降り始めた冷雨は、新星街の無機質なコンクリートを重い鉛色に染め上げていた。
夜の気配は刻一刻と濃さを増し、三咲町の地下深く――かつての大規模な治水工事の遺物である巨大放水路と暗渠の底から、冷え切った毒気が這い上がってくる。
商業区の裏手、鉄格子の張られた地下保守口の前に、三つの影が立っていた。
制服の上からフードを被り、息を潜める与野飛鳥。
その隣には、法衣を翻し、蒼い瞳を研ぎ澄ませたシエル。
そして、数歩離れたコンクリートの縁に佇み、金髪を濡らす雨など気にも留めない様子で爪先を弄ぶアルクェイド・ブリュンスタッド。
「……ここから先は、街の管理外です」
シエルが低く呟いた。眼鏡を外した彼女の表情には、代行者としての冷徹な厳しさが張り詰めている。
だが、その視線が隣の飛鳥へと向けられるたび、迷いと戸惑いが、拭いきれない影となって揺らめいた。
茶道部室で見せていた、人懐っこく頼りない後輩。
激辛カレーの盛りに目を丸くし、夕暮れの坂道で缶のお茶を差し出してくれた少年。
その姿の裏側に潜んでいたのは、死徒の呪詛を丸呑みにし、自らの肉体を炉心として人外を喰らい尽くす絶対捕食者の輪郭だった。
(……この人は、最初から知っていた)
シエルは胸元を強く握りしめた。
自分がかつて犯した罪を。ロアの器として故郷を焼き、数え切れない命を奪った忌まわしい過去を。
代行者として、教会からすら「死ねない異端」として疎まれ、いつ果てるとも知れない吸血鬼狩りの泥濘を這いずり回ってきた自分の孤独を。
普通の人間に見せれば、恐怖と嫌悪で逃げ出すはずの醜悪な地獄。
それを、この少年は何の躊躇もなく「全部俺に喰わせてください」と言い放ったのだ。
恐れるどころか、自らの身を盾にして、その呪いの澱みを嚥下してみせた。
その温もりが、今もシエルの手首の奥、冷え切っていた血潮の芯をじわりと熱く焦がし続けていた。
信じたい。けれど、信じることそのものが、この無垢であるはずだった少年を破滅へと巻き込むのではないか。
代行者としての戒律と、一人の少女としての痛切な渇望が、シエルの胸の中で激しく軋みを上げていた。
「シエル先輩」
不意に、名前を呼ばれた。
飛鳥の切れ長の瞳が、雨の雫越しにシエルをまっすぐに見つめている。
そこには、怪物の獰猛さも、憐憫の色もない。ただ、放課後の部室と同じ、静かで揺るぎない温かさだけが宿っていた。
「そんなに眉間に皺を寄せてると、せっかくの綺麗な顔が台無しですよ。……俺は、どこへも逃げませんから」
「……からかわないでください、飛鳥くん」
シエルは唇を噛み、わざと冷淡に突き放すように顔を背けた。
「貴方がどれほどの力を持っていようと、ここから先は本当の化け物の巣窟です。……足手まといになるようなら、置き去りにしますからね」
「はいはい。先輩の足手まといにならないよう、しっかり露払いしますよ」
飛鳥は小さく肩を揺らして笑った。
その屈託のない反応に、シエルの頑なな肩の力が、ほんの僅かだけ削ぎ落とされる。
「……仲良しこよしはそこまでにしなさいよ、二人とも」
背後から、アルクェイドの冷ややかな声が割り込んできた。
真祖の姫は、赤い双眸を細め、地下へと続く鉄扉の隙間を見据えている。
「入るわよ。……ロアの気配が、下で一箇所に固まりつつある。志貴の意識が沈んでいる今のうちに、あの蛇の首を刈り取るわ」
アルクェイドが片手を軽く振るうと、頑丈な南京錠で施錠されていた鉄格子が、まるで乾いたパスタのように呆気なくねじ切れ、跳ね飛んだ。
肉体を再構築した代償として霊力の大半を失っているとはいえ、その純粋な質量破壊の規模は、神代の自然霊そのものだった。
鉄扉が軋んだ悲鳴を上げて開き、地下の闇が口を開ける。
吹き上がってきたのは、カビと汚水の悪臭――そして、死肉が腐敗したかのような、濃厚で湿った死徒の呪詛の気配。
三人は闇の中へと足を踏み入れ、濡れた螺旋階段を一歩ずつ下り始めた。
地下数十メートル。
かつて治水用の巨大放水路として掘削されたコンクリートの洞道は、今や異界そのものへと変貌していた。
壁面には赤黒い脈絡のような血管がびっしりと張り巡らされ、天井からはドロリとした粘液が滴り落ちている。
遠野志貴の肉体に宿るロアの魂が、この三咲町の霊脈の底を、自らの「巣」として改造し始めているのだ。
カサリ、と暗闇の奥で無数の乾いた摩擦音が響いた。
「……出迎えですね」
シエルが即座に両手の指の間に、計六本の黒鍵を展開した。
法衣の裾を翻し、低く身構える。
青白い月光の届かない闇の底から、無数の赤い光点が浮かび上がった。
蠢きながら現れたのは、数十体に及ぶグールの群れ。
以前に飛鳥が路地裏で間引いた個体とは比較にならない。ロアの濃密な魔力を直接注ぎ込まれ、四肢が異様に肥大化し、全身の皮膚が硬質の甲殻のように硬化した「強化変異種」だった。
『オ……アァァァァッ!』
『ギ……シャアァァッ!』
獣のような絶叫が、地下の巨大な空洞に反響する。
先頭の三体が、コンクリートの床を踏み砕きながら、弾丸のような速度で突進してきた。
「――主の御名において、灰燼へと帰せ!」
シエルが地を蹴り、神速の投擲を放った。
空気を切り裂く銀の閃光。三本の黒鍵が、突進するグールの眉間、心臓、喉元を正確無比に貫通する。
瞬時に起動する洗礼詠唱の火炎術式。刺さった黒鍵から白銀の聖火が噴き上がり、怪異の肉体を内側から焼き清めようとする。
だが――。
『ガ……ァァッ!』
グールは炎に焼かれながらも止まらなかった。
ロアが注ぎ込んだ呪詛の質量が、通常の代行者の投擲による概念浄化を力任せに押し潰し、焼け爛れた爪をシエルの喉元へと振り下ろす。
「くっ……呪詛の再生速度が……!?」
シエルが咄嗟に身を引こうとするが、足場の濡れたコンクリートに僅かに爪先を取られる。
その刹那――。
「――先輩、下がって」
静かな声とともに、制服姿の少年が、シエルの視界を完全に遮るようにして前に割り込んだ。
「飛鳥くん――っ!?」
シエルの制止の叫びよりも早く、飛鳥の右手が虚空へと突き出された。
その瞬間、地下空洞の空気の温度が、一気に絶対零度へと急降下した。
飛鳥の魂の深奥にある『起源』――『捕食』の炉心が、音もなくリミッターを解除する。
飛鳥の掌を中心に、空間そのものがブラックホールのように歪んだ。
魔術の詠唱も、神秘の文字もない。
ただ、そこに存在するのは、「人外の超常」を貪り食うためだけに最適化された、食物連鎖の絶対頂点の顎。
ゴォォォッ――!
大気が逆流し、真空の渦が発生する。
シエルへと振り下ろされていたグールの剛腕が、飛鳥の掌の孔へと吸い寄せられるように激しくねじ曲がった。
『ギ……ッ!?』
怪異が恐怖の叫びを上げようとした瞬間、その肉体を構成していた死徒の魔力、ロアの呪詛、死者を繋ぎ止める因果の糸のすべてが、不可視の奔流となって飛鳥の手のひらへと引きずり込まれていった。
バキバキ、バキリ、ゴクン。
飛鳥の体内深くで、異形の炉心が怪異の霊基を容赦なくすり潰す音が鳴り響く。
常人なら脳が狂気に焼き切れるほどの猛毒の呪詛が、飛鳥の規格外の消化器官によって一瞬で中和され、研ぎ澄まされた純粋な熱量へと変換されていく。
飛びかかってきた強化グールは、シエルの法衣に触れることすら叶わず、空中で一瞬にして輪郭を失い、サラサラとした白い灰となって床へと崩れ落ちた。
「ギャ……ッ!?」
「ヒ……ッ!?」
後続の数十体のグールが、一斉に足を止めた。
知性を失った歩く死体でありながら、彼らの本能が、目の前の高校生を「絶対に敵わない捕食者」だと悟り、全身をカタカタと震わせて後退り始める。
「全部まとめて、ごちそうさまです」
飛鳥の姿が、認識の隙間をすり抜けるように掻き消えた。
次の瞬間には、群れの中心へと音もなく着地している。
飛鳥が両手を広げ、指先を扇状に開いた。
『――喰らえ』
不可視の『捕食』の力場が、全方位へと一気に放射された。
ズオオオオオッ――!!
地下空洞を満たしていた数十体の強化グールが、同時に宙へと浮き上がった。
彼らの肉体から、赤黒い呪詛のエーテルが青白い光糸となって引きずり出され、すべてが飛鳥の肉体という無限の炉心へとなだれ込んでいく。
質量を奪われ、呪いを喰らい尽くされた怪物たちが、悲鳴を上げる間もなく、次々と空中で白い灰へと変じ、霧散していく。
わずか数秒。
地下空洞を埋め尽くしていた死徒の軍勢は、一片の肉片すら残さず、完全にこの世界から「消去」されていた。
静寂が戻る。
空中に舞う白い灰の中、飛鳥は何事もなかったかのように両手を下ろし、ブレザーの埃を払った。
その横顔には、疲労の色一つない。むしろ、数十体分の死徒の霊基を喰らい尽くしたことで、彼の身体の奥底から、神仏すら圧倒しかねない濃密な魔力の燐光が微かに漏れ出ていた。
「……飛鳥、くん……」
後ろで立ち尽くすシエルの声が、信じられないものを見るように震えていた。
埋葬機関の代行者である自分が、第七聖典を持ち出さなければ殲滅に手こずるであろう変異種の群れを、ただ素手で、呪詛ごと丸呑みにして消し去った。
その圧倒的な強キャラとしての異形。
けれど、飛鳥は振り返ると、いつものように困ったような笑みを浮かべて、シエルへと歩み寄ってきた。
「怪我はありませんでしたか、シエル先輩」
「……っ」
シエルは息を呑み、思わず半歩だけ後退りそうになった。
怪異を貪る怪物への恐怖――ではない。
その圧倒的な力を持つ少年が、息を切らすこともなく、ただ真っ先に自分の無事だけを案じて微笑んでいることに対する、激しい胸の疼きと罪悪感。
(どうして……そんな目で、私を見るのですか……)
シエルの蒼い瞳が、痛ましそうに潤んだ。
目の前の少年は、自分を守るためにそのおぞましい牙を振るっている。
自分が背負うべきだった泥を、全部その身に引き受けてくれている。
その献身の深さが、シエルの張り詰めていた心を、内側から激しく揺さぶり崩していく。
「……飛鳥くん。貴方は……本当に馬鹿です」
シエルは震える声で、ようやくそれだけを絞り出した。
「ふふ、よく言われますよ」
飛鳥は柔らかく目を細めた。
その二人の様子を、少し離れた場所から見ていたアルクェイドが、退屈そうに鼻を鳴らした。
「呆れた。本当に底なしの胃袋ね、その男。……真祖の私でも、あんな下品な呪いをまとめて呑み込んだら腹を壊すわよ」
アルクェイドは視線を闇の最奥へと向けた。
「お喋りはそこまでよ。……前座の掃除が終わったみたいね。奥の広間で、蛇が首をもたげて待っているわ」
空洞の奥、巨大な鉄扉の向こう側から、空間そのものを震わせるような、禍々しい雷鳴の予兆が響いてきた。
死徒ロアの完全顕現。
遠野志貴の肉体を奪い、三咲町を死の都へと変えようとする元凶との、最終決戦の幕が上がろうとしていた。