「……あ……す……か……くん……?」
震えるシエルの声が、張り詰めた静寂を裂いた。
法衣の裾を風に遊ばせ、黒鍵の切っ先を構えたまま硬直する彼女の瞳は、目の前の光景を拒絶するように激しく揺れていた。
そこに立っているのは、間違いなく三咲高校の制服を着た、一つ下の後輩・与野飛鳥だった。
夕暮れの茶道部室で、湯気の立つお茶を啜りながら「先輩、お茶請け買ってきましたよ」と屈託なく笑っていた、あの穏やかで頼りない少年。
自分がどれほど手を血に染め、教会の暗部で怪物を屠り続けようとも、絶対にこの泥沼に引きずり込んではならないと誓った「守るべき日常」の象徴。
だが――今、その少年の背中に漂っているものは何だ。
シエルの代行者としての卓越した感覚が、否応なしに事実を突きつけていた。
飛鳥の周囲に散らばる微細な白い灰。それは数体の死徒の眷属が、骨の髄まで、霊基の根底から徹底的に消滅させられた痕跡。
そして何より、飛鳥の全身から立ち上る、底知れない「飢渇」の残滓。
神聖な魔術でも、異端の呪詛ですらない。あらゆる超常を、吸血鬼の霊基すらも一飲みに噛み砕いて自らの肉へと変えてしまうような、暗闇の生態系の頂点に君臨する絶対捕食者の気配。
「どうして……飛鳥くんが、そんな……」
シエルの喉から、掠れた息が漏れた。
頭の芯が真っ白になる。
自分が命を削って守ろうとしていたものは、何だったのか。
「危ないから夜に出歩いてはいけない」と諭し、怯える小鳥を庇うように見守っていた後輩は、最初から自分など足元にも及ばない「人外の怪物」だったというのか。
これまで彼が自分に向けていた人懐っこい笑顔も、温かなお茶の缶を渡してくれた指先も、すべては自分を嘲笑うための偽装だったのか。
胸の奥底で、冷たい硝子細工が粉々に砕け散るような痛みが走った。
彼女が辛うじて保っていた「人間としての仮面」が、内側から激しく軋みを上げる。
「……シエル先輩」
飛鳥が、ゆっくりと振り返った。
その表情には、部室で見せるような無邪気な笑みはない。かといって、正体を暴かれた動揺もなかった。
ただ、静かに、そしてひどく哀しそうに目を細めていた。
「どうしてここへ。……今夜は教会で、武器の調整をしているはずだったのに」
「飛鳥くん……貴方、本当に、飛鳥くんなのですか……?」
シエルの声が、痛切な哀願を帯びて震える。
嘘だと言ってほしかった。何かの間違いで、邪悪な魔術に操られているだけだと、そう言ってほしかった。
代行者として、数多の裏切りと異端を冷酷に処刑してきたシエル。だが、目の前の現実にだけは、その引き金を引く指が凍りついたように動かない。
「見れば分かるでしょう。……俺ですよ、先輩」
飛鳥は静かに答えた。その声音は、夕暮れの坂道で聞いたあの温かなトーンと、何一つ変わっていなかった。
だが、その背後――線路の砂利を踏み締めて、白銀の真祖が退屈そうに首を傾げた。
「ふぅん。知り合いだったの、教会(そっち)の代行者と」
アルクェイド・ブリュンスタッドが、赤い瞳を興味深そうに細めて二人の間に割り込む。
「貴女、埋葬機関のシエルね。……相変わらず陰気な格好をしてるけど、どうやらお仲間同士の楽しい秘密の共有ってわけじゃなさそうね。その男、人間を辞めたバケモノよ。吸血鬼の呪いごと魂を喰い殺す、得体の知れないブラックホールだわ」
「黙りなさい、真祖……!」
シエルが反射的に黒鍵をアルクェイドへと突きつけた。だが、その切っ先は微かに震え、視線はすぐに飛鳥へと戻ってしまう。
「飛鳥くん……答えなさい。貴方は、最初から私を欺いていたのですか? 私が聖堂教会の代行者だと知っていて……私の過去を知っていて、あんな風に、何も知らない生徒のふりをして近づいたのですか……!?」
シエルの蒼い瞳に、涙のような光膜が張る。
裏切られたという怒りではない。
自分が大切に抱きしめようとしていた「ささやかな日常」が、己の浅はかな思い込みによる砂上の楼閣だったという、救いようのない絶望。
自らの手で過去に多くの命を奪った自分が、日常を享受することなど許されないのだと、世界から冷酷に突き放されたかのような暗い曇りが、シエルの表情を覆い尽くしていく。
その痛々しい崩壊を、飛鳥は見過ごせなかった。
「……違いますよ、先輩」
飛鳥が一歩、シエルに向かって歩み出た。
アルクェイドが背後で僅かに身構えるが、飛鳥はそれを完全に無視した。
「欺いてなんかいません。俺が茶道部で先輩と飲んでいたお茶も、買ってきた大福も、先輩が無事に明日を迎えられるようにと願っていた気持ちも……全部、本物です」
「嘘です……! そんな化け物の力を持った人間が、どうして……!」
「化け物だからですよ」
飛鳥はシエルの足元、跨線橋の階段の麓まで近づくと、見上げるようにして彼女の瞳を真正面から見据えた。
「俺の魂の型は『捕食』です。生まれつき、人外の闇や呪詛を喰らわなきゃ生きられない、正真正銘の規格外だ。……だからこそ、俺には最初から見えていたんですよ。先輩が背負っているものの重さが」
シエルが息を呑む。
「先輩の右肩の強張りが、足首の軋みが、そして魂の奥で疼く呪いの痛みが……俺には全部伝わっていた。先輩は、自分自身の命なんてどうでもいいと思っている。この街の人たちを守るためなら、泥を啜って、肉を削られて、ボロボロになって消えてもいいと本気で思っている」
飛鳥の声は、静かに夜の冷気を溶かしていく。
「そんな先輩を見ていて、どうして放っておけるんですか。……俺が守りたかったのは、学校の退屈な日常なんかじゃない。その日常を守るために、たった一人で血を流そうとしている――シエル先輩、貴女自身だ」
「――っ」
シエルの呼吸が止まった。
黒鍵を握る指から、ふっと力が抜ける。
守られるべき無力な後輩。
そう信じ込んでいた少年は、最初からシエルの抱える地獄のすべてを知った上で、彼女の痛みを裏から引き受け、彼女の笑顔を守るためにその牙を振るっていたのだ。
「欺いていたことは謝ります。……でも、俺にとって先輩は、いつだって大切な、たった一人のシエル先輩ですよ」
飛鳥は柔らかく、いつものように困ったような笑みを浮かべた。
その瞬間、街の霊脈が再び不穏な地鳴りを立てた。
新星街の商業区、遠野志貴が身を寄せるホテルの方向から、禍々しい「死の胞子」が急速に拡散し始める。
死徒ロアの完全覚醒の兆候――そして、街を呑み込もうとする夜の狂気。
アルクェイドが鋭く眉を寄せ、夜空を見上げた。
「……始まったみたいね。ロアの蛇が、本格的に巣から這い出てきたわ」
飛鳥は視線を闇の奥へと向け、それからもう一度、呆然と立ち尽くすシエルを見上げた。
「話の続きは、この街の害虫を全部片付けてからです。……行きましょう、シエル先輩。貴女の背中は、俺が全部喰らい尽くして守って見せますから」
夜の帳が引き裂かれ、運命の歯車が最終局面へと加速していく。