「……シエル先輩」
与野飛鳥の声が、冷え切った大気を震わせる。
跨線橋の階段の上に立ち尽くすシエルは、未だ黒鍵の切っ先を下げられないまま、蒼白な顔で唇を噛み締めていた。
彼女の足元には、代行者としての冷徹な術式を宿した投擲刃が転がり、そのすぐ前には、かつて白昼の雑踏でバラバラにされたはずの真祖――アルクェイド・ブリュンスタッドが、嘲るような笑みを浮かべて佇んでいる。
そして、その間に割って入るように立つ後輩の少年。
飛鳥のブレザーの裾からは、数体の死徒を霊基の芯から噛み砕いて呑み込んだばかりの、おぞましい魔力の残滓が陽炎のように揺らめいていた。
「……飛鳥くん。貴方は、本当に……」
シエルの声は、喉の奥に鉛を詰められたように重く、かすれていた。
代行者としての教育、異端を冷酷に処分してきた年月が、彼女の脳裏で警告の鐘を乱打している。目の前にいる少年は、聖堂教会が定義する「人間」の枠組みを完全に逸脱した、極めて危険な異能者だ。死徒の呪詛を無害化するどころか、自らの肉体というブラックホールで貪り食う絶対捕食者。本来ならば、即座に黒鍵を投擲し、埋葬機関の全戦力を動員してでも隔離・処分すべき怪異。
けれど――。
その少年が、今夜も放課後の茶道部室で、ぎこちなく正座をしながら玉露を飲んでいた。
寒がる自分を気遣って、温かい缶のお茶を差し出してくれた。
そして何より、今この瞬間も、自分を「シエル先輩」と呼び、その双眸に宿しているのは、冷酷な怪物の殺気ではなく、ひどく不器用に自分を案じる、あの夕暮れの坂道と同じ色だった。
『俺が守りたかったのは、学校の退屈な日常なんかじゃない。その日常を守るために、たった一人で血を流そうとしている――シエル先輩、貴女自身だ』
少年の言葉が、シエルの胸の奥深く、決して誰にも触れさせまいと凍りつかせていた魂の核を、容赦なく揺さぶり続けていた。
罪悪感と、絶望。
自らの手でかつて犯した大虐殺の記憶。不死の呪いを背負い、死徒ロアを殺すことだけを存在理由としてきた自分に、そんな言葉を投げかける資格のある人間など、この世界のどこにも存在しないはずだった。
「どうして……どうしてそんなことを言うのですか、飛鳥くん……」
シエルの瞳から、一筋の透明な雫が零れ落ち、冷たい頬を伝った。
黒鍵を握る指先が、ガチガチと音を立てて震える。
「私は……貴方が思っているような、優しい先輩などではありません! 私は、かつてこの手で数え切れないほどの人間を屠った、呪われた化物なのですよ……!? ロアの器となり、肉体を奪われ、自らの故郷を地獄へと変えた……消えることすら許されない、神の敵なのです! そんな私を……どうして……!」
血を吐くような告白。
シエルが隠し続けてきた、自身の魂の最奥にある醜悪な傷口。
それを突きつければ、目の前の少年も幻滅し、恐怖し、逃げ出してくれるのではないかという、痛々しいまでの自己破滅の衝動だった。
だが、飛鳥はその告白を聞いても、眉一つ動かさなかった。
驚きも、嫌悪も、憐れみすら浮かべない。
ただ、静かに歩みを進め、階段を数段登ると、シエルの握りしめる黒鍵の切っ先へと、自らの胸元を無造作に近づけた。
「……飛鳥くん!?」
シエルが悲鳴のような声を上げ、咄嗟に黒鍵を引き戻そうとする。
しかし、飛鳥はその細い手首を、夕暮れと同じ力加減で、けれど決して逃さない確かな強さで掴み止めた。
「先輩が誰を殺したかなんて、俺には関係ありませんよ」
飛鳥の声音は、夜風の冷たさを完全に打ち消すほどに、静かで、圧倒的だった。
「俺が見ているのは、過去のロアの器だった貴女じゃない。今、この三咲町で、傷だらけになりながら誰かの明日を守ろうとしている、シエル先輩だけだ。……貴女がどれほど自分を呪っていようと、俺の『起源』が貴女の痛みを求めている。先輩の胸にあるその重たいヘドロを、全部俺に喰わせてください」
「……っ、何を……」
飛鳥は掴んだシエルの手首から、再び自らの内なる炉心を僅かに励起させた。
シエルの霊核にこびりついていたロアの呪詛の冷気が、微細な奔流となって飛鳥の皮膚を通じて吸い上げられていく。
ゴクリ、と飛鳥の魂がそれを呑み込み、咀嚼し、熱量へと変換する。
「あ……っ」
シエルの身体から、急速に力が抜けた。
頭痛が引き、冷え切っていた血潮に、飛鳥の体温が注ぎ込まれていく。
自分の呪いを、罪を、まるで何の価値もない埃のように容易く喰らい尽くしていく少年の存在。それはシエルにとって、教会の教義のすべてを覆すほどの、甘美で残酷な救済だった。
「……ふぅん。ずいぶんと熱烈な痴話喧嘩ね」
背後から、冷ややかな声が割り込んできた。
アルクェイド・ブリュンスタッドが、退屈そうに肩をすくめながら線路の砂利を踏み締めて歩み寄ってくる。
その赤い瞳には、二人に対する冷徹な観察の色と、徐々に抑えきれなくなりつつある「飢渇」の光が混ざり合っていた。
「教会のお人形と、得体の知れない大喰らい。……勝手に盛り上がっているところ悪いけれど、街の空気が本格的に腐り始めてるわよ。ロアの奴、志貴の意識が混濁した隙を突いて、商業区の地下水道(アンダーグラウンド)に巣を作り始めたみたい」
アルクェイドの言葉に、シエルがハッと我に返り、飛鳥の手を振り払うようにして身を引いた。
眼鏡のない蒼い瞳に、再び代行者としての厳格な光を無理やりに灯そうとする。だが、その頬には微かな朱が残り、視線はどこか泳いでいた。
「……遠野くんが、ロアの転生体……?」
「ええ。正確には、あいつの肉体に眠るもう一つの人格……遠野の本当の長男が、ロアの魂に侵食されているのよ」
アルクェイドは爪先で線路のボルトを軽く弾いた。
「今の私は、あのバカ(志貴)に刻まれたせいで力がまるで足りない。……ロアを確実に仕留めるには、巣の奥深くまで引きずり出して、核を直接潰すしかないわ」
シエルは自らの黒鍵を握り直すと、冷たくアルクェイドを見据えた。
「……真祖。貴女と馴れ合う気はありません。ですが、ロアの完全消滅という目的に関してのみ、協調を認めます」
「別に貴女の助けなんて求めてないわよ、教会の蛇狩り。……私が気に食わないのは、そっちの男よ」
アルクェイドが細めた赤い瞳を、飛鳥へと向ける。
「貴方、さっきから私の霊気をじっと品定めしてるわね。……真祖の力まで喰べる気かしら?」
「まさか。お姫様の味なんて、胸焼けしそうで遠慮したいですね」
飛鳥は平然と言い放ち、階段から降りてシエルの斜め前へと立った。
「ただ、貴女が途中で吸血衝動に負けて暴走するようなら――その時は、遠慮なくその首筋から、余分な魔力を全部啜り取らせてもらいますよ」
「……生意気な人間。志貴の次に気に食わないわ」
アルクェイドは不機嫌そうに唇を尖らせたが、飛鳥の言葉の裏にある「絶対の自信」と「底知れぬ霊的質量」を肌で感じ取り、それ以上の追及を止めた。
遠く、新星街の地下から、重い霊脈の振動が伝わってくる。
ロアの覚醒。
街中のグールたちが一斉に地下の暗渠へと集結し、主の完全復活のための生贄の儀式を始めようとしていた。
シエルは深く息を吸い、法衣の裾を正すと、飛鳥の背中を見つめた。
その眼差しには、依然として深い迷いと戸惑いが渦巻いている。けれど、先ほどのような絶望の暗雲は、飛鳥の温もりによって確実に払われていた。
「……飛鳥くん」
「はい、シエル先輩」
「……貴方のその正体について、許したわけではありませんからね。学校に戻ったら、茶道部で徹底的に問い詰めますから」
精一杯の強がり。
けれど、その声には「共に学校へ帰る」という前提が、確かに含まれていた。
飛鳥は振り返り、悪戯っぽく笑ってみせた。
「分かりました。どんなお説教でも聞きますから――その代わり、特大盛りの激辛カレーを奢ってくださいね」
「……もう、本当に図々しい後輩です」
シエルが小さく呟き、唇の端に微かな笑みを浮かべた。
三つの影が、夜の帳を引き裂いて駆け出す。
三咲町の地下深く、死徒ロアが待ち受ける暗渠の底へと向かって、運命の歯車が激しく火花を散らし始めていた。