていた「無垢で頼りない後輩」の後ろ姿と――。
彼を中心に漂う、数体の死徒を骨の髄まで喰らい尽くした直後のおぞましい霊的残滓、そして暗闇の頂点に立つ異形の怪物の気配が、生々しく渦巻いていた。
交錯する三つの影。
三咲町の夜の帳が、決定的な亀裂を孕んで破裂しようとしていた。